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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どうぞそのまま刺が抜けたら君じゃない  加藤ゆみ子



        「新形三十六怪撰」 (月岡芳年)

平治の乱で殺された源氏の怨霊が、庭の樹木や築山、灯篭までもが髑髏
となって清盛に襲いかかった。


「はじめは駄馬のごとく」永井路子さんは、小四郎義時に次いで
源義経についてもナンバー2論を展開している。
「義経こそはナンバー2ではないか」
「彼が挫折したのは、頼朝に妬まれたためだ。頼朝が悪いのだ。
そんな兄貴をもった義経が不運なのだ」
もし、そう思っておられるとしたら、失礼ながら、あなたはナンバー2
にはなれない。 義経は単に不運だったのではない。私の眼から見れば、
彼にはもともと「ナンバー2」たる性格が欠如していたのである。


こぼれたインクのように生きた私  岩根彰子


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑧
 
 
「義経ー①」


血筋からいえば、たしかに義経は、頼朝の弟だ。
「ナンバー2」の資格十分と見えるが、実は、彼と頼朝とは母親が違う。
付け加えておくと、頼朝は、源義明藤原季範という中流貴族の娘の間
の子だが、この母は、宮仕えしていたと思われる。
だから頼朝は東国武者の子というより、都育ち公家風の環境で成長した。
一方の義経の母は有名な常盤御前だが、これは宮仕えといっても雑仕女
(ぞうしめ)という下働きで、氏素性もたしかではない。
つまり出自には、格段の開きがある。


生誕へばさり宿世と臍の緒と  森井克子


おそらく、彼らは兄弟といっても、少年時代に顔を合わせることもなか
ったに違いない。やがて「平治の乱」が起って敗れた源氏方・義朝の子
頼朝は伊豆へ、義経は鞍馬へという道を辿る。
では旗揚げ後、なぜ黄瀬川に駆けつけてきた見知らぬ弟、義経を歓迎し
たのか…。
おそらく頼朝は、このとき心細かったに違いない。
東国武士の主として仰がれても、頼りになるのは、妻の政子とその一族
北条氏だけ…。
それが、義経の手を握って涙ぐんだ大きな原因ないかと思う。
実はこれより前、義経の実の兄・全成(ぜんじょう)も頼朝のところに
駆けつけているのだが、このときも頼朝は、涙を流して迎えいれている。


弟のシャツを見ている 撫でている  福尾圭司
 
 
ーーーー ー
 阿野全成 (新納慎也)     実衣(阿波の局)宮澤エマ
 

「阿野全成と源義経」

義朝の七男・阿野全成((あのぜんじょう)は、仁平2年(1152) に
生まれた。幼名は今若。7歳の時、清盛の命令で醍醐寺に預けられる。
僧侶として、日々を穏やかに過ごしていた全成だが、それは見せかけで、
「あのぜんじょう」を文字ってついた仇名が「悪禅師」である。実際は
どんな人物だったか、腹の裏には、一物も荷物もあったらしい。
兄の頼朝が挙兵したと聞くや、こっそり寺を抜け出し、修行僧の扮装で、
下総「鷺沼の宿」で兄・頼朝と対面を果たしている。
その時、頼朝は、「兄弟の中で、誰よりも早く来てくれた」と、泣いて
喜んだ。全成は、政子の妹・阿波局と結婚したが、ほとんどの人生を、
政治の表舞台に現れずに過ごし、頼朝死後、政界の裏で暗躍し、非業の
死を遂げる。
(阿波局は、頼朝の次男・千幡(後の実朝)の乳母)


マウスころころ自分探しの果てしなく みつ木もも花


ーーーーーー
      源義経              義経(菅田将暉)  


義朝の九男・義経は、平治元年(1159)に生まれた。
兄・頼朝とは12歳、全成とは7歳の年の差がある。
幼名は牛若。僧として遮那王を、元服をして九郎義経と名乗る。
「黄瀬川の宿」に出現するまでの義経はー牛若丸時代、清盛の命令で
僧侶になるよう、京の鞍馬山に預けられた。
同じ親の血をひく兄・全成と同じで、仏道の修行はそっちのけ、木の葉
天狗を相手に剣術の稽古に熱中し、洛中に出ては腕試しをしていた。
そんなある日、五条の橋でたまたま肩を触れ合った相手が、鋸、斧、槌
など7つ道具で完璧に身を固めた、比叡山延暦寺の僧兵崩れの武蔵坊弁
であった。その時の漫画的な2人の格闘は、書くまでもないだろう。


ひとり身の淋しい分は自由です  油谷克己


黄瀬川後、義経は、もう1人の母の違う義朝の六男・範頼とともに、
東国武士団で編成された大軍団の大将として西国に向った。
そして義経は、平氏を追い、数々の戦さでその天才ぶりを発揮して、
「平氏打倒」に貢献をした。「一ノ谷の戦」「壇ノ浦の戦」である。
だが、やりすぎはよくなかった。
出陣にあたって、頼朝は本陣にいて指示を出す立場。
範頼と義経は、現場の総大将という立場。
すなわち総大将は、頼朝の「身代わり」をつとめる象徴的な存在で、
独断専行は許されない。頼朝は、
「義経は、俺にも相談なしに勝手なまねばかりやりよる」
と、不快感をあらわに、怒った。


縄になり青大将は木に登る  吉岡 民
 


     義 経 (歌川国芳)


義経は滅茶苦茶に勝ち過ぎた。
これは頼朝の望むところではなかった。
頼朝は、朝廷から合戦にあたって、
「平家一門に奉じられて、都落ちした安徳天皇と三種の神器を、無事に
 取り戻すこと」を条件として申し入れられている。
が、結果はどうか。
安徳天皇は入水し、「宝剣」は行方知れず、取り戻したのは「鏡と玉璽」
(ぎょくじ)のみ。これは頼朝として喜ぶわけにはいかない。
一方、世間のルールに疎い義経は、
「勝ちゃあいいんだろう。文句あるか。合戦の現場に立ってみろ。
 そんな器用な真似が出きるかっていうんだ」と、考えた、だろう。
この兄・頼朝考え方の違いに、彼を待ち受けていたのは…、
「悲劇」のシナリオだった。


四角張った話やめましょ花曇り  柴本ばっは


「時を少し巻き戻す」
 平治元年(1159)に起こった「平治の乱」は3年前の「保元の乱」
で戦功のあった源義朝平清盛が、両雄並び立たずで、戦った最初の
「源平合戦」である。
義朝は、後白河上皇を抱き込み、清盛に、先制攻撃を仕掛けたものの、
上皇が御所から逃走したため、「錦の御旗」を失い、二条天皇を擁した
清盛に完敗した。
その合戦で、義朝の長男の悪源太こと義平は、獅子奮迅の活躍をするが、
難波恒房に斬られ落命。
次男・朝長は、京を脱出した際に大腿部に矢を受けて負傷。
三男・頼朝は、近江から美濃国青墓宿へ向かった際、疲労の為に脱落し
平家方に捕らえられてしまった。


