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川柳的逍遥 人の世の一家言
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騒乱に泳ぐワラにすがりながら  山口ろっぱ


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         示現流構え

 

「西郷どん」 暗殺剣・示現流

薩摩藩に伝わる門外不出の剣。それが示現流である。
開祖は戦国時代末期の武士、東郷重位。もともと重位は薩摩で
盛んだったタイ捨流の剣士。タイ捨流は、飛び回り飛びかかり
相手を攪乱して討つなど激しい剣技で知られる。
その重位、藩主・義久に従って京に上った際、京都鞍馬口
天寧寺の和尚・善吉より天真正自顕流を習い、印可をもらった。
そして双方の流派を取り入れて新流派を創設したことに始まる。
慶長9(1604)年、藩主家久の命で重位はタイ捨流の師範
東新之亟と御前勝負をした。

地上5センチを横這いする殺気 井上一筒

木刀を額近くで水平に構えた重位の気迫に、新之亟は動くこと
すらできない。
家久に叱責され打ち込んでみたが、木刀は真っ二つ折れた上に、
新之丞はへたりこんでしまった。
業を煮やした家久が自ら打って出るが、重位は扇で家久の手を
痛打、圧倒的実力を見せつけた。
この時から薩摩藩では、示現流が重用されるようになった。

心臓がいきなり止まることもある   北山惠一
「示現流」の画像検索結果

さて、この示現流、どのような剣法なのであろうか。
まず示現流には「防」の技がない。攻撃は最大の防御が特徴で、
初太刀にすべてを賭けて切り込んでいく。
そのため初太刀の勢いは凄まじく、受けた相手の刀をへし折っ
てしまったり、受けた刀もろとも相手へ押し込み脳天を割って
しまうこともあるという。
「受け太刀も二太刀も必要ない」剣法なのである。
実際、江戸時代末期まで防具を見たことがないという薩摩武士
も多かったそうだ。だから新選組局長の近藤勇は、常に隊士た
ちに「薩摩ものと勝負する時は、まず初太刀をかわせ」
口酸っぱく注意していた。

それも誠だ火葬場がそこにある  筒井祥文

修行方法も独特な面がある。まず他の流派で見られるような、
竹刀を持って2人で戦うことはない。修行はすべて木刀を使い、
1人で行うものである。ユスという木で作った木刀を用いて、
6尺ほどの丸太を立てて、左右への袈裟懸けでひたすら打ち込む
のが基本。この時「猿叫」といわれる独特の気合い、
「チェーイ」「チェスト」のように聞こえる声を発する。
達人になると打ち下ろした丸太に煙りがくすぶるという。
この他にも、丸太を数本立てて、その間を駆け巡りながら打つ
修行もある。一人対多数を想定した野戦剣法といえるだろう。
骨太で実践的な示現流は、薩摩武士の性によくあった。
江戸時代、薩摩藩の流儀となり、門外不出の剣として守られた。
長い歴史の中では、示現流から独立した小太刀流や薬丸示現流
などの流派もある。

丹田に闘志燃やしている寡黙  上嶋幸雀 

では、示現流にはどのような剣豪がいたのだろうか。
まず名前が挙がるのが中村半次郎。
薬丸示現流の使い手で、西郷隆盛腹心の武士だった。
西郷と敵対する政敵や過激な攘夷志士を斬りまくった。
敵も味方も恐れた、かの「人斬り半次郎」である。
もう1人の人斬り、田中新兵衛も示現流の使い手であった。
関白側近・島田左近の暗殺、本間精一郎暗殺などで恐れられた。
つねに実践を想定して修行し、尚且つ「一撃必殺」の技を誇る
示現流は暗殺に適していたのだろう。
鹿児島では、現代でも東郷家の手で示現流が受け継がれている。

汗拭い明日が広がる位置に立つ 上田 仁

Toshiaki Kirino 2.jpg

【付録】 西郷の腹心といわれた「人斬り」桐野利秋

薩摩藩下士の三男に生まれる。元の名は中村半次郎。
家は貧しかったが、15歳で道場に通わせてもらった。
しかし父が流刑になり兄が病没したため、半次郎が家族の面倒
を見ることになる。貧しく忙しい中、それでも半次郎は鍛錬を
欠かさなかったという。半次郎の剣は一応、示現流の体だが、
目録や皆伝は得ていない。そんな金はなかったからだ。
野山に生えている木に向かってひたすら斬りつける日々。
そうやって「神速の剣」を身につけた。

