川柳的逍遥 人の世の一家言
あの世でもこの世でもない沖にいる 徳永政二
淀君と秀頼の石碑
大坂城の北側の角には、山里曲輪という美しい庭園がある。 現在は自刃の場所を示す「石碑」が建っているが、訪れる人もあまり多
くなく巨大な石垣の下でひっそりとしている。 この様子がまさに、淀殿に対する後世の評価を物語っているように思わ れる。概して秀吉の人気に対し、淀殿というのは評判が悪い。 また、淀殿を淀君という呼び方で、馴染んでいる人もいるかもしれない。
ともかく戦国時代というのは、戦っている武士たちの裏では、それを望
まないところで翻弄される姫たちがいることを忘れてはならない。 耳に水注ぎたがっている右手 酒井かがり
「徳川」 戦国のヒロイン
寿桂尼 (複製・原本は正林寺蔵)
寿桂尼晩年の肖像。
桶狭間の戦いで息子・義元亡き後に、駿河という大国を実質的にまとめ た凄腕な女性であった。 柴咲コウが演じた大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも知られる。 「寿桂尼」
<信玄も認めたおんな大名>
寿桂尼は、京都公家出身、今川義元の実母。今川義元といえば足が短い
せいで馬から落ちたり、母の出自の影響か公家風の衣装にお歯黒をつけ ていたりと、戦国武将からは程遠いイメージが伝わっている。 しかし、当時の義元は、富国強兵を推し進め、駿河、遠江、三河を勢力
下におき「海道一の弓取り」と恐れられていた。 これまでも国境を接する尾張の織田信秀とは幾たびも戦い、これを撃破 している。この義元を支えたのが寿桂尼である。 寿桂尼は夫の死後、領国経営に腕をふるい「女戦国大名」と、呼ばれた
ほどの猛女。義元は母の力で今川家を継ぎ、父を超える名君と呼ばれる までになった。 「海道一の弓取り」も、母には頭が上がらなかったに違いない…。 欠点が少しあるのも隠し味 東 定生
絵本太平記に描く信長と道三の聖徳寺の会見(国立国会図書館蔵)
威儀を正して平伏する信長に驚く僧衣姿の道三。
道三は当初、尾張の「うつけ」を討つための刺客として、娘の濃姫
を嫁がせたとも、また信長の技量を測るためとも、伝わる。
濃姫
信長と政略結婚でくっつけられた濃姫は、知名度があり、立派な身分で
ありながら、彼女に関する資料が驚くほど少ない。なぜなのか?興味が わくところだが、そんな中で濃姫の勝気を見る、耳よりな逸話を一つ。 『信長と政略結婚でくっつけられた濃姫は、信長のもとへ嫁ぐ前に、
父・斎藤道三から短刀を渡されていた。
<信長が噂通りの大うつけであったなら、その短刀で刺し殺すように>
と渡されたのである。それを聞いた濃姫は、
「この短刀で父上を刺すことになるかもしれません」と答えたという。 濃 姫 像
「濃姫」 「夫・信長の手で殺されていた>
信長の正室で斎藤道三の娘。テレビや小説などではお馴染みで、信長と
「生涯睦まじかった」ように描かれるが、実際は、濃姫に関する記録は ほとんどなく、いわば「謎の女」。 事実、信長の子はみな側室が産み、美濃攻略が始まってからは、濃姫の 存在は歴史からまったく消えてしまう。 道三の死で用が済み、離縁された説や、美濃のスパイと疑われ、信長に
殺された説がある。 振り返るときは迷っている途中 立蔵信子
お市の方 (高野山持明院蔵)
兄・信長ゆずりで機転がきいたお市。夫・長政の裏切りを知らせるため
両端を縛った小豆の袋(はさみ討ち=袋のネズミ)を信長に届けた話は
有名だが、後世の創作の可能性ともいわれる。
「お市の方」
<戦国の悲劇を一身に…>
お市の方については、何度かここに書いてきた。
18歳で、浅井長政と政略結婚をしたお市の方は、夫との仲も睦まじく
長男の万福丸はじめ3人の娘(茶々・初・小督)をもうける。 が、幸せは束の間、8年後には義兄の信長に攻められ長政は自刃、万福
丸は串刺しの刑に処せられた。 「お前は生きろ」長政の説得で信長のもとへ引き取られたお市は、その 後、信長の重臣・柴田勝家と再婚する。 その勝家が秀吉に敗れ自害に及ぶと、今度はきっぱり運命をともにした。 男たちの野望に翻弄された生涯で、それは最後にみせたささやかな抵抗 だったかもしれない。 瀬名姫 (西来院所蔵)
色白の美人で公家の血を引き取り澄ました女性だった。
三ッ山を背景に描かれた「築山御前像」は、大正から昭和時代に活躍し
た画家・鈴木白華の創作である。(古い絵の模写ではない) 瀬名姫は、なぜ「悪女」のレッテルを貼られたのか?
