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川柳的逍遥 人の世の一家言
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欠伸する隙間さえないスケジュール  橋倉久美子




                  戦国国盗りレース・一番乗りは誰だ




戦国時代。百年にも亘り戦乱が続いた。この混乱を鎮めて、世の中に新
たな秩序を取り戻す人物が現れることを、人々は望んでいた。
その期待を担って彗星のように、戦国の世に現れた天才児。
それが織田信長である。
信長は1534年(天文3)に尾張守護織田一族の奉行信秀の長男とし
て生まれた。18歳で家督を相続、清州城に移って以来、今川義元を討
ち、家康浅井長政と同盟し、1568年(永禄11)には、ほぼ尾張
を統一した。そして、同年9月、信長は、4万を超える軍勢を率いて、
ついに京の都に上った。
室町幕府の復興を目指していた足利義昭を将軍の座に据えて天下統一へ
向けての大きな一歩を踏み出したのである。




一番が好きで背中から炎  野口 祐



家康ー逸話で綴る信長の出世街道




           信 長 初 陣 図




「美少年だった信長」
吉法師と呼ばれた幼いころから癇癪もち、乳母の乳首をかみ切っては、
何人も交替させたという信長が、成長するにつれ、髪を茶道具の茶筅
のように結い、ペラペラの着物の片袖を脱いだまま、腰に火打石や革
袋をぶら下げた奇抜なファッションで「うつけ者」「婆沙羅」などと
呼ばれたのは有名な話。 (婆沙羅=常識はずれ)
ワル仲間のボスでもあった。その所為で母の土田御前をはじめ、家臣
にまでも疎まれるものの、初陣の姿を描いたという肖像画は「うつけ」
とはほど遠いキリリとした美少年ぶりで、そこには早くも後の風雲児
の面影さえ見ることができる。


「若き日の信長のファッション」
「うつけ」と呼ばれた信長の、縄で巻いた刀の柄も、血糊で手が滑ら
ないようにするためのものであり、腰のまわりの火打ち袋や瓢箪にも
実戦のさいの必需品が入っている、という実用を考えたものだった。



ざんねんないきものになり生きている  木口雅裕




信長が桶狭間の手本にした「ひよどり越」逆落とし
源氏 vs 平家「一ノ谷の合戦」で源義経は深い谷底に陣を構える平家軍に
切り立った「ひよどり越」の崖から逆落としの奇襲をかけ、勝利を手に
している。



「籠城して運のひらけたためしなし」
「城を出て今川の大軍を迎えうつ」という信長の決断は、当然のごとく
家臣の反対にあった。
「敵は4万5千、味方は2千にも足りない軍勢です。城外に出てはとて
 も勝てませんから、城に立て籠もる戦術をとったほうが賢明でしょう」
重臣たちがそう提言すると、信長は一蹴した。
「昔から籠城して運のひらけたためしはない。 外から攻め込まれると、
 将は気後れするし、士卒は心変わりする。城を出て国境を踏み越えて
 行って合戦せよというのが、父・信秀の遺訓である。
 父の遺言を無にすれば、天罰は恐ろしい。
 明日は断固として城を出て合戦をする」
積極的に打って出れば、危機は突破できるのだ。



はんぺんに固定観念の残骸  森田律子



        滝川一益
信長の優秀な武将・一益は甲賀の細作出身という説がある。



「勝負を決めた情報力」
信長はそのとき、勝利を確信した。今川軍と対決するべく、善照寺の砦
まで兵を勧めたときのことだ。
「義元本隊は桶狭間の近く、田楽狭間にて休息中」
そのニュースをもたらしたのは、先日、家臣に取り立てたばかりの梁田
正綱(やなだまさつな)ー地元出身の細作(忍び)の頭だった。
桶狭間の勝利の後、信長はこの合戦の「手柄第一」を梁田に与えている。
戦場にあっては情報がいかに大きな武器になることを信長は知っていた。
(例えば、当時の鷹匠は「忍び」としての使命も帯びていたとされるが、
鷹狩りを好んだ信長は、多くの鷹匠をかかえている)
一説には、桶狭間へ向かったこの日、突然に豪雨が降ることさえ、
地元の塩田技術者に聞いて予想していたという)




光らぬ様目立たぬ様に磨いてる  津田照子




「長良川をのぞむ金華山上に築かれた岐阜城」
道三の修築した山城・稲葉山城を土台にしつつも、麓の天主は広い庭園、
豪華な障壁画など、早くも政の城の原型を見せ始ていた。




1567年(永禄10)美濃稲葉山城を攻略した信長は、居城を小牧山
からこの地へ移すと同時に「井ノ口」と呼ばれていた城下町を「岐阜」
に改名している。これは中国・周の文王が岐山で挙兵し、天下を治めた
故事にならったもので、信長側近の禅僧・沢彦(たくげん)の発案によ
るものらしい。
まさに信長にとっての「天下取り」宣言の城となったこの岐阜城には、
山頂と麓の二カ所に天守と呼ばれる建物があったらしく、訪れた宣教師
フロイスもその豪華さには度肝を抜かれたようだ。(『日本史』)



岐阜までの逆に走っている時間  宮井いずみ




     「岐阜の加納一市に掲げられた楽市の制札」
 


「楽市楽座」
加納の市を自由市場とし「当市場越居の者は分国往還煩いなし」
(当市場に移住する者は、領国内を自由に往来できることや「借銭借米」
や「借地料」などの負担のどを免除することを保証し、楽市・楽座の上、
商売すべきこと」と定めた)
つまり信長は、いっさいの市場税や営業制限をとりはらい、誰でも自由
に商売が出来るようにしたのである。



