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川柳的逍遥 人の世の一家言
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凡人なりに好きな色を足してゆく  山本昌乃




      信 長              家 康




「エピソード」


武田信玄徳川家康が三方ヶ原で戦う前のこと。
「あなたが信玄にかなうはずはないから、遠江を捨て三河に戻れ」
という内容の手紙を信長は家康宛てに送っていた。
その一方で、あの信長が信玄へ次のような書状を出している。
「家康が、信玄公に対して無礼を働いたら、忠告をいたします」
というものである。
何という低姿勢か「美濃のモンスター」ともいわれた信長が、このよう
な外交戦略をとらざるをえないほど、信玄は恐れられていた。




私は以下省略の中にいる  藤井康信




「家康の壮年時代」ー信玄式戦い方




信玄はどうしてあれほど強かったのか
その秘密は「人を動かす力」と知った家康は、以後、信玄の考案した
軍法、つまり戦場で兵を操る方法をつぶさに研究し「武田信玄条目」
著した信玄に習って『徳川家康軍法』を編み出した。
ー先陣よりも前に、手柄をたてようとしてはならない。
ー命令がないのに、勝手に動いては成らない。
ー喧嘩口論は固く禁ずる。




失った首をさがしにゆく途中  小池正博




信玄のやり方を学んでのち、家康は変わった。
1584(天正12)羽柴秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」で家
康は,秀吉の大軍に取り囲まれた。
しかし、じっと耐えて待ち続け、焦った秀吉軍が動いたところをすか
さず叩いて勝利をものにしたのである。
1600年(慶長5)の「関ヶ原の合戦」もそうであった。
決戦前夜、家康は、城に籠る石田三成の前を素通りして、大坂へ向かう
かのように装って敵をおびき出し、一気に決戦を挑んで勝利したのも、
信玄式戦法である。




記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗




        餅をこねる秀吉




「小牧長久手の戦い」

信玄の死後、家康は武田の旧臣を取り込み、喉から手が出るほど欲しか
った武田の強力な戦闘力を手に入れた。
今川・武田という2つの持っていたものを手に入れ、西の濃尾平野へ押
し出す機会も得られた。
しかし、そこに現れたのが、羽柴秀吉である。
秀吉は家康と信長の子・信雄(のぶかつ)に対する兵を起こし1584
(天正12)「小牧長久手の戦い」が起きた。
信長が本能寺に倒れて2年後のことである。
秀吉は大軍で家康を圧倒できると考えていた。




うしろからひやりと肩を叩かれる  宮井いずみ




大軍で囲まれたときの戦い方は、一つしかない。
まず、大兵力が広域に分散する寸時を待つ。
その寸時、自軍のほぼ全軍を敵の一部にぶつけて襲撃し、さっさと引き
あげる。津波のような作戦である。
その作戦はものの見事に成功し、秀吉方の多くの武将を討ち取った。
臨機応変、自由自在に大軍を動かし、敵を翻弄して自分に有利な
状況をつくりだす戦いぶりーそれはあたかも、あの信玄が、家康に乗り
移ったかのような見事なものであった。




戦場で人間ポンプ微笑せよ  まつりべきん




       小牧長久手の戦い




ここで秀吉は、どんなことがあっても、家康の首を取るまで戦うべきで
あったが、その障害となったのが、近江の長浜から岐阜の辺りで起きた
大きな地震だった。
秀吉の前線基地が崩壊し、家康と戦っている場合でなかった。
これを見た家康は、素早く外交交渉を仕掛け、一回勝った状態で秀吉と手
を打ち、共同歩調をすすめることになった。




ご破算にしようと透明になった  柴田桂子




秀吉家康は、光秀を加えた3人が信長の配下として「姉川の戦い」
殿(しんがり)の名乗りをあげて以来の対面である。
秀吉の生まれは、1536年、家康は1542年生まれ。
6歳違いで、当時、木下藤吉郎を名乗っていた秀吉は15歳で、
今川家・松下之綱に仕官している。
が、その時、家康は9歳で今川の人質の身であった。同じ屋根の下に暮ら
していた2人だが、家康は人質とはいえ、秀吉とは身分の違いで、擦れ違
うことがあっても言葉を交わしている機会はなかった。
つぎに、秀吉は17歳で信長に仕え、23歳で「桶狭間の戦い」に従軍し
ているが、その時、家康は敵方今川氏からの初陣、やはり物見の立場で顔
合わせはない。
運命的にも永劫、タヌキ親爺とコマ鼠の相性は良くなかったようだ。




