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川柳的逍遥 人の世の一家言
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回廊を巡れば過去は走馬燈  油谷克己




 
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裏長屋の風景


長屋にもいろいろある。大名屋敷にも長屋はあって、大きいもの
では数十軒、「孝行糖」の与太郎が通りすがっていじめられる、
水戸藩の上屋敷にいたっては百軒長屋。噺の世界の住民が所帯を
持つのは路地内にある裏長屋、裏店が多い。わずか三坪ほどの
割長屋だ。因みに、蒲鉾を普通に切るのが割長屋とすると、横に
すっともう一筋包丁を入れたのが棟割長屋。こうした長屋が路地
を挟んで二棟からそれ以上建っていた。


失いたくないもの壊したいもの  下谷憲子
 
 
 

二階建て長屋
 
 

「江戸の風景」長屋の暮らし




江戸庶民の多くは長屋住いをしていたが、長屋には表長屋と裏長
屋があった。表長屋は「表店」といい、通りに立つ二階建てのこ
とで、小商いを営む人が住んだ。一階を店舗とし、二階を住いに
したのである。その裏側に立つのが裏長屋だが「裏店」ともいっ
た。特に独身男が住むのは「九尺二間の裏長屋」。間口が九尺(
2.7㍍)奥行き二間(3.6㍍)の広さだが、むろん夫婦者も住んだ。
六畳一間だが、戸口を入れると、土間と台所があるから居間兼寝
室として使えるのは、四畳半しかない。


この部屋を借りるには、大屋の承認が必要だった。家賃の支払い
をはじめ婚姻届を出したり、出産や勘当、離婚、隠居、死亡など
すべて大家の手を煩わせた。
江戸では大家は管理人のことで、正式には「家主(いえぬし)」
といった。オーナーは「地主」である。大家は地主に雇われて、
さまざまな仕事をした。いわば区役所や市役所の窓口業務を担当
しているようなものだった。


晩秋と初冬の狭間にあるポエム  須磨活恵


それだけでも大変なのに、長屋から泥棒や強盗、放火、殺人など
の罪人が出ると、悲惨なことになる。その犯罪となんの関りがな
くても、大家は連座によって、軽くて所払い、重罪では手鎖や遠
島になることもあった。大家は罪人を出さないために、自分も長
屋の木戸脇に住み、店子(借家人)たちと打ちとけ、さまざまな
相談にのるようにした。さりげなく住人を観察していたのである。
「大家といえば親も同然。店子といえば子も同然」という言葉が
あるが、江戸の長屋ではそのような人間関係の中で、まるで家族
のように賑やかに暮らしていた。


歩いてきたとおりに靴が脱いである 杉山ひさゆき




裏長屋の共用スペース(再現)


裏長屋では、井戸や厠、芥溜(ゴミ捨て場)は屋外に設けられ、
住人が共同で使った。朝起きると、井戸で水を汲み口をすすいだ
り、顔を洗ったりする。さらに炊事の支度をするほか、女たちは
井戸場に集まり、洗濯をしながら世間話を楽しんだ。
長屋暮らしの楽しいイベントに「井戸替え」というのがあった。
年に一度、七月七日に実施する井戸の大掃除だが、大家をはじめ
長屋の住人が仕事を休み、総出で掃除をする。終わったあと、井
戸に蓋をして酒や塩を供え、大家がみんなに祝い酒を振舞った。


声上げて夢の芝居をつづけよう  佐藤正昭






井戸端



厠の扉は、誰が入っているのか、すぐ分かるように下半分しかな
い。内部は肥溜を地中に埋めただけ、ここに溜った糞尿は、定期
的に近郊の農家が汲み取り、肥料として活用した。農家はその代
金として現金か大根やナスなどの野菜を置いてゆく。これは大家
の副収入になった。
芥溜は地面に浅く穴を掘り、仕切り板で囲ったものだが、紙など
のゴミは紙屑屋がすぐに持ってゆく。これで再生紙を作るのであ
る。


憚りながら裏街道の海月です  太田のりこ



裏長屋の入口の木戸


長屋の木戸とは別に、町の境には警備のための木戸が設けられ、
その横に木戸番屋が設けられていた。木戸番がそこに住み、木
戸を管理した。木戸番は町に雇われていたが、給金は少なく、
それだけでは暮らしてゆけない。そこで自分で作った草履や草
鞋のほか鼻紙や駄菓子、焼き芋などを売って生計の足しにした。
当時、火の使用を許されていたのは、木戸番だけだ。したがっ
て焼き芋は木戸番が独占的に売ることが出来たのである。
木戸番の本来の任務は、木戸の開閉だが木戸は明六つ(AM6時)
に開け、夜四つ(PM10時頃)には閉めた。もっとも昼間でも、
捕物があるなどの非常時には、犯人の逃亡を防ぐために木戸を閉
めた。そのほかの仕事として、木戸番は町内の夜警にでる。拍子
木を打ちながら時刻を知らせたが、真夜中の九つ(12時)には九
回、これを打った。こうした木戸番の働きがあって、長屋の住人
は安心して暮らすことができた。


昼夜の間で夢を入れ替える  笠嶋恵美子





長屋の台所


江戸っ子は「狭い部屋でも楽しく暮らしたい」と考えていたから、
生活用具を増やす人は少なかった。居間兼寝室のスペースが四畳
半しかないので、あまり物を置くと寝る場所がなくなってしまう
のだ。戸口を開けると、すぐ小さな土間になっていて、その横に
は竃(かまど)があり、流し台や水桶などが置かれている。水は
水桶から柄杓(ひしゃく)ですくって飲む。竃の上にあるのは、
釜か鍋である。台所には包丁やしゃもじがあるし、棚には皿やざ
る、擂り鉢、味噌入れの壺などをのせておく、もっとも独身男は
自炊する機会が少ないから、台所用具はあまり揃っていない。煮
魚や煮しめ、煮豆などを売る煮売り屋を利用したので、用品が少
なくても不便を感じなかった。