小指からけらけら鬼の笑い声  くんじろう

まだ少年の頃に出会った西郷を訪ね、面会を果たし、西郷の下で
働くこととなり、国主島津久光の京都行きにも加えてもらった。
久光帰国後も京に残り青蓮院宮の警護にあたる。
公武合体派の青蓮院宮は攘夷志士に狙われたが、すべて半次郎が
返り討ちにしていたという。この頃から「人斬り」と呼ばれた。
やがて西郷は、半次郎を長州藩に送り込み、情勢を探らせた。
これが大いに薩長同盟に役立ったという。西郷は半次郎の恩人だ。
嬉嬉として西郷のために働いた。新政府樹立後は陸軍に配属。
この頃、桐野利秋と改名する。
桐野の絶対だった西郷と西南戦争の最前線で戦い、戦死を遂げる。

裸一貫惜しいものはなにもない  前中知栄 

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嘘ひとつ浅蜊が砂を吐くように  雨森茂喜

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             調 所 広 郷

「西郷どん」 幕末期、薩摩・長州にどうして金があったのか?
幕末期、歴史の表裏で絶大な影響力を保持し、討幕運動の核となった
薩摩藩と長州藩ーこの両藩が幕末から明治期にかけ、
荒れ狂う政局の主役に躍り出た最大の要因は「カネ」の力である。
未曽有の財政難と外圧に揺らぐ幕府に対し、薩長両藩は独自の経済基盤を
背景に体制を転覆しうるだけの国力を密かに育んでいた。
両藩に共通するのが恒常的借金地獄からの奇跡的な巻き返しであり、
計画的に行われていた「裏金作り」の巧妙さである。

アドリブをどっさり連れて寒気団  美馬りゅうこ
薩摩藩は公称77万石の大国でありながら、稲作には適さない土地柄で、
実質収入は36万5千石に過ぎず、貧窮士族も多かった。
第八代藩主・島津重豪(しげひで)の治世にはすでに藩の負債総額は実に
5万両という巨額に達していたという。
当時の金利は一割二分。年間の利息が60万両になる計算だ。
これに対し、薩摩藩の経常収入は年間12~13万両程度だったという。
これでは利息さえ、到底払えるものではない。
薩摩藩はしかし、ウルトラCとも言える大胆な手段によって、
この大借金を一気にチャラにしてしまったのである。
謎謎の袋の口を詰めておく  三村一子
この大逆転劇を担ったのが、重豪が茶坊主から藩の大番頭格に抜擢した
調所広郷(ずしょひろさと)だ。
調所は借り入れの新旧を問わず、すべての借金を「250年ローン」で
「無利子」という、荒唐無稽な返済方法に改めることを一方的に宣言。
これらの借金は、維新後に廃藩置県で薩摩藩が消滅すると返済が停止され、
実質的に踏み倒された。
さらに自ら主導して裏金作りさえ行ったというから、
手段を選ばぬ姿勢には並々ならぬものがあった。
時節柄トリックもまたリサイクル  高野末次
調所は同時に、元来、薩摩藩が手掛けてきた琉球を介した中国貿易を
強力に推進し、藩とは別に「島津家」という新会社を設立し、
砂糖を専売として物流合理化と高品質化を図り、高額取引を実現した。
薩摩藩は密貿易にも手を染め、ついには1千万両以上の備蓄品を確保。
豊かな資金を背景に富国強兵策を推進し、
西南雄藩の一角へとのし上がっていく。
地下街の散り初めしバラ手に受ける  山口ろっぱ   