台風が逆走します弥勒さま  笠嶋恵美子


青墓宿(あおはかのしゅく)の円興寺で、一時、身を隠した義朝は、
息子の悪源太義平朝長に対し、
「ばらばらに逃げて、誰か一人でも落ち延び再起するよう」
と指示をしたが、平家の矢に大腿部をやられていた朝長は、
「傷の為にこれ以上逃げることが出来ないので捕まる位なら父上の手で
 殺してほしい」
と、懇願した。義朝はこの願いを聞き入れ朝長を殺害した。


君のため君のためってそればかり  高野末次



  長田庄司に風呂場で襲撃をうける義朝


朝長を自らの手で葬った後、義朝鎌田政清など、数騎の家来とともに
12月29日、尾張知多の野間を治める家来の長田家の元に辿り着く。
当主の長田庄司は、鎌田の妻の父なので「婿殿やすごっしゃい」と一行
を歓迎した。
そして長田は「お疲れですやろ」といって、義朝を風呂場へ案内した。
それは義朝を武器のない裸の無防備にするためであった。
「まさかに…」平家側に寝返っていた長田は、時をおいて義朝を襲い、
不意をくらった義朝は、抵抗の間もなく湯舟を血に染めて死んだ。
鎌田は面目がなく自刃、長田は意気揚々と上洛した。が、
無防備者を騙し討ちにした科で処刑された。(『平家物語』)


喉仏スルリと嘘が通り抜け  吉川幸子


義朝の長男の悪源太こと義平は、義朝と別れてから飛騨に向かい兵を集め、
再起をかけた。が、「義朝死す」の報に弱気になった兵が、とんずらして
しまい失敗する。
「こうなればいちかばちか、清盛かその嫡男の重盛を討つしかない」と、
義平は暗殺を企てて京に戻り、協力者も得たが果たせず、難波恒房に捕え
られて処刑された。 
義平は、その処刑の直前、「我、雷となりて、汝を蹴散らし殺さん」と、
叫び、難波を睨みつけた、という伝説がある。
後、実際に、難波は雷に撃たれ死んだという。  (『平家物語』)


八つ当たりしてはいけない日雷  宮井いずみ


「義朝の子孫」

長男・義平と次男・朝長は上記の通り。
三男の頼朝は、平氏に捕えられたが、朝廷に顔のきく清盛の義理の母・
池ノ禅尼の嘆願によって命は助けられ伊豆に流罪が決まる。
四男の義門は、早世。
五男の希義は、頼朝に準じ裁で、土佐へ流罪。頼朝挙兵に参加して討死。
六男の範頼は、藤原範季の養子となるも、頼朝挙兵には参加。
      「義経追討」を兄・頼朝から命ぜられるが辞退した。
      ため、義経の同罪として建久4年(1193)伊豆国修善寺
      に幽閉され、兄の手によって殺害される。
      ※ 以下、母は絶世の美女として有名な常盤御前
七男 全成    幼名 今若。頼朝死後、二代鎌倉殿頼政により誅殺。
八男 義円 幼名 乙若。 墨俣川の戦いで討死。
九男 義経 幼名 牛若。兄との不和。悲劇の発端は次回に。
 
 
う回路はまるで迷路のような道  北原おさ虫

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入道雲背負って出奔する男  谷口 義



          「平親王将門」歌川国貞 画
駿馬に乗って陣頭に立つ将門の雄姿。その背後には、7人の影武者の姿
も描かれている。

 
 " その悲しみは  開かんとするめだたき花が
   その直前に萎るる如く  今にも光り輝かんとする月が
    思いがけず  雲間に隠るるごとし”
            平将門の悲劇の詩・『将門記ゟ』

坂東武者のレジェンド・平将門 
 「坂東」とは、平将門が支配した「東国」、現在の関東地方を指す。
そして「坂東武者」とは、将門にはじまる。
 思えば、将門は、故郷相馬から、東国の人々のために立ち上がり、
志半ばにして将門は、藤原秀郷の弓と平貞盛の剛力に打ち砕かれた。
天慶3年(940)2月14日夕刻、京の町に晒された将門の首は、
「カラカラと笑った」あと、故郷東国へ飛び去ったと伝えられ……。
 
 
  別に淋しくないの生き死にはひとり  靏田寿子


将門の地元茨木市坂東では、昭和35年7月「将門保存会」がつくられ、
子供たちのあいだでは、次のように語り、語り継がれている。
「将門さまはどんな人…」
「お百姓さんの味方となって戦ったお侍さん」
「戦争ですごい強い人」

 
目をこらせば笑っている将門の首

「斬られた私の五体はどこにあるのか、ここに来い 首をつないでもう
 一戦しよう」とも言った…と…伝わる。
 
<将門さまがカラカラと笑った、東国へふたたび帰ってくる>とは…、
<そしてもう一戦しよう>とは…何を意味していのだろう。
百姓衆は、将門さまは、自分たちのために戦ってくれた、のである。
戦いが終わっても将門さまは、東国を見つめている。
そして、われわれは、将門さまと同じ東国の魂を持つ者なのだ
<強くならなければいけない。手を組み、力をつけなければいけない。
 戦わなければならない>という、考えに行き着く。
(※因みに、東国とは今の関東地方で、相模・上総・下総・常陸・上野
  武蔵・下野・安房の坂東八国と呼ばれている地域を指す)


青い火がゆらりゆらりとついてくる  岡田幸男


やがて、彼らはまた、農場主は、自衛のために鎮守や寺を中心に結束し、
寄合で合議し、村掟をつくり、自治の勢いを強めた。
また共通の外敵に対し、時に10数ヵ村が広々と結束する場合があった。
これを一揆と呼んだ。このため農村はつねに武装していた。
その代表格は、地侍とよばれ、一国規模の大いなる存在を国人または
国衆と呼んだ。かれらは中央の武家(守護・地頭)ではなく土豪だった。
これが「坂東武者」とよばれる「東国武士団」である。


ジャングルジムのてっぺんにいるお月様  日下部敦世


それから何年何月すぎたことだろうか。
一コの組織として自立した武士団は、土地の拡張を考えるようになる。
人間の性とは悲しいもので、土地は領土という名称で、土地の分捕り
合戦をはじめた。強い武士団は、弱い武士団を組みしき、組織を拡張
していった。
だが、彼らもおバカではない、殴り合いばかりをやっているわけにも
いかない。そんな事を続けていたら、お互い傷だらけになってしまう。
そこで考えたのは、自分たちの土地を守ってくれる武家の棟梁を探し
傘下にはいることであった。乱世における「安全保障」である。
そのことで生まれた主と従は「ご恩と奉仕」の契約をもって結ばれた。


