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川柳的逍遥 人の世の一家言
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元日や今年もあるぞ大晦日  柳多留
 


『東都歳事記』商家煤掃 (しょうかすすはらい)
     
江戸の12月は、煤払いやら畳替えなど、とにかく
新たまの年を迎えるために大忙し。掃除がひと通
りすむと、主人を始め一同の胴上げがあり、蕎麦
や鯨汁がふるまわれたりした、という。



     江戸の年末 錦絵「羽子板見世の賑い」香朝楼豊斉筆
 

江戸の冬の名物は焼芋。諸所に釜を据えて焼芋を売る者がいた。
歳の市は、15日の深川八幡宮からはじまる。
17,8の両日は浅草の観音様。ここでは、羽子板市が催される。
江戸時代中期以後は、非常に盛んで羽子板を売る店が数件も続いた。
20.21日が、神田明神。24日が、芝愛宕権現とつづく。
歳の市が終わる頃は、年一回の大掃除に当たる「煤払い」が町の家々で
行われる。それから餅つき門松、注連飾りのかざりつけ。
正月の室内の飾り物としては「室咲きの鉢植えの梅」が売り出される。


大晦日胆にこたえる頼みましょ  柳多留 


「江戸の12月」江戸の風景ー大晦日

 
師走、借金取りが駈けだせば、取られる方も駈けだす。
ふだんは落ち着いている師匠といわれる人も駈けるから
「師走」とは、落とし噺である。
江戸時代は、武士が米を給金として貰っていたから、
大きな支払いは、米の収穫後に清算される。
それで、12月は大名、旗本からそれに連なる商人・職人の
決算の月だった。年一回の決算だから忙しい。
 
 
 餅はつくこれから嘘をつくばかり  柳多留
 
 

     九里四里旨い十三里 江戸の焼き芋

京都で始まった焼き芋は、時を経て寛政(1789~1800)頃
江戸に伝わった。

一日は、たちまち過ぎて、また新しい日が来ると思うと過ぎ去り、
人はその年月のなかの旅人である。
大晦日百八つの鐘を聞き、新しき明日にはかない希望をつなぐ。


大晦日嘘をつかぬは時の鐘  柳多留   


江戸の小咄(仕形噺) 「大晦日」


この暮れは、大屋(大家)の、米屋の、薪屋のと手詰めの絶対絶命。
思い付きの早桶(棺桶)を買って来て、その内へ入り、
「おれが死んだことにして今夜を送り、元朝に蘇生したと言えばよい」
と女房に呑み込ませ、死んだふりをしている所へ、米屋が来たを女房が
段々のくどき言。
「さてもさても笑止な事ではある。ここに今取って来た銭二貫。
 これでマア、取置かしゃれ」
「イイエ、思ひがけもない。八貫から上の借りを上げぬのみか、
 ドウマア、これがいただかれませふ」
「ハテサテ、取っておかしやれ」
デモ、ハテと、あちらへやり、こちらへやりはてしなければといふ身で、
「ハテ、下さるものなら取っておきやれさ」


大晦日亭主家例の如く留守  柳多留
 


      江戸の年末の風景 其々の年末、怠りなく
 

「上の小咄が「落語」なるとー」


江戸の昔は、普段はツケで買い物をして、支払いは、盆暮れにまとめて
支払うのが習慣でした。大晦日ともなりますと、このツケの支払い、
カケの受け取りで、大変でございますな…。
そりゃ、金がありゃあいいですよ。その日暮らしの貧乏人の中には、
どうしても金の工面がつかないという者が出てまいります。
そうかといって、商人の方だって、夜明けまでに取り損なえば、
また半年待たなくっちゃいけないんでございますからな…。


大晦日よく廻るは口ばかり  柳多留


この暮れは、どうにもこうにもやり繰りがつかないという男。
どこからか都合してきた棺桶の中に入って、女房に申しましたですな…。
「俺を死んだことにして、何とか今夜をやり過ごしてくれ」
「そんなバカなことをして、後をどうしなさる?」
「なぁに、元日に生き返ったと言えばよい」
無責任なヤツがあったもので…。そこへ米屋が掛取りにまいりましたな。
女房は、あまりの情けなさに涙を零しながら、しどろもどろの言い訳を
いたしますてぇと、気のいい米屋、
「この暮れへきて、急に亡くなったとはお気の毒。せめてこれでも…」
と、いくらかの銭を置こうとする。
「とんでもないことで、お借りしたものをお返しも出来ないのに、
 これはいただけませぬ」
「そう言わずに、取ってくだされ」
押し問答をしておりますと、棺桶から手が出て、
「呉れるというものは、もらっておけ!」


ぬれ畳大屋の前へ干して置き  柳多留



    江戸の年末の風景 餅つき


そんな気のいい米屋ばかりではありませんな。
大晦日、みすぼらしい姿の浪人が、米屋にまいりまして、
「お主のところの借財が払えぬ。拙者も侍の端くれ、申し訳のため、
 この店先にて腹を切り申すが、どうじゃ…?」
米屋の亭主はせせら笑って、
「お前様方のお決まりの脅し文句…。その手には乗らぬ」
進退窮まった浪人、肌脱ぎになりますてぇと、脇差を腹へ突き立て、
へその際まで切りましたですな。
「うぅ…どうじゃ、かくの如くだ…!」
「どうせ切るなら、なぜみなお切りなさいませぬ?」
「うむ…、残りの半分は酒屋で切る」


大晦日命別状ないばかり  柳多留 


掛取りに回る手代の方にも、泣き落としの決まり文句が、
ございましたそうで、
「今日は大晦日、たとえ半金でも払ってくだされ。
 手ぶらで帰っては、主人の手前、わたしが首をくくらねばならぬ」
「すまぬが、今夜のところは、そうしておいておくれ」


掛け取りが帰ったあとでふてえ奴  柳多留


こちらは橋の下を住まいとする、乞食夫婦でございます。
「ねえお前さん、町中では、払え、払えぬで大騒ぎしているようだけど、
 こっちは気楽でいいねぇ…」
「これ!大きな声で言うんじゃない」
「あれ、どうしてだい?」
「みんなが乞食になりたがる…」


大根ですだれのできる寒いこと  柳多留



江戸の年末風景  餅つき
江戸の年末は、すべてにおいて女が主役だった。


「江戸城の御用納め」も、江戸の職人、商人などの仕事納めも、
28日でございます。しかし、商人のなかには、年内の仕事納めでは、
一段落とはいかない者もいるのです。  
大晦日の「晦日」は末日のことで、晦(つごもり)は月隠(つきごもり)で、
月が隠れる月末そのものを指すのでございます。
12月31日は、一年が終わる晦日ですので「大晦日」と呼ぶんでご
ざいますな。


大晦日四百五病でうなってる  柳多留



年越しそばを食う風習は、江戸は文化元年ころから
始まったといわれ、蕎麦は、他の麺類よりも切れやすい
ことから「今年一年の災厄を断ち切る」という意味。
 

棒手振りからの買い物や屋台の二八蕎麦は、現金だが、庶民が町内で
買い求める米や酒、醤油や塩、炭や油、などの生活必需品はいわゆる
”つけ”がほとんどで、盆暮れ勘定でございます。
そこで、年末になると多くの商人が、この「掛け売り代金の回収」
走り回るのです。
商人にとって、暮れの勘定は、必ず支払ってもらわねばならない一年
の総決算ですが、その日暮らしの長屋の住人に、懐の余裕などあるは
ずもありません。