    村 田 清 風

一方の長州藩の財政改革のリーダーとなった村田清風は、天保14年
(1843)37ヶ年 賦皆済仕法(ぶかいさいしほう)を定める。
すなわち藩士が藩に借りた負債を借銀一貫目につき、30目を37年間
支払えば元利とも完済することとし、藩士が商人から借りた私債は藩が、
肩代わりすることとする。
藩は商人に対して37年間、元金据え置きにして年利と未収金の利子を
払い、最後の年に元金を全て支払うというのだが、これは実質的に商人
に対する大幅な利下げであり、元金を返済する意思は、事実上なかった
ものとみられる。
実際、こちらの大借金も廃藩置県によって、霧散霧消の形となっている。
くしゃみした途端三幕目が終わる  清水すみれ
さらに清風は、商業・交通の要衡である下関海峡の地の利に着目して、
越荷方を設置する。越荷方とは藩が運営する金融兼倉庫業であり、
多国船の荷を担保に資金を貸し付けたり、荷を買って委託販売するという
もので、大阪での相場が安い時には、下関に留め置き、高値のときに
売り抜け、いわば恣意的な流通操作によって利益を得た。
また長州には第7藩主・毛利重就(しげなり)の治世以来、
「撫育方」と呼ばれる総合開発基金が設置されていた。
これは一言で言って、「裏金作り」というのための機関。
撫育方により蓄積された隠し資産が、やがて倒幕のための武器購入資金、
軍事費に用いられたのは言うまでもない。
維新後に福沢諭吉とともに「天下の双福」と呼ばれた幕臣・福地源一郎は
「幕府は、薩長に負けたのではない。金に負けたのである」と述べている。
あの風はあの雨雲と出来ている  中野六助
【付録】‐①  撫育方
長州第7藩主・毛利重就が主導した宝暦の改革に際して設立された機関。
重就は宝暦検地によって、新たに得た4万石余りの増収を借金返済には
回さず、特別会計として温存し総合的開発基金にあてた。
撫育方は米、紙、塩、蝋の増産に励み、港湾整備事業も行って、密かに
収益の拡大と蓄財を計った。
その蓄積は莫大なものとなり、幕末期の長州藩は表高36万石に対し、
実高120万石という撫育資金(隠し資産)を保有していたとされる。
最後までシラ切り通す下ろし金  上野勝彦
【付録】‐② 調所広郷
存命当時は笑左衛門の名で知られた。
島津重豪の才能を見出され、家老として薩摩藩の財政再建に辣腕をふるう。
藩の借金を踏み倒した際、「古い証文を書き換えるため」と申し入れ、
貸主の商人から預かった証文を焼払ったとも、彼らの目の前で破り捨てた
とも言われる。さらに幕府に10万両の謝恩金を献納して根回しし、
商人たちが幕府へ訴え表沙汰にするのを封じたという。
国許の貸主に対しては、貸金の額に応じて身分を与え、
「金で名誉を買わせる」手段を用いた。
こうしたことで、同時期に財政改革を行なった長州の村田清風と較べても、
領民を苦しめた極悪人というレッテルを貼られた。
藩内では、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。
その後、西郷や大久保が明治維新の立て役者となると、広郷が没した後も、
調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。
後年、考えると薩摩藩が他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有
するなどできたのは、薩摩藩の財政を再建した広郷の功績と評価され、
その恩義に報い招魂墓が建てられた。
放蕩の末満点の星を食む  くんじろう

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動物園起きていたのはキリンだけ  片岡加代

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    山 岡 鉄 舟

『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、
 始末に困るものなり。
 この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は、
 成し得られぬなり』


「西郷どん」 山岡鉄舟

3月15日に決まった江戸城総攻撃を中止させようと、山岡鉄舟は、
危険をかえりみず、官軍が陣営をひく駿府城へ駆け付けた。
勝海舟の手紙を西郷に届けるためである。
この時官軍の陣所を通るために、薩摩藩士・益満休之助を引き連れた。
益満は三田薩摩屋敷焼き討ちのときに幕府に捕えられ、
勝海舟の屋敷に預けられていたのである。
3月9日に山岡は西郷に会い、勝海舟の手紙を渡した。
この時の山岡の勇気を讃えたのが、西郷の名言にもなる文頭の
「命もいらず・・」である。

言わんでもその顔見たら分かります  北原照子

海舟の手紙には、徳川家の助命など一言も書かれていなかった。
それどころか「徳川の臣は一致して恭順しているが状況は険悪で、
いつ不測の事態となり静寛院宮(和宮)に危険が及ぶかもしれない。
官軍は条理をただして、処理を誤らないでほしい」
というのみであった。
西郷のことをよく知る海舟は、歎願は通用せず、平等な立場から
大義名分を説くほうが効果があると見抜いていたのである。
西郷も海舟の真意を深く察し、慶喜の処分と江戸総攻撃について
緊急の参謀会議を開いた。

