お祈りをしてから鮎の骨を抜く 笠嶋恵美子
「富嶽三十六景三十六景」 江都駿河町三井見世略図
この絵は、富士山が作り出す三角の相似関係が狙いのように見えるが、
本当の葛飾北斎の狙いは、別のところにある。
歌川広重が「自分の絵は見たままの景色を写しているのに対し、北斎の
絵は、構成の面白さに主眼を置いている」と言っているように、ここは
「越後屋」という有名な呉服商がある場所で、風景画の題材として、し
ばしば選ばれる。が、普通の浮世絵師ならば往来の雑踏や、ずらりと並
ぶ呉服商の暖簾を必ず˥描こうとする。下の広重の「名所江戸百景」と比
較しても判るように、北斎は一階部分をばっさりカットして、あえて二
階部分をクローズアップしている。
土産物の絵葉書のような役割を持つべき浮世絵として、あり得ない構図
を選択している。これが北斎の北斎たる奇想なところでだろう。
「山を見るためにまん中あけておき」
「無いものを見せて嗅がせる六代目 きゅういち
呉服物品 越後
北斎の絵の下にちょこっと見えるのは越後屋の看板。
越後屋が信奉する「三囲」(みめぐり)をもじったものでしょう。
「三囲の雨以降傘を貸しはじめ」 宝井其角
「一に富士二には三井をほめて行き」
越後屋では、俄雨の時に店のマーク入りの傘を無料で貸し出す商法で
江戸っ子たちに喜ばれた。
頑固親爺が着るバリバリの浴衣 岸井ふさゑ
「川柳で詠む江戸の町」 呉服店・越後屋
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名所江戸百景「駿河町」(廣重)
江戸の町人地の中心となった日本橋は、南北の町屋から、江戸城と霊峰
富士が望めるように、道路向きが縄張りされている。駿河町の通りから
南西方向の正面に駿河の富士が望めることで、「駿河町」と名付けた。
「駿河町畳の上への人通り」
「本店と出店の間に不二が見へ」
「木戸をしめると越後屋のにわになり」
雨が降るとさすがに富士山は見えないようで…
「するがからするがが見えるいい日より」
「くもってる時にはゑちご丁(町)になり」
「するが丁ほうらい山もよそならず」
利き足に小春日和を巻いておく みつ木もも花
「越後屋・歴史」
今から三百年ほど前、伊勢は松坂の町に「越後屋の酒屋」という評判の
高い酒屋があった。以前は武士であった主人の三井越後守高俊は夫人の
内助を得て営業も繁盛し、町の人々の尊敬を受けていた。これが越後屋
の歴史の出発点である。そして高俊の子の三井高利が星雲の志を抱いて
江戸へ出、本町一丁目に「越後屋」という呉服商を開いた。
延宝元年(1673)のことである。
高利は今までの呉服屋が売掛金を七月、十二月の二季に集金するために
資金繰りに不便を感じているのを改め、店頭の「現金売り」をして資金
の廻転をはかり、更に「現金掛値なし」という定価販売を決行し、それ
までの顧客の顔色を見て値をつける悪習慣を打破したり、又は、顧客が
必要とする寸法の布地が自由に買える「切り売り」制度を敢行した。
「越後屋に長い返事もきれい也」
「したてまで一夜に出来る駿河町」
「あいさつもけんぶのようなごふく店」
長い返事は「あ~い」 けんぶは絹裂く音。
しりとりのうまい男と銀河まで 森田律子
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掛け値なしに賑わう越前屋
『先祖は寛永の頃、勢州松坂より江戸へ奉公に出で…中略…大店三ヵ所
ありて、千余人の手代を使い、一日に金二千両の商いあれば、祝をする
と云う。二千両の金は米五千俵の価なり、五千俵の米は五千人の百姓が
一ヶ年苦しみて納めるところなり。五千人が一ヶ年苦しみて納むべきも
のを、畳の上に居て楽々と一日に取ることなり。又地面より取り上ぐる
所が二万両に及ぶという。是五万石の大名の所務なり。十月蛭子講の祝
に用ゆる酒五十樽、吸物にする鴨の代百両以上なりと云う。是を持って
大造を知るべし』(文化13年(1821)『世事見聞録』ゟ)
(因みに宝永4年~天保14年迄の越後屋の最高売り上げは、享保3年
の26万両とある)「三越『花ごろも』ゟ」
「夢に見てさえよい所へごふく店」
「壱丁は井桁に三がひらひらし」