「瀬名 / 築山殿」
<瀬名の気位の高さが災いしたものは> 瀬名の母は、今川義元の妹。 義元とは、伯父・姪の関係になる。
由緒正しい家柄で、何不自由なく育ったためか、我儘で気位の高い女性
だった。 家康と瀬名は同い歳の16歳で結婚するが、瀬名にしてみれば、義元の
姪が、松平の御曹司とはいえ、人質と結婚するようなもので、夫の家康 を見下すような態度がところどころで見受けられたという。 話は家康が居城を浜松城に移した1570(元亀元年)に遡る。
この翌年2月、元服した信康は正式に岡崎城主となった。が信康は元服
を終えたばかりの13歳だったため、政務は側近の家臣が代行した。 岡崎城には、信康以下、築山殿と信康の妻・徳姫が住み暮らした。
家康は、浜松城を手に入れてから、岡崎城は倅の信康にまかせっきりで、
側室と子作りに励むばかりの日常だった…。
会うよりも会わない方が辛くない 市井美春
『episode』
『家康と築山殿の関係は、少なくとも家康が浜松城へ移転したときには
冷え切っていた。長女の亀姫が生まれてから10年が経とうというのに、 築山殿はそれから1人も子を産んでいない。 死産や早産の可能性はあるが、供養した記録が皆無なことからすれば、 もはや同衾することもなく、双方とも「意思が消え失せていた」と見て よいだろう。築山殿が浜松城へは同行せず、息子・信康が城主を務める 岡崎城に留まったのは露骨な意思表示である』 そんな矢先、1579年(天正7)8月3日に事件が起る。
「信康・築山殿事件」である。 浜松城に同居する築山殿の嫌がらせを受けて腹が立った徳姫は、信康と
築山殿への不満を誇張も交えて、父である織田信長に訴えたのである。 徳姫は築山殿と同様にプライドが高く、また我慢ができる性分ではない。
内容は夫・信康の悪行や築山殿の行動を、感情に委ねるまま書き連ね、
挙句の果てには、2人が信長を裏切って「武田家と密通している」との
訴状をに送ったのである。 徳姫の内通文とは。 『夫は鷹狩りに出かけた帰りに、出会った僧侶をなぶり殺すなど残虐な
性格である。家康とも相互不信に陥っている。 姑は、唐人の医師と密通し、武田氏と通じている。 織田・徳川両氏の滅亡を画策している』というものである。 これは、徳姫付きの侍女が「武田勝頼」から築山殿宛の密書を盗み見た
と話したことから…、徳姫は事実も確認もせず、「築山殿が武田勝頼と 内通している』と主張したのである」 (信康が二俣城で自刃させられたのは、天正7年9月15日。築山殿も
それより半月ほど前、おそらく浜松への護送中の輿の中で自害した) 家康は幽閉にとどめるつもりでいたようだが、頼れる者すべてを失った
瀬名こと築山殿には、それは地獄でしかなかったのだろう。 剥製として曖昧に生きている 青砥英規
お犬の方 (竜安寺蔵)
小袖に打掛を羽織った政争姿。合掌の姿は供養像であることを示す。
描かれたのは、死(天正10年9月)の翌月である。
「お犬の方」
<信長が愛した妹>
お犬は、信長やお市の妹である。
11人姉妹の五女がお市。 八女がお犬である。 お市は、信長から政略結婚を強いられたが、お犬は、比較的平穏な生涯 を送った。はじめ尾張大野の城主・佐治為興に嫁ぎ、のち細川家の宗家 の細川昭元の妻となった。 お市も、お犬も、ともに眉目秀麗であったことは、遺された肖像画が証 明している。 幸せのイビキ台詞になっている 和田洋子
於大の方
天下人になった家康は晩年の於大の方をむかえ、孝行をつくす。
それは、家康にとっても何よりも喜びだった。