大三十日(おおみそか)大きな声もする日なり  柳多留


あの手この手を使って「ない袖は振れぬ!」と、ツケの支払いから逃れ
ようとするのです、
な、もんですから、年の瀬、特に大晦日ともなりますと、
貸した方も借りた方も、まさに、一大決戦の場となるのでございます。
年末の大関所ってとこでございましょうか。
大晦日の深夜まで、取り立て合戦が続くのでございます。
取立て屋と化した商人たちは、ここが踏ん張りどころ紋付の提灯を手に、
大晦日が終わってしまう午前6時頃(明け六つ)まで、徹夜で取立てに
奔走しなければならないのです。
お江戸の大晦日の借金攻防戦は、年末名物でございますな、


むつかしい大屋はたえず札を張り  柳多留


仮病を使ったり、居留守を使ったり、厠に閉じこもってやり過ごしたり、
借金を踏み倒そうと、知恵をしぼる方も必死です。
 大晦日 よくまわるは 口ばかり~
金欠病で首は回らないのだが、言い訳の口上はペラペラとよくまわります、
 鬼じゃ〜、鬼がきよった〜。
 大晦日 首でも取って くる気なり~
金払えねぇんなら、首おいてけ!
借金取りの気合と覚悟がビシビシ伝わります。
 掛取りも 二足三足で春を踏み~
大晦日に何軒かを借金取りに出向いているうちに、夜が明けちまった。


あやまっているうち春に改まり  柳多留
 


       極月大晦日の鬼 歌川国芳
大晦日の掛け取りは、取立てが厳しく鬼や閻魔に見えた。


 「江戸小咄」 掛取り

浪人の所へ掛取りに行き、
「アイ、米屋でござります」
女房、「留守だ」といふ。
米屋障子の穴から覗き、
「それ、そこにござるではないか、ここから見へます」
と、いへば、浪人、蚤取り眼にて穴をふさぎ、
「どうじゃ、これでも見えるか」
「イヤ、見へませぬ」
「そんなら留守だ」


留守かなと見くびって来る大晦日  柳多留


【知恵袋】  まとめ

江戸時代、人々は米代や薪代、酒代などを、その都度支払わず、
いわゆる「つけ、後払い」にし、支払い勘定日にまとめて支払っていた。
また、家賃などは、月ごとに支払うことになっていた。
ところで、これら節季ごとや月ごとの支払いが、滞らなければ問題はない
のだが、滞ると、きつい取り立てを受けることになった。
特に「五節季」のなかでも、年の暮れ、大晦日は、「大節季」といわれ、
厳しい取り立てが行われた。
「掛取り」「掛乞い」といわれる人たちがやって来て、
鬼のような形相で、お金の支払いを迫ってくる、のだ。
 
節季=季節の終り。ここでは各節句前の支払い勘定日。
五節季=三月三日、五月五日、七月十六日、九月九日、十二月晦日。


煤掃きの顔を洗えば知った人  柳多留  

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浮草も終の住処をさがしてる  津田照子



                  麻疹流行年数  歌川芳宗
江戸時代、感染症の麻疹が約20年ごと流行していたことを記す。


「江戸時代の感染症流行」



                  麻疹養生之伝 (歌川義虎)


昨年からのコロナ禍の拡大により、いまではオミクロン株が凄い勢いで、
広がりを見せており、日本をはじめ世界中の国が、対策に追われている。
が、実は、江戸時代にも、人々の命や生活を脅かす感染症が何度も流行
していた。実際、感染症流行時には、多くの命が奪われ、江戸の町はパ
ニックに陥るが、現代より知識も医療も未熟な時代でありながら、都市
崩壊を免れている。
そこで、百万都市江戸が執った対策を考察してみる。
当時は、医療のレベルが現代とは比較にならないほど低い上に、感染症
の特効薬やワクチンもなかったため、感染を防ぐ一番の方法は、人との
接触を避けることであった。正体の判明しない恐怖感から、町や町民は、
上からの指示を待たずに感染防止のため、日々の行動をみずら制限した。
やはり、「自粛」である。


コロナ禍の街を流れている妖気  新家完司



      麻疹退治  (歌川芳藤)
養生のため禁忌となった湯屋や娼妓らが、感染症を広める悪神に襲い掛
かっている。


一方、人が集まる銭湯、髪結床あるいは、料理屋や芝居小屋、遊郭など
盛り場では閑古鳥が鳴く、その結果、経済活動が停滞して景気が悪化し、
生活困難に陥る者が続出した。(コロナ禍の現在と同じ光景である)
幕府はこうした状況を危険視し、興味深い施策を取る。
感染の有無に拘わらず、生活苦に陥った江戸庶民を対象に、「御救金」
一律に支給したのである。その規模は、江戸の町人人口の半数を超える
約30万人にも及んだ。日々の生活を維持するための「持続化給付金」
に他ならないが、その事務局として、設置されたのが「江戸町会所」だ。
江戸の都市行政を預かる町奉行所の、外局のような組織である。


経済も地球もご機嫌斜めなり  武友六歩


ただし、ここで問題となったのは給付金の財源である。財政難の幕府は
対応に苦慮するが、当時幕府のトップとして寛政改革を進めていた老中・
松平定信は、無駄遣いが多かった「町入用」に目をつける。
町入用とは、江戸の町を運営するための行政費だが、幕府ではなく町人
たちが拠出していた。


結論はいつも諭吉が引き受ける  ふじのひろし
 
 

       麻疹疫病除 (歌川芳艶)
 

要するに、江戸の町は、町人たちの積立金をもって運営された自治組織
だったが、定信は、積立金の一部を財源に充てることで、幕府の懐を傷
めずに、庶民生活を持続させるための財源を確保しようと目論む。
幕府主導の元、共済組合のようなシステムを構築しようとしたのである。
現代に喩えると、自助でも公助でもない「共助」のシステムだった。
町人からの積立金を預かるとともに、感染症流行時には、給付金支給の
窓口となった町会所では、積立金の一部を貸し付けに回すことで利殖を
はかり、その増資にも努めている。さらに、積立金を資本に大量の米を
買い入れて備蓄米とし、飢饉や火災・水災・震災時には、お救米として
町人に給付した。町会所は、江戸の食料危機を未然に防ぐ役割も果たし
ていた。


こうもりの穴で戦火に耐えていた  楠本晃朗



     麻疹見立て金附 (歌川芳盛)


そんな町会所が、感染症流行を理由に、「持続化給付金」支給したのは
享和2年(1802)である。この年の3月、江戸の町では、インフル
エンザが大流行した。前年の暮れに、オランダ船や中国船が唯一入港で
きた長崎から感染が始まり、日本を縦断する格好で、世界最大級の人口
を抱える江戸にも感染が広がった。
やがて、感染の流行に伴って経済が回らなくなり、生活が立ち行かなく
なる町人が続出する。社会不安が広まり、「都市崩壊」の時が刻々と近
づいていた。
よって町奉行所は、感染の有無に関わりなく、町会所をして、持続化給
付金を一律に支給することを決定する。
感染の有無を一々調査していては、給付に時間が掛ってしまうからだ。


悲しみを各種揃えた冬の駅  星出冬馬
 


     麻疹を軽くする伝 (歌川芳宗)

 
町人人口(約50万人)の半数を超える28万8千人を対象に、独身者
は、銭3百文、2人暮らし以上の家庭には、一人当たり銭2百50文の
割合で給付することで、社会不安の拡大を抑え込もうとした。
そして、給付は次のような手順で実施された。
対象は町人のうち、「その日稼ぎの者」限定された。
その日稼ぎの者とは、棒手振り、日雇稼ぎの者、その日の商いや手間賃
だけで家族を養う職人などを指す。この基準、つまり、ガイドラインに
基づき、江戸の各町に置かれた名主が、給付対象者のの選定にあたった。
先に述べた通り、江戸の町は、町人たちにより、運営され、町奉行所は
その自治を監視するスタンスにとどまっていた。
各町の行政事務は、町人から任命された名主に委託されたため、名主は
町役人とも呼ばれた。名主は、小さな自治体の首長のような存在であり、
その家が役場だった。