蛙に目貸した覚えはないけれど  雨森茂樹



         治承4年10月2日、頼朝軍、隅田川を渡り鎌倉へ


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑦


「富士川の戦」 頼朝第二戦


源頼朝御家人は主従関係にあるとはいえ、上に述べたように、
「御恩」「奉公」という対価的関係(双務契約)で結びついている。
つまり、挙兵当初の頼朝は、「味方はたったこれだけか、少ないのー」
と、嘆いていた状況で「石橋山の戦」に臨んだ。が敢え無く敗退した。
東国武士らの助勢がなければ、何もできないことを悟った戦であった。
一方、東国武士たちが、貴種である源氏(頼朝)を支援し、平家などと
の戦で勝ちをとれば、所領や報奨を貰うことを約束し、契約を交わした。
すなわち、お互いに利用し合う「利益と奉仕」の関係だった。
そこで兵数の必要性を痛感していた頼朝は、父・義朝以来の関東の源氏
勢力を呼び寄せ、「次は負けぬ」とリベンジののろしを挙げた。
(貴種=高貴な家柄の人)


揺さぶらないで先人が架けた橋  大久保眞澄


そして平家に二戦目を挑む頼朝は、和田義盛小四郎義時千葉常胤へ、
安達盛長上総広常のもとへ派遣した。
千葉常胤と上総広常は、又従兄弟で2人とも「保元の乱」「平治の乱」
において、義朝とその長兄・義平と共に戦った源氏方の郎党であった。
千葉常胤は、この時すでに60歳を越える長老であったが、頼朝の使者
和田義盛から、源氏に参戦を望まれると、即、快諾した。
常胤は300騎を率いて、頼朝リベンジの陣に加わり、義朝恩顧の武将
として、自ら戦場に赴き、34歳の若い頼朝を大いに助けた。


長生きしてねと言われる年になりました  奥山節子


ーーーーーー
    上総広常                佐藤浩市


一方、上総広常(かずさひろつね)は、横柄で傲慢で、頼朝とは性格的
に合わなそうな人物である。「平治の乱」の敗戦で一時、平家に属した。
が、平家の有力家人・伊藤忠清と対立し、清盛に「勘当された」という
経歴を持つ。此度、安達盛長に平家打倒に参戦を望まれた折は、平家が
広常の領土を侵略してきていたこともあり、頼朝と手を組んだ。
そして、治承4年9月19日に、頼朝と初対面をした。
数の上でも、強力な兵力を持つ広常は、「無礼な振る舞いが多く」他の
御家人に対しても「横暴・横柄」な男であった。
このようなことがあった。
<頼朝が三浦へ避暑に行った折、御家人たちが悉く下馬し、平伏する中、
広常は騎乗したまま会釈した。三浦義連にそれを注意される>と、
「公私共三代の間、そのような礼はとったことがない」と言ったという。
それでも広常が2万騎の大軍を率いて参陣したときは、頼朝は、腹はム
カムカだが<まずはよかったよかった>と、コッソリ胸を撫でおろした。


波風を立てずに生きて顔がない  西谷公造


頼朝が石橋山へ挙兵した際、
「私は累代の家人として、貴種再興のときに巡り合うことができた」と、
歓迎した三浦義明は、頼朝が最も頼みとした源氏累代の一族だ。
だが頼朝に会う前に、居城の衣笠城を平家に攻められ自害してしまった。
しかしその子・義澄が父の意志を継ぎ、一族を率いて積極的に平氏打倒
に加わった。
その他、小山朝政、下河辺行平、豊島清元、葛西清重父子らにも、参陣
するよう求め、頼朝軍は、3万余騎になっていた。
さらに甲斐国から、甲斐源氏の武田信義が平家打倒へ挙兵、駿河へ進軍
をはじめた。


カマキリがガッツポーズをしてみせる  倉永みちよ



      黄色‐源氏 ピンク‐平氏


十分すぎる兵力を得た源頼朝は、治承4年9月13日、安房国を出発。
その後、下総国府で千葉一族と合流。広常が2万の大軍を率いて合流し、
10月2日、太井・隅田の両河を越し、武蔵の国に入ると、足立遠元、
西清重が加わった。
さらに秩父氏一族の畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従った。
『吾妻鏡』は「このとき頼朝軍は20万騎に膨らんだ」と記している。
吾妻鏡はどんなときも、鎌倉を大げさに扱うきらいがあり。
 
10月6日、父・義朝が本拠地とした鎌倉へ入った。
鎌倉は、天然の要塞という土地柄で、東西と北は山、南は相模湾という
地形だから、頼朝もそこを本拠地としたのである。
(このころ信濃の木曽義仲も、源氏の一族として兵を挙げた)


地の揺れにちょっと鳴き止む虫の声  山本万作
 

 ーーーーーー
     武田信義                八嶋智人
 
一方、平家方では、石橋山を制した大庭景親清盛「頼朝再度挙兵」
の報せを持って来たのは、9月も半ばを過ぎたころだった。
清盛は「すぐさま」に孫・平維盛を総大将として迎撃を命じた。が、
奢る平氏の兵たちは弛みきっていて、モチベーションは一向にあがらず、
時間の無駄遣いをして、追討隊の出発は、10月になってからであった。
10月13日にやっと維盛隊は駿河国に入った。
これを迎え撃つのが武田信義であった。
ここで信義は、維盛を挑発する。
 
 
拘って一日無駄にしてしまう  細見さちこ
 
 
挑発は、このような内容である。
「オーイ維盛よ、前々から一度会ってみたい思っていたが、なかなか
 その機会がなくて、しょんぼりしておったぞ。だが此度は、当方の
 勝利を見届けに来てくださって、まことにありがとう。
 感謝の思いで一杯なのだが、生憎ここは路が険しい。
 だから、富士山の麓での再会ということで、それまで命を大切にし
 ておいてくだされよ」
大将の維盛を馬鹿にするような信義の挑発に、激怒した維盛の重臣は、
 書面を届けた使者を殺してしまった。
使者を殺すなど、「あってはならぬ」ことであった。
このことで、弛んでいる平家の兵士たちは、信義の報復に怯え、動揺
し逃亡するものもいたという。


あほやけどあほと言われて腹を立て  藤河葉子


10月18日、頼朝軍、黄瀬川に着いた。
そこへ甲斐・信濃の源氏北条時政の2万騎が合流した。
10月20日、平氏は富士川西岸に、源氏は富士の加島に陣地を構え、
両軍は、富士川を挟んで睨みあった。
この夜半のことである。
平家軍の背後へ忍びよる武田信義の軍勢に、驚いた水鳥が一斉に飛び
立ったのだ。羽音は、源氏方の奇襲に聞こえるほど、凄いものだった。
もとより源氏の大軍を目の前にして、戦意も喪失している平氏の兵は、
水鳥の羽音にびびり、散りじりに逃走し、戦わずして、勝者は決して
しまった。
これには頼朝は大笑いした。近侍する小四郎義時もわらった。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄



