一つ目の信号が青だったので 森田律子
信長・信忠の碑
「信長死す」の報せは、備中・高松にいる羽柴秀吉の元にも届いていた。
秀吉は、しばらくは子供のように、泣きじゃくっていたが、
突然、泣き止むと、何やら考え込む。
やがて、顔を上げると、軍師の黒田官兵衛に言う。
秀吉 「官兵衛。お屋形様の首は、まだ見つかっておらんと言うたな。
官兵衛 「は、ははっ。 本能寺は一棟も残さず燃え尽きたと・・・」
秀吉 「帰るぞ」
官兵衛 「帰る?」
秀吉 「近江じゃ。引き返す!
お屋形様のお命を奪った逆賊、明智光秀めを、この手で討ち果たしてくれる!」
息止めてスポットライトの下に立つ 笠原道子
天王山の戦いへ
それからの秀吉の行動は速かった。
織田方の諸将に、『信長無事』との偽の書状を出し、
誰も、明智側につかないようにしながら、
戦闘中の毛利には、和睦を申し出て、後方の憂いをなくしたのだ。
あとは光秀のいる近江まで、駆け抜けるのみであった。
憤怒いま抑えきれない日の阿修羅 竹森雀舎
秀吉 「行けーっ! 進め進め進めーっ! 馬を乗りつぶすのは今ぞ!
足軽どもは死ぬ気で走れええーっ!
ついて来た者には、金銀をくれてやる!
お屋形様はご無事じゃ。生きておいでじゃ!
されど、にっくきは、お屋形様に刃を向けた大逆賊・明智光秀!
あのものを断固討ち果たすのじゃ!
親方様ああーッ! おのれ― 光秀ええーッ!」
秀吉軍は、猛烈な速さで、中国から畿内に向けて走り抜けていた。
「その速さがどれほどかといえば」
備中・高松からわずか一日半の間に、姫路に到着するほどだった。
いわゆる、『中国大返り』である。
二等辺三角形の波だから 井上一筒
山 崎 の 光 秀 軍 陣 地
その報せを聞いた明智勢は驚いた。
まさか、そんなに早く攻め込んで来るとは、思ってもみなかったからだ。
悪い知らせは続くもので、
頼りにしていた摂津の諸大名が、ことごとく明智勢から離反して、
羽柴軍と合流しているという。
だが、光秀は慌てていなかった。
光秀 「慌てることはない。・・・・まずは京に入り、帝にお味方いただく」
白檀の香り漂う敵か味方か 竹内ゆみこ
「光秀の謀叛の行動は、結果から見るほど無謀だったのではない」
浅井重臣・阿閉貞征、京極高次、武田元明など呼応した武将、
また足利義昭、細川藤孝、、毛利輝元などなど、
本願寺・武田、上杉の残党など含め、味方はいくらでもいたが、
あまりにも、羽柴軍の中国からの上洛が早かったことと、
家康が、無事に逃げ帰ったことが、
「洞ヶ峠」を決め込んだ筒井順慶のように、ほとんどの支援が、
形にならなかったのである。
もう誰も冬の桜に目もくれぬ 片岡加代
山 崎 の 秀 吉 軍 の 陣 地
天正10(1581)年6月13日。
「山城国・山崎に陣」を構えた明智軍は、
羽柴軍の京への進軍を阻止すべく対峙した。
片や羽柴軍は、数では明智軍を圧倒していた。
秀吉 「・・・戦は数じゃ!兵の多い方が勝つ」
官兵衛 「しかも陣形は、われらが優位にござりまする」
秀吉 「それよ。勝つなといわれても無理じゃわ」
官兵衛 「どう攻めますかな?」
秀吉 「まずひたすら押しまくるのみ!