充電をしないとただの箱になる  藤本鈴菜
 


    麻疹送り出しの図 (歌川芳藤)


江戸には、名主を長とする260程の役場があり、町奉行所による都市
行政を支えたが、名主だけで一連の行政事務を切り盛りしたのではない。
「町代」「書役」と呼ばれた事務職を雇用して膨大な事務を処理した。
そこには「人別改」といった戸籍事務も含まれており、町人たちの生活
実態はよく分かっていた。
町奉行所はこれに目を付け、役場に対象者の選定をあたらせたのである。
名主が、奉行所から該当者の調査を命じられたのは、3月17日のこと
だが、早くも翌18日より、その日稼ぎの者の名前が報告され町会所も
即座に銭を給付している。感染の有無を一々調査していては、こんなに
早く報告できなかったはずだ。もちろん、給付もかなり遅れただろう。


逆らわず笑顔をひとつ置いてくる  前田咲二



  麻疹全快御目見え口上 (月岡芳年)


この時は、3月18日~29日のわずか12日間で給付が完了しており、
1日あたり2万人以上に給付した計算だ。それだけ江戸の自治システム
が、高度なレベルに達していたことが確認できる。
このスピード感ある給付により、江戸の社会不安は鎮静化する。
こうした迅速な対策により、インフルエンザの流行も終息していった。
それから20年後の文政4年(1821)にも、インフルエンザが再び
国内で流行し、江戸では、2月中旬から3月始めにかけて、感染者が激
増する。またしても経済が回らなくなって、社会不安が蔓延したため、
町会所は、持続化給付金の一律支給に踏み切る。一人当たりの給付額は
前回とおなじであった。対象者は前回より8千人以上多かった。
それにも関わらず、2月28日~3月4日までの7日間で、給付が完了
しており、そのスピードの速さが、何といっても際立っている。


市場から猫が咥えてきた明日  くんじろう



      麻疹退散の図 (歌川芳盛)


この後も、感染症は繰り返し江戸で流行した。
インフルエンザのほか、幕末にはコレラや麻疹が流行してパニックに陥
るが、この時も町会所が都市崩壊の事態を未然に防いだ。
例えば、安政5年(1858)のコレラ流行時には、52万3千に白米
2万4千石余りを給付している。その日稼ぎの者という枠に限定せず、
町人全員を対象としたが、この時は、備蓄米が豊富にあったことから、
銭ではなく米が支給された。町会所による給付金(米)という生活支援
策により、江戸は都市崩壊の危機を乗り切ったのだが、原資は町人から
の積立金であり「共助」に他ならない。

当時の医療水準では、感染症の流行に有効な対策が取れず、自然に流行
が終息するのを待つしか手立てがなっかった。
その点は今も同じだ。経済が回らなくなって、生活が立ち行かなくなる
町人(庶民)が多数出ると、現在のような、「給付金制度」による生活
支援で都市崩壊を防いだ点も今と同じだ、が、そのスピード感ある給付
という点では、江戸の方が、勝っていると言わざるを得ない。


かくれんぼしたい鬼ごっこもしたい  雨森茂喜

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マッチ一本こんなに熱く語れます  市井美春



                   明治35年発行された渋沢栄一肖像の10円紙幣


日本銀行ホームページ・「お札に肖像として選ばれた人」によれば、
肖像画の人物選定に特別な制約などはないが、強いて言えば「極力実在
の人物で、業績があり、知名度も高く、親しみ易く、国民から尊敬され
日本を代表するような人物」であること。また、偽造防止の目的から、
「なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること」
いうことであるらしい。
そんな規定の中で、令和4年20年ぶりに刷新される新紙幣の顔として
選ばれたのが、「北里柴三郎」千円札)、「津田梅子」五千円札)
「渋沢栄一」一万円札)である。


人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子


ところが、渋沢栄一が紙幣の肖像画に描かれたのは、初めてではない。
(上の写真)明治35年、日本が植民地として統治していた大韓帝国で、
数年間だけ、第一銀行が発行した紙幣に、栄一が、肖像になっている。
このため、栄一が新紙幣の肖像画のモデルになると、
「植民地支配の被害国への配慮に欠けている」と、韓国国内から、
批判が出た。無理もない。


シミの付いた紙は白紙とは言えぬ  みぎわはな


「青天を衝け」 お札の顔



  同じ聖徳太子でも発行年によって、表情が微妙に異なる。
どれも聖徳太子だが、なにか顔色・表情が違って見える。
昭和5年(百円札) 昭和25年(千円札) 昭和32年(五千円札) 
昭和33年(一万円札)

「一万円札の顔」
始めて一万円札が登場したのは、昭和33年ことである。
そのお札の「顔」には、聖徳太子が選ばれた。
聖徳太子は、昭和5年に百円札に登場以来、お札の常連である。
さて、昭和5年とは、どんな年だったのだろうか。
 東京まで降灰した浅間山の爆発
 豊作飢饉と呼ばれる米価大暴落
 9月14日 - 独総選挙でナチ党が躍進
 濱口首相が東京駅で佐郷屋留雄による狙撃事件
 世界大恐慌の誘引で日本経済が危機的状態になる…。 など。
そんな年にお札の顔として、聖徳太子が選ばれたのは、
「和を以て貴しとなす」(十七条の憲法)の精神で、国民融和を図ろう
とした一面が窺える。財布からお札を取り出す度に、太子の尊顔を拝し、
和の心を取り戻して欲しい、と期待した、のである。


人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ


その期待に応え、聖徳太子の御利益は大きく、この間、日本は高度成長
の波に乗り、オリンピック、万国博などを成功させ、世界の主要国の仲
間入りを果たした。日本の成功は、アジア各国の経済成長のモデルにな
った。しかし、経済的成功を成し遂げた日本は、やや尊大になり、バブ
ル景気へと突っ込んでいく聖徳太子は、「お札」の代名詞となり、国中
に聖徳太子で溢れた。そんなことからも、聖徳太子の一万円札は、昭和
61年まで28年間、使用されることとなった。


欲の皮たっぷりついて迷いなし  小西美也子
 
 
 
        福沢諭吉
 
 
昭和59年には、一万円札の「顔」は、福沢諭吉になる。
福沢諭吉と言えば、「学問のすすめ」や慶應義塾大学創設の顔がある。
高度成長のあとは、「文化立国を目指す」考えがあったようだが、
福沢の万札時代は、残念ながら、日本の低迷期と重なってしまった。
バブル崩壊後の長く続く低成長に加え、阪神淡路大震災、東日本大震災、
福島原発事故、コロナ・パンデミックなど、国民生活を直撃する災害が
多く発生したものである。


口癖は明日はきっとうまくいく  水田トンボ
 


         渋沢栄一


「このままではいけない。文化国家より経済国家だ」
と、考えた政府は、一万円札の「顔」は、福沢諭吉から「日本資本主義
の父」と尊称され、生涯に500社以上の会社を立ち上げた、という、
「渋沢栄一の登場」ということになる。
渋沢栄一、「私利私欲で、誰かが、利益を独占することを嫌い、多く
の経済活動、社会活動に関わり、日本の社会全体の利益を重視し、発展
していくことを目指す」とした人物で、新紙幣の肖像画に描かれること
になった。
「富を成す根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道徳の富でなければ、
その富は、完全に永続することができぬ」と語っている。
何やら難しいが、ともかく、好い運を運んでくれることを期待する。


あーそうかこれが坩堝ということか  高見澤直美


「渋沢栄一に連れて就任する・お札の顔」
 

 
      