 藤原秀衡 田中泯       源義経 菅田将暉 
 
 
「黄瀬川にて、もう一つの出来事」


「頼朝と義経、初体面」

そのころ、遠く離れた奥州の地で、一人旅立ちの準備をしている若者が
いた。 22歳の源義経である。
義経は「平治の乱」で、父・義朝が平氏に殺されると、身を隠した。
16歳の時、奥州藤原氏のもとに身を寄せ、父の敵、平氏打倒の機会を
狙っていた。
そこへ挙兵したと聞き、黄瀬川の宿で陣を張る頼朝のもとに、義経が駆
け付けたのであった。
幼い日に平氏に追われた兄弟が、「平氏打倒」という宿願のもとにはじ
めて対面を果たした。
「兄ちゃん」「九郎」と言葉を交わして、2人は手を取り合って涙し、
源氏再興を誓い合った。
しかし、義経が武蔵坊弁慶以下、引き連れてきた18人の配下の中に
佐藤兄弟の姿をみると、俄かに、頼朝は顔をゆがめた。
これが後に、「義経追討」の大きな原因になろうとは…、
義経は思いもしなかった。


うっすらと非のあるところから時雨  赤松ますみ

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星々の声が聞こえる像の耳  くんじろう
  


       船団の左舳先に安徳天皇を抱いt二位尼時子
 
壇ノ浦における平氏滅亡のありさまは、実に悲壮であった。
「浪の下にも都がございます」と、言って、清盛の妻・二位尼時子が、
8歳の安徳天皇を抱きしめ瀬戸の海に入水した。
建礼門院徳子は、石や硯を懐に入れて身を投げたが、沈み切らないうち
に引き上げられた。 
平氏一門の死は、さらに劇的である。

捕虜となった総大将・宗盛とその子・清宗は醜態をさらしたが、知盛は、
二領の鎧を着重ねて海底に沈み、恒盛・教盛・資盛・有盛らは、女人と
もども手をつなぎ合い、あるいは、錨を抱いて入水していった。
能登守教経は、矢種を射尽くした後、左右の手に持った大太刀と大大刀
で無数の敵を倒した。ついで義経を探し回ったすえに逃げられると、
30人力の大剛といわれた安芸太郎実光と、同じく太刀で知られた弟の
次郎の2人を両脇にかかえ「お前たち冥途の山の供をせよ」
と、言って、海に飛び込んで果てた。 (『源平盛衰記』)



    安徳天皇8歳
 
 
天国は死ぬ心配がありません  寺川弘一


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑥


「平家滅亡への道順」



          富士川の戦 
水鳥の羽音に右往左往する平家方・兵士たち



治承4年(1180)10月20日、平氏の東征軍と、頼朝・甲斐源氏
武田信義の連合軍とが、冨士川を隔てて対峙した。
源平合戦の開幕である。時政義時もこの合戦に出陣していた。
西岸の平氏軍は4万数千騎、対する源氏軍は5万騎、両軍の兵力に大差
はなかった。だが平氏軍の士気はあがらなかった。
平氏の地盤である西日本は、数年来の飢饉によって、世相が動揺してい
ただけだなく、京出発の直前に総大将・維盛と参謀長の平忠清とが喧嘩
をし、出発が遅れたということもあり、全軍の統率を欠いていた。
これに対して源氏軍は、武田信義が駿河国の目代・橘遠茂を撃破した勝
ち運に乗っている。将兵の闘志はみなぎっていた。


指揮棒のねじれに誰も気がつかず  原 洋志


その日の夜ふけのことである。源氏軍の武田信義が、一隊を密かに敵の
後方にまわし、奇襲をかけようとした。
そのとき意外な事件が起こった。
「ん、何だか騒がしいな……?」
「何か策があるようにも見えないが……」
武田信義の軍勢が、夜襲をかけようと平家軍の背後へ回り込もうとして
いたところ、うっかり、冨士川に集まっていた水鳥を驚かせてしまい、
驚いた水鳥の群れが一斉に飛び立ったのである。
「すわっ、敵襲だぁー!」
「わぁ、えらいこっちゃー」なんで大阪弁やねん)
水鳥の羽音が、大軍が襲い掛かるように聞こえたので、平氏の兵は驚き
慌てた。平氏の陣中は大混乱となった。
「あかん あかん…もうあかん」
切羽詰まった状況は、大阪弁のほうがよく伝わる。
「ははは!水鳥の羽音に恐れをなして逃げ出しおるわ!」
一人の恐怖が10人に伝わり、それがま100人に伝わり……
そして投降者が続出した。勝敗は戦わずして決した。
維盛が帰京した際、供はわずか10騎であった。
                 (『平家物語』・『吾妻鏡』)


脇道に逸れて出会った福の神  高浜広川


水鳥の羽音の珍事から4ヶ月のちの治承5年2月、源氏との激しい戦い
の最中、清盛は熱病に倒れた。
平氏政権を打ち立てた2年後のことである。
その2年の間に、次々と起こる凶事に清盛の神経は、疲れ果てていた。
そんなところへ、頼朝「平氏打倒」ののろしをを掲げ、東国で挙兵し
たというのである。清盛の神経をさらに逆なでしたのである。
頼朝は、かつて清盛が「命だけは」と助けた人物であった。
頼朝をはじめとする源氏の軍勢は、各地で平氏を打ち負かし、
京へと迫ってくる。さすがの清盛も、やむなく福原の都を京に戻した。
そして、あくる月、怒りが高じた清盛は、64年の生涯を閉じた。
死の間際、清盛はこう言い残したという。
「頼朝が首をはね、わが墓の前にかくべし」


独裁者の二つの耳は飾りもの  穐山常男


 
   美談武者八景 鶴岡の暮雪 月岡芳年


「小四郎、本性をちょっと出し」

平家との壇ノ浦決戦が迫って来た頃、頼朝は弟・範頼を豊後へ派遣した。
平家の背後を扼(やく)するためである。
頼朝は範頼に小四郎義時を付けた。
「それがしが先陣を承ります」
この以前の「富士川の戦」に勝利したのち、有力御家人の師弟が多数い
る中から頼朝は、「寝所近辺祇候衆」の筆頭に小四郎を選んだ。
小四郎は、頼朝に深く信頼されていることへ、飛び跳ねて嬉しかった。
だから、自ずと張り切ってしまのである。
小四郎の武勇は期待するほどに、聞こえて来ないが、範頼軍は少弐種直
との戦いに勝ち、豊後国を制圧した。


朝一番ほうれい線をもみほぐす  合田瑠美子


小四郎義時は、鎌倉幕府の御家人の筆頭・北条時政の子であり、
頼朝の義弟でもあり、頼朝から寵愛される側近でもある。
しかし、小四郎は、そのことを口にしたことはなく、
その事実を有利に利用したこともない。
頼朝は、心安んじて小四郎に深い信頼を抱くことができた。
かつてこんなことがあった。
寿永元年(1182)正月。時政は頼朝に無断で伊豆へ帰ってしまった。
頼朝の「女性関係の拗(こじ)れ」から時政は、娘の政子を思いやって、
鎌倉を去ったのだ。だが
「小四郎は、父と行動をともにしないだろう」
と、頼朝は考えた。
なぜなら、「小四郎は、穏便の存念(思慮分別)あるもの」と、
頼朝は信じたからである。