幸せはハミングの出る台所  杉本義昭


長屋暮らしでは、朝に一日分の飯を炊き、味噌汁に漬物、納豆な
どで食べるのが普通だった。昼は冷や飯に朝の味噌汁をかけるな
ど手軽にすませ、夜には野菜の煮物や焼き魚をつけた。木戸が開
くと納豆売りや野菜売りなど、さまざまな棒手振りがやってくる。
まるで移動コンビニ店のように、庶民の暮らしを支えていた。
これを利用すれば、台所用具もそれほど必要ない。茶碗と箸はひ
とり分ずつ箱の中に入れておく。食事の時には箱をひっくり返し
膳(箱膳)として使う。


軍事費は膨れさんまは見つからぬ  中川隆充



長屋の一室 共同トイレ


掃除をするにしても部屋が狭いから、さほど時間がかからない。
箒で掃けば、あっという間である。洗濯ものは盥を井戸端に持ち
出して洗い。そばにある共同の物干しに干した。独身男は洗濯に
手間がかかるほど、多くの衣類を持っていなかった。部屋の中に
は茶箪笥があればいいほうで、独身男は行灯、火鉢、行李などが
あるくらいだった。着物用の箪笥はない家が多く、着物は壁を利
用し、衣紋掛けにかけ、吊るしておいた。


人はいさ某日西を向く  河村啓子


寝る時は蒲団を使うが、江戸では敷布団だけだ。それも薄い煎餅
蒲団である。夜着にくるまって寝るのが普通だった。夜着という
のは、着物の形をした大きなもので、綿を入れてあった。夏は汗
をかくので、煎餅布団の上に寝ゴザを敷き、その上に寝た。今の
ように敷布を使うようになったのは、明治以降のことである。
長屋には押入れがないので、蒲団などの夜具は、たたんで部屋の
隅に寄せ、衝立(ついたて)で隠しておく。


スペースがないので砕くことにする  山本昌乃


夜になると行灯を使った。木枠に障子紙を張り、その中に油皿を
置き、灯芯をひたして火をつける。それには火打石、火打金、火
口の三つが必要だった。火打石と火打金を打ち合わせ、小さな火
花が生じたら、それを火口に受けて、火種にする。この火種を付
木に移し、炎にする。火口はイチビの茎の皮を剥ぎ、それを焼い
て炭にするか、茅花(つばな)やパンヤといった植物に焼酎、焔
硝(えんしょう)を加えてつくる。これを売る専門店もあった。
行灯の光は、今の電球でいうと1ワットか2ワット程度で薄暗い。
江戸っ子はこのなかで本を読んだり、細かい仕事をしたため、眼
を患う人が多かった。


人生百年 A 以上 A 以下として  山口ろっぱ





手習師匠の部屋の長火鉢

火鉢は長火鉢や丸火鉢など、さまざまな形があった。裏長屋では
少ないが長火鉢は用途が多く、重宝した。鍋物を温めたり、灰の
中に銅壷を埋め込み湯を沸かしたり、酒に燗をすることができる。
片側に細長い板があり、その下は引き出しだ。この板はよく猫が
のっているので、猫板と呼ばれる。この上で一杯やるとか、茶漬
をさらさらと食べるなど、小さなテーブルとして利用できた。し
かし長屋暮らしで多かったのは、素焼きの丸火鉢だった。夏には
蚊遣りを使う。陶器におがくずを入れ、燃やして蚊を追い払った
のである。このように長屋暮らしの生活用具といっても数は少な
いが、いろいろ工夫をし、楽しく暮らそうとしたのである。


防腐処理してギアマンの柩に  井上一筒

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幸せな足音だけを拾う耳  靍田寿子
 

 


『浪花風景十二月』(二代貞信)



大阪天満宮。ここは古典落語「初天神」の舞台となりました。
「初天神」の「天神」とは、菅原道真公のこと。その道真公が祀ら
れている天満宮の新年最初のご縁日(1月25日)だから「初天神」
というわけです。

「おいおっかあ、ちょいと羽織出せよ、羽織」
「羽織こさえると用もないのに出たがって、どこ行くんだい」
「天神様にね、初天神」
「ちょうどよかった。金坊も連れてっとくれ」
「だめだめ。表へ出た日にゃあれ買ってくれ。これ買ってくれっ
てうるせえんだ」
糠味噌に小便したり、家に置いとくとろくなことをしない。少し
は表に出さないと良い子にならないから、とかみさんが頼んでい
るところへ金坊ご帰還。あれこれなだらないと「約束」をする金
坊を連れて、天神さんまで出かけた親子。天神様に近づくと人も
出る店も出る。



耳打ちの数だけ揺れるヤジロベー  神野節子



「今日あたい、これ買ってあれ買っていわないでしょ。今日良い
子だよね。ご褒美に何か買っとくれよ。ねえおとっつあん」
蜜柑も林檎も酸っぱいから毒、柿は冷えるから毒。他愛ない理屈
で金坊を煙にまく父に、今度は飴を買えとせがむ金坊。
「飴屋はない」のひと言が命とりで、すぐ後ろに飴屋があった。
一つ買うのにいちいち触って吟味する父に、
「ちょいと親方、そう舐め散らかしちゃ商売にならねんだから」
とぼやく飴屋。涎垂らすな、歯を当てるな、黙って歩け、水たま
りがあるから気をつけろ、というそばからしでかす金坊の背中を
叩くと、飴を落したという。
「どこにも落ちてねえ」
「お腹のなか」



例えばと飴玉ひとつぷっと吐く  雨森茂樹



飴の次は団子。
「団子屋、なんでそんなとこに店出してるんだ!金坊、男が団子
で泣くな!」
団子の蜜は着物を汚すからてんで、舐めて舐めてしまうと金坊が
嫌がってまた泣く。あろうことか舐めた団子を蜜壺にジャボン。
金坊もまた舐めて、
「おいちゃん、その壺何入ってんの。蜜?ドボン」
親子でやっている。