「於大の方」
<わが子家康との涙の別れ>
家康の生母・於大の方は、三河の岡崎城主・松平広忠のもとへ嫁がされ
家康を産む。実家と松平家が敵対することになり、幼いわが子を残して
離縁。 それはまさの生木を裂かれる悲しみだったに違いない。 於大が家康と再会するのは、それから16年後、桶狭間合戦直前のこと。
「織田方と今川方に分れて戦う前に会っておきたい」という家康の心遣
いに於大の方は、号泣したという。 悲しみを知る人だから裏切れぬ 靏田寿子
煕子 (ひろこ)
秀吉に敗れた光秀が農民に「明智藪」に討たれた。
夫の死を聞いた煕子は、迷わずその後を追った。 「照子」
<光秀が生涯かけて愛した女>
明智光秀の妻・煕子は、もと才色兼備をうたわれた美女だった。
が、光秀との婚礼の直前、疱瘡にかかり、玉の肌は「あばただらけ」に
なってしまう。実家では、妹を替え玉にたてたものの、光秀が騙される はずもない。事情を聞いた光秀は、「煕子こ、そわが終生の妻だ」と、 あらためて求婚し、言葉通り生涯側室を持たなかったという。 殺伐とした戦国にあって泣かせる純愛物語だ。 悩むことなんて無いよと冬の月 古本恵子
ガラシャ (カトリック大阪大司教区蔵)
現代の画家・堂本印象が描いたガラシャ夫人。
ユリの花のモチーフが、熱心なキリシタンだった夫人の肖像に相応しい。 家臣の刃にかかるときも、この銀の十字架が輝いていただろう。 「ガラシャ」
<夫に裏切られ、無念の最後>
ガラシャは洗礼名、本名は玉。明智光秀の娘に生まれ、細川忠興の妻に。
はじめ夫婦仲は睦まじかったが、本能寺の変が起ると、忠興は玉を軟禁
し光秀の援軍要請も拒絶する。 夫の愛に絶望した玉は、キリシタンに入信。 関ヶ原の合戦では、家康についた忠興に敵中へ見捨てられ、キリシタン
ゆえに自害もならず、家臣の刃にかかって果てた。二度までも夫に裏切
られた余りにも悲しい生涯だった。 人間に生まれたことが深すぎる 市井美春
【episode】
石田三成が東軍側の大名に対してとった戦略は「人質作戦」
会津に向かった大名の妻子を大阪に集め、手を出せないようにしようと
いう作戦だ。しかし、うまく立ち回って脱出できた者もいた。
加藤清正の妻は大きな水桶に隠れて屋敷から逃げ出したし、黒田長政
夫人も老臣を医者に見せると称して、見張りを誤魔化す頭脳的作戦で
まんまと脱出に成功した。
だが忠興の妻・ガラシャ夫人場合は悲劇に終わった。あくまで大坂城
に入ることを拒み、三成の手の者が迫ると屋敷に火を放ったのである。
夫人は白装束の胸を開いて、留守を預かる家老・小笠原小斎の刀に深々と
差しつらぬかせた。 辞世の歌が残っている。
” 散りぬべきとき知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ "
十字架の顔は笑っていましたか くんじろう
旭姫 (南明院蔵)
形は妻でも、実質は人質のように家康のもとへ嫁いだ旭姫。
もちろん家康との間に愛情など湧くはずもない。
母の供養のため2年後に京に戻ると、生贄のような兄の仕打ちに、 悩みを深めながらそのまま寂しく病死した。 「旭姫」
<人身御供にされた天下人の妹>
天下人に王手をかけた秀吉にとって、最後の目の上のコブは家康だった。
秀吉は家康と和睦し、自分の勢力下におくため妹の旭姫との政略結婚を
思いつく。このとき旭姫は44歳。すでにれっきとした夫がある身乍ら
兄の命令で無理やり離婚させられ、家康のもとへ人質同様に送られてい
くことに…。