津田梅子と北里柴三郎


  津田梅子
梅子は官費女子留学生の一人として、吉松亮子、上田悌子、永井繁子
ともに、岩倉具視らの米欧使節団の加わった。6歳の時である。
アメリカに11年滞在し、幼少からの長い留学生活で、日本語能力は、
むしろ通訳が必要なほどになってしまうが、この間、女子教育をする塾
をつくる夢を抱いた。だが、帰国した日本は、男尊女卑の社会であった。
男子と渡り合える女子を教育する場を、切実に願った梅子は、伊藤博文
への、英語指導や通訳のため雇われて、伊藤家に滞在、下田歌子からは、
日本語を学び、英語教師を勤めたのち、留学中に知り合ったアメリカ人
女性たちの協力を得ながら、女子英語塾を開いた。留学中に教育や人格
形成の見本である、ヘレンケラーやナイチンゲールとも親しく交わった。
下田歌子=伊藤博文らの勧めで良妻賢母主義による上流子女教育を目的
とした桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開いた。


毎日が一期一会と水の私語  石神由子
  

北里柴三郎
千円札の肖像画のモデルの入れ替わりは、野口英世から北里柴三郎へと
奇しくも同じ細菌学者となった。
熊本・東京の医学校で医学を学んだのち、内務省衛生局の役人になった
柴三郎はドイツに留学。細菌学者コッホのもとで、破傷風菌の純粋培養、
さらに、血清療法の実験に成功する。
帰国したのち、官立伝染病研究所を設立し、香港でペスト菌を発見。
ドイツ時代の功績によって第一回ノーベル生理学・医学賞候補となるが、
野口英世と同様、受賞にはいたらなかった。

官立伝染病研究所が内務省から文部省に変更になることに断固反対した
柴三郎は、私立の「北里研究所」を設立。「病の原因とその治療法」
見つけるために尽力した。野口英世よりも前に肖像画のモデルとなって
いてもおかしくなかった人物といわれる。


気がつけば私は白い梅だった  居谷真理子





 
 

「歴代のお札の顔」


樋口一葉   (2004年)
文芸誌に数々の作品を発表。中でも「たけくらべ」が高い評価を受ける。
しかし、作家人生は短く、肺結核のため、25歳の若さで死去した。
こうした短い生涯でも、「自分の夢を貫き実現させた強い女性」として、
お札の顔に選ばれた。


本当に命が惜しい花の下  加藤佳子


野口英世 (2004年)
ノーベル賞候補にもなった細菌学者。
アメリカで細菌学を学び「梅毒スピロメーター」が世界的に認められる。
再度の渡米で黄熱病の研究に没頭。しかし当時、光学顕微鏡では、細菌
よりも、はるかに小さな病原体であるウイルスを、観察できるほどの分
解能がなく、光学顕微鏡の限界に、研究業績の一部を否定された。
それでも野口は、アフリカで黄熱病の研究を続け、自ら黄熱病にかかっ
てしまう。そして51歳で亡くなってしまう。不屈の実績に一票を…。


身の丈を計り違えていた誤算  津田照子



   
 

紫式部  (2000年)
言わずと知れた「源氏物語」の作者。
紫式部の名は、ペンネームで、日本最初といわれる。
紙幣でば、二千円札の肖像画として採用され、話題にはなったものの、
国民には浸透せず、日銀には在庫の山となる。
紫式部の人気にあやかって船出をした新札だったが、大失敗…。
これは式部の人気が原因ではなく、2千円札の有用性の問題だった。


プラスαお役に立っているつもり  津田照子


福沢諭吉(1984年)
アメリカに留学中、身分制度のないアメリカ文化に触れ「自由と平等」
の考えに感銘し、『西洋事情』を刊行、これが大ベストセラーとなり、
徳川慶喜将軍も愛読したといわれる。
その後、慶應義塾を作り、「学問のすすめ」を刊行する。
お札では「諭吉」と呼び捨てにされるほど親しみをこめられたが、
先に述べた通り、悪い時期にお札の顔になった為、名にあ含まれる
の印象がない。


もうあかんビリケンの足さすっても  くんじろう


新渡戸稲造(1984年)
日本初の農学博士である。
著書「武士道」のベストセラー作家として、世界中でも名前を知られる。
白人と黄色人種の結婚なんて「とんでもない!」という時代に、アメリ
カ在学中、ドイツ人のメリー・エルキントンと知り合い結婚する。
知名度が高いこと、世界に対して誇れるような人物であること、
と、条件を満たして5千円札の顔になった。


かげろうのままで一粒飲み下す  川嶋 翔


「おまけ」
平成16年に、一万円札・五千円札・千円札がアップデートされた。
 一万円札の肖像は、何故か福沢諭吉が、そのまま居座ったが、五千円札
は、新渡戸稲造から樋口一葉へ、千円札は、夏目漱石から野口英世へ替
わった。中でも樋口は、歴代紙幣登場者中最年少でもある。
日本銀行券初の表・女性登場者として注目された。
女性のお札の顔、第3号。
女性のお札の顔として、平成12年に発行の二千円札の裏面には、
紫式部が遠慮気味に顔を出しているが、樋口は表の顔なのだ。
因みに、女性のお札の顔の第一号は、紙幣に載った最初の肖像人物であ
ると同時に、明治14年登場の神功皇后である。


ウニコール煎じて本当の友達  河村啓子


夏目漱石(1984年)
イギリス留学後、大学英文科の講師になる。
その講師業は、学生に不評で、それに嫌気をさしたか、やがて退職し、
朝日新聞の専属作家になった。41歳で、作家としてデビューを飾り、
「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「こころ」などの作品を生む。
これらが小学校の国語の授業でも使われ、人気と名声を得た。
ただ、夏目漱石が、世間の人気だけで、お札の顔に選ばれた理由が、
今一よくわからない。


ネコの時間には毎朝ネコになる  井上一筒


伊藤博文(1963年 )
 伊藤は、初代・総理大臣であり、4度の総理を務めた。
松下村塾で学び、木戸孝允「貨幣制度や鉄道の改革」を進め、近代日
本の基礎を作ったとされる。これだけで、充分、お札の顔に合格。
他に「内閣制度の導入、官僚組織作りで、優秀な人材を確保や大日本帝
国憲法のベースを作った」などの功績がある。


元号がもう変わるのにまだ首相  ふじのひろし


岩倉具視 (1951年)

岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら、倒幕派と朝廷を結び
つけ、明治維新の推進に寄与した。
日米修好通商条約の勅許を、公卿らと共に関白・九条尚忠方に押しかけ、
朝廷会議をひっくり返した、などの活躍がある。
他に欧米への「岩倉使節団」の派遣、「征韓論」の抑止、憲法制定の為
の準備など、「新生日本の礎」になった貢献度が目覚ましく、「新しく
れた5百円のお札」になった。


定型があるから活きてくる破調  高浜広川
 
 
  高橋是清(1951年)
第20代内閣総理大臣。
「日本のケインズ」と呼ばれる。
金融恐慌時に日本経済の立て直しを図り、国を破産から救った敏腕は、
わが国最強の財政家として、最近の政治家からも高く評価されている。
日本銀行総裁や総理大臣、大蔵大臣を7度も務めており、まさしく、
お札の顔である。惜しむらく昭和11年2、26事件で凶刃に倒れた。


かも知れぬ喪服の足袋を洗っとく  武内幸子


板垣退助(1948年)  
「板垣死すとも自由は死せず」の名言が有名。
会津攻略の時に、お国の事情で、多くの民衆が逃げ惑う様子を目の当た
りにし、「身分の差なく、心を一つに国民が参加できる政治」について、
考えるようになったと言われる。それを原点に、明治政府の中で「国民
だれもが、平等に政治に参加する自由がある」ということを広めた。
今では、当たり前になっている「国民が選挙で選んだ人が政治を行う」
とは、この人が考えるところから生まれた、のだそうだ。