「五十里も先を手に取る呉服店」
越後屋の紋は「井桁に三」 駿河の国は「五十里先にあり」
あの辻で出会ってからの半世紀 吉川幸子
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三井陳列場側面来客出口の光景
「越後屋にきぬさく音や衣更 其角」
越後屋の前を通ると其角の耳にも、布を切っている音が聞こえてきたよ
うだ。その革新的な販売方法と顧客に奉仕する精神で江戸へ出て5年目
で本町に2店目を開き、両店とも大繁盛をした。が、同業者から蛇蝎の
如く嫌われ、その迫害と江戸の大火を機に天和3年(1683)駿河町
に移転した。
「駿河町呉服より外用はなし」
「するが屋とかえてやり度き呉服店」
「うざついたあきんどのないふじのすそ」
うざついたは「うじゃうじゃ居る」「ありきたりの」
流しそうめんの速度が気に入らぬ 大野佐代子
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三井開店の図
「ひじがよく見へると元和見世を出し」
<ひじ>は<ふじ>の間違いだろう。天和2年12月28日駒込大円寺
から出火した大火災に本町店焼失、翌年、駿河町に新築されたので句と
上の絵の<元和>は<天和>も字が似ていての間違いか。
とりもなおさず「越後屋」の成功を横目に、通一丁目の「白木屋」や本
町四丁目の「伊豆蔵屋」など、当時の多くの呉服屋が越後屋を理想とし、
同じ経営手法を選んだことはいうまでもない。
「白木屋」の句
「根のつよい見せと大ぜい水をくみ」
「白木屋で娘八丈買うている」
「しんだいをひろげた親と鑓の手じゃ」
「伊豆蔵」の句
「伊豆蔵が店に非番の氷室守」
氷献上(6月1日)で名高い。
鼻母音でおのおの方と言いなさい くんじろう
扶桑名処名物集
絵の右側、木綿店の前の町方番所。俗に「番太郎」といわれ、
越前者が多く勤めていたので、越後屋に対して「越前屋」と洒落た。
「越後屋の前にちっさな越前屋」
ところで、「越後屋」の江戸進出に先立つこと67年前の慶長11年
(1606)伊勢出身の木綿商が大伝馬町へ多数出店した。いわゆる
「伊勢商人」たちの江戸進出だ。日本橋に出店した呉服屋を見ると、
「越後屋」を筆頭に、元禄時代の四大呉服店と呼ばれた「伊豆蔵屋」
「大黒屋」「家城太郎次郎」は、みな「伊勢商人」だった。もちろん、
日本橋で活躍したのは「伊勢商人」だけではない。近江国から商圏を
広げていった「近江商人」も、日本橋で多く活躍した人々だった。
「日本橋西川」「白木屋」「高島屋」といった老舗・大店は近江国に
ルーツをもつ企業だ。されど越後屋は№1。
「越後屋の庭を大名通るなり」
「ごふくやの門から曲がるお江戸入り」
「いつくらも見せてごふくやほしがらせ」
荒海を描けば故郷の風の音 相田みちる
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越後屋本店内
呉服物を買うためでなく普通に駿河町を通り抜けようとする人々に対し
ても、丁稚、小僧が「(御用)は何でござります〳〵」と用向きを聞く。
それがなみ一通りのやかましさではない。
「あいそふすぎて一町のやかましさ」
「うろつけばなぜ〳〵といふごふく店」
「うっかりとのぞかれもせぬ呉服店」
「壱丁を通り抜けるとしづかなり」
大きな呉服店には<茶番>という湯茶接待係が居て、
その接待用の湯茶は買い物の決まった客にのみ出した。
もっとも店に入る客は大体買い物をしたと思われる。
「呉服見世大和茶ほどにたぎらかせ」
「何かくゝんではん取よ茶番よび」
「ひれふして仕廻うと茶番〳〵也」
くゝんでは「咥えて」 はん取は「金銭や品物の受渡役番頭」
捕まえた陽射しと午後のお茶にする 吉川幸子
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越後屋本通り
千客万来する客も、多種多様で品物を買いに来る客以外に、
土産話に見物していく人もあった。
「するが町めしを三石一斗たき」
一人一食一合五勺として約2千人、ちょっと大袈裟なきらいも。
これだけ忙しい呉服店、どのように飯にありついたのか…?