好奇心なんじゃもんじゃの種を蒔く  北川ヤギエ



「買って」
「さんざっぱら買ってやったじゃねえか。凧だと。てめえなんぞ
二度と連れて来ねえぞ。凧屋一番でっけえのは看板だな」
「全部売り物で、なんならもっと大きいのも」
またまた金坊の粘り勝ち。帰りに一杯やるつもりの銭をはたいて
糸までつけて凧を買った。天神様へ行こうと言っても素直に従う
タマじゃない。
「よしおとっつあんが揚げてやるからな。凧持ってずっと向こう
へ、ずっと。風が吹いてきたら、ひのふのみで放すからな、もっ
とこっちだ」
とやっていると、金坊が酔っ払いにぶつかってしまう。



失敗を消す消しゴムが見当たらぬ  三村一子



「この野郎、凧破くぞ」
「あいすみません、それうちの倅なんです。ご勘弁ください」
丸くおさめたつもりが、ほどなく
「あ、痛えな。親子して俺をぶんなぐる」
「どうもすいません。それうちの親父なんです」
すっかり夢中になって、金坊に糸を渡さない父に
「おとっつあん、うまいのは分かったからさ、あたいにもやらし
てくれよ」
「こういうものは子供の持つもんじゃねえんだ」
「あたいの凧じゃねえか。こんなことなら、親父なんか連れてく
るんじゃなかった」



親子それぞれに言い分ある隙間  片山かずお







  今昔館 湯屋と薬屋



「江戸時代の浪速の風景」暮らしの今昔館



この天満天神さんから北へ、日本一長い(南北2.6㌔㍍)商店
街を歩くと暮らしの今昔館があります。エレベーターで9階に下
りれば、当時の着物を着たお姉さんが迎えてくれる。そこから江
戸時代の浪速になる。中へ入ると伝統的工法で精巧に実物大で復
元された商家、路地の奥の長屋があり、それぞれ家具・調度品等
の本物感の演出効果にタイムスリップ感が味わえる。ほか面白い
のが、屋根に猫、路地に犬・鶏、見上げると雀など、さりげなく
置かれている。家内に入れば、展示品も自由に手に取って触って
もよい。また自然をも演出している。音と光で朝・昼・晩の時
間変化をみせ、雷が鳴ったり、夕立があったり、月が出たり、行
燈だけの時間帯があり、まさに江戸時代にいる錯覚も味わえます。
至れり尽くせりの趣向で、本当に今も誰かが住んでいそうな町並
みがそこにあります。



電飾よりも行灯がいい江戸の夢  通利一辺





唐物屋疋田屋 (拡大してご覧ください)
おきんさん



「唐物屋」
三人娘でお馴染みのおきんです。町ではちょっとした物知りとし
て有名です。疋田屋さんは皆さんの時代にも高級輸入品を扱うお
店で、天保の世では書物にも紹介されたほどのお店です。何がす
ごいって、最近になってエレキテルが店先に登場したのです。あ
の平賀源内先生の発明された摩擦起電機です。この時代では、病
気の治療に使われていました。
※ エレキテル ー中央の円内に今まさに治療中の人が。
源内は「人の体から火を出して病を治す器」として治療を行なっ
たり、大名の前でデモンストレーションをしたり、宣伝しました。
※ 払子(ほっす)ー左上の円内、軒先に吊らしたもの。
禅寺などで煩悩を払う標識として使う。もともとはインドで蚊や
蠅を払う道具として使われていた。
※ 漁板ー右下、魚の形をし内部を空洞にした木製の仏具。
禅寺などで使われ、時期に合わせて叩いていた。



小なまいきな電池に喝を入れられる  百々寿子





当時の化粧道具(拡大してご覧ください)
修之介



「小間物屋」
丸屋で手代をしている修之介といいます。女性の身だしなみは今
も昔も変わらないものですね。この店では、店先に商品を飾り、
販売をするかたわら、私や丁稚がお得意様の家まで出向いて品物
を選んでいただくこともあります。あちらのお嬢さんには、何が
似合うか、こちらのご僚さんにはあれが似合うと考えるのも手代
としての私の勤めです。



幾重にも化粧重ねて過去を消す  上田 仁






庄吉とウルエス効能書き
石臼  薬研



「合薬屋」 
肥後屋で丁稚奉公をしている庄吉と申します。旦那さんや手代さ
んに教えていただいたことによると、合薬とは人それぞれの体質
に合わせて調合する薬のことです。お客さんの体の具合をよく知
らなければできない商いだと教えていただきました。また「ウル
エス」という薬は大坂や江戸でたいそう有名なもので、何でもオ
ランダから伝わった薬をもとに考えられたそうです。ウルエスと
は漢字の「空」とも教えていただきました、が何のことやら…。
※ ウルエス
漢字の空をバラバラにしてカタカナ読みにすると、つまり「空」
になる。主な成分は大黄。ウルエスは板チョコのような形をして
おり、それぞれの塊に金粉がのっている。体に残った悪いものを
外へ出して空っぽにする。いわゆる「下剤」ぼことでした。



とんちんかんの返事と野あざみの色  森田律子





台所 (拡大してご覧ください)
おしげさん



「台所」
長屋に住んでいるおしげです。薬屋さんの台所は広いし井戸があ
るし使い勝手がいい。私も一度でいいからあんな台所で思いっき
り腕を振るってみたいものです。水屋、へっつい、走り、水甕と
一列に配置され、台所をあずかるものにとっては動きやすいつく
りになっています。長屋のように外で洗濯、洗い物をするのとは
大違い。
※ へっつい (絵の右上)
薬屋のへっついは、四口もあります。大勢の客を迎える時は、大
釜煮炊きをし、普段は三升や七升の釜を使い、茶釜はいつでもお
茶を出せるように沸かしていました。
※ 走り (絵の右下)
長屋の走りはシンクだけですが、薬屋さんの走りは左に水を貯め
ておく水槽がついています。井戸から汲んだ水で洗い物をするに
はたいそう便利です。



