川柳的逍遥 人の世の一家言
それはもう言いようのない馬鹿笑い 木戸利枝
水戸藩主徳川斉昭・平戸藩第藩主松浦静山・信州松代藩主真田幸貫
家康ー戦国武将を表現した狂句 甲 子 夜 話 松浦静山の随筆『甲子夜話』(かっしやわ)の中に有名な三人の戦国武
将の性格をを表現した次のような文章がある。 『夜話のとき或る人の言ひけるは、人の仮託に出づるものならんが、
その人の情実によく適へりとなん。
郭公を贈り参らせし人あり。されども鳴かざりければ、
「鳴かぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」 信長
「鳴かずとも鳴かして見せう杜鵑 豊太閤」 秀吉
「鳴かぬなら鳴くまで待つよ郭公 大権現様」 家康
このあとに二首を添ふ。
これ憚るところあるが上、もとより仮託のことなれば、作家を記せず。
「鳴かぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす」
「鳴かぬなら貰つて置けよほとゝぎす」
(「時鳥」「杜鵑」「郭公」は、全部ほととぎす)
翌日の指に残っている火照り きゅういち
明治天皇の曾祖父である松浦静山は、47歳となった文化3年(1806年) に三男・熈(ひろむ)に家督を譲って隠居し、以後82歳で死ぬまでの
35年ほどを武芸と文筆活動など、好きなことに没頭した。
文筆活動においては、自ら活字を作り、印刷を試み、随筆「甲子夜話」
「日光道之記」「百人一首解」「江東歌集」を著している。
上記の「甲子夜話」は、幕府の儒官、大学頭家の林述斎から 「個人の善業、嘉言はこれを記し後世に伝えるべきである」
と進められたもので、文政4年(1821)11月「甲子の夜に執筆を開始」
したことから名付けられたという。 他には詩歌・書画を残した他、当時の文人墨客とも深く関わり、化政文
化をリードした。 故に「ほととぎすの句」は静山の作ではないかとも…思われていた。
両の手の器ぐらいが丁度いい 津田照子
ところが「ほととぎす」の三首は、静山よりも23年早く生まれた江戸
時代中期の旗本で勘定奉行・南町奉行を務めた根岸鎮衛(やすもり)が、
佐渡奉行在任中の天明5年 (1785) ~文化11年 (1814) 迄の30年間に
亘って書き溜めた世間話の随筆集『耳嚢』(みみぶくろ)に,紹介されて
いるのである。ということは、三人の性格を表現したものとして、よく 知られる「ホトトギス三首」は、いつ、誰が、詠んだ歌なのか……? 不明のままなのである。
(耳嚢又は耳袋=同僚や来訪者、古老から聞き取った武士から町人層ま
で身分を問わず、様々な人々についての事柄の珍談・奇談・怪談が記録 したもの) テトラポットの角に降りつもる誤解 酒井かがり
耳 嚢 根岸鎮衛の『耳嚢』には、次のように紹介されている。 『古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、
恐れながら神君ご参会の時、卯月のころ「いまだ郭公を聞かず」との 物語いでけるに、信長、 「鳴かずんば殺してしまえ時鳥」
とありしに秀吉、
「なかずともなかせて聞こう時鳥」
とありしに
「なかぬならなく時聞こう時鳥」
と、遊ばれしは神君の由。
自然とその温順なる、又残忍、広量なる所、
その自然をあらわしたるが、紹巴(じょうは)もその席にありて
「なかぬなら鳴かぬのもよし郭公」
と、吟じけるとや。
これで三首の発祥が連歌の会の座興とまでは分る。 (里村紹巴とは、本能寺の変で、明智光秀が亀山城を出陣する
数日前に張行した連歌の会(愛宕百韻)の参加者の一人)
理性一番喜怒哀楽を削除して 矢沢和女
【おまけ】
野球の野村監督が有名にした名言は静山のコトバがある。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」である。