会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ

海舟の手紙に対して、西郷は7カ条の条件を提示した。
鉄舟は一点、「慶喜の備前藩預け」について幕臣として断じて
承諾できないと拒絶した。
そして「私とあなたの立場を入れ替えてお考えいただければ、
ご理解頂けるはず」と迫ったが、
西郷も「朝命である」と一歩も引かず、激論となった。
やがて西郷は鉄舟の誠意に心を打たれ、
「慶喜公の事は私が一身に引き受けるので、ご安心ください」と言い、
決死の覚悟でやってきた山岡の労をねぎらった。
さらに江戸に入って勝と会談することを約束し、
鉄舟に通行証を与えて帰した。

とりあえずうなずいておく偉い人  山口ろっぱ

3月11日、西郷は江戸郊外にある池上本門寺」に入った。
そして13日に江戸高輪の薩摩藩邸で海舟と会見する。
2人は初対面ではなく、以前から面識があった。
元治元年(1864)9月に、禁門の変後の幕府の方針を聞くために、
西郷が勝海舟を訪問していたのである。
この時、2人は互いにただならぬ人物であると感じ、認めあっていた。
江戸城中では徹底抗戦を主張する声が高まっており、
西郷の出した条件が受け入れられる可能性はなかった。
海舟は、あ抗戦派に恭順するように説いたが聞き入れられず、
そればかりか命を狙われている状態であった。
海舟も必死だったのである。

線の通り歩くと三途の川がある  田中博造

総攻撃の日まであと2日、江戸城にはいきり立った旧幕臣が集結し、
緊張は最大に達した。
海舟は最後の望みを託し田町の橋本屋で西郷との二度目の談判に臨んだ。
そして海舟は、西郷が出した条件に対して、徳川側の代案を出した。
1、慶喜は隠居して水戸で謹慎する。
2、江戸城は明け渡しの手続きを済ませた上で、田安家に預ける。
3、城内に住む家臣は、すでに城外に移り住み、謹慎している。
4、慶喜の妄動を助けた者は、寛大に処分し命に関わるような
  厳罰を与えない。
5、士民の暴挙鎮撫が徳川の手に負えないと判断した場合は、
  官軍に鎮圧をお願いする。
海舟の出した案は、官軍の要求をほとんど無視したものであり、
江戸城を田安家に預けるということは、官軍には渡さないという
意味である。

それも誠だ火葬場がそこにある  筒井祥文 

西郷は勝の修正案を持ち帰り、駿府の大総督府で協議、
京都で三条実美や岩倉具視、大久保一蔵、木戸孝允とも話し合った。
その結果、「江戸城は尾張藩に引き渡すこと」「軍艦武器は官軍が
すべて没収し、徳川家の処分が完了後、必要数返す」ことを決めた。
尾張藩は徳川御三家の一つであるが、すでに官軍側であったので、
田安家に預けるのとは訳が違った。
4月4日、東海道先鋒総督が江戸城に入り、田安慶頼はこれを受けた。
そして11日、平和的に江戸城の「無血開城」が実現したのである。
無血開城は、西郷と海舟でなければ実現できなかっただろう。
海舟は慶喜を恭順させ、明け渡しまでの道筋を作った。
それに対して西郷は、会談だけで総攻撃の中止を決めた。
西郷の英断によって百万市民の命は救われ、
江戸の町は戦火を逃れることが出来たのである。

失敗をすると決めてから笑う  森中惠美子  

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     パ ー ク ス

【付録】 無血開城の裏

無血開城の決断の裏には、イギリス公使パークスの存在もあった。
西郷は新政府に協力的なパークスに「総攻撃による負傷者を横浜の
イギリス軍病院で治療してほしい」と使者を派遣して頼んだ。
当然、承知してもらえると思っていたが、パークスは、激怒しながら
「徳川慶喜は恭順していると我々は聞いている。
 恭順している者に、戦争を仕掛けるとはいかがなものか」
と拒絶したという。
この返答に西郷は驚いたが、無血開城に反対する官軍兵士を納得させる
ことが出来ると、むしろ喜んだという。