米を研ぐことの嬉しさ病み上がり  新川弘子





風呂屋 (拡大してご覧ください)
ゆへ行く伝蔵さん家族



「風呂屋」
裏長屋に住んでいる伝蔵です。私が毎日のように通う天神湯を紹
介します。天保の初めの頃の大坂の風呂屋は、まだ入込湯でした。
営業は朝から始まり夜まで入れますが、夕方には火を落してしま
います。火事に対する気配りのためです。江戸と違い大坂では洗
い場が石敷き(絵の左半分部の床)になています。浴槽に入る前
に身体を洗い、湯につかり、上がり湯をいただいて、さっぱりす
るのです。
※ 脱衣場(絵の右奥)
盗難防止のために江戸時代すでに、ロッカーがありました。
※ 高座 (絵の中央)
江戸では番台という。湯銭を払い糠(石鹸)を買ったりする。
※ 引き札 (絵の左奥) 左下の四角いものは水おけ。
大勢の人が集まる場所には引き札(広告)が貼られていた。
※ ざくろ口 (絵の左でその横が湯ぶね)
湯気を逃がさないよう入口は低く、屈んで入った。



見えそうで見えない番台からの的  くんじろう

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湿っているうちは発芽の可能性  青砥たかこ



  昔ばなし一覧図会
「猿蟹合戦」「文福茶釜」「花咲爺」「桃太郎」「かちかち山」
有名な六つの昔話のストーリーが、一枚の絵に描かれています。
じっくりみて下さい。

「日本の教養」 昔話・桃太郎



桃太郎の起源を辿れば、古代インドや中国の古い話が日本の風土と擦り
あわされ、室町時代に生れたという説。古事記の中にも、桃太郎がおり、
それらの説を按ずるに、昔昔とは、いつのことなのかと首を捻ってしま
います。桃太郎は、やがて手習いの教材として、江戸時代中期に完成。
 そして慶応3年の『守貞謾稿』(喜多川守貞著)には「今世モ三都ト
モ小児をスカスニ、話之コト廃セス」と当時、江戸・京都・大坂の三都
において、子どもの機嫌をとるのに、昔話が使われ「童話」と呼ばれる
ようになったといいます。


部屋出ると一瞬おいてわく笑い  中岡千代美





 
大きな桃と日本一の黍団子。




「昔々、ジサントバサントアッタトイナ。ジサンハ、山イ柴刈ニ井タト
イナ。バサンハ川イ洗濯ニイタトイナ。云々ト云う」(教材)
昔むかしある所に、お爺さんとお婆さんが住んでおりました。子どもの
いない気楽な暮しで、お爺さんは毎日山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗
濯に出かけておりました。
「然ルニ河上ヨリ、桃一ツ流レ来タル老婆得之帰ルト…」(教材)
ある日、お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて
きましたので、お婆さんはこれを拾って、家に持ち帰りました。
 「柴刈りと芝刈り」とは、違いますので間違えないように。


蓮根の穴も納得する奇跡  森乃 鈴





② お婆さん「お爺さん、これは、きょう谷川で拾い上げた桃ですが、
あんまり立派な桃なので、持ち帰ってきました。さっそく、半分ずつい
ただくことにしましょうか」そう言いながら、ふたりがこれを食べたと
ころ、何という不思議でしょう。お爺さんは三十五、六の男盛りに、お
婆さんは二十八、九の若女房になったではありませんか。ふたりは驚く
やら、喜ぶやら。手を取り合って、しみじみとお互いの顔を眺め合った
のでした。
 桃は邪気を払い、不老不死の果実として「若返り」の効果があると
されています。若返りたい方どしどし食べましょう。


セサミンを飲んで骨太老人に  くんじろう






桃を食べてすっかり若返ったお婆さんの若女房は、それから暫くすると、
お腹が大きくなってきました。ところが産み月になっても、子供はなか
なか生まれません。それから何と三年も経ってから、ようやく無事に男
の子が生まれました。さてこの子供ですが、お腹の中に三年もいたせい
でしょうか、生まれた途端にあたりを駆け回ったり、盥の湯を高々と差
し上げて、頭からザブンとかぶったりするのです。両親が驚いたのは、
言うまでもありません。
※ 子供はどうして桃から生まれたことにしたのか。コウノトリと同じ
子供はどこから生まれるの質問に困らないようにしたのです。


それとなくも一度蹴ってたしかめる  山本昌乃






 桃を食べたら生まれたので、両親はこの男の子に「桃太郎」という名前
をつけました。桃太郎はどんどん大きくなって、寺子屋へも行くようにな
りましたが、読み書きでも、誰にも負けない成績をおさめました。また相
撲をとっても、ケンカをしても、これまた誰にも負けない強さです。さて、
桃太郎が16歳を迎えたとき、両親に向かってこう言いました。
「実はこのたび、思い立ったことがあります。鬼が島に渡って鬼どもを退
治して、宝物を持ち帰りたいと思います。どうかお許しください」驚いた
両親は、いろいろとなだめましたが、桃太郎の決意は変わりません。仕方
がないので、黍団子をこしらえて、送り出すことにしました。桃太郎はさ
らにお婆さんにお願いをします。
「なるべく大きいお団子をお願いします。小さいのはケチくさく見えてい
けませんから」 「はいはい。今年は豊作だったから、うんと大きいのを
こしらえてやりましょう」
※ どうして黍団子なのか。黍団子は腹持ちがよく、それを串にさして団
結を促し、中国伝説によると、霊力が与えられる食べ物と云われています。



魔がさして生まれた日から主人公  桑原すゞ代






鬼が島で鬼退治をすることを打ち明けた桃太郎は、両親にたくさんの黍団
子をつくってもらい、吉日をえらんで出発しました。途中で犬と猿とキジ
が、お供になろうと待ちかまえていました。
犬 「ワンワン。お供いたしましょう」
猿 「キャッキャッ。お供いたしましょう」 
キジ「ケンケン。お供いたしましょう」 
桃太郎「よしよし、では黍団子をやろう。いっしょについて来い」
頼もしい供がそろったので、桃太郎も大喜びです。
※ 犬・猿・雉が何故従者になったのか。犬は三日飼われたら3年恩を忘
れない「忠義」を持ち、猿は「智恵」があり、。キジは蛇に卵が狙われる
と、自分の身体を巻かせて、十分に巻かせたところでこれを弾いてしまう
「勇気」を持つ動物とされています。
また天武天皇が説く「動物報恩譚」もあるようです。