人類の中から君にぶつかった  中前棋人


頼朝の思い通り、小四郎は鎌倉を動かなかった。
父や姉の私的な不満には自若として動かず、公私を混同して、
進退を誤ることはなかった。
小四郎は武勇の将ではない。
巧みに馬を駆り、槍を操り、太刀も遣う。
太刀などは、相当の遣い手なのだが、
帷幕(いばく)にあってこそ、小四郎は本領を発揮する。
野戦の指揮官ではなく、軍略・政略に資質があるもののふである。
小四郎のその冷静さ、割り切りかた、計算高さは後年の義時の冷徹の
一面を窺わせる。
頼朝についても同じことが言える。
その点でも、頼朝は小四郎に親近感を抱き、小四郎の考えていることも
わかった。


あだ名は「ぬー」です ぬうっとしています 高野末次


ーーーーーー
   丹後局(頼朝の寵愛を受けた)         亀の前(江口のりこ)


 「頼朝、女性関係の拗れ」とは

伊豆の豪族・伊藤祐親の娘・八重を自死にやったことにも懲りず、
頼朝の色好みは収まらず、他の女性に手をつけ、このために妻の
政子を怒らせたことが何度もある。
「石橋山の敗戦」後の逃走中のことである。
亀の前という女性を寵愛し、そのまま彼女を小中太光家という者の小坪
の家に匿い、これを知った政子が、小坪の家を壊させ、鎌倉から永久追
放した事件がある。
また新田義重の娘で、かつては頼朝の長兄にあたる悪源太義平の妻であ
った後家さんに目をつけ、ラブレターをやって口説き落としにかけた。
政子は、これを邪魔して、彼女を他家へ嫁に出してしまった義重を勘当
したこともあった。この逸話へ、こんな詠史川柳がある。
「佐殿は ぞっこん後家に 呑み込まれ」
ともかく頼朝の浮名は、死ぬ数年前まで続いたという。病的なのである。
今なら、さしずめ週刊誌お得意先のゴシップ本舗であろうか。


淋しさをなぞった様に紙魚奔る  米山明日歌
 


   「倶利伽羅峠(くりかっらとうげ)の戦」 火牛の計
角に火がついた怒涛の牛が維盛の本陣を襲う図



「清盛の死を早めたもう一つの戦」

寿永2年(1183)5月の「倶利伽羅峠の戦い」である。
「富士川の戦い」で、戦わずして敗退した平家の大将は平維盛。
源氏方の大将は、木曽義仲四天王の1人今井四郎兼平
維盛方5万、兼平方5千。
当時の戦は、兵の数の多さが勝敗を分ける。
数では断然、平家のもの。目を瞑っていても勝てる戦である、ものを…。
富士川の戦の羽音敗戦の始末に似たところがある。
兼平が義仲の本陣へ敵方の様子を報告に来る。
「殿、敵は我が軍の20倍ですぞ。とても勝ち目は……」
義仲は沈思した。しばらくして、
「そうだ、戦国時代の中国に、よい見本があるではないか」
と、義仲は思いついたようにその作戦を披露した。


選択肢増えると心かるくなる  津田照子


それは、紀元前3世紀に斉(せい)という国の田単(でんたん)が、
燕(えん) の軍に対して用いた戦術だ。
「千頭余の牛の尾っぽに、油にひたした葦をくくりつけ、それに火をつ
けて敵陣へと走り込ませ、敵軍を大混乱に陥れ、戦いに勝利したという
伝えがある。それだ! それをやろう」
木曽の山猿が、このような知識をどこで知ったか、いささか疑問だが、
平野では人数が勝敗に大きく関係するが、山野ではかえって人数が多い
 と邪魔になる。
ことの次第によっての、パニックを引き起こす狙いであった。


縄になり青大将は木に登る  蔦清五郎


「時は待たず」平氏軍が寝静まった夜半、義仲軍は、約400頭の牛の
角に松明をくくり付け、野営している敵陣へとなだれ込ませた。
暴れ狂う牛達の突然の襲来に、平氏軍は予想通り大パニックをきたした。
その機に乗じて、義仲の兵が怒涛の攻撃をかけてきたから、5万の兵は
てんやわんや、慌て戸惑い、敵に背をみせて、逃げる逃げる…。
だが、その先には、倶利伽羅峠の断崖が待ち受けていた。
崖を目の前にしても、後ろから押されておして、平氏の武将や兵らは次
々に崖下へ転落した。谷底は死者の山。
今は「地獄谷」の名のある観光地だが、「覗くと誘い込まれます、危険」
の看板があがっている。
 
 
常識も性善説も血祭りに  得能義孝


この「倶利伽羅峠の戦」で、多大な犠牲を受け、ボロボロになって平氏
は京へと引き上げた。辛うじて生き延びた平維盛も、大ショックを抱え
京へ戻って来たものの、この無残な敗北により、平氏は弱体化が加速し、
体制を立て直すことなく、京を離れ、西へ西へと落ちた。
一方、世にいう「火牛の計」をもって勝利をものにした義仲は、風を肩
で切り、平氏と入れ替わり、念願の上洛を果たした。


まず今日の息を正しく吐いてみる  中野六助



清盛が行った埋め立ての様子を伝える「経ヶ島縁起」

風が吹き、波が荒れる中、積み上げた石が悉く押し流されてしまう様が
描かれている。清盛の側近は、海の神を鎮めるため「人柱を立てよう」
と進言した、が、清盛は石の一つ一つに経文を刻み、それを積み上げる
とで荒海を鎮めた、と伝えられる。


清盛の死から4年後の元暦2年(1185)3月。
平氏は、長門国赤間関壇ノ浦を選び、源義経率いる源氏と、最後の戦い
に臨んだ。海戦は平氏の得意とするところからである。
源氏側は、水軍800艘、平氏側は500艘。戦力は源氏が有利だが、
平氏は1日に何度も変わる干満と潮流を利用し、戦いを有利に進めた。
しかし、源氏は不利な状況を耐え、長期戦に持ち込むことで、徐々に
状況が変化した。時間の経過とともに、潮の流れが逆となり、一転、
平氏に不利な向かい潮となった。
そして最後に勝敗を決めたのは、熊野や瀬戸内の水軍が義経に加勢した
ことであった。当時のぶしの戦いには「勝ち馬に乗る」という非情な鉄
則がある。乱世を生き抜いていく…処世術である。
清盛が台頭した「平治の乱」で、真っ先に馳せ参じた熊野の水軍が心変
わりしたのも、清盛のいない平氏に「勝つのはどっちか?」を判断した
結果があった。
                           つづく


耳鳴りが止んだ噴水が止まった  佐藤正昭

拍手[5回]