西郷が示した徳川存続の7つの条件
1、慶喜を備前岡山藩に預ける。
2、江戸城を官軍に明け渡す。
3、軍艦一切を官軍に引き渡す。
4、武器一切を官軍に引き渡す。
5、城内に居住する家臣は向島に移り、謹慎する。
6、慶喜の妄挙を助けた者を謝罪させる。
7、旗本の中で、徳川氏の力で鎮撫しきれず暴挙に出るものがあれば、
官軍がそれを鎮圧する。
この7カ条が実行されれば、徳川家を寛大に処置する。

国境をまたぐと飢餓の臭いする  菱木 誠

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雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり
          錦 旗 を 掲 げ る 新 政 府 軍

慶応4年(1868)1月4日、新政府軍は軍事総裁仁和寺宮嘉彰に
錦旗と節刀をさずけ、征討代将軍に任命した。

「西郷どん」 戊辰戦争開戦
大政奉還が行われ、政権が返上された後も徳川慶喜は、政治の実権を

握ったままであった。
慶喜の考えていた新しい政府は、天皇の下で徳川家が実質的な盟主となり、

政治を運営していく、というスタイルであった。
あくまで慶喜の首を取ることにこだわっていた薩長にとっては、

はなは
だ面白くない。
そのため西郷は、何としても慶喜を引きずり下ろすことを画策していた。
新しい政治体制に徳川家の影響が残ることを、とにかく嫌ったのである。
ゴミの日にいつか私も捨てられる  杉本義昭
そもそも、大政奉還後の朝廷は、中川宮親王や摂政・二条斉敬など、

いわゆる佐幕派の重鎮にいまだに主導権があり、岩倉具視らの倒幕派の

影響力は弱いものであった。
このため討幕派は状況を一変するために王政復古クーデターに踏み切る。
その内容は、摂関、将軍、幕府、京都守護職、京都所司代の廃止と総裁、
議定、参与の三職からなる新政府の樹立を宣言するものである。
大号令が発せられたことで、約260年続いてきた幕府は終焉を迎えた。
だが,慶喜もさまざまな人脈を使い、新政府への参画を画策。
しかも実現しそうな勢いですらあった。
雨靴がお化け屋敷に干してある  黒田忠昭
そんな折、慶応3年12月23日に江戸城西の丸が焼失する事件が起きた。
薩摩藩と通じていた奥女中の仕業とされた。
さらに庄内藩の屯所が発砲され、これも薩摩藩の関与が囁かれた。
これに怒った老中の稲葉正邦は、庄内藩に薩摩藩邸を襲撃させたのである。
これは上方に「江戸では幕府と薩摩が交戦状態になった」と伝わった。
大坂に駐屯していた旧幕府勢力は激高し、慶応4年1月2日、

2隻の幕府方軍艦が兵庫沖に停泊する薩摩藩軍艦を砲撃。

翌3日には、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発したのである。

これは薩長にとって、願ってもない幸運な事態であった。
雨上がらんでええ暫しこのままでええ  藤井孝作
すでに入京していた薩長の軍は約5千人、対する旧幕府軍は1万5千人。
しかも今回は、旧幕府軍の方が新式の武器を揃えていた。
だが3日は、指揮系統や戦略の不備から旧幕府軍は、苦戦を強いられる。
翌4日、朝廷から「慶喜追討令」が発せられ、錦旗、節刀が登場。
新政府軍は正式に「官軍」となった。
これを見て西国諸藩は、一斉に新政府側についてしまった。
接続詞を迷っているあいだに秋  竹内ゆみこ

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ナポレオンから贈られた軍服を着る慶喜

【付録】 慶喜とナポレオン
 
フランス公使・ロッシュは、国の方針を越えて徳川慶喜個人的に相当

肩入れしていたと言われる。
慶喜にフランス産の馬を送った他、ナポレオン三世からの贈り物として
皇帝服を送っている。慶喜が皇帝服を着た写真がそのときのものである。
また、幕府はフランスから240万ドルの支援を受けて、横須賀製鉄所の
設立の計画にも着手しており、徳川幕府とフランス公使のロッシュと
関係は相当な浅からぬものがあった。
山芋のぬるぬる少し甘えるか  山口ろっぱ
ナポレオン三世は、世界中に影響力を及ぼす壮大な構想を描いており、
アルジェリア、中国、ベトナムなどへの侵略的進出などを実行してきた、
野心家である。すなわち日本をも植民地化してしまおうという、