拍子木を打ってめし時をしらせたという。
「ひやうし木で人をおろぬくごふく店」
「いつめしを喰うやらしれぬごふく店」
「若衆一群越後屋の飯」
髪を結うところも店内にあった。
「髪結いのようなのもいるごふく店」
「剃りたての浅黄に揃うごふく店」
「げんぷくを一チ時にするごふく店」
ヒトの手はつなぐかたちにつくられた 渋谷さくら
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呉服屋の風景
番頭たちは暖簾分けの関係上、相当な年齢になってもお嫁さんがもらえ
ないという「呉服店残酷物語」があった。
「ごふく店天命しつて女房もち」
「ばけそうな花むこの出るするが丁」
「番頭のまつご子のあることをいい」
大福をいくつ食べても来ない福 銭谷まさひろ
また番頭となると休日も増え、給料も高くなり、懐も豊かなので、深川
遊里へよい客として出かけていたことが句でわかる。
「旦那白川番頭は夜ぶねなり」
「さよふけてから番頭はまかりこし」
「かね四ツにするが町までこぎつける」
とはいえ公休日にも責任上、四ツ(午後10時)の門限は守らなければ
ならなかった。
若いわたし想い出の中だけに棲む 岡本なぎさ
今と変わらずこの時代にも万引きはいた。
やはり万引きは店の悩みの種であったようで、中二階の踊り場のような
ところから見張りをつけていた。
「ごふく店上に目の有る処なり」
「ごふくやの目明し二かい住居なり」
「呉服屋でぶちのめされる万左衛門」
言い訳をするたび鱗はがれだす 山本早苗
伝馬町大丸
貸傘は頭にも書いたが、越後屋以外にも尾張町の各呉服屋も降雨の際に
広告を兼ねて貸傘の倣いがあった。
「するが町江戸一番の傘や」
「ごふくやのはんじょうを知るにわか雨」
「ごふくやの傘内心はかえさぬ気」
「ゑちごやを又かしにするにわか雨」
「するが丁とあるのが私の傘」
「夕立のあす指を折るごふく店」
呉服店の宣伝広告は、貸傘の他に引き札配ったり、神社仏閣のお手洗い
の手拭に自家の名を染めたものを奉納したりして行った。
「江戸中の家数を知る呉服店」
「まくら紙江戸中くばるごふく店」
「引き札にふじをえがかぬ斗りなり」
中七に八分休符が利いている 井丸昌紀
扨て、三井家の先祖は深く「三囲稲荷(みめぐりいなり)」を信心し、
その利益により、家運益々繁盛し、終には、江戸一番ではない日本一
の呉服店に成った。ということで今日に至るまで深く渇仰(かつごう)
し、同社のために資材を惜しまず後援した。
「一めぐり半も三井で持って居る」
「越後屋のいなりを其角しゃくるなり」
「ない雨のさいかくをした名句なり」
時に元禄6年6月28日、其角33歳の時、次のように詠った。
「ゆうだちや たを三囲りの かみならば」
「三めぐりの雨は豊の折句なり」とある通り、
其角の句は、ゆたか(五穀豊穣)の「三字の折句」になっている。
真夜中の雷お忘れものですか 都倉求芽
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絵本艶庭訓
新築の棟上げ祝いに当時は餅を蒔いた。
やがて越後屋を立ち上げた三井高利の優れた経営センスに、幕府も一目
置いた。貞享4年(1687)高利は親戚でもある三代本因坊・道悦を
通じて、将軍綱吉の側用人・牧野成貞の知遇を得て、六大店の呉服商で
