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川柳的逍遥 人の世の一家言
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警告かも知れぬ骨が軋むのは  笠嶋恵美子


  洛中洛外図 (左)

右隻に左京から東山、左隻に北山から西山に至る景観が描かれている。
本丸の西には二の丸、三の丸、治部少丸、桃山東陵の北には名護屋丸、
南に山里丸や学問所、お舟いりなどがあった。
本丸の北には松の丸、徳善丸、弾生丸、大蔵丸が内郭を囲み、
その周囲に二百数十にのぼる大名屋敷があったと伝える。

「歴史に翻弄され消え去った夢幻城」

秀吉は天正19年(1591)に関白の位と京都における政庁としての

聚楽第を
甥の秀次に譲り自身の隠居所として、

文禄元年(1592)8月に、伏見指月の地に城の建設を始めた。

これが幻の美城といわれる「伏見城」である。

当時、朝鮮との戦争は継続中だったが、

文禄2年に入り明との講和交渉が、
動きはじめ、

明の使節を迎え日本の国威を見せつける目的と、


同年8月秀吉に拾丸(秀頼)が産まれ、大坂城を与えると想定したことで、

隠居屋敷は大規模な改修が行われることになったのである。

目に刺さる三角定規直定規  時実新子

慶長元年(1596)6月に城は竣工。
                                     
築城資材などの運搬は、宇治川の水運を利用し、
     おぐらいけ
宇治川は巨椋池に注いで
いたが、この時に堤を築いて池と分断し、

川の水量を指月の浜に導いた。


この城は、信長の安土城が湖水に麗姿を映す城造りを真似たものだった。

また巨椋池の中に小倉堤を築いて大和街道を設け、鴨川の流れを

勧進橋から、西に切り替えて、淀に注がせ伏見の地形を一変させた。

五重の天主は雲にそびえ、金色の瓦は燦然と伏見山頂に輝きわたり、

この城の威容は、明国使節の度肝を抜く予定だった。

しかし、明の使者が到着した同年7月12日の夜半から13日にかけて、

慶長伏見地震が起こり、城門・天守閣・殿舎などことごとく倒壊した。

言い訳は無用尻尾は巻いている  上田 仁



このころ近畿地方は大小の地震が頻発しており、

秀吉も「なまつ(鯰)大事」とし伏見城の地震対策に力を入れていたが、

慶長伏見地震はそれを上回る大地震となり城は倒壊してしまったのである。

そのため和睦会見は9月1日に延期され、城内の御花畠山荘に変更された。

秀吉も木幡山に仮の小屋を造り、そこで避難生活を送っている。

この指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、

慶長2年(1597))に完成し、「木幡山伏見城」となる。

本丸が完成したのは、同年10月10日であった。

レンコンの節は物怖じなどしない  美馬りゅうこ

晩年、秀吉は伏見城で過ごすことが多かったが、

慶長3年8月18日、五大老に嫡子・秀頼のこと託し、伏見城で病没。

在城期間はわずか4年であった。

秀吉の死後、遺言によって秀頼は伏見城から大坂城に移り、

代わって五大老筆頭の家康がこの城に入り政務をとった。

まもなく五大老の一人である前田利家がに病死すると、

家康石田三成
佐和山城へ追放する。

その家康も9月には、大坂城に移ると伏見にあった大名屋敷のほとんどが、

大阪に移ってしまい、伏見城の城下町は荒廃していく。

半分は夢半分はカスティラの呪縛  山口ろっぱ

「まぼろし城の運命」

関ヶ原の戦いの際には家康の家臣・鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、

石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失。

焼失した伏見城は、慶長7年(1602)、家康によって再建。

しかし元和5年(1619)、二代将軍・秀忠によって伏見城廃城が決定され、

元和9年に家光が三代将軍の宣下をこの城で受けた後、

寛永2年(1625)家光の指揮により一木一石余すことなく破壊された。

建築物は天守閣などは、二条城、福山城、広台寺などに移されている。

ふるさとの山が他人の顔をする  合田瑠美子

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唐突に咲いて散るのも唐突に  雨森茂樹


 豊臣秀次像、(高厳一華賛・京都地蔵院所蔵)