野心と深謀がナポレオンの腹の奥に、垣間見えるのである。
所謂フランスから金の支援を受けたり、日本建設の事業に着手したりと

ナポレオンの使命を受けたロッシュの外交は、非常に危険な火種を抱

いているものであった。
怪しいものですとは誰も言わんやろ  西山春日子 
ただ慶喜がロッシュ一辺倒だったかと言うとそうでもなかったようだ。
大政奉還後に薩長の武力的京都占領の際、大坂へ逃げた慶喜だったが、
そこでフランスと対抗するイギリス公使のパークスと面談し、
「今後も日本の外交を司るのは自分だ」と発言している。
したたかでずる賢い慶喜は、この時点でもフランスとイギリスを

天秤にかけ、薩長の出方をみて勝ち馬に乗ると考えていた節がある。
それを証明するように勝海舟が江戸開城について西郷と話し合った際、
慶喜の助命をどうしても西郷受け入れない場合には、

パークスの手引きで慶喜をイギリスに亡命させる手筈を整えていたという。
まもなく幕府は潰れるわけだが、なぜかロッシュは慶喜のことが好きで、

結果的にロッシュの愛もナポレオンの野心も片思いで終わってしまう。
仰向けになるほど信じてはいない  下谷憲子

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騒乱に泳ぐワラにすがりながら  山口ろっぱ
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                                                  薩 州 屋 敷 焼 撃 の 図

西郷は旧幕府を挑発するため、江戸市内を攪乱させるテロを考案。
その密命を受けた薩摩藩士・益満(ますみつ)休之助は、討幕、
尊王攘夷派の浪士を集め江戸市中で放火、強盗、辻斬りなどの
作戦を実行。さらに江戸市中の警護にあたっていた庄内藩邸へ
発砲して挑発。旧幕府サイドは薩摩藩邸に攻撃を加えて制圧した。
が、西郷は鳥羽・伏見の戦い開戦の口実とした。