あめ色の玉ねぎ成田屋のにらみ  藤本鈴菜





  景観も抜群の武田家の菩提寺・恵林寺
境内の一角にある墓に信玄が眠る




「三方ヶ原の戦い」の4ヶ月後、突然、信玄が死んだ時、家康は喜ぶ家
臣たちを諫めて、次のような名言を語っている。
『信玄のような武勇の大将は古今稀である。自分は若い頃から彼を見習
 いたいと思ったことがある。信玄こそ、我らにとって武略の師といっ
 てよい。隣国に強敵があれば特に幸いである。
 なぜならこちらは油断、怠りなく励み、またかりそめの仕置にも心を
 遣うゆえに政治も正しくなり、家も整う、もし隣国に強敵がなかった
 ら、味方は武力の嗜み薄く、上下ともに己を高く思って恥じ恐れる心
 を持たぬため、だんだん弱くなるものである。
 信玄のような敵将の死を、味方が喜ぶ理はない』と。




心臓の突っかい棒を外される  笠嶋恵美子




「この時生まれた家康の名言」 『東照宮御遺訓』


『人の一生は、重荷を負て遠き道をゆくが如し、 いそぐべからず。
 不自由を常とおもへば不足なし。 こころに望みおこらば、困窮したる
 時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ。
 勝事ばかりを知て、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。
 おのれを責て人をせむるな 、及ばざるは、過ぎたるよりまされり』

≪人生とは、重い荷物を背負って長い道を歩いていくようなものだ。
 急ぐ必要はない。不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
 心に欲が生じたときは、苦しかったときを思い出しなさい。
 我慢をすることが無事に長く、安らかでいられる源で、怒りを敵と思
 いなさい。成功のみを知り、失敗を経験したことがない者に、害は降
 りかかるもの。自分の行動を反省し、人の責任を責めてはいけません。
 足りない方が、やりすぎてしまったものよりは、優れている≫




流れ星おわらの風のいまを弾く  前中知栄




    伝家康の手形 (輪王寺蔵)




「名言の真実」


上記の名言ー信長・秀吉の後塵を拝しながら、チャンスが来るのをじっ
と待って最後に天下人の座を得た家康(タヌキ親爺)がいかにも言いそ
うな言葉である。が、
実はこの名言は「この印籠が目に入らぬか」でお馴染み天下の副将軍の
黄門さまこと水戸光圀による訓示なのだ。
ウソつきの張本人は、明治初期の旧幕臣、池田松之助という人物である。
維新後の新政府が、徳川幕府を朝敵扱いすることに反感をもった彼は、
「このままでは権現様の名に傷がつく」と、徳川家の名誉回復に命を捧
げる決意を固めたのであった。
そして、家康公御真筆と銘打った「ありがたい遺訓」をでっちあげ家康
の威光を世に示そうと、私財のすべてを投じ名言・名調の書写に励んだ。




ほんのりと海馬の裏が赤くなる  蟹口和枝




「家康の生年のウソ」


「家康どうする」のドラマのワンシーンで「わしはトラの年、トラの日、
トラの刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ!」と気勢を上げた家康
った。が、一つサバを読んでいた。
「実は、家康は、トラ年ではなく、ウサギ年の生まれ」
と、家康の母・於大の方と父・松平広忠が暴露する場面がある。
これについて歴史家の磯田道史氏は、
「家康が天文11年12月末の生まれだとまずい証拠物がある。
家康は竹千代と命名された。父・広忠が連歌会で
<めぐりは広き園の千代竹>と詠んだのにちなむ。
この時の連歌会の記録の日時は、天文12年2月26日夜。家康は大事
な嫡男、天文11年生まれなら連歌会の日まで2ヵ月も命名されなかっ
たことになる」と、述べている。
『徳川家譜』などは家康の母・於大が
「夢に十二神の内(寅の方位を守る)真達羅(しんだら)大将が袖に入
 るのをみて懐妊した」とまで記しているのだが…。
(これらは家康がウソの本人ではないが、後年家康がつく嘘もあります)




閻魔さま嘘三つ程つきました  石田すがこ

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