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川柳的逍遥 人の世の一家言
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欲の皮ちょっと伸びたり凹んだり  津田照子




         信長上洛之図  『絵本拾遺信長記』




美濃攻略に要した7年余りは、信長とその家臣団にとって、尾張の一大
名から天下を目指す集団へと鍛えられた。
長い仕切りの時でもあった。
そして今、信長の気力は天下取りへとかつてない充実を見せている。
「天下布武」へと旗揚げした信長の前に、1568年(永禄11)一人
の貴人が救いの手を求めてきた。正親町(おおぎまち)天皇である。
100年にもおよぶ戦乱に、困窮を極める朝廷、荒れ果てた御所は修築
もままならず、正親町天皇は、父である後奈良天皇の死に際し、火葬の
費用にさえ事欠くありさまだった。
目ざとい公家は、この時期早くも次の天下人として信長を「先物買い」
をはじめていた。正親町天皇は美濃・尾張にある信長に、御料所の回復、
誠仁親王の元服料、禁裏修理を命じ、というより頼んだ。
「及ばずながらこの信長…必ずや」ここに最高の名文を得た信長は、
電光石火の速さで上洛の兵をあげる。



廊下の続く何処までも白い春  河村啓子





  信長上洛を果たし義昭と会見する



家康ー信長・足利義昭・明智光秀



新興勢力の信長と、古い権威を代表する足利義昭
その二人の間を取り持った人物。それが明智光秀である。
光秀は名門土岐氏の家系に生まれたと伝えられ、かつては室町幕府の
役人として、13代将軍・足利義輝に仕えていた、とも言われている。
都の人々に交わって高い教養を身につけた光秀は、戦国の無秩序のなか
で、朝廷や幕府の権威がないがしろにされている様を見るにつけ、世の
混乱を収めて、秩序を回復したいと考えるようになったと言われている。


正論の肩がいつでも凝っている  真鍋心平太



そんな光秀の目には、信長の強力な軍事力と政治力は、新しい秩序をも
たらす有力者にふさわしいと映ったに違いない。
信長上京後の光秀は、京都の施政を担当し、義昭や公家・寺社との交渉
役として活躍した。
ところが、信長の力によって将軍になった足利義昭は、ただ古い権威を
振り回すだけでとうてい世の中を治めていける人物ではなかった。
(光秀の前半生には謎が多い。美濃の守護・土岐氏の流れを汲むとも、
また信長の正室・小濃の従兄とも言われ、長い浪人生活を経て、越前の
朝倉家に仕官。身を寄せていた足利義昭と知り合い、幕臣そして信長の
武将へと出世していく)



夕暮れは演歌うたっているポスト  平井美智子









京都に平和を回復し、また御所の修復など朝廷への運動につとめた信長
その推挙によって、足利義昭は室町幕府15代将軍に任ぜられた。
大はしゃぎの義昭は、信長宛の手紙の中で「武勇天下第一」とほめ、
「御父織田信長殿」とまで持ち上げている。
が、信長のほうは、もとより義昭を、自分の都合のよい操り人形としか
みていない。
たとえばある日、義昭の居館・二条館の前に9個の割れた貝が置かれて
いたの報を受けた信長は、笑って
「9枚の貝は、公界(くがい)という言葉に通じさせる判じ物である。
 公界とは、公の仕事を意味する。その貝がことごとく割られていた、
 ということは、つまりは、<義昭公が馬鹿で、公の仕事は何もでき
 ない>と、都の人々が痛烈にあてこすっているのだ」 と、
あざけったという。(『戴恩記』)



輪郭がみえないままの そうだよね  斉尾くにこ




平氏の紋・揚羽蝶のついた信長の陣羽織



信長が積極的に御所を修復したのには、理由があった。
一つには力の誇示。
そしてもう一つの目的は「朝臣としての自分の立場を明確にするため」
だった。それは同じく天皇によって任ぜられる足利将軍と自分が対等で
ある宣言することになる。
「義昭様は仮の天下、次は自分が」 という野心。
このころから信長が、朝廷向けの文書などに「平信長」を名乗り始めた
のもそのためだ。
(当時は、源氏と平氏の血筋が交互に天下をとる「源平交代思想」が、
公家を中心に信じられていた)



空っぽに花植えてゆく物語  徳山泰子








1569年(永禄12)は、信長義昭が最良の関係にあった年だった。
事実この年、一度尾張へ戻る信長を義昭は、京の東の粟田口まで出向き、
涙ながらに見送ったという。
が、その蜜月も長く続かず、よく永禄13年には両者の関係は、一気に
険悪化する。
直接のきっかけは、その前年の正月に信長が義昭へと突きつけた「殿中
御掟」と、永禄13年(4月、元亀に改元)正月23日の日付の「信長
朱印条書」にあった。
条書は当時、毛利や武田・上杉などの諸将と接近しはじめていた義昭へ
の牽制として書かれたものだった。
【御下知之儀 皆以有御棄破】
<これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること>
【天下之儀 何様ニモ信長ニ被任置】
<天下のことはすべて信長に任せること>
要するに、義昭の行動を信長の監督下に置こうというものである。


更迭は燕返しを再現し  太田省三




             条  書




この条書は、信長が、朝山日乗明智光秀宛に出し、光秀は義昭に承認
させる務めも担った。
このときの光秀は、義昭に見切りをつけて、真の実力者である信長にあ
くまでもついていこうとしていた。
以後、義昭は陰に陽に、信長に敵対するようになり、元亀4年には、つ
いに信長によって都から追放されてしまった。



うしろ髪ひかれてひょいと前のめり  小山紀乃




   
足利十五代之正統 従四位下参議左近衛中将 源義昭乃像
信長の軍事力を得て上洛し、15代将軍に就任したものの対立。
追放されて諸国を流浪しながら、各地の武将に御内書を送り蜂起を促し、
しぶとく信長に抵抗した。  『絵本豊臣勲功記』国文学研究資料館蔵




「義昭のその後」

1573年(元亀4)7月、義昭信長から京都を追放された。
義昭は毛利輝元によって匿われ、備後国にある鞆の浦で暮らした。
だが、京を追われてからも、義昭は、自分の利用価値を高く見ており、
復讐心に燃えて、全国の大名に信長打倒を呼びかけた。
実際のところ、外交能力の高い義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利
いった有力な大名が連携して「信長包囲網」を形成していった。
そんな中で義昭は戦国時代最強の武田信玄から上洛の約束を得た。
義昭は信玄という後ろ盾を得て信長に強気に出た。



寝違えてから反省ができない  井上一筒



ところが、肝心の信玄が急死してしまう。かつて、従兄弟である14代
将軍・義栄の突然の病死によってチャンスを掴んだ義昭だが、
今度は頼みの信玄の突然の死によって暗転する。
信長は、武力で義昭の敷く包囲網をひとつずつ突破。
これは、信玄や謙信などの強力なライバルが、相次いで病死したことが
追い風となった。
その幸運も、腹心の明光秀智の謀叛という形で幕を閉じることになる。
謀反の光秀を討ち、信長の跡を継いだのは秀吉であった。
秀吉は、義昭が隠れ蓑として身を寄せていた柴田勝家を破ったあと、
九州征伐に乗り出した。その九州に向かう途中、義昭は備後国で秀吉
面会をする機会を得た。その場で義昭は、秀吉によって京都に戻ることを
許され、追放されてから15年後の1588年(天正15)に京に戻った。
が、将軍としてではなく御伽衆として秀吉に仕えることとなった…。



オンタン飴は影のなごりです  酒井かがり

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