品格は骨になっても生き続け  通利一辺


二宮尊徳(1946年)     
江戸時代の農民思想家であり、冷害や水害に悩まされていた村人たちを
救い、今の農協や漁協などの助け合い精神である「協同組合」の基礎を
作った。 道徳教育の模範。お札の顔になる条件「道徳」が重要視される。
渋沢栄一の道徳がお札の顔になったように…。


いい人の明るい刺を持てあます  丸山 進


日本武尊(1945年)    
聖徳太子が現れる少し前にいたとされる人物だが、実在不明。
様々な伝説の中の人物である。どうしてこのような人物が、お札の肖像
に選ばれることになったのか…、あなたも考えてみてくれますか。
日本武尊伝説には、こんなものがある。
 女性に化けて勝利したクマソ征伐
 相手の刀を木刀にすり替え勝利したイズモタケル征伐
 オトタチバナヒメの入水(生贄として)


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃


聖徳太子(1930年)
聖徳太子は、中国の文化や制度をお手本に、冠位十二階や十七条憲法を
定めたり、「天皇中心の国家の礎を築いた」飛鳥時代の人。
お札の顔については、前述の通り。


愛されて心の欲が溶けてくる  靏田寿子
 
 
  藤原鎌足(1891年)      
飛鳥時代、天皇を凌ぐ権力を持ちつつあった蘇我氏に驚異を覚え、中大
兄皇子(天智天皇)と共に蘇我氏を倒し、天皇中心の国づくりをした。
「大化の改新」だ。
「時代に見合った国造りを行う」のも、お札の顔になる条件である。
晩年、天智天皇(中大兄皇子)よりその功績を讃え藤原姓を贈られたが、
名誉の名前を贈られた翌日に亡くなった。


傘立ての雫が切れる頃別れ  藤本鈴菜



    和気清麿呂(1890年)  
この人も、又、藤原鎌足と同じ「天皇中心の国造り」に尽力した。    
「皇位を皇族以外の者に継がせてはいけない」という考え方から、僧侶
道鏡の皇位簒奪を防いだ。しかし、道教を寵愛していた称徳天皇は怒り、
清麻呂を左遷してしまう。
清麻呂が政治に復帰した後は、桓武天皇に仕え長岡京遷都や平安京遷都
などで力を発揮し、貢献した。もし清麻呂がいなければ、
「純粋な天皇
の血が途絶えてしまっていただろう」、と言われる。


温室の花に負けぬと路地の花  石神由子



    
二百円円札           一円札


  武内宿禰(1889年)     
宿禰、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5人の天皇に仕えた人。
紙幣の肖像にするにあたっては、西郷隆盛の似顔絵でお馴染みの、
大蔵省印刷局主任彫刻官・キヨッソーネが、まず手を付けている。
エピソードがある。
大正5年の「お札の改変」に際し、彫刻者・大山助一は、キヨッソーネ
の宿禰は「目が窪み、鼻筋が高く彫られている為、西洋の老人のように
見える」と言い、目の凹みを少なくし、鼻を低くし、頬の彫刻画線を改
めて、「日本の老人らしく見えるようにした」という。
その顔が、128年間という歴代最長の「お札の顔」になった。


日に晒す指紋だらけの私を  菊池 京



     菅原道真

菅原道真 (1888年)       
教育といえば、「学問の神様」として知られる菅原道真。
天満宮と名のつく神社は千を超え、すべて菅原道真をご祭神としている。
菅原氏は代々学問の家系で、道真も幼い頃から漢学の教育を受けて育つ。
普通22歳頃に合格すれば良し、とする難関の文章生に18歳で合格し、
33歳で、現在でいう漢文学・中国史の大学教授のような地位にあたる
文章博士になる。政治家としては、その秀才ぶりが、妬みの対象とされ、
大宰府に飛ばされるなどの不幸にあう。お札の要件は100点満天。


ありとあらゆるところが痒くなる薬  井上恵津子



        神功皇后

神功皇后(1881年)        
初代のお札の人物とは先に述べた。
第14代・仲哀天皇(ちゅうあい)の皇后。
妊娠中に夫・仲哀天皇が亡くなり、「腹帯を巻き男装をして戦地に赴き
みごと勝利した」「子の応神天皇が産まれてすぐに歩いた」ということ
などが逸話にある。
ではなぜ、神功皇后が最初のお札の顔に選ばれたのだろうか?
理由は、「彼女の名を国民に知らしめるため」であった、らしい。
当時、朝鮮侵略を目指していた政府は、そのことを世間に流布しようと
試みたのだ。
「神功皇后は、朝鮮征伐に成功した」という逸話のおまけもある。
「安産の神様」「子安の神様」と拝まれるなら、「○○の神様」として、
もっと適切な「安」のつく喩えがあってもよさそうなものだが…。


濡れた手で何をつかむと言うのです  前中知栄

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普通でええ賢のうてもええねんで  柴本ばっは
 

 
   論語と算盤とシルクハットと刀の絵」小山正太郎画  渋沢史料館蔵


「車馬衣軽裘」
孔子と弟子の顔淵子路の雑談。(「車馬衣軽裘」)
「どうだ、自分のありたい姿(志)を聞かせてくれるか」
と、孔子が仰った。すると子路が、
「馬や車、衣服や毛皮といったものを友と共有し、譬え、それが破れて
 も、惜しむことがない人間でありたいと思います」
と答えた。顔淵は、
「善い行いをしてもそれを誇らず、人に嫌がる仕事を押し付けない人間
 でありたいと思います。」
と答えた。そして子路が
「出来ましたら、先生の志もお聞かせください」
と、言った。孔子がそれに応えて仰った。
「ご年配の方々には、安心してもらえるように、友人からは、信頼され
 るように、若い人からは、慕われるような人間でありたいね」


無口なので賢い人と誤解され  喜多川やとみ


「青天を衝け」 栄一語る、維新時代の人物像

 
ーーーー
「渋沢喜作」
喜作と私との関係は「車馬衣軽裘」(しゃばいきゅう)を共にし、之を
やぶつて憾み無しの間柄で、喜作には、私も数回に亘つて、随分、迷惑
を懸けられたものだ。それでも、喜一の三男・横浜商店の当主・渋沢義
と私との間が、実の親子のようであつて、私も義一を子のように思い、
義一もまた私を実の父のように思い、無上の親密を維持して居られるの
は、及ばずながら、私に、「車馬衣軽裘之を朋友と共にすれば、仮令敝
(やぶ)れても憾(うらみ)無し」という、志があつたからなのだろう。


縁あって同じ苗字で半世紀  津田照子


喜作は、私よりも二歳の年長者であつた。何事につけ喜作とは、幼年の
頃より、二人揃って行ったものだが、性質は大いに異にした。
私は何事にも、一歩一歩着実にやるのに反し、喜作は、一足飛びに志を
達しようとする投機的気分があつた。さらに、他人を凌ごうとする気性
もあつたので、私をさへ凌ごうとする気風を、示したものである。
元来、喜作は、投機心の盛んな男であるから、遂に米相場に手を出して
大失敗をし、明治14年に、十数万円の大損失を招いたことがある。
その際、私は喜作の保証人にもなつて居たものだから、その借金を私が
引受けて、損失を弁済整理してやつたことがあり、以後、喜作は米相場
に一切、手を出さずに、米は現物の委托販売のみとし、専ら生糸のみを
取扱ふ事を条件にしたのである。


