川柳的逍遥 人の世の一家言
二度づけをしてからなんとなく不死身 田村ひろ子
つくりごとか史実か 「宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘」 通説によってこの対決をまとめると次のようになる。武蔵は約束の時間 に遅れ小舟に乗ってようやく登場。見え透いた武蔵の作戦に、小次郎が 怒りのあまり、刀の鞘を海に投げ捨てると「小次郎早や破れたり!」と 有名なセリフを吐く。勝つ者がなぜ、刀の鞘を捨てるか、というのだ。 これに焦った小次郎は平常心を失い、はからずも武蔵の剣に屈した。 古い記録を検証すると、小次郎が3尺にあまる長い刀を用い、武蔵が木 刀を用いたということは、どの記録でも一致しているそうである。 消えてしまった天国への階段 藤井孝作 「私たちが、今知っている歴史が正しいものとは限らない」
① 史実とは「その時点で確認されている事柄」に過ぎず、本当にその
時代にそれが起こっていたのかどうか? は、その時代その場所に いってみないと確認できないのだから…。 否、その時代その場所にいても真実は見えていないこともある。
② 史実とは 歴史学者などの間で一般的に事実と認められていること
を指す。それは、当時の、文献や証言、物証などから事実とされる。 ただし、証言や文献も間違いが非常に多くあるので、何を史実とするかは
難しいと歴史学者は本音を漏らす。 棒読みであれシガシガのガムであれ 酒井かがり
史実を少し折り曲げて面白くする歌舞伎の演目 「どうする家康」 時代考証
歴史の新説 比叡山周辺で織田信長と対陣していた浅井長政が、大浦黒山寺に宛てた 税の免除と安全確保を約束した新発見書状(覚伝寺蔵) さてここで大河ドラマ「どうする家康」の「時代考証」である。
NHKで時代考証を担当するディレクターは、「
「ドラマの時代考証とは、番組で取り上げられる史実・時代背景・美術
小道具等をチェックして、なるべく史的に正しい形にしていく作業、 つき詰めれば <へんなものを出さない>ための仕事>という。 その流れは、台本の初稿ができあがると、脚本家・演出家、外部の専門 家(各種考証担当者)および、制作側の考証担当者が、定期的に集まる 「考証会議」が設けられる。 原稿の「読み合わせ」が行われ、考証の見地からの意見が出されて議論 が行われ、「台本原稿が修正」されていき、最終的な台本が仕上がる。 考証会議で物語そのものが、変更されることは、基本的にはないという。 又考証者の見解をどの程度反映するかは、脚本家や演出家の判断となる。
壁紙が主張しすぎていませんか 徳山泰子
シナリオチェックでは、セリフの言葉遣いや、歴史的事実<このような
出来事はあり得ない>また<この人物がここにいるのはおかしい>など の確認が行われる。 そして当時代に使われていた日本語かどうかも細かくチェックする。 例えば、「絶対家族を守る」というセリフがあるとする。
だが「絶対」も「家族」も当時の日本語にはないのだ。さらにありがち
なのは『現代の感覚を過去にさかのぼらせたことによる誤り』だ。 また歴史人物の名前の読み方である。 例えば、お市の方の夫になる浅井長政は、<あさいながまさ>ではなく
<あざいながまさ>でなければならない。 さて本編では『どうなる 浅井』は…? 役者はちゃんとた正しく読むのだろうか……そこが見どころ。 本物のいたこだスワヒリ語のお告げ 宮井いずみ
「どうする家康の第四話をリピートでみてみよう」
おいちの肖像画 (竜安寺)
お市の長女の淀殿は、父・長政の十七回忌、及び、母・市の七回忌に菩
提を弔うために、両親の肖像画を描かせた。 この肖像画は高野山の持明院に伝えられている。 「その前にお市を予習しておこう」
通説では、1547年(天文16)尾張那古野城内で生まれたとする。
父は織田信秀、母は土田御前とされているが、生母は不詳。
信長の妹で五女と伝えられ信長とは13歳離れている。
『祖父物語』によればお市は「天下一の美人の聞へ」と美人の誉が高く