こんなところに信号なんかつけんでも   森 茂俊



 
           繪本拾遺信長記  (享和3年(1803)刊)
信長上洛を恐れて三好の凶徒四国へ落る




「三好三人衆と対峙」
1559年(永禄2)信長はわずかばかりの共揃えで入京、当時の将軍
足利義輝に拝謁を果たしている。
このとき、敵対関係にあった美濃の斎藤義龍は、チャンスとばかりに道
中に刺客を5人送り込んだが、信長はこの暗殺者と単身対決。
「この信長を狙うとは笑止千万!」
刀を抜くこともなく一喝し、退散させたという。




固くなるなと柔軟剤を渡される  村山浩吉




「信長、京の市民に大人気」
義昭を奉じての岐阜出陣後、わずか20人足らずで京にいすわる三好三
人衆らを追い出した信長は、入京にあたり軍の規律を徹底強化。
「略奪・強姦・強盗」など、一切の乱暴狼藉を厳禁する。
その厳しさは、通りがかりの女の笠を上げ、顔を覗き込んだ足軽を信長
自ら斬り捨てているほど。
「違反者は即刻死罪」――この織田家の鉄の規律に、これまで三好軍の
狼藉に怯え、おののいてきた京の民も一安心、武骨な田舎大名と思われ
てきた信長は、「思いのほかの君」と格付けを大幅アップし朝廷の信頼
もがっちり獲得する。
それはまた、自らが奉じた義昭への「将軍宣下」を、狙い通り確実にす
ることにもなった。



いつの世も壁作る人壊す人  指方宏子




          自由都市・堺
当時堺は、鉄砲生産や食料生産、物流ビジネスなど積極的に事業を拡げ、
戦国時代の大名たちにとっては、咽喉から手が出るほど欲しいものが山
ほどあり、千客万来で富裕な町として栄えていた。




「信長の目論見」
上洛後一ヵ月足らずで、畿内を勢力下においた信長は、和泉国堺の賑わ
いに目をつける。当時,明国や東アジアとの貿易によって発展、商人た
ちの代表「会合衆」によって運営されていた堺は、一種の「自治国家」
だった。
信長はその堺にあえて軍資金(矢銭)2万貫を要求――一度は大筒まで
装備して、これに抵抗した商人たちだったが、町全体を包囲され服従を
決定。(このとき、信長は2万貫を届けにきた使者10人のうち、じつに
8人までを斬殺している)
信長が堺に拘った理由は、もちろんその経済力、そして鉄砲製造技術の
独占だった。以後、信長は代官を通じて堺から莫大な税を徴収。
一方、堺の側も今井宗久らの新たな実力者が信長に接近し、両者の間に
はギブアンドテイクの関係が成立していった。



ヘタを切り落とすと大人しくなった   竹内ゆみこ




南蛮寺
南蛮寺を建築する際、周辺の住民からの反対を事前に察知したルイス・
フロイスは、安土に信長を訪ねて許可を得たことで事なきを得た。
というエピソードが残っている。


「フロイス・レポート」
信長が初めて異国の宣教師(バテレン)を引見したのは、1569年
(永禄12)4月8日桶狭間の戦いから9年後のことであった。
その相手がルイス・フロイスである。
イエズス会のルイス・フロイスは、京から追放され堺に滞在していたが、
新しいもの好きの信長は、キリスト教の宣教師ともすすんで会い、彼ら
の話を積極的に聞いた。なかでもフロイスとは、実に20回も顔を合わ
せる親密ぶりを見せている。
フロイスは信長の印象を次のように語っている。
「彼は背丈は中ぐらい、体つきは上品でほっそりしており、髭は少なく、
声は高くて心地よい響きをもっていた。……自分の考えに自信を持ち、
日本のすべての貴族・武将を軽蔑していたが、半面どのような身分の者
とでも親しく話をした」  (『日本史』)



楽しげに教師は過去を口にする  こうだひでお



「信長・キリシタンになる」
バテレンたちとしばしば会い、京の都や自らの城下に南蛮寺(教会)や
セミナリヨ(神学校)の建設を許可するなど、キリスト教に手厚い保護
を加えた信長
では宣教師たちが期待したように、信長自身にキリシタンになる意思は
あったのだろうか。 答えはノーだ。
「彼は、神や仏をまったく信じていなかった」と、フロイスが「日本史」
に記しているように信長は根っからの宗教嫌い、キリスト教への保護は、
あくまで比叡山や本願寺など、旧仏教への対抗上、さらに言えば鉄砲に
代表される新兵器や技術の導入に、彼らを利用していた可能性が高い。
のちにデウス(神)を否定し、「自らを神になぞらえる」信長について、
フロイスも「途方もない狂気と盲目…悪魔的な思い上がりだ」と結んで
いる。



般若経も聖書も並べ無信心  美馬りゅうこ




「サインをハンコに切り替えたのはー信長だった」




「ハンコ社会を生み出す」
美濃を攻略し、天下取りを視野に入れた信長は、それまで書類や手紙に
用いられていた「花押」をいとも簡単にハンコへときりかえてしまう。
「天下布武」-----文字通り<天下に武をしく>というスローガンを刻ん
だこの印を押すことで、内外に自らの意気込みを知らしめ、政務にあっ
ては手間のかかる花押から事務の簡略化・効率化を実現する。
何事にも、旧体制を打破し、新体制の確立を目指す信長らしいこのやり
方が、独特の「ハンコ社会」を生み出すことになった。
(信長は三好竜興を稲葉山城の破り、城下井ノ口に移り、「岐阜」と名
を改めた)この頃から信長は、「天下布武」の印章を用いだしたという。



いもばんに愛の不可逆性とある  酒井かがり

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