意味は=心形刀流免許皆伝・松浦静山の『常静子剣談』この一文にある。 剣道では試合後の反省によく用いられる教えで、負けた時には必ず理に適わ ない原因がある、というのである。 「イカサマ」の語源。
イカの墨で字を書くと1年くらいで文字が消えてしまうことから、
と、甲子夜話のネタで静山が発信したコトバ。
おい不死身 右が二重になってるで 酒井かがり
「ここから信長・秀吉・家康の性格のエピソード」
「なめかたで織田ほど勝った者はなし」
「なめかた」とは銭を投げて、裏が出るか表が出るかの博打。
信長は出陣に際し、熱田神宮で銭の裏に賭け、裏と出たので勝てると踏
み、大敵に挑んだ。つまり信長は、かなり験を担いだ人だったようだ。 政略のため ”マムシ” と恐れられていた隣国美濃の斎藤道三の娘、濃姫
を妻に娶った。道三にしてみれば可愛い娘の婿だが、そこは戦国時代。 やがて道三が倅の義龍に殺され、その義龍が病死すると、信長は棚ぼた で美濃を手中にした。 サイの目は起死回生のピンである 松浦英夫
とはいえ信長はまだまだ弱小の国主。
駿河の今川義元は5万の大軍を仕立てて、信長を軽く蹴散らかそうと軍
を差し向けてくる。 信長は自領の尾張に入ってきた今川軍が、織田の支城を次々に落してい
くのを「わざとされるまま」にして、今川軍が桶狭間の谷間に進み隊列 が帯のように長く伸び切ったところを見計らい、豪雨をついて、僅かの 兵を率い稜頂より一気に駆け下り、混戦のなか義元の首級を挙げた。
信長にとって、桶狭間は一世一代のイチかバチかのデビュウー戦だった。
それはもう目の前にある三途川 黒田忠昭
「すべて計算 秀吉の人たらし」
織田家につかえ、美濃を攻略するときのこと。
秀吉は、敵の武将を味方につけることに成功した。
しかし信長は、その武将を殺してしまえと命じる。
ふつうの人間なら、武将を殺してしまうだろう。
しかし、秀吉はそうはしなかった。
武将に「すぐに逃げられよ」といい、刀を捨てて、万が一の時は自分を
人質にするよう申し出たのだ。 これは、単に秀吉の人の良さをしめすエピソードではない。
秀吉は「武将は感激してわしの評判を美濃で広めるだろう」と、考えて、
逃がしたのだ。
秀吉の人の良さは、「深い計算」にもとづいていた。
点滴のチューブの先の花結び 美馬りゅうこ
「タヌキ親爺の本領発揮」
本能寺の変以降、織田家の後継者を決める「清須会議」からも排除され
てしまうなどの、豊臣秀吉にずっと先を越されっぱなしの徳川家康。 すべてが秀吉の思惑通りに動いていくのを、家康は穏やかではなかった
はず。 秀吉が信長の長男・信忠の子である三法師を推し、柴田勝家が3男の信
孝を推す中、家康は、2男の信雄が家督を継ぐのが筋だと考えていた。 勝家側から味方につくように働きがけがあったとき「反秀吉」という点
で一致しながら、結局勝家に乗らなかったのは、一つにこの後継問題が あったのである。 また秀吉と勝家が争って、互いに消耗することは、自分にとってプラス
だという計算があったのだろう。
家康は自らの力を温存しつつ「賤ケ岳の合戦」に対しては静観を決め込
んだ。 ハニワ顔そんじょそこらの目ではない 森 茂俊
家康は、戦況や秀吉の動きを細かく把握していたのだ。
そして秀吉勝利の報がもたらされると、その祝いの品として天下の名品
「初花肩衝(はつばなかたつき)」を贈った。
茶の湯好きの秀吉は大喜びし、家康が、秀吉と勝家両方に距離を置いて
いたことはこれによってチャラになる。 表面上はこうして秀吉と友好的なふりを装いながら、一方で北条氏直に
娘の督姫を嫁がせ、関東を統べる北条氏との同盟を結ぶなど、家康の 「タヌキ親爺」ぶりはさすがである。 聞き上手話し上手にしてあげる ふじのひろし
「最後に女性の好みから三人の性格を診断」
信長=女性にそれほど関心はない。
秀吉=容貌と身分の高い女性が好きな女たらし。
家康=容貌は二の次で健康的な側室を選ぶ。
思い出し笑いあなたが一位です 市井美春 PR |
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