相棒は下心シーラカンスは二心  山口ろっぱ






いよいよ桃太郎一行は鬼退治に向かいます。鬼が島に着くと鬼たちは、酒
盛りの真っ最中で城門は閉ざされたままです。桃太郎は、大声で叫びます。
「この門を開けろ!。開けなければ、打ち破るぞのみぞ!」その檄に三匹
の従者・犬、猿、雉も戦闘態勢です。城門を破り攻め入った桃太郎らは、
鬼たちをことごとく打ち負かしてしまいます。桃太郎たちの勢いに総崩れ
になった鬼たちは、金銀・珊瑚・宝珠などの宝物を蔵から出して、「命ば
かりは…お助けを」と白旗を掲げます。「宝物はもうこれだけか。ぜんぶ
出せば、命だけは助けてやろう」と桃太郎が言うと 鬼は「はい。もうこ
れで、残らずでございます」
※ 教材は「桃中ヨリ一男児化出シ、育之テ桃太郎ト称シ、後遂ニ復讐ノ
コトニ至ルノ一話也」とありますが。



年金に未加入だった桃太郎  吉川幸子
 
 
 

  



※ 福澤諭吉がこんなことを言っています。自分の子供に日々渡した家訓
「ひゞのをしへ」の中で「桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝をとりに行くた
めだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた
物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなくとりに行くと
は、<桃太郎は盗人と言うべき悪者>である。また、もし、その鬼が悪者
であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲
らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さ
んとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変
に卑劣である」と厳しい。  
       桃太郎宝蔵入ゟ 夷福山人作・歌川広重画 (国立国会図書館蔵)





ハッピーエンドのはずやったのになあ  雨森茂樹






山東京伝著『絵本宝七種』
打ち出の小槌をふるう桃太郎とお供の雉・犬・猿



「落語・桃太郎」




我々の子供の時代は恐いものが沢山あって、躾けもしやすかったんですな。
親の言い付けは守らなならん、学校の先生やお巡りさん、母ちゃんに父ちゃ
ん、恐い物がいっぱいありましたな。
「遅くまで起きてるとお化けや幽霊が出て来るぞ。ほ~ら後ろから…あぁ~
恐い恐い。早く寝んねし、寝床へ入んねん。寝床へ入ったらもう恐いお化け
も出てけぇへんからな。さあ、布団へ手ぇ入れて。お父ちゃんが面白い話し
をして聞かしたるさかい、それを聞きながら寝んねするんや、ええか…。


池と沼違いの分かるカッパたち  ふじのひろし


 昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んではってん。お爺さんが
山へ柴刈りに行て、お婆さんが川へ洗濯に行た。川の上の方から大きい桃
が流れてきて、お婆さんはこれを家へ持って帰って、ポンと割ったら中か
ら元気のええ男の子が生まれてきた。この子に桃太郎という名前を付けた。
この子が大きくなって、鬼ケ島へ鬼退治に行くと云うので、キビ団子をこ
しらえて持たしてやると、犬と猿と雉が出てきて、一つ下さい、その代わ
りお供します。三匹を引き連れて鬼ケ島へ攻め込んだ。この桃太郎はんが
強いねや。三匹もよう頑張った。とうとう鬼が降参や、山のように宝物を
出して謝った。車に積んだ宝物、エンヤラ、エンヤラと持って帰って来て、
お爺さんやお婆さんに孝行したちゅうのや。



ククククっと笑って鼻を折っている  笠嶋恵美子



 なあ、面白いやろ。桃太郎さんのお話し…金ぼう…金ぼう…、寝てしも
うたがな。 えぇ、子供というのは罪が無いもんやなぁ~」
てなことを云うてましたのは、もう昔のお話しでございます。
きょうびの子供はなかなか、こんなことくらいでは寝ぇしまへんわ。
ある父親が、眠れないと訴える息子に昔話の『桃太郎』を話して寝かしつ
けようとしますが、息子は「話を聞くことと寝ることは同時にできない」
と理屈っぽく反論してきます。父親は困りつつ話を始めます……が。
「昔々……」と言えば「年号は?」
「あるところに……」と言えば「どこ?」
「おじいさんとおばあさんが…」と言えば「名前は?」
といちいち聞くので、話がまったく進みません。


ほんのハナウタ渦を背中であやしつつ  酒井かがり


「ええか、昔々や
「何年ほど?」
「何年ほどって…、こんなもん、お前、
ずっと前から、ここは『昔々』
 ちゅうんやがな」、
「なんぼ昔でも年号と
いうのがあるやろ。元禄とか、天保とか、慶応とか、
 明治とか」
年号も
なにも無いくらいに昔や」
「年号も無いとは、これはよっぽどの昔やな」

「そうや、よっぽどの昔や。あるところに…」
「どこや?」
「どこでもえ
えやないかい。親が『あるところ』ちゅうてんねや、
 あるところやなぁ、
と思うとかんかい」
「昔でも国の名ァちゅうもんがあるやろがな。
大和とか、河内とか、
 摂津とか、播磨とか」
国の名ァも無いくらい昔や」

「国の名ァも無いのん? そら、縄文時代より前やな?」
知らん、そん
なもん。とにかく、あるところにお爺さんと、お婆さんが
 住んでたんや」

「お爺さんの名前は?」
もうええかげんにせぇよ、お前なぁ、そないに
次々と引っかかってたら、
 寝る間もあらへんやないかい。名前もないッ。
名前も無い昔や
「へぇ、人間に名前の無かった時分ちゅうたら、そら原
始人の時代やな?」
あぁ、よっぽど昔や。お爺さんとお婆さんが住んで
たんや
「歳は
?」
「ほんまにどつくで。歳も無い。歳の無いくらい昔や」

「無茶云うたらいかんわ。なんぼ昔でも歳はあるわいな。一年たったら一
 つづつ歳とらはんねん」
そら、始めのうちは歳もあったわい。そやけど
火事で焼けてしもうて、
それから無くなった」



背中から湿布を外すひねり技  前中知栄


「無茶云いな。歳が火事で焼けたりするかいな」
「お前、ごじゃごじゃ云
うさかい、話しが一つも前へ進まへんやないか。
 少々わからんことがあっても、黙って『ふーん』ちゅうて聞いてたら、
 だんだんと分かるようにな
ってくるもんやがな」
「ふーん」

「お爺さんは山へ柴刈りに行った」
「ふーん」
「お婆さんは川へ洗濯
に行った」
「ふーん」
「舐めたらあかんで。ほんまに、こいつだけは手ェ
が付けられんなぁ~、
 みてみい。どこまでしゃべったか忘れてしもうたやないか!