縞馬の群れにカピバラが混ざる  藤本鈴菜


その整理をしてやつてから、3、4年は、喜作も神妙に慎んでいたが、
持って生れた投機心は、中々止まず、明治18年頃より、ドル相場に手
を出したのである。
ドル相場とは、当時、株式会社というものが殆ど無く、株券も無かった
から、株の相場というものもなかった。
代りに明治10年の「西南戦争」で、政府が紙幣の乱発を行つて以来、
貨幣と紙幣との間に、価格の差が生じ、その差に変動があり、又、金銀
貨の間に、比価の変動もあつたりしたので、銀塊の相場が行われた。
喜作は、凝りもせずそれに手を出したのである。
車馬衣軽裘=馬や車、衣服や毛皮といったものを友と共有し、たとえそ
れが破れても惜しむことがない人間のこと。


壁を越えてもまた壁に阻まれる  成田智子


ーーーーーーーー
    井上馨                  福士誠治
「井上馨」
井上侯は、優れた才識のあるお方で、権勢と金力とのあるところを見て、
これに就く事にかけては、誠に敏捷であつた。

が、人物を鑑別する力に於ては、余り優れたお方であつたとは、申上げ
かねるように思える。随つて、陸奥伯の交わられた人や用いられた人は、
必ずしも、善良誠実の人ばかりであつたようにも思へない。

井上侯は、元来が感情家である。
人物の識別に当つては、感情に駆られ、是非善悪正邪の鑑別をしないで、
好きだと、一度思い込んだら、その人に悪い性質のあるなしを考えずに、
盲目になってしまい勝ちに思われるが、決して、そんなことの無かつた
お方である。人を用いるにおいても、先ず、その人物の是非善悪正邪を
識別することに努め、それから後に、始めて、用うるべき人を用いたお
方である。随て「佞人を仁者」であると思い違えて、これを重用する等
の事も無かつた。


人間を好きになるのが難しい  佐藤正昭


違ったところでは、井上公は、大臣までされた大人物なのにかかわらず、
半面には、大の料理通で、中々、精しく殊に、単なる料理通ではなく、
御自身で庖丁を取つて、料理をされるのだから本物である。
私も時々、招待されて井上公の料理の御馳走になつた。
こういう時には、よく料理の事を説明され「旨いだろう」と、言はれる。
よく判らないこともあるけれども、「結構なものです」と、言って私は
賞めておくことにしている。
若し、「不味い」などと言い、御機嫌を悪くしてもいけないからだが―
しかし、なんといつても、御自慢なさる丈あつて上手なものである。
私も幼年時代に能くお給仕に出て、料理はどんなものかくらいは知って
いたが、井上公のは、御自分で料理されるものだから、それには及ぶも
のではなかった。


流されているんじゃないよ流れてる  佐藤 瞳
 

ーーーーーーー
   伊藤博文               山崎育三郎
「伊藤博文」
伊藤博文公は自慢の人である。
敏にして学を好むと、いう事は、大抵の人の難しとする処である。人は
兎に角、敏捷な才智を持って居れば、学問を疎かにして、勉強などしな
いように成り勝ちである。然し、時偶、千人に一人は、生れついて敏捷
な天品を持ちながら、なお学に勤め励むものがある。
そんな人が、一世に優れて後世にまでも名を遺す大人物になるのである。
又、自分が高位高官にあるとか、或は、社会で高い地位にあれば、人は
兎に角、自分より低い位置の者に、減り下って、教えを請うというよう
なことは出来ないもの。これを為し得る人が、一代に傑出してその名を、
後昆(こうこん)に垂る大人物となるのである。


背伸びしてみても凡人は凡人  柴田桂子


「下問を恥ぢぬ」とは、平たくいへば「知らぬ事は、誰にでも聞く」と、
いふ意味である。
「知らない事は誰かに聞く。自分はそんな事など、恥かしくも何んとも
 ない」と、よく人は言うが、それは口の端ばかりの事で、さて、実際
に臨んで、「虚心坦懐に、知らざるを知らず」として、位置の低い人に、
下つて聞くことは、容易にはできない。大抵の人は、知らざるを知らず
として、教えを他人から受けたとすれば、之によつて自分の位置が引き
下げられたかのように感ずるのである。


胸底に流せぬ借りが一つある  靏田寿子


伊藤公は、あれほどの豪い方であらせられたが、矢張、下問を恥ぢずと
いふまでの心情になつて居らなかつたものである。
否、伊藤公は何事に於ても、常に、自分が一番偉い、という者になって
居りたかつた人である。
総じて長州人は、薩州人に比べれば、人触りは穏当である。
伊藤公も決して、人触りの悪いお方ではない。至極穏当な御仁である。
が、それでも横合から他人が出て来て、伊藤公の知らない事を、お知ら
せしようとでもすれば、「そんな事は遠の昔から知つてるぞ」と言うよ
うな態度に出られた。何事につけ、自分が一番偉く、自分が一番物知り
でなければ、気が済まなかつた性質があった。


太陽がどこよりでかいボクの里   松本壽賀子


ーーーーーーー
   江藤新平              増田修一朗
「江藤新平」
兎に角、人間といふものは、如何に学問があつても、之を統ぶるに礼を
以てしなければ、遂には、道にも畔き、終を全うし得ざる人になつてし
まうものである。
学問ばかりあつて、能く物を知つていても、礼を弁へなかつた為に身を
亡すことになった人の例は、「佐賀の乱」を起した江藤新平さんである。
江藤さんは、実に何でも能く物を識つておられた方なのだが、刑名学の
学者であつたからなのか、礼のことなどには、一向頓着無く、如何に他
人が迷惑をしようが一切拘はず、矢鱈、自分の無理を通そうとした人で
ある。ともかく好んで三百理屈を捏ねくり廻したりなんかもしたものだ。
遂に、あんな最後を遂げられたのも、之が原因であろうと思う。


碁盤目を斜め斜めに選っていく  前中一晃


  
   三条実美           岩倉具視      山内圭哉
「三条実美と岩倉具視」
三条実美公は、外面の柔和円満に似ず、内面には、硬骨なところのあっ
たお方である。が、(計)略というものは全く無かつた。
岩倉具視公は、三条公と違つて、中々、(計)略に富んだ人であつた。
明治維新の鴻業を成就するにあたり、表面に立って主宰されたのは三条
公である。が、実際には、維新の鴻業を大成し、王政復古の政を施くに
最も力を尽くされたのは、岩倉公である。


てっぺんと底辺すこし違うだけ  新家完司


ーーーーーーー
   土方歳三              町田啓太
「近藤勇」
幕府の末路に勇名を轟かした新撰組の近藤勇は、今でも一般から「暴虎
馮河(ぼうこひょうが)の士」であったかの如く視られているが、世間
で想ふような、無鉄砲な男ではなかつた。
私より僅かに5,6歳ばかりの年長者に過ぎないが、維新の頃は5つか
6つ齢が上だと、余ほどの年寄りであるかのように考へられていた。
近藤は、武州多摩郡の生れで、幕末に幕府が勇士を募つた時に、同郷の
・土方歳三と共に、これに応じて「新徴組」という壮士の団体に加わ
った。文久3年の春、14代将軍・家茂公が朝廷の詔により、上洛せら
れた際には、扈従(こしょう)して、京都に入り、新徴組が解散すると
自ら隊長となつて新撰組を組織し、以来、京都守護職に属して、京都の
警衛に任じたのである。


悪い流れ断ち切る為の句読点  広瀬勝博
 
 
私は二度ほど近藤に遇つて話をしたことがある。
私は這的事件があつてから後に、近藤勇と始めて会つたが、会つて見る
と、存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣きなんかなく、能く事の理の
解る人であつた。然し、近藤は飽くまで薩摩を嫌った人で、薩州人とは、
「倶に天を戴かざる」の概念を示していたものだから、薩州人に対して
だけは、過激な態度を取ったりしたので、一見、暴虎馮河の士のように、
世間から誤解されることになったのである。
倶に天を戴かざる=憎しみしか持てない相手
 