「西郷どん」 倒幕への動き
慶応3年(1867)5月、西郷と大久保は協力して諸侯合議によって
「長州の名誉回復」と「兵庫開港」という懸案の解決を幕府に迫ること
を藩父・島津久光に説いた。
久光もそれに同意して、京都で久光のほか、松平春嶽、山内容堂、伊達
宗城の4人で協議した。これを四侯会議という。
そして、この二大懸案を将軍慶喜に提案した。
しかし、慶喜は巧妙で提案を受け入れる素振りをみせながら、
自身の外交権に関わる兵庫開港を優先して勅許を得た。
長州の名誉回復は後回しにされた。
久光は怒って、京都に潜伏している長州藩の山県狂介(後の有朋)と
品川弥二郎を呼んで、「慶喜の反省がみられず、もはや尋常の手段では
とても大勢挽回できない。薩長連合して大義を天下に示したい」
と伝えた。これを機に薩摩藩は武力行使方針を決定するのである。
(兵庫開港とは、外国嫌いで兵庫港が京都にも近いことから、
孝明天皇が開港を断固反対していた案件である)
聞こえないふりにはもってこいの雨  山田ゆみ葉
6月には、薩摩藩は土佐藩と「薩土盟約」を結ぶ。
これに小松帯刀と西郷、大久保が同席した。
慶喜に「政権返上や将軍辞職」を求め、加えて倒幕が主な内容だった。
もっとも土佐藩は、大半は倒幕へと意思統一されつつある薩摩と異なり、
藩上層は倒幕に反対的な立場を取っていた。
藩祖・山内一豊は徳川家によって土佐を与えられた恩顧大名であり、
公武合体の立場をとっていたからである。
藩の中間的立場の後藤象二郎もこの頃には、龍馬から船中八策を授けら
れており、幕府に大政を奉還させることで徳川家を存続させるという
方針をとる意向でいた。
従って、この会談では土佐側は倒幕を原則回避するという方向性を示し、
薩摩側もそれを容れるしかなかった。
明日なら飛べると思う水たまり  瀬戸れい子
そして、このことを長州藩にも伝える。
京都に同藩使者を迎えた西郷は有名な「三都同時挙兵計画」を長州側に
披露する。三都とは京都・大坂・江戸のことである。
京都では、兵1000人で禁裏御所の警固、会津邸や幕府屯所の襲撃、
大坂では、兵3000人で大坂城襲撃と軍艦の乗っ取りという内容だ。
壮大な計画で、西郷はこれを薩摩藩だけで断行するつもりでいたが、、
さすがにリスクが大きく、9月、大久保が長州に赴いて「薩長芸三藩
挙兵計画」を提案した。
薩摩・長州・芸州の三藩が海路、大坂に集結し、薩摩藩の京都制圧を
残り2藩が助けるというものだった。しかしこれは失敗に終わった。
歯車の一つがダダをこねている  嶋澤喜八郎
これら表向きのものとは別に、西郷は武力討幕を開始する導火線として、
慶応3年10月頃から「秘策」の準備を進めていた。
薩摩藩士・益満休之助に対し、
「江戸周辺で浪人を集め、江戸市中や関東を騒乱に陥れるようにせよ。
徳川家が討伐の兵を派遣したなら、可能な限り抵抗せよ」
という密命を下した。
益満は、約500名の浪人を集め、12月上旬から江戸周辺の治安悪化
工作を開始した。浪人たちは商家に押し入って金品を強奪すると、
三田の薩摩藩邸へと引き揚げた。
西郷は江戸を錯乱状態に陥らせ、幕府の方から薩摩藩に武力行使をする
ように仕向けたのである。
足し算の途中で夕陽が沈んだ  森田律子
西郷の思惑通り、江戸市中は三田の薩摩藩邸を根城とする浪人集団に
よって錯乱状態に陥った。
対する幕府内部では、「まずは上洛中の慶喜公の指示を仰ぐべき」
という慎重論を唱えるものもいた。
だが「即刻、薩摩藩邸を焼き討ちにすべきだ」との意見が大勢を占めた。
旧幕臣たちにとって、薩長両藩は徳川将軍に歯向かう敵には違いない
ものの薩摩藩は八・一八政変では蹴落とした長州藩と、いつの間にか
手を結び、幕府に背いたため、長州藩よりも薩摩藩を敵視した。
薩摩藩の首脳部では、裏工作の推進役である大久保よりも、政界の表
舞台で活動する西郷の知名度が高く、憎悪や反感の対象となった。
白黒をはっきりさせたがる右手  清水すみれ 
一方の慶喜は、武力衝突を避けて、まだ基盤が確立されていない新政府
を有名無実化することを策していた。
旧幕臣の大多数は、慶喜が大政奉還を実行したことに不信感を抱き、
そのような高等戦術を理解しようともしなかったのである。
12月23日、薩摩藩の息がかかった浪人部隊は、庄内藩邸へ発砲した。
このころ庄内藩は江戸警備を下命されていたことから、
庄内藩邸への発砲は最上級の挑発行為だった。
江戸の旧幕府首脳部は、強硬論を抑制するのは無理と判断し、
慶喜の指示を仰がないまま、25日未明、薩摩藩邸への攻撃を開始した。
錆だけが渡り切ってる歩道橋  新海信二
戦闘は翌日の午前中には決着がつき、薩摩藩士の大多数は品川沖に停泊
していた軍艦に乗って退却した。
なお益満は逃げ遅れて捕縛され、のちに江戸無血開城交渉の使者として、
重大な役割を演じた。
「薩摩藩邸焼き討ち」の報せは、3日後の28日大坂城にもたらされた。
9日の王政復古の政変以来、会津藩を中心とする強行派は慶喜に対して
武力による新政府の打倒を訴えた。
慶喜はそのような動きを封じていたものの、事件の一報がもたらされると
強行派を抑止することは無理と判断し、不本意ながらも、
薩摩藩討伐のため京都に向けて進軍する命令を下した。
慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いの開戦である。
人間のエゴでブルーの薔薇が咲く  清水久美子 
【付録】 龍馬暗殺の謎
鳥羽伏見開戦の2ヶ月前の11月、龍馬は暗殺された。
西郷が暗殺事件の黒幕だったとされる説も提起される。
西郷にとって多くの秘密を知った龍馬は、もはや危険で
無用な存在となりつつあった。口封じだったのか。
龍馬暗殺の実行犯は、幕府見廻組である確率が高い。
だが、龍馬の動きを密告し、教唆した黒幕として西郷が関与した
可能性は残される。

レッテルを剥がせば違う別の顔  与三野保  

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