独占されていた「幕府御用達」となる。天和3年(1683)この幕府
御用により、駿河町に「両替屋」を出店すると、高利は幕府の勘定方に
「千両箱を馬の背にのせての輸送は、盗賊の襲撃の警護など、負担が大
きく危険です」と、越後家の為替決済網の利用を勧めた。その後幕府は、
元禄4年(1691)に12の両替商を「御為替」に指定し「株仲間」
が形成された。三井家は、この「両替商」でも、江戸、京都、大阪の三
都に決済網を持ち巨利を得た。
「すさまじく呉をとりさばく越の見世」
「越後の謙信掛値なしの軍」
「三百里もちをふらせる始皇てい」
呉は呉服 越は越後屋。中国の呉越に掛けた。
二句目は、越後の謙信と越後屋の戦いぶり。
三百里は万里の長城。そこに餅を降らせる。などと大きく出たものだ。
ここ一番山を動かす低姿勢 後洋一
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「絵本庭訓往来」北斎画
ここから越後屋を離れて他の呉服店へ。
「ゑびす屋・布袋屋・亀屋」
「尾張町二丁目西側北門より南中程過ぎるまでは、亀屋七左衛門、夷屋
八郎左衛門といえる呉服商人の家只二軒なりしを…亀屋も今は、跡形も
なくなりて夷屋のみ残れり」「『神代余波』斉藤彦麿」
「賑やかさ亀の左右に福の神」
「十月(蛭子=恵比寿屋)の隣へ布袋見世を出し」
「大黒でありそうな見世布袋なり」
「宝船ごふくや二軒乗って居る」
「尾張町福井町ともいいつべし」
ゑびす、ほてい、亀、皆縁起のよい名。浅草には福井町もあると作句者。
これらの呉服店の貸傘の句。
「恵比寿屋へ大黒傘を客へ貸し」
「大黒をかすゑびすやの俄雨」
「尾張町われ劣らじと傘を貸し」
「七福の中三人はごふく店」
「駿河尾張は人を濡らさない国」
大黒傘といのは、番傘の粗末なもので傘の端に大黒天の印が押してあった。
「大丸」
「大丸や傾城どもが夢の跡」
「どちらから見ても四角な大丸屋」
「大丸の向こう一万三千里」
「伊豆蔵」
「伊豆蔵が店に非番の氷室寺」
沢庵も人のうわさもまだ噛める 美馬りゅうこ
ゑびすやは元禄13年とある
「松坂屋」
越後屋・白木屋などは会社のPRを兼ねて、創業から今の隆盛に至る
まで社史が編纂刊行されている。しかし、この松坂屋は明和・安永期
以降の江戸の呉服店として、越後屋・大丸に次いでの名店舗であった
にもかかわらず、江戸愛好家以外に殆ど知られていない。社史による
と明和5年(1768)4月、 江戸進出。上野広小路の「松坂屋」を
買収し、同店を「いとう松坂屋」と社史にあるが、『川柳江戸砂子』
には、開店の時代を「甚だ憶測ながら安永頃に開店したことと思う」
とあるのみ。その基点をみてみると、
「この頃迄呉服店は…中略…<新橋まつ坂や見世開き>のおひろめを、
勘三郎芝居において、『木場の親玉という団十郎かげ清の狂言時、春
芝居に広めしなり』」という箇所があるが、これだけ。
「芝口の松のうしろに二葉町」
「目黒から引っきりもなくすすめこみ」
「法眼の筆万木にすぐれたり」
尾張町『増補浮世絵類考』に「呉服屋の仕入物などに画名見ゆ」とあ
り、二代目・柳文朝が尾張町にあった呉服太物店の布袋屋や、芝口の
呉服店・松坂屋の景色を描いている。
結論はいつも諭吉が引き受ける ふじのひろし
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