「人面獣心」

淀殿が第二子・(秀頼)を産んだことで、関白秀次太閤秀吉の関係は、

きわめて微妙なものとなった。

文禄2年(1593)9月20日、秀吉は新たに築いた伏見城へ移り、

10月1日、拾と秀次の娘との婚約を、秀次側に申し入れた。

翌年の正月には、諸大名を動員し、伏見城の外郭内に、

それぞれ屋敷を営むように命じた。

秀吉の拾への溺愛により、豊臣家中の空気は、少しづつ変わっていく。

秀次も、不穏な空気を察知したのか、近習に

「関白を返上した方がいいのではないか」と漏らしている。

それに対して、近習のものは、

「気にしなくてもいいのではないか」と答えた。

それが秀次の悲劇の始まりだった。


企みを図りかねてる風の向き  太田芙美代

そして、秀吉は、秀次との折り合いを何とかつけようと、

努力をする一方で、
秀次との対決に備える根回しに、

京都で有名大名の邸宅を盛んに訪問し、


加えて、御所で能を上演するなど、朝廷との交流も積極的に行い、

また諸大名に、伏見に屋敷を建てさせたりした。

そのころから、秀次の生活は乱れ始めた。

政は放ったらかしで、狩りに熱中し、酒びたりになった。

そんなとき、秀次に謀叛の疑いが起こった。

石田三成は、「謀叛の企てなどはない」という誓紙を書かせたが、

それですべてが、終わったわけではなかった。

開幕ベルだったのか河馬のしゃっくり  森田律子

当時の状況を、ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスは、

「拾の誕生で、秀吉との関係は『破壊』された。

  なお秀吉は、(秀次に対して)関白の座を拾に譲るよう,画策し始め、

城内に於いてだけでなく、城外でも『今に関白殿が太閤様に殺される』

という噂は、日一日と弘まるばかりであった」と伝えている。

文禄4年7月8日、秀次は秀吉に直接の弁解も出来ないまま、

高野山に追放され、前田玄以をして朝廷に、「関白の追放」を奏上し、

15日には、福島正則を高野山に派遣して、「切腹」を命じた。

フロイスの言う、その噂は、まさに現実のものとなったのである。

不機嫌か蛍光灯は点滅す  嶋澤喜八郎


山本主殿(右下)山田三十郎(左上)不破万作(左下)雀部重政(中央)

多くの小姓衆は秀次から名のある刀を下賜されると、次々と腹を斬った。

山本主殿助、山田三十郎、不破万作の3名は秀次が介錯した。

虎岩玄隆は自ら腹を切り、5番目に秀次は雀部重政の介錯により、

切腹して果てた。享年28。辞世は、

「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」

はらわたは拾った夢の滓ばかり  有田一央

 
         秀次自刃の間 (高野山金剛峯寺にある柳の間)


秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。

しかし、秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。

8月2日早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ。

さらに3メートルほどの塚を築いて、秀次の首が西向きに据えられた。

その秀次の首が見下ろす前で、まず公達子どもたち)が処刑された。

最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって

北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。

結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名が斬首された。

子どもの遺体の上に、その母らの遺体が無造作に折り重なるように

一つの穴に投じられた。

(秀次の遺児の中では、後に真田信繁の側室・隆清院となるお菊は、
 後藤興義に預けられて助かり、同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も
 難を逃れた、と言い伝えられている)

カジキマグロの嘴は仕込み杖  井上一筒

秀次の一族を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれ、

「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれる首塚が造られた。

首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られた。

客観的に見た太閤と関白との確執の原因を、フロイスは三つ挙げている。

「第一の理由は、秀吉は秀次に天下を譲り渡したものの

実権を渡す気は無く、
支配権を巡る争いがあったこと。 

第二の理由は、
秀次が再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかったこと。

日本を領すれば事足りると考える秀次との意見の相違があったこと。

第三の理由としては、実子・秀頼の誕生を挙げ、

秀吉は秀頼を秀次の婿養子とするという妥協策を発表したものの、

その本意は、秀次に関白の地位を諦めさせることにあった」としている。

ただ嫌い他に理由はありません  山本早苗


 秀次と連座者の墓所  (慈舟山瑞泉寺)