右手には刀左手にはりんご  和田洋子



だが、新撰組の隊長としての近藤勇は、中々の猛者であつた。
新選組の人数は、たかだか二百人足らずだったが、長脇差を差込み手拭
を腰に挟んでいるといったような蛮勇の連中が、幕府に直属してそれを
束ねていたのだから、余程の猛者でなければつとまらない。
いわば、頭山満氏の率いておった玄洋社の壮士が、警視庁の直属になっ
たも同じようなもので、新撰組が幕末に、勢力を揮つたのは当然で、又、
為に能く、京都警護の任をも尽し得たのである。
頭山満=右翼・玄洋社の総帥



よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ  近藤勇


動かねば闇にへだつや花と水  沖田総司

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もみ洗いですかつまみ洗いですか  前中知栄
 

 
                  孔 夫 子


「人を見るに細心なれよ」
孔夫子(孔子)が説かれてある遺訓、悉く「視、観、察」の三つを遂げ
ようとすれば勢い、探偵が人に接する時のように細かくばかりなって
しまい、甚だ面白くない。
 しかし、私としては、随分、念にも念を入れて、充分その人を観察し
た積もりでありながら、後日に至り、その人に意外の行動があるのを知
って、自らの不明を愧(は)じることがしばしばある。
人を観るという事は、実に、難中の難で、決して容易なものでは無い。
就中、その人の安んずる所を察するのが、最も困難である。
困難ではあるが、人の真相を知ろうとすれば、何よりも最も注意して、
その人の安んずる所を、察するのに力を致さねばならぬものである。
その安んずる部を知りさへすれば、九分九厘までは、その人の全貌を知り
得る事になる。


疲れたら千年杉の声を聞く  望月 弘
 
 
「青天を衝け」栄一語る、維新時代の人物像


ーーーーーーー
「徳川慶喜」               草薙 剛
慶喜公は、一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る
処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何と謂おうが、他人が何と
非難をしようが、そんな事には、一向頓着せられなかつたものである。
これが、「恭順の真意」を、幕軍の者どもへ打ち明けて御話しにならず、
突然、大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せられる
に至つた所以だろうと思う。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、
「知る人は知つてくれるから」と、いふ態度に出られる方であつた。


血圧計低くなるまで測る人  ふじのひろし


ーーーーーーー
「西郷隆盛」               博多華丸
大西郷は偽らぬ人。まづ、西郷さんの容貌から申上げると、恰幅の良い
肥つた方で、平生は、「何処まで愛嬌があるか」と思はれたほど優しい、
至つて人好きのする柔和なお顔立であつたが、ひとたび意を決せられた
時のお顔は、また、丁度、それの反対で、恰も獅子の如く、何処まで威
厳があるか測り知られぬほどのものであつた。
「恩威並び備わる」とは、西郷公のような人を謂つたものだろうと思う。
(恩威=いつくしみと、人を従える威光)


ちょうどいいブスとは私のことです  森光カナエ


維新の頃の人々の中で、知らざるを知らずとして、いささかも偽り飾る
所のなかつた英傑は誰であらうか、と申せば、矢張、西郷隆盛公である。
西郷公は決して偽り飾るといふ事のない、「知らざるを知らず」として
通した方であるが、その為、又、思慮の到らぬ人々からは、往々、誤解
されたり、真意が果して、何れの辺にあるか、理解されなかつたりした
ものである。これは一に西郷公と仰せられる方が、至つて寡言の御仁で、
結論ばかりを談られ、結論に達せられるまでの思想上の径路などに就き、
余り多く、口を開かれなかつた為であろうかとも思う。


反対の声も静かに聞いている  津田照子
 

ーーーーーーー
「大久保利通」              木場勝巳
大久保公は、西郷公江藤さんの中間にあつた人で、仁に過ぎず忍に過
ぎず、「仁半忍半」という如き傾向の方であつたが、いづれかと申せば、
仁よりも、寧ろ忍に近い方で「仁四、忍六」の塩梅であつたように思う。
「仁五忍五」であつたと申上げたいが、何というか私は、そう申上げか
ねるように思う。
大久保公に、果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたかどうかは私
には分からないが、兎に角、大久保公は細かい処に気が付き、鋭いとこ
ろのあると同時に、又、計略のあつた人である。
(天、徳を予に生ず=天が、人に授けてくれた徳)


着流しは猫侍でございます  くんじろう


私が大久保公に、初めて御目に懸つたのは、明治4年であつたように思
うが、オランダから、万国電信同盟へ加入しないかと政府へ照会があっ
たので、その可否を決める前に、「私の意見を聞きたいから遇ひたい」
と言って来られたことがある。
当時、大蔵省の役人であつた私は、これに旨く答弁をする自信もなく、
当惑うばかりだったので、「詳細は追つて、大蔵省の改正掛に於て調査
の上、お答えする」と述べ、引き退ったものである。
後日、大隈重信侯へこの事を話すと「堂々たる大文章なんかで答へたら
飛んでも無い馬鹿を見るぞ。貴公が答えられないことぐらい、先刻承知
しながら、大久保は、これを機会に渋沢とはどんな人間か、評判だけで
は解らないから、一回、遇つて知つて置こうと、わざわざ貴公を喚んだ
のだろうよ」と、大隈侯は、笑つて大久保公のお人柄を語って居られた。


一念を通した性に悔いはない  碓井祥昭


     
「木戸孝允」
木戸孝允卿、「維新三傑」のうちでも、大久保卿とは違ひ、西郷公
も異つた所のあつた御仁で、同卿は、大久保卿や西郷隆盛公よりも文学
の趣味が深く、且つ、総て考へたり、実行に移すことが組織的であつた。
しかし、器ならざる点に於ては、大久保、西郷の二傑と異なるところが
無く、凡庸の器に非ざるを、示すに足る、大きな趣のあつたお方である。
木戸孝允公なども、仁の方に傾かれた人であるから、木戸公に若し過失
があつたとすれば、それは矢張、仁に過ぎるより来たものだろうと思う。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


「維新三傑」
維新三傑のうちにあつても、大久保公とか木戸公とかのように計略の多
い方々は、如何しても「義に勇む」という処が少かつたように思われる。
これに反し、「計略智謀」には乏しいが、何方かと云へば、蛮勇のある
ような方は、義に勇む人々が多いものである。
明治維新の諸豪傑の中で、仁に過ぎて、その結果、過失に陥るまでの傾
向があつた御仁は、誰かといえば、西郷隆盛公などが、即ち、その人で
あろうかと思われるのである。
「明治10年の乱」が起つた事なども、畢竟、西郷公が部下や自分を頼
って来る者に対して、余りにも、仁に過ぎた所、と言わざるを得ない。
西郷公は、飽くまで、他人に対するに、仁を以て接せられた方で、遂に
一身をも、同志の仲間に犠牲として与へられたので、遂に、彼の10年
の乱を見る始末となつたのである。


場ちがいへそそくさ帰ることにする  山本昌乃


ーーーーーーー
「岩倉具視」               山内圭哉
岩倉具視公は、京都の公卿には、珍らしい策の持った方で、三条実美公
が朝廷を長州へ結び付けることに骨を折られていた一方で、朝廷を薩州
へ結び付けることに骨を折り、薩州の志士と往来したり、又、これより
先き、孝明天皇の皇妹・和宮様を徳川将軍家茂の御台所として御降嫁を
請い「公武合体」を策したりしたお方である。
岩倉公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは知らな
いが、公も「征韓論」のことから、明治7年1月14日、高知県人・
市熊吉以下5名の刺客に、赤坂喰違いで危うく刺されようとしたことが
ある。維新前後にも猶、刺客に窺はれたのは、しばしばあつたとの事だ。