『賤嶽合戦記』では「天下第一番の御生(みあれ)付」と、あって 「貴人として尊敬された」という描写がある。 戦国の三大美女の一人である。肖像画をみても、市の血を引く三人の娘 (淀・江・江与)をみても、お市の美しさは本物だろう。 (残る三大美女は、2位に明智玉子(細川ガラシャ)3位に松の丸殿
(秀吉側室)と続く) 黒髪が一駅ごとに上下する 稲葉良岩
家康が織田家で人質生活を送った1547年(天文16)から1548
年の2年間、家康と信長は交流があったとされるが、お市は、この15 47年(天文16)に生まれている。 当時5歳だった家康と生まれたてのお市の方の間に、接する機会があっ
たのか? お市の幼少のころの記録は、不詳と伝承されている。 次のような説もある。
(徳川家臣・松平家忠の「家忠日記」によると、家康とお市の方の間に、
結婚話がもちあがっていたというのである。 「家忠日記」に「天正10年(1582)5月に、織田信長が徳川家康
とお市の方を娶せた」という記録が残っているのだ。 お市35歳である。 その年の5月といえば、信長が「本能寺の変」で落命する一ヶ月前だ。
オプションで笑う機能が付いている 川田由紀子
この日の『家忠日記』によると、信長みずから家康の食事を配膳し、
当時、人気のあったお菓子・「麦こがし」を作り、もてなしたとある。 その際、信長から家康に「引き出物」として与えられた品の中には、 女性用の絹織物である「紅の生絹(すずし)」も入っていた。
これこそ、信長がお市と家康の婚約を祝った行為ではないか…を根拠と
しているようだが、「本能寺の変」の翌年にお市の方は、二番目の夫・ 柴田勝家と自害している。あり得ないことを堂々と書く日記もある。 そんなことしたら和尚に叱られる 吉川 幸
「四話のリピートへ戻る」
信長が元康と相撲をとるシーンがある。信長の勝利で決着がつくと、
そこへ木下藤吉郎(ムロツヨシ)があらわれ、
「元康さま、もう一人、手合わせしたいという方がいらっしゃいます」
というと、元康は訝しい顔をして藤吉郎に向かい「もう一人?」と訊ね
ると、小柄な仮面の人物が登場し、いきなり木製の薙刀で元康に攻撃を 仕掛けてくる。 元康も稽古用の槍を柴田勝家から受け取り、槍をもって激しく応戦する。
最後は、元康が優位に追い詰めたところで相手の仮面を剥ぎ取ると、
信長の妹・お市の方(北川景子)顔があった。
信長は相撲が趣味だったから良いとして、お市に武道の心得を証明する
記録はない。 こんなところで息継ぎを間違える 藤本鈴菜
男勝りな少女だったお市との15年ぶりの再会だった。
お市 「お久しゅうございます。竹殿」
信長 「覚えておるか。いつも俺の後をくっついていた妹・市じゃ」
元康 「お市さま…」
元康が織田家の人質だったころの、いつもそばにいたお市の姿を元康は
思い出す。 お市は、元康に清州を案内するといい、2人は馬に乗り、高台に立ち、
栄える清須の町を見下ろしていた。 (清須城は、濃尾平野のほぼ中央部に位置し、周囲の地形は真っ平で、
また、信長時代の清須城はそれほど大きなものではなく、ドラマに出て きたような、まるで中国の「紫禁城」を思わせるほどの規模とは、まっ たく別物。視聴者はどうみたのだろうか) 月光はすべて私のために降る 吉川幸子
清州城 紫禁城 翌日、元康は正装して信長の待つ清州城に赴いた。
門前では柴田勝家と藤吉郎が待っており、元康が見た清州城は荘厳その
ものだった。そこで元康は織田と盟約を結ぶことになる。 勝家「織田は、何をおいても松平を助け、松平はなにをおいても織田
を助ける。以上が、この度の盟約です。異論ございませんな」 強引にも元康は、勝家からそういわれて、元康はサインさせられた。
「乱世とは真に愉快な世であることよ。力さえあれば、何でも手に入る。
力さえあれば、どんなに大きな夢も描ける。愉快この上ない」 すだれが開くと信長がいて元康に持論をまくしたてた。 (元康が今川家と断交し、信長と結んだのは、1561年(永禄4)で、
この時、お市は14歳。翌年元康は家康へ改名している)
頸動脈切るなら堺の包丁 井上一筒
「清洲同盟 嘘・真」
『徳川実紀』によると、家康は清洲城に足を運び、信長を訪問。会見後