見ておれ光秀。日暮れまでには片を付けてやるわ」
睨み合いの後、ついに戦端は開かれ、両軍入り乱れて戦った。
どちらが勝ちだろうと素うどんはつづく 壷内半酔
その頃、清洲城に着いた江は、市や姉たちと涙の対面を果たした。
江は、母に堺でのことから、命懸けの伊賀越え、
そして、光秀に会ったことまで、すべてを話してきかせた。
市 「まさか明智殿と会うとはな。そちの母でおると、命がいくつあっても足りはせぬな」
江 「伯父上を討った相手なのに・・・憎い敵であるはずなのに・・・、
どうしても、明智様を憎む事ができないのです・・・・」
市 「・・・憎むべきは人ではない。戦であり、戦をもたらす世の中のありようなのじゃ」
江 「私には難しいことはわかりません。
でも、もう私は・・・・どなたにも死んでほしくはありませんて」
喉元を只今ウツが通過中 谷垣郁郎
光秀VS秀吉が対峙する山崎の戦い
一方、「山崎の戦さ」は、明智勢の一方的な敗戦で、幕が引かれようとしていた。
敗走する明智勢たち。
その中に、光秀や利三たちもいる。
一旦、坂本城まで戻って態勢を建て直して、
捲土重来を期そうとする利三に対し、光秀は言う。
光秀 「・・・わしは勝ちたいとは願うてはおらぬ。
ただ、天下が泰平となればよいと思うておった。
お屋形様が、そうお考えであったようにな・・・・・」
ヨーイドンばかりで終るしゃぼん玉 山本早苗
光秀の最後(土民に取り囲まれる光秀)
そこに、落武者狩りの土民が現れて、竹槍で光秀の横腹を突く。
光秀は、もはやこれまでと、覚悟を決め、切腹の準備をする。
光秀 「姫様・・・・約束を・・・・果たせませなんだ・・・」
そう言うと、光秀は脇差しを自分の腹に突き立てる。
光秀が自刃したことが、
尾張の江たちのもとに、もたらされたのは、翌日のことだった。
ほな行くわほなさいならと逝けたなら 内藤光枝
信包 「戦場から敗走し、近江へ逃れようとしていたところを落武者狩りに襲われたという」
市 「なんと・・・・」
信包 「束の間の、まさに吹けば飛んでしまう夢であったな。
皆が、明智の三日天下と笑うておるわ」
江 「おやめください!」
市 「江・・・」
江は、持って行き場のない悲しみ、虚しさに、泣いて飛び出すと、
わけもわからず、馬を飛ばす。
そして朝昨日に穴のあいたまま 八田灯子
中国大返しの陶板図
【豆辞典ー①】-中国大返し
織田信長の死を知った豊臣秀吉が、3万もの兵を引き連れながら、
一日50キロという驚異的なスピードで、行軍したとされる”中国大返し”。
この早すぎるスピードには、
「信長の死を前もって知っていた」
「秀吉本隊だけ先に行軍していた」
などの理由が考えられているが、
実は秀吉には、これよりさらに速いスピードで、行軍した記録がある。
つむじ風だったと思うキミのこと 加納美津子
それは、柴田勝家と天下を争った”賤ヶ岳の戦い”でのできごと。
このとき、秀吉は、1万5千の兵を引き連れながら、
52キロを、わずか5時間で駆け抜けたのだ。
時速にすると、約10キロである。
一度走ってみれば分かるが、時速10キロはかなりきつい。
そのスピードの甲斐もあり、
秀吉の登場を予想していなかった柴田軍は、
混乱状態に陥り、敗走することになった。
鬼のいぬ時間が少なすぎないか 片岡湖風
「なぜ秀吉は、これほどまでのスピードを実現できたのだろうか?」
それは、行軍に必要不可欠な兵糧・武器を道中で、
調達できるようにしたからだった。
秀吉はまず、先発隊を賤ヶ岳に向けて出発させ、
その道中の村に、協力を要請した。
恩賞と引き換えに、兵糧・武器を準備するように命じたのだ。
我慢力勝機の風が吹いてくる 丹後屋肇
そして、本隊はろくに荷物も持たずに出発。
道中で村人たちから、握り飯や松明をもらい、
休まず行軍した結果、
恐るべきスピードで、戦場まで到達したのだった。
敵は織田家家臣時代にも、鬼柴田と恐れられた勝家の軍勢である。
このスピードがなければ、
山崎の合戦も、勝敗はわからなかっただろう。
革命の彩が沈んでいる歩道 森中惠美子
山崎の戦いの石碑
【豆辞典ー②】-洞ヶ峠(ほらがとうげ)
有利な方につこうと形勢を見ること。
「洞ヶ峠をきめる」、「洞ヶ峠を決めこむ」という。
≪京都府八幡町と大阪府枚方市の境にある峠≫
天正10年(1582)の”山崎の合戦”のとき、筒井順慶がここで戦況を眺め、
「秀吉につくか」「光秀につくか」、態度を保留にした故事による。
「日和見の順慶」と呼ばれた。
喝采の消えた持論をもち歩く たむらあきこ
[7回]