逆らえぬものが空から降ってくる  新家完司
 



  石橋山の戦いで平家方に大敗し、臥木(ふしき)に身を顰る頼朝主従

 左大庭景親と弟・俣野景久頼朝が居そうな場所を中央梶原景時
指し示している。頼朝主従の顔が臥木から、その様子を見ている。

『吾妻鏡』によると、頼朝討伐の兵を率いる大庭景親は、相模国の豪族・
梶原景時「何としても、頼朝を探しだし、清盛様の前に引きずり出す
のだ」と、檄を飛ばす。大庭と梶原の兵は、蟻一匹見逃さぬように、
頼朝とその残党を、山中く
まなく捜索した。
一方、頼朝は「人数が多くてはかえって見つかりやすい」という
土肥実
の進言を受け、散々に別れて逃げることにした。
そして、ひとまず、臥木の陰の洞穴に頼朝とわずかな兵らが身を隠した。
その頼朝が隠れている洞穴近くへ梶原景時の探索隊がやってくる。
景時は、臥木の陰の洞穴に頼朝が潜んでいることを察知する。
「もはや これまで」
と、頼朝の命運も尽き自刃を考えた時、景時が「早まるな」と、制した。
そこへ大庭がやってきて「どうだ 頼朝の気配は…?」と、景時に訊く。
景時は「ここらより 向こうの山の方が、怪しいのでは」と、応えて、
大庭景親らを、臥木の穴から遠ざけ、頼朝の命を救った、という。


僥倖とは濁世に浴びる花ふぶき  大葉美千代


ーーーーー
             大庭景親(國村隼)

ーーーーー

             梶原景時(中村獅童)


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑤


源頼朝と姉の政子が結ばれた小四郎義時15歳の頃のことである。
頼朝は、意外なことを小四郎に言った。
「入道殿はわれの命を助けて下された。その入道殿を討とうなどとは、
 思ったこともないわ。われは政子と心静かに生きていきたい。
 それで十分満足なのだ」
小四郎には、信じられない言葉だった。
「しかし、入道殿は道を間違われたようだ」
と、頼朝は付け加えた。


なにもかも「人間だもの」で逃げるなよ  木口雅裕
 
 
  ーーーーー
              平清盛(松平健)
 
 
小四郎のその15歳の頃の、清盛入道を少し振返ってみよう。
治承2年(1178)、高倉天皇に皇子(安徳天皇)が誕生した。
高倉天皇の中宮・徳子は、清盛の娘であった。
誕生した皇子は、清盛の孫である。
このことにより、清盛は朝廷での揺るぎない発言力を確保した。

治承3年7月、清盛の後継者に決まっていた重盛が死去。
それを機に、後白河法皇は、重盛の知行国を召し上げ、
平家一門が相続することを認めなかった。
さらに重盛の喪中にもかかわらず、遊興に耽り、平氏の体面を傷つけた。
度重なる法皇の挑発的な振舞に、清盛の堪忍袋の緒は切れた。


右手には刀左手にはりんご  和田洋子


同年11月14日、清盛は兵を挙げる。
数千の大軍とともに、自ら後白河法皇の館に向った。
20日、清盛は法皇を捕え、幽閉した。
武士として、初めて政権を奪い取った清盛は、平氏政権を打ち立て、
江戸時代まで600年以上つづく武士の世の、礎を築いた瞬間である。
年が明けると清盛は、後白河法皇に代わり甥で娘婿の高倉天皇を上皇に、
その息子を安徳天皇とした。上皇19歳。天皇は3歳だった。


もう誰も反対しない咳払い  美馬りゅうこ



     厳島神社に納められた「平家納経」

その第一巻,栄華を願う金色の願文は、清盛の直筆と伝えられている。
「来世の妙果宜しく期すべし」と、記す。


平氏は全国の半分以上の国々を支配し、一門の者が言い放ったのは、
「此一門にあらざらむ人は、皆人非者人なるべし」 (『平家物語』)
さらに清盛は、都を京から日宋貿易の拠点にと開いた福原へ移した。
「福原遷都」である。治承4年6月のことであった。
しかし、新しい都で清盛たちを待っていたのは、次々と起きる干ばつや
要人の病気であった。とりわけ、高倉上皇を襲った病は深刻であった。


突然に前に回った背後霊  井本健治
 
 
愈々、小四郎義時が18歳の時、頼朝が伊豆で旗揚げした。
平家は、義時の成長にあわせるごとく、高度成長を遂げた。
その平家政権にも、息切れの気配が濃厚になってきた。
その機を窺うように、後白河法皇の第三皇子・以仁王「平家討伐」
令旨を全国の源氏に発した。
令旨を受け取った頼朝は、しばらく静観していた。
ところが平家が諸国の「源氏討伐」に動き出し、伊豆目代も頼朝を襲う
気配が濃厚だった。
正直のところ頼朝には、手勢もなければ財力もない。
周知のごとく義時の姉の政子が、彼の妻になっている関係で、
北条氏がまずは親衛隊になったが、その武力は貧弱そのもの。
これが歴史の舞台を大転換させる起爆力になろうとは、彼ら自身も考え
ていなかったのではあるまいか。


未解決のままで集めた綿ぼこり  郷田みや


   
    『頼朝旗起八牧館
山木兼隆夜討図』 (歌川国芳)
 
 
平治の乱の後20年間、伊豆の蛭ヶ小島で流人生活を送っていた頼朝が、
平家打倒のために蹶起し、まず手始めに伊豆国の目代(代官)山木兼隆
の館を急襲したのは、治承4年(1190)8月17日のことであった。
目代の山本館急襲には、時政はもちろん、兄の宗時もこれに加わった。
18歳になる小四郎義時の初陣である。
小四郎は初めて人を斬った。
その興奮は、その後の「石橋山の戦い」の間も、消えることはなかった。


受けて立ちますと剣山のやる気  川畑まゆみ
 

ーーーーー
             畠山重忠(中川大志)


「小四郎、しっかりやれ。畠山や梶原に負けるな」
さて、このときの合戦は、最初はうまくいったが、まもなく平家に味方
する武士団に囲まれて惨敗する
。 「石橋山の戦い」だ。
北条一族も、頼朝と離れ離れになって戦場をさまようが、このとき血路
を開くべく、父と別行動をとった長兄の宗時は、討死をしてしまう。
これは、当時の武士の宿命のようなものだ。一族全滅を免れるために、
父と子、または兄と弟は、必ず二手に別れて行動する。
父に従っていた小四郎は、お蔭で討死をしないですんだというわけだが、
この間、彼がみごとな武者働きをしたという記録は全くない。
大体、彼は、戦場でのあざやかな戦いのできるタイプではないのである。