に同盟を結んだとされてきた。いわゆる「清洲同盟」である。 『徳川実紀』だけではなく、『武徳編年集成』をはじめとする江戸幕府 の編纂した歴史書でも、1562年(永禄5)1月、家康は清洲城を訪 れたとしている。 だが、今川氏と交戦していた家康が、城を空けて信長を訪問することは、
不可能である。また、家康が清洲城を訪れたという記載は『三河物語』
『松平記』という戦国期に近い史料には見られない。 信長側の動向を書いた『信長公記』でも、触れられていない。 記憶とや鍋にいっぱい羊雲 山本早苗 そしてさらに両家の結びつきを強めるため、信長はお市を娶れと命じた。
元康「わたくしには、妻と子がおります」
信長「駿府に捨ててきたのであろう。あれは、その辺の男よりも頼り
になるぞ。駿府の姫よりも遥かにお主の役に立つ」 元康「お市さまがどう考えられましょうか」
信長「もう2、3日おって、形だけでも祝言をあげておけ」
何事につけ信長は、一方的である。
(お市の元康との結婚についてはすでに述べた通り)
ああ しなやかに蔦のからまる薬指 山口ろっぱ
その頃、駿府の瀬名(有村架純)は厳しい状況にたたされていた。
今川氏真(溝端淳平)の側女にさせられようとしていたのである。
それを知った元康が、破談を申し出ようとすると、お市は
「やはり嫌です。兄の言いつけとはいえ、元康殿のようなか弱き男の妻
となるのは、やはり嫌じゃ。この話、お断り申し上げたい」 元康に背を向けた市の目には涙。 振り返り、元康に近寄ると
「竹殿、申したはずです。この世は力だと。欲しい物は、力で奪い取る
のです」と背中を押した。 (1562年2月、氏真は家康に戦い(牛久保城の戦い)を挑んだが
見事に叩きのめされている) いきなりの本論 いきなりの挫折 中村幸彦
信長は市に「どんな気分じゃ。初めて男にそっぽを向かれた気持ちは。
しかも恋い焦がれた男に」
幼少期、川に飛び込み、溺れたお市を救ったのが元康(竹千代)だった。 「(元康を)大切になさいませ。兄上が心から信を置けるお方は、あの 方お一人かもしれませぬから――」 と、市は兄信長に呟いた。 (今川義元の死後、嫡男の氏真が家督を継いだが、戦さ経験はほとんど
ゼロで、「当主見習い期間」のようなもの、家康も参陣した桶狭間の 敗戦から8年後の1568年、今川氏は事実上の滅亡を迎えた) 根気よく胸板ぐるり巻く昆布 山本早苗
【余談】
そもそも「歴史研究」は、どのようにして行われるのか?
歴史研究の根本は史料にあり、大別して「一次史料と二次史料」がある。
一次史料とは、同時代の古文書(書状など)や日記を意味する。
例えば、豊臣秀吉の書状、公家や僧侶の書いた日記など。同時代に成立
したものなので、信頼度が高い。 ただ、一次史料がすべて正しいとは限らないので、史料批判を行って子 細に検討する必要がある。 端的に言えば、史実は一次史料によって確定される。
次に、二次史料とは、後世に作成された史料で、系図、家譜、軍記物語、
奉公書、覚書など。一般的に、二次史料は、時間が経過してから作成 されるので、史料的な性質が劣るとされている。 二次史料の作成に際しては、残った一次史料はもとより、口伝、関係
者の聞き取りなど多種多様である。 口伝や聞き取りの場合は、記憶違いなどによる誤りも少なくない。
充電をしなさい水が枯れぬうち 平尾正人
新説の問題
天正10年6月の本能寺の変で、明智光秀は本能寺を攻撃せず、鳥羽に控え
ていたとの新説が発表された。 根拠は『乙夜之書物』(いつやのかきもの)という二次史料である。
『乙夜之書物』は、加賀藩の兵学者・関屋政春が執筆したもので、その成立
は、寛文9年(1669)~同11年(1671)といわれている。 内容は、著者の政春が500前後の逸話を聞き取ったものとされている。 『乙夜之書物』は、注目すべき史料なのかもしれないが、その記述の多くが ほかの史料で裏付けられないことに難がある。あくまで逸話にすぎない。 2ミリほど伸ばした爪がテープ切る 宮井元伸 PR |
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