運命は同心円のこま回し  三村一子


そやそや、桃が流れて来たとこや。それを持って帰ってポンと割ったら
中から男の子が生まれた。桃から生まれたんで桃太郎という名前を付け
たなぁ。この子ォが鬼ケ島へ鬼退治に行くというので、キビ団子という
美味しいものをこしらえて持たせてやると、途中で犬と猿と雉が出てき
て、一つ下さい、そのかわりお供します。三匹が供をして鬼ケ島へ攻め込
んだなぁ。猿がかきむしるやら、犬が食いつくやら、雉が目玉つつくやら。
鬼も降参やぁ。山ほどの宝物を出して謝った。車に積んだ宝物、猿が引く、
犬が押す、エンヤラ、エンヤラァと持って帰ってお爺さんやお婆さんに孝
行したちゅうねん。 なぁ、おもろいやろ。さあ寝ェ~寝んかい。寝ぇっち
ゅうのに、このガキは…。なんや、大きい目ェ剥きやがったな」



失った言葉探して日が暮れる  合田瑠美子


 「あない、やいやい云うさかいに、寝たろかいなと思うてたんやけど、
 あんまりアホな話し聞かされたさかいに、だんだん目ェが冴えてきた」
「冴えて来た? 悪いガッキャなぁ、こいつ。何で冴えてくるねん」
「なんでて、桃太郎の昔話やろ」
「そや、桃太郎の昔話やがな」

「桃太郎みたいな子供向けの話しされたらかなんなぁ。わいらもっと、
 こう…恋愛モンみたいな…」
「生意気なことぬかすな。お前ら桃太郎で十
分じゃ!」
「お父はん、何も知らへんやろうから、ちょっと話しをするけ
れども、
 この桃太郎という話しは、日本の昔話の中でも一番ようでけてんねん。
 外国へ持っていっても引けを取らん、ようできた話しや。それをあ
んな
 言い方したら作者が泣く」
「な、何が作者や、お前ら、何も知れへん
ねん」



適当でいいとレシピに書いてある  橋倉久美子


最後に、曲亭馬琴先生の三匹の相棒についての解説です。
馬琴は『燕石雑志』より、<鬼ヶ島は鬼門を表せり。之に逆するに、
西の方申・酉・戌(さる・とり・いぬ)をもつてす>と言い。
鬼門は、鬼が出入りする方角として、嫌われている方角で、東北(丑寅)
の方角であり、これは「陰」で、その反対の南西(未申)の方角が「陽」
である。<東北に位置する鬼を退治するには>、その対極であるべきで、
そこには、羊、猿、犬が並んでいる。羊は弱者なので省かれて、猿鶏犬が
選ばれて人間を助ける」と言っている。


シンバルは猿人手不足のシンフォニー  近藤北舟

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ジャンケンホイATMよ金を出せ  山口ろっぱ






  狐拳に興じる三人美女



「江戸の教養」 ーじゃんけん



今日のじゃんけんは、中国の「虫拳」がルーツとされる。
中国唐代の古典『関尹子(かんいんし)』に「ムカデは蛇を食い、蛇は
蛙を食う」とあり、この三者が会うと、それぞれがすくんで動けなくな
ることから、「三すくみ」と呼ばれるとある。中国の「虫拳」は平安時
代までに日本に伝わったとされ、日本では、ムカデがナメクジに代わっ
たが、「三すくみ」の関係は維持された。



  虫拳『拳会角力図会』


人差指を上げるとヘビ、親指を上げるとカエル、小指を上げるとナメク
ジを意味した。江戸後期には、天竺徳兵衛をモデルにした児雷也ものが
読本・浄瑠璃・歌舞伎で当たり、「児雷也の蝦蟇」への大変身が話題と
なり、「蛇拳」が流行したが、文政13年(1830)に喜多村信節が
刊行した随筆『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん』には「虫拳などは、童部
のみすなり」と当時、虫拳が子供の遊びであったと記されている。



頭とは別行動をする手足  前中一晃



「三すくみ拳」は、江戸時代に多数考案されたが、その中で最も流行し
たのは、「狐拳」である。狐拳は、狐・猟師・庄屋の三すくみの関係を
用いた拳遊びの一種である。藤八拳、庄屋拳、在郷拳」とも呼ばれる。
狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化か
されるという三すくみの関係を腕を用いた動作で合わせて勝負を決めた。
二人が向かい合い、正座して行なう。
それぞれの手の姿勢は次のとおり。
狐は掌を広げ、指を揃えて頭の上に相手に向けて添え、狐の耳を模する。
猟師 は 両手で握り拳を作り、鉄砲を構えるように前後をずらして胸の
前に構える。庄屋は正座した膝の上に手を添える。
結構、運動神経や機転が要求され、場はそれだけで盛り上がった。
『色一座梅椿』には「狐拳」について、「あ一、い二、う三い」のかけ
声でジャンケンし「おつとあいかう/\」と、あいこでやり直すこと、
そして「なんでも狐拳に負けたら、お初さんの迎えに行く」と、負け
たものは、初を迎えに行く役目が記されている。