天下人の妹に生まれた身の不運とはいえ、それはあまりにも、理不尽な 仕打ちだった。 太れないままに秋刀魚は食卓に 新井曉子
千姫 (弘教寺蔵)
千姫の母・小督と秀頼の母・淀君は実の姉妹。すなわちこれは従妹同士
の結婚。家臣との短い再婚ののち、千姫は仏門に入った。
「千姫」
<徳川家の駒として嫁いだ千姫だったが…> 秀吉の遺言で、家康の孫・千姫が、豊臣の跡継ぎである秀頼と結婚した
のは秀頼11歳、千姫7歳のときのこと。 だが結局、豊臣家は徳川に滅ぼされ、千姫は焼け落ちる大坂城から救出 される。このとき千姫は、秀頼が側室に産ませた男女2人の子のうち娘 のをほうを養女とし、処刑されるところを体を張って助けたという。 「ままごと」のような結婚…。
しかし、千姫と秀頼には、たしかな愛情が芽生えていたのかも…。 おね (高台寺蔵)
秀吉の死後、家康はおねのために高台寺を建立。
夫の菩提を弔いつつおねは76歳の天寿をまっとうする。 「おね」
<あの信長さえ手なずけた…>
おねこそは、秀吉の出世に陰でささえた立役者。頭の回転が速く、それ
でいて気立てがよく情にあついー「女房の鑑あってこそ天下人」・秀吉 が在ったといっても過言ではない。かの信長も、おねのことは大層気に 入っていたらしく、「どこを探しても、そなたほど良い女房は、あの禿 げネズミには見つからない」と、手紙の中でべた褒めしているほど。 その上、秀吉の死後は、家康にすら一目おかせるほど、戦国の3英雄を 手なずけた「女の中の女」だった。 温かな言葉で防ぐ隙間風 掛川徹明
淀殿(茶々) (奈良県立美術館蔵)
母の仇、秀吉の側室となった淀殿。
やがては徳川に嫁いだ妹・小督とも対立する運命になる。 その心のうちはいかばかりだっただろう…。 「淀殿」
<鎧をまとった悲劇のヒロイン主役> 母の死後、秀吉に引き取られたお市の方の3人の娘ー茶々・初・小督。
茶々は秀吉の側室・淀殿として跡継ぎの秀頼を産み、家康の3男・秀忠
に嫁いだ小督の娘・千姫との政略結婚で豊臣家の安泰をはかる。 が、秀吉の死後、家康は豊臣家に宣戦布告。京極家に嫁いでいた初は、
姉と妹の間に立ち、大坂の陣で和睦へと懸命に力をつくす、が…。
偶然か好きな皿から割れてゆく 古田裕子
【episode】 おね(高台院)と茶々(淀君)
羽柴秀吉に敗れて、柴田勝家の城は燃え落ち、このとき15歳の茶々は
燃え盛る炎のなか、からくも城を抜け出した。
茶々の身柄を引き取ったのは、父・母の仇ともいうべき秀吉だった。
まもなく茶々は秀吉の側室となる。
秀吉の奥向きを支配する正室はおね、秀吉が駆け出しのころから支えて
きた糟糠の妻だった。
正室のおねと20歳も若い茶々の2人の確執を、世間は好奇の目で見た。
『太閤記』に逸話がある。
高台院と淀殿の確執は、当人たちの意図とは別に秀吉恩顧の大名たちを
二つの派閥に分かち、そのことが関ケ原の戦いを引き起こすことになった
わけである。
ある時、おねは珍しい「黒百合の花」を佐々成政から献上された。
おねが茶会を開いて、世に一輪しかないというその花を茶々に披露した。
するとその三日後、茶々がおねを招いた。
そして、その席には無数の黒百合の花が、いとも無造作に活け散らかして あったのだった。面当てに淀殿が手の限りを尽くしてかき集めたのである。 おねは顔色を変えてその場を立ち去ったという。
反面教師にされているかもこの怒り 奥山節子 PR |
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