悪がきのままじいちゃんになりはった  片岡加代


※ 勝安房守も刺客には、しばしば狙われたのだが、勝伯は、刺客に襲
われても、危険を顧みず、堂々として面会したとの事である。
勝伯に「天、徳を予に生ず」との自信があつたか何うかは知らないが、
岩倉公にしろ、勝伯にしろ、兎角、策のある人が要路に立つと生命を狙
われる傾向にあるようだ…。


ポルシェなど要らぬもうすぐ霊柩車  新家完司


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「勝海舟」                遠藤憲一
勝伯は達識の方で、凡庸の器でなかつたには相違ないが、大久保、西郷、
木戸の三傑に比べれば、いづれかといえば、器には近いが、器までには、
行かなかつたように思う。
大政奉還後、徳川家は、静岡に居て七十万石を天朝から賜はっていた頃、
榎本武揚の函館戦争の頃で、神田の錦町に静岡藩の役所があつたので、
私が仏蘭西から帰朝してから、しばしば、勝伯とは会っていたのである。

当時、徳川家朝敵名義で懲罰にならずに済み、静岡一藩を賜はるよう
になったのも、つまるところ、勝伯の力であった。
又、勝伯を殺そうとするものが、幕臣の中に数多くあるにも拘らず、
何れも、勝伯の気力に圧せられて、近づくことも能わぬなどと、伯の評
判は、実に、嘖々として喧しいもので、私も亦、当時は些か自ら気力の
あることを、恃みにしていた頃だから、気力を以て鳴る勝伯とは、好ん
で会つていた次第である。
然し、当時の私と勝伯とは、全然段違ひで、私は勝伯から小僧のように
眼下に見られ、「民部公子の仏蘭西引揚には、栗本のような解らぬ人間
が居つたんで、さぞ困つたろう、然し、お前の力で幸い体面を傷つけず、
又、何の不都合もなく首尾よく引揚げられて結構なことであつた」
などと賞められなんかした。


手の内を見せる私の秘策の秘  青木敏子


       
「大隈重信」               大倉孝二
世間には好んで他人の言を聞く人と、他人の言には、一切、耳を傾けず、
自分一人でばかり喋って、他人に聞かせる人との二種類がある。
明治中央政府における大隈重信侯の場合は、他人の言を聞くというより、
他人に自分の言を聞かせる、のを、主とする御仁であった。
とにかく、こちらの談話の終るまで、黙つて聴いて居られず、中途から
横道に談話を引き込んで、聞かせようとされる癖がある。
 それでも件の談話に取りかかる前に、予め、注意を致して、聴いて下
さるよう御頼みして置けば、聞かせるばかりにならず、聞いてもらえ
ることの出来るようになる、のである。


も足も出ずに機を待つだんご虫  荒井加寿


ただ、大隈侯に就て、感心させられるところは、あの通り、他人に聞か
せるばかりで、容易に他人の談話を聞かうとされぬ割に、他人がチヨイ
〳〵と話したことを、存外よく記憶して居られることである。
 ついでに言えば、大隈伯は、すこぶいる楽観的で、何ごとに対しても、
その弊(害)を考えられず、その社会に及ぼす効益のみを挙げて、
悦ばれる傾向がある。


お笑い届けますアツアツ届けます  田口和代


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「五代友厚」              ディーン・フジオカ
私の知つて居る維新ころの人で、「仁か佞(ねい)」か一寸判断に苦
しまねばならなかつたお方は、五代友厚氏である。
(佞=こびへつらうこと 仁=他人に対する親愛の情あること)
五代氏は、なかなか目上(長上)に取り入ることの巧みな人で、大久保
利通公などへは、能く取り入つて居つたものである。
碁の相手もすれば、煎茶などもして、人触りの実に巧いものであつた。
さりとて、全くの幇間(ほうかん)に流れて、いたずらに、目上の意見
に附和雷同するのでもない。そこの呼吸が、実に妙を得て居つたもので、
同じ幇間でも、船宿の女将さんの如き幇間でなく、何となく、一物を胸
に蔵した、佞らしき処のあつた幇間である。
或は、実際に、五代氏は「佞の人」であつたかも知れない。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


五代氏も、私が、官界を退いて身を実業界に投ずるころに、矢張り官途
に志を絶つて、実業に従事するようになったが、主として、大阪に居を
構へ働いた人である。五代氏が、官界を去ったのは、自ら期する所があ
ったためか、ひょっとして、官界に居られぬような事情になったためか、
その辺のことは、詳しく分からない。が、私が官界を退いて、実業界に
力を尽すことになると、五代氏は「渋沢は、東京でしっかり活動てくれ、
私は大阪の方で活動するから……」 などと能く申されたものである。
 いささか解り難いが、要するに、己れを晒すことなく、他人に対して、
その人を用いて自分が利そうとか、或はまた、その人に接して、自分が
快い気分になろうとか…、言うような私心を持つこと、なのだろうか?
と思う。


赤ちゃんの頃が一番もてました  秋山博志
 
 
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 「岩崎弥太郎」              中村芝翫
このお方は、多人数の共同出資によつて、事業を経営する事に反対した
人である。「多人数寄り集つて、仕事をしては、理屈ばかり多くなつて、
成績の挙がるもので無い」と、いうのが意見で、何んでも事業は、自分
一人でドシドシ運営してゆくに限るという主義であつた。
私は、「弥太郎の何んでも、自分が独りだけでやる」という主義に反対
であつたから、自然と万事に意見が合わなかつた。
明治6年に、私が官途を辞めてから、弥太郎は、私とも交際して置きた
いとの事で、松浦という人を介して、私の兜町の居宅へ訪ねて来られた
ことがある。在官中、交際した事はなかつたが、それ以来、交際するよ
うになつた。然し、根本に於て、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は、
「合本組織」を主張し、弥太郎は、「独占主義」を常に主張し、その間
に非常な差違があつたので、ついにそれが原因で、明治12,3年以来、
確執が2人の間に生じたのである。


アナログの世界で小さくいばってる  靏田寿子


これは明治13年に私が、東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張っ
て見せ、明治15年には、品川弥二郎さんが、「三菱の海運界に於ける
専横を許さず」、共同運輸会社の設立に参画し、三菱会社に挑戦したか
らである。

それでも私は個人として、別に、弥太郎を嫌い、憎く思っていたわけで
はないが、善い事につけ悪るい事につけ、私の友達である益田孝、大倉
喜八郎、渋沢喜作などが猛烈な岩崎反対派で、「岩崎は、何んでも利益
を自分一人で壟断しようとするから怪しからん」と、意気巻き騒ぎ立て、
ことごとく、弥太郎を憎んでいたものだから、私を、その仲間の棟梁で
でもあると思い違い、弥太郎は、私を非常に憎んでいたようである。
結果、明治13年以来、弥太郎が18年に52歳にしてその人生の終焉
を迎えるまで、仲直りもせず終ってしまった。


恐竜が滅びたことを忘れない   西寺桂子


                                                                      
「平岡円四郎」                                            堤 真一
平岡円四郎と云う人は、今になつて考へて見ても、実に親切な人物であ
ったつたと思う。私ども、栄一・喜作の二人が、京都に出て来た理由を
問い訊されたので、事情の始終を隠し包む処なく物語ると、平岡さんは、
両人が一揆を起そうとして果さず、出京したことも既に知って居られて、
その事は、早や幕府の方にも探知され、両人が果して、「平岡の家来な
るか否か」を、その筋より一橋家に問合せに来て居る事情までも話して
呉れたのである。


生きる知恵手塚漫画に教えられ  前中一晃

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