床の間の七福神がけしかける  井上登美






 「当振舞世直拳」歌舞伎役者がモデル)
描かれているのは、戊辰戦争に登場する藩や人物。
左が会津藩で、右が薩摩藩。狐拳というゲームをしている。


「虎拳」というのがある。これは、指先や手などによるものとは異なり、
全身の動作や表情によって競うものである。
近松門左衛門の正徳5年(1715)大坂竹本座の初演の浄瑠璃『国性
爺合戦』こくせんやかっせん)に由来する。浄瑠璃や歌舞伎で繰り返
し演じられ、中国人の父と日本人の間に生まれた主人公の和藤内(わと
うない)が猛虎を捕える場面は評判を呼んだ。「虎拳」はこの作品をも
とにし、「和藤内は虎に勝つ、虎は和藤内の老母に勝つ、老母は和藤内
に勝つ」の三すくみになている。すなわち
和藤内は槍を構える。虎は四つん這いになる。老母は杖をつく、という
動作であった。これは天明年間(1781-89)に大ブームとなった。
遊郭や料亭の宴席で場を盛り上げるために行われたが、動作が大きいた
めに、両者の間に仕切りとして屏風を立てて、相手に見えないようにポ
ーズをとり、屏風を外して勝敗を確認するなどした。宴席の者は、両者
の動きを同時に見ることができるという趣向であった。



番外の余興が受けた披露宴  藤井康信



「三すくみ」ではないが、「数拳」というジャンケンもある。
2人が互いに片手の指で数を示すと同時に、双方の出した数の合計を言
いあてるというもので、当たった方が勝ちとなる。中国が発祥地で日本
では、18世紀の初めから広がった。
16世紀の後半に長崎から入ってきた遊びなので、「長崎拳・崎陽拳」
ともよばれた。江戸時代の天保年間までは、これが大人の拳遊びの中心
だった。現代でも九州では「球磨拳」などの数拳が行われている。
いろいろ考案される中で、「狐拳」から三連勝しないと1本取ったこと
にならない「藤八拳」が派生して、家元制度が導入され、競技性が高ま
った。明治になり、数拳の手の形と三すくみ拳からの現代行われている
「じゃんけん」が考案されたと考えられている。余談だが、タイには
「象、象使い、王様」の三すくみ拳がある。このタイの三者の関係性は、
それぞれ皆さまで考えてみてください。



入口は三つ出口はありません  米山明日花






   これが虎拳



昨今は「最初はグー」で始まるジャンケンだが、浄瑠璃や歌舞伎などの
舞台で踊りながらのかけ声は、大反響を呼んだ。
「三国拳」
 おまへ女の名でお伊勢さん、神楽がお好きで、とつぴきぴイのぴいー。
「三仏拳」
 おまへ西方阿弥陀如来、木魚がお好きで、ぽんぽこぽんのぽん。
「世直し拳」
 ことしや世直し元日に、めでたくとつた年男、ふくは内外に。
「兎拳」
 さても今度の流行物、皆さん御存知、うさ/\と、茶殻きらずの御馳走
で、月に浮かれて飛びはねる、とくさがお好きで締こで、さアきなせー。
「薩摩拳」
 南無らんぼうやぼだらきやう、さてこれからいよいよはじまる、お経の
もんくは何でありませうなら、薩州鹿児島騒動巴咄しで…。
「すててこ拳」
 さても諸席の大入は、立川談志の十八番、郭巨の釜ほり、テケレツパア、
おいてるれんてる。などなど面白いけど長すぎて相手の手が読めません。



利き足に小春日和を巻いておく  みつ木もも花



今日にも広く行われているジャンケン、「石拳」とも呼ばれ、三すくみ
の拳の中では、遅れて成立したが、1840年頃から、子どもの「ジャン
ケン」遊びとして発達した。
「石拳」「石、ハサミ、紙」を手で手で示して勝敗を決定するが、江戸
時代の江戸時代の「虫拳、虎拳、狐拳」などの三すくみ拳とは異なり、中
国の古典や日本の話のストーリーを知らなくても、ルールを理解できると
いう簡単なものであった。このことが子ども達の間で広く行われるように
なった一因とされる。
最後にジャンケンの語源については、先の「石拳」「じゃくけん」が訛
ったとする説やハサミの形が、二(りゃん)であるとする説がある。
また呼称については、関西の「いんじゃん、じゃいけん」など地方によっ
て様々で面白いのが沢山ある。




 
モノクロの暮らしへ加えたいパセリ  平尾正人

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玉子酒玉子抜いたらもっと好き  ふじのひろし





   地口行灯




「江戸のことば遊び」-地口




江戸時代に庶民の間に流行り、現在でも親しまれている「ことば遊び」
に「地口」がある。地口とは世間で普通に使われているコトバに語呂を
合せた洒落、言葉遊びのことで、上方では「口合せ」と呼ばれる。
地口は「似口」「二口」口合せは「比談」「比言」というように、本
語に似寄った言葉という当て字をされたことからも分かる。
享保年間(1716-36)ころから流行り出したといい、当初は、
「下戸にご飯」(猫に小判)など掛詞を狙った単純なものであったが、
後に多様化、複雑化して様々な「言葉遊び」が創り出されていった。



この頃は笑い転げる事減って  荒井加寿



地口の流行のきっかけとなったのは、地口付きであったといわれる。
これは、江戸時代を通じて人気を博した俳諧の前句付けにあやかり、
雑俳の宗匠が金儲けのために知恵を絞って考え出したものである。
前句付けとは、点者(出題兼採点者)から与えられた前句に、投句者
が句を付けることである。
これに対し、より平易な地口付きは、点者から題を出さず、投句者が
自由に文句(地口)を作って投稿し、それを点者が評価するというも
のである。投句者は入花料と呼ばれる投稿料を添えて投句し、高得点
者には褒美として反物や塗物道具、煙草入れなどが与えられた。