フロイスの分析の通り、秀吉が我が子を可愛く思う余りに、

秀頼の誕生によって、甥の秀次が疎ましくなったが、

関白職を明け渡すことに
応じなかったため、

口実を設けてこれを除いたという説に加えて、

                     ざんげん
淀君の介入を示唆する「石田三成讒言説」と合わさったものとがある。

この他には、秀次は朝鮮出兵や築城普請などで、

莫大な赤字を抱えた諸大名に対して、聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを

行っていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説がある。

この借財で特に毛利輝元に対して、秀次はかなりの額を貸し付けており、

秀次と秀吉の関係悪化を見て、輝元は秀次派として処分されるのを恐れ

自衛のために秀次からの借金の誓書を「謀反の誓約書」として偽って、

秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説もある。

雑巾を絞りつづけてきた指だ  高橋謡々

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私には空き缶だけが残される  前中知栄


  お 田

お田(でん「なお」とも)は町人に扮して大阪城を脱出、流浪の末、
出羽国亀田藩主の岩城家に嫁いだ。(妙慶寺蔵)

「隆清院とお田」

文禄4年(1595)8月、秀吉は甥の秀次を謀反人に仕立て切腹を命じた。

なおも豊臣内部での家督争いを防ぐために、秀吉は係累の根絶をはかり

秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首した。

この処刑から逃れることができたのは、

秀次と正室・一ノ台の間に生まれた
幼いお菊(ドラマでは、たか)

その姉の2人だけだったと言われている。


このお菊が後の「隆清院」で、信繁の3番目の側室となる女性である。

このお菊と姉が秀吉の追っ手からどのように生き延びることが出来たのか、

確かな史料はないので詳細は不明だが、この時、10歳くらいか、

ドラマでは、
信繁が秀吉の手からお菊を助け、

堺の伝説的貿易商人・呂宋助左衛門が預かる筋になっている。


それからお菊が信繁の側室になるまでの空白の部分を、

ドラマで三谷幸喜氏は、どう描いてくるのか、

彼の創作力・脚色力を楽しみにするばかりである。

一の矢を外して敵を裏返す  上田 仁

それから9年後、信繁が高野山に幽閉されてから5年目の慶長9年(1604)

隆清院は、信繁との間に5女・「お田」を産んでいる。

慶長19年10月13日に、信繁は長男・大助らを引き連れ大坂城に入城、

その折、隆清院は娘のお田と共に信繁に随行し大坂城に入っている。

11月に大阪冬の陣が起こり、家康淀殿による和睦が成立し、

戦が収束した後も、しばらくの間は大坂城で過ごした。

翌年の3月に大坂城を出て京都嵯峨野にある瑞龍院(秀吉の実姉)を訪ね、

出家して日秀と言う名になっていた秀次の母親・ともに会いに行っている。

この時、隆清院は、信繁との間に2人目の子供を身籠もっていた。

わたくしの影はただいま修理中  中野六助

慶長20年4月下旬、大坂夏の陣が起こり、5月7日に信繁が討ち死し、

5月8日には、淀君と秀頼が大坂城で自刃する。

豊臣家が滅びると、徳川方によって豊臣残党の捜索が行われ、

京都の瑞龍寺に居た2人は身の危険を感じ、

隆清院は梅小路氏に嫁いでいた姉を頼って身を隠し、

お田は町人の格好をして居場所を転々としたという。

その間の7月、隆清院は信繁にとって三男となる幸信を産んでいる。

一方、お田は捕らえられて、身柄を江戸へ送られることとなる。

だが、その処分は意外にも、人質として大奥勤めをするというもので、

比較的軽いものであった。


これは伯父である真田信之が幕府に掛け合ったためである。

飛び石が昔のように渡れない  山本昌乃

隆清院は、幸信を産んだ後も梅小路氏に潜んでいたが、

追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に隠れた。

一方、お田は大奥に入ってから3年が過ぎ、大奥を出ることを許される。

そして大奥勤めの経験を買われて、四条のある屋敷に給仕として、

入ることになり
江戸から京へ行