戦争の仕方ゲームで知っている  田中堂太


一度は敗けた頼朝が勢力を盛り返し、鎌倉に本拠を定め、さていよいよ
「木曽攻め」「平家攻め」にとりかかったときも、
これに従軍した小四郎には、これといって手柄になる話は全くない。
たとえば、一つ年上の梶原景季は、佐々木高綱と宇治川の先陣を争った。
一つ年下の畠山重忠も大活躍をしている。
熊谷直実は、平敦盛の首を挙げた。
熊谷直実などは、北条よりも、もっと所領の少ない小領主にすぎない。
こういう連中の武功が伝えられるにつけ、父親の時政は、やきもきした。


苦みだね大人の味も人生も  むかいただし


このとき時政は、鎌倉に残って頼朝の側近に侍している。
鎌倉の御所様の舅殿というので、少しずつ発言力は増しているが、何し
ろ小豪族の悲しさ、足利、千葉、小山等の大豪族には、睨みがきかない。
このあたりで小四郎がめざましい働きを見せて、
「さすがは北条殿の御子息」と、
褒めそやされ、鼻の穴をふくらませたいところだ、が、情けないことに、
小四郎は戦功には縁がない。
駄馬は先頭集団から遙かに遅れて、のこのこと、ついてゆくのみである。
それでも幕府の記録である『吾妻鏡』には、頼朝は、戦功を賞する手紙
を与えた十二人の中に、小四郎を加えている。
但し、大体『吾妻鏡』は、北条氏寄りの立場で書かれているから、
あてにならない。
とにかく『平家物語』などに語り伝えられるような武功物語は、小四郎
義時には皆無なのだ…。


見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁



 最初、頼朝挙兵を決意させたのは僧・文覚


「知恵蔵」
頼朝が挙兵の計画を行動に移したのは、治承4年4月、以仁王の令旨を
受けてからのことであるが、彼が、平氏打倒を意識したのは、これより
3年前の治承元年頃で、頼朝にその覚悟を決めさせたのは、神護持の
覚上人、だといわれている。文覚は、俗名を遠藤武者盛遠といい、
かつては院に仕える北面の武士であった。


3分でできた事3年悩む  市井美春


後白河法皇の怒りを受けて、伊豆韮山の奈古屋寺に流されていた文覚は、
頼朝の配所を訪れて挙兵をすすめた。文覚は、
「早く謀反を起こし、平家を打ち滅ぼして、父の恥を清め、また
国の王ともなり給え」と、
説いたが、頼朝は、警戒して応じなかった。
すると文覚は、懐中から白い布の包みを取り出し、
「これは、故下野殿(頼朝の父・義朝)の御首である。それがしが獄門
 から盗み出して隠しておいたが、伊豆へ流される際、そなたに進めよ
 うと頸にかけて持ってきた」と、
父・義朝のしゃれこうべを頼朝に手渡した。
頼朝は泣き泣きこれを受け取り、その後、2人は深く信じあったという。
(『源平盛衰記』)
『吾妻鏡』や『愚管抄』などにも、2人が、伊豆で親しく交友していた
ことが記されている。
                            つづく
 
妖怪がブランコを漕ぐ午前二時  武良銀茶

拍手[5回]

ネジ山は潰れて過去に戻れない  くんじろう


 
 
           鎌倉・源頼朝一代絵巻
京の貴族文化を嫌った頼朝は、富士の牧狩りなど、武士の文化を重んじた。


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐④
 

「ここに一冊の本がある」どこかで聞いたようなフレーズだぞ。
その本の題名は、永井路子著『はじめは駄馬の如く』である。
この本は、次のように始まる。
――ナンバー2になるために生まれてきたような男である。
その生き様の見事さゆえに、かえってその名もかすみがちの男。
その名は、北条義時。 鎌倉幕府の実力者だった。
しかし、もし、現代人があの世にインタビューに行き、
「ナンバー2になる秘訣を」
と、質問したとしても、彼は不愛想に、じろりと一瞥をくれただけで
ろくに返事もしないであろう。
そして彼は、腹の底でこう考えるに違いない。
「ははあ、この男こんなことを口にするようじゃ、到底、ナンバー2に
 なれんて。俺なんか若いころは、そうなりたいなんていう気配は、
 毛筋ほども見せなかったもんだ」――。


キミノコトバニ勝てないナンテハリネズミ 大内せつ子


――たしかにそうだ。オレガオレがと気負うような人間は、
ナンバー2には、不向きだ。 ここがナンバー2人間の極意である。
しかし、かりに義時がそう呟いたとしても、後の半分には訂正が必要だ。
ナンバー2を目指す気配を見せなかったのは、何もわざわざ、そうした
のではなくて当時の彼には、そんな可能性が全くなかったからである―。
<歴史をながめてみると、トップの陰で決して目立たないが、
 十分な実力を持つ、したたかな仕事師がいたことに気がつく>
と、いうことなのである。

♪♪♪~ ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン
この中で 誰が一番だなんて 争う事もしないで 
バケツの中 誇らしげに しゃんと 胸を張っている ♬ ♪ ♬ ♪
なんて数年前にヒットした歌がありましたが、
まさしく、義時は、はじめは、こんな男だったのだ。


ふところの深さを計る鯨尺  合田瑠美子
 
 
  ーーーーー
         大江広元


「大江広元の証言」
これは北条政子を中心にした13人の合議中のことである。
大江広元は、檜扇を床に叩きつけ、火に誘われ飛んできた羽虫を潰した。
「北条陸奥守殿は、相変わらずよな」
扇の先に感じた不快な感触に、広元は顔をしかめた。
評定の場で、誰よりも精彩を欠いていたのは、場を主宰する北条氏執権・
義時だった。
この時、兄の宗時、「石橋の戦い」で命を落としており、姉の政子
推薦でその気なくても、ナンバー1の地位になっている。
 かつて鎌倉を牛耳った北条時政の息子であり、これまで、有力御家人
を幾人も粛清し、鎌倉の臣下第一の座に登りつめた男である。
「世上、謀略の人だの、権勢に取りつかれた増上慢だ」との悪評に晒さ
れてはいるが、近しい広元からすれば、それらの評には、小首を傾げざ
るを得なかった。
なんというか、広元から見た義時は、茫洋とした平凡な男なのであった。


わたくしの臍に蠢くものひとつ  大内せつ子


そもそも、広元は、義元と初めて出会ったのが、
「いつのことだった」のか、まるで思い出すことが出来ないでいる。
広元が、頼朝に見いだされて鎌倉へ鞍替えしたのが、
元暦(1184ー85)の頃であったから、その頃に、顔を合わせている
はずだが……その時のことを思い出すことが、今もって出来ずにいる。
坂東武者の中にあって、義時は埋没していた。
「武芸に優れているという誉れも聞かぬ。
 さりとて、無能とも言挙げされぬ。
 ただ、家子の1人として影のように頼朝に付き従っている……」
いわゆる、「茫洋な男」なのである。