キリンの絵キリンの首だけを描く  くんじろう





バッハの親離れ 河童の川流れ



文政8年刊の『我衣』(加藤曳尾庵)に地口付きの実例が紹介されて
いる。代表的なものが謡曲『高砂』「梅花を折って頭にさせば」
地口で「梅花を付けて頬紅させば」(梅花は当時、有名な化粧品であ
った梅花油に掛けている)その下に女性の半身絵を載せている。この
絵から地口に掛けられた言葉を容易に読み取ることができたのであり、
のちに流行した「地口絵」の前身ともいえるものであった。このほか、
稲荷社の祭礼の際、地口付きを祭行灯に応用した地口行灯が、境内や
道筋に並べられた。地口とそれを意味する絵を描いた「行灯」で、作
者の機智を競うとともに、江戸の風物詩としてたのしまれたのである。



僥倖をハシビロコウは待っている  岸井ふさゑ



次に、地口などを収録した文化11年(1814)刊「冨久喜多留」
の中から摂津国一ノ谷の蕎麦屋における亭主と江戸からの旅行者との
やり取りの場面をみる。
『摂津の国一ノ谷は、古元歴のころ、源平の跡とて、平家の公達、無
官太夫敦盛の墓とて、何人が建てけん、五輪の石碑残れり、今はその
前並木の方に、海の面を見晴らしたるところに蕎麦を商う者ありて、
往来の旅人を日の丸の扇にて呼びかけ「ソバのあつもりあがらんか、
塩梅義経」という。



203高地で亡父みつけたわ  杉浦多津子



地口好きの江戸者、これを
聞きて喜び「代銭はいかほど」といえば「あつもり16歳の時」とい
。「これは面白い。供にも食わせん」とも盛、これ盛と何杯も食い
「これでは平家の24もりも食うたであろう。外に酒もりがなくては
ならぬ」といえば、亭主「旦那、秀句口合はえらいもんじゃ。有盛有
盛」と出す。その時、江戸者、有合う呉水茶碗を押っ取り「イョ、喉
の守(かみ)呑つね公」と賞めれば「イヤ我こそは剣びし五位の上戸、
胸元の義経と名乗る上は、平家の一文も払いはなし」と駆け出す。
亭主肝をつぶし、供の者を引き止め「こなさんも酒を飲んだ。梶原の
三度の掛けは致さぬ。代物が浦の浪銭を、この場において払った払っ
」といえば「イヤ、おれは梶原ではない。義経の御内において」
「なんと」「酒をただのむじゃ」



ペテン師のぺを掬うスプーンはあるか  酒井かがり



二回三回と読み直さないと分かり難いですね。大意は次の通り。
平家滅亡へと続く摂津国福原での一ノ谷の戦いは、江戸時代において
も軍記物の『平家物語』『吾妻鏡』謡曲『敦盛』などで広く知られ
ていた。一ノ谷の戦場跡に誰とも知らず平敦盛の墓が建立され、その
前で「敦盛蕎麦」を売る店があった。
これは「温かいもりそば」(熱盛り)と「敦盛」をもじった掛詞であ
「そばのあつもり…」の口上で当時有名であったという。
 地口の好きな江戸からの旅人は、口上を聞いて喜び、供のものも二
名と店に入ったのである。平家一門に多い「〇盛」という名に掛けて、
供の者を「とも盛」「これ盛」と呼び、何杯も食べた様子を「平家の
二四もり」と喩え、客が蕎麦の他に「酒もり」が欲しいというと「有
難有難」と答えている。


腕組みをして思慮深く見せている  新家完司



また、喉の守(かみ)呑つねは「能登(のと)守教経(のりつね)」
剣びし五位の上戸は「検非違使五位府(けんびしごいのじょう)
胸元の義経は、源義経のこと。
「剣びしは、摂津の銘酒・剣菱」が掛詞になっている。
梶原の三度の掛けは、平家物語で有名な「梶原の二度かけを引用。」
これは一ノ谷の戦いで梶原景時が、生田の陣営に突入した際に、平家
方の反撃に遭って一旦は引き上げるが、息子景季(かげすえ)を助け
に引き返すという逸話である。
代金を請求してくる亭主に対し、供の者が「自分は助けられた景季で
はなく「酒をただのむ」(佐藤忠信)と言っているのである。



見開いた目は摩周湖になった  和田洋子




アイ―ンしたい アインシュタイン



本来、日本語は洒落向きに出来ている言葉である。
とにかく日本人は、記紀・万葉の時代から洒落好きであった。そこで、
枕詞・序詞・掛詞・縁語などという和歌の技法が発達し、他の文芸に
対しても大きな影響を与え続けてきた。そして、これらの技法は、今
もやはり中核的な基礎的な技法である。文学史を繙けば、江戸時代が
洒落の文芸の時代であったことは、一目瞭然である。洒落は「洒落本
滑稽本・咄本・狂歌・また読本や俳諧連句にも、もちろん古川柳」
中にも、庶民の日常生活の中にも満ち溢れていた。
そんな洒落の中でも、一番単純な技巧である「地口」は洒落の基本と
もいえるもので、長屋暮らしの八さんや熊さん達にもよく解ってもら
えるもらえる洒落であった。では、ここで地口面白世界を覗いてみる。



第4の胃から戻ってきた昨日  中野六郎



地口とは広辞苑に「俚諺・俗語などに同音または声音の似通った別の
語をあてて、違った意味を表す洒落。秀句、口合、語呂合」とある。
例をあげてみると、次のようなものがある。
「舌切り雀」 着た切り雀 来た切り雀
「柿本人麻呂」 垣の外の四斗樽
「一富士二鷹三茄子」 雪見に出たか三谷舟
「ふぐは食いたし命はおしし」 九月朔日命はおしし
「あぶり餅こがしやかとなる摩耶夫人」 焦がしゃ堅となる
「沖の暗いのに白帆が見える」 年の若いのに白髪が見える



ご存知でしたかとカラスの薄笑い  佐藤正昭


川柳には、
田楽の悪い地口は「みそをつけ」
「雨こんこん」と地口行灯仕舞
「鳩の祭り」は石橋で出た地口
「さかな売りまちかね山のほととぎす」  初鰹売りを待ちかねて
「持てぬ奴待兼山のからすなり」  上と同じような意味
などがある。
昔の人は機智や頓智に才能があった。
いやいや「恐れ入りやの鬼子母神」だ。


神様はいかが壺も付いてます  中岡千代美 

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