あんな奴の吐いた空気を吸うている  居谷真理子


それは、父・時政を失脚させ、鎌倉第一の権勢人(鎌倉殿)となっても
変わらなかった。
むろん、臣下第一の立場であるゆえ、幾度となく、決断を迫られる場面
があった。
だが、義時は、即断即決で物事を決めることは、一度としてなかった。
広元はずっと、鎌倉殿・坂東武者の治める鎌倉を見つめ続けてきた。
「元服してこのかた、涙したことがない」と、豪語し、坂東武者たちの
煮えたぎるような熱情にほだされることもなく、唯、日々粛々と鎌倉の
なかで、与えられた己の役割を果たしてきた。
己が手塩をかけて育ててきた「鎌倉殿」を頂点とする武士団への愛着は、
人一倍のものなのだ。……だから…もどかしいのである。
 (時政追放=元久2年(1205)7月、お牧の方事件)
 
  これも一計寝たふり死んだふり  小林すみえ


だが、このことは我々を勇気づける。
ナンバー2どころかナンバー100番めであったにしても、
生き方によっては、思いがけない未来が開けてくるということだから。
つまり、若き日の彼は、「駄馬」だったのだ。
間違っても、ダービーなどにはお呼びでない、田舎馬にすぎなかった。


生き方の違いと思う花の下  津田照子
 

 
冨士川の戦に勝利した義時たちの前に引き出される、大庭平三郎景親
景親は、かつて「石橋山の戦」で散々頼朝を苦しめた人物。


それでは北条義時の物語のはじまりはじまり――。
義時が、生れたのは、長寛元年(1163)父は伊豆の片田舎の小豪族・
北条時政で、母は伊東祐親の娘・八重姫(これはおかしい?)とある。
当時、都では、清盛が、いよいよ出世の階段に足をかけたところである。
が、伊豆の時政は、平家政権のそばにも寄れない。
義時は、4子として生まれたが、長兄の三郎宗時と義時の間の兄が早逝
したため次男となっている。
すなわちここで、押し上げられるように、義時は、北条家ナンバー2に
なっている。
何というか、義時のために、お約束の椅子が用意されていたようにだ。


出来立ての夕日を捩じる貨物船  日下部敦世


実は、若いころ義時は、長い間、北条姓ではなく「江間四郎義時」とか
「江間小四郎義時」と名乗っていた。(『吾妻鏡』『豆州志稿』)
因みに、治承5年(1181)4月、義時が、頼朝の寝所警護11名の
一人に選ばれた時の呼名は「江間四郎」ある。

これはどういうことなのか?  
「江間」とは、誰かである。
兄・宗時が戦没した後、義時は当然、自分が後継者になると思っていた。
しかし、父・時政の考えは、違っていた。
時政後妻の牧の方が生んだ政範「北条本家」とし、義時は、ナンバー
2のまま、領地の「江間」を名乗らせ、「分家扱い」にしたのである。
悪妻・牧の方の力が、時政をしてそうさせたのか、時政が掴みどころの
ない義時が、頼りなく思って、そうしたことなのか。


血筋とはしつこいものでありました  谷口 義





さて、頼朝は、茫洋とした義時が気に入っていたらしい。
その頼朝が、配流の人として、北条家に移住してきたのは、安元元年
(1175)頼朝が25歳、義時13歳の時である。
ナンバー2として、気楽で責任もなく、凡々と生を貪っている義時は、
頼朝の世話役をまかされた。
頼朝は流人の身でも、正統な源氏の頭領だ。伊豆は平氏派が多い地域
だから大変なのだが、野心家の時政は、穏やかで育ちのいい頼朝を、
「佐殿・佐さま」と呼び、涎をたらしながら上げ膳据え膳で歓待した。
娘の政子は、この2年後に頼朝の正妻に嫁がせている。
時政の将来を見据えた貪欲な野望である。
そして義時は、20年以上、頼朝のお側で務めることになる。


忖度かどうかを計る尿検査  村山浩吉





「頼朝のいろ好み」
「英雄色を好む」という喩えがあるが、頼朝もその道にかけては、大変
なものであった。
頼朝の正妻は、北条時政の娘・政子であるが、政子と呼ばれる以前、
彼は、伊豆の豪族・伊藤祐親の三女・八重姫といい仲になり、子を孕ま
せてしまう。やがて千鶴丸を生む。
大番所の仕事を終え、伊東の邸へ帰ってきた祐親は、これを知って大激
怒をした。平家の怒りを恐れ、千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝
の殺害を図ったのだ。頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の
伊東祐清が、頼朝に知らせ、頼朝は、夜間馬に乗って、熱海の伊豆山神
社に逃げ込み、時政の館に匿われて事なきを得たという一事がある。
一方、八重姫は真珠ヶ淵で入水自殺をしてしまう。
 さても気楽な人間というものは、時には、損な役回りを賜るもので、
頼朝の唯一庇護者である小四郎義時は、敬愛する頼朝から頼まれたのだ
ろうか、「千鶴丸の生みの親とか、又、育て親を任されてしまう」と、
『吾妻鏡』『豆洲志稿』が描き遺している。
大河ドラマでは、八重は義時の初恋の人とか、頼朝に心を寄せる女性と
して出てくるが…結末は、どう描くのだろうかー興味が尽きない。

 
 
  どしゃぶり決死隊と呼んであげよう  井上恵津子



        伊東八重姫入水の地

ここに罹れている文章は、次の通り。
源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相剋
のいけにえにされた伊藤祐親の四女「八重姫」
悶々日を送る中、遂に意を決し
治承四年七月十六日侍女六人と共に伊東竹の
内の別館を抜け出し、亀石峠の難路に、はや
る心を静めながら頼朝の身をかくす北条時政
館の門をたたきました。然し、既に政子結ば
れていることを知る邸の門衛は冷たく、幽閉
された身の我が館に帰る術もない八重姫は、
あわれ真珠ヶ淵の渦巻く流れに、悲愁の若き
「いのち」を断ってしまいました。
悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、今
「古川」の小さな流れに閉ざされた悲恋の
しのび音を偲ばせてくれます。


ショックねと同情されてそれっきり  掛川徹明


「いよいよ義時にとっての歴史が動き出します」
次への年譜
治承4年(1180) 以仁王平家打倒の令旨発布。
頼朝伊豆で挙兵、源平合戦開幕(石橋山の戦い )
義時、頼朝挙兵に父・時政と共に従う。
気楽にも清盛、福原遷都。(冨士川の戦い)(10月)


義時が18歳の折、頼朝が伊豆で旗揚げした。
義時の成長にあわせるごとく高度成長を遂げた。
平家政権にも息切れの気配が濃厚になってきた。
その機会を狙っての、頼朝の旗揚げではあったが、
正直のところ頼朝には、手勢もなければ財力もない。
周知のごとく義時の姉の政子が、彼の妻になっている関係で、
北条氏がまずは「親衛隊」になったが、その武力は貧弱そのもの。

これが歴史の舞台を大転換させる起爆力になろうとは、
彼ら自身も、考えていなかったのではあるまいか…。つづく。


いつの日か空を飛びたい二枚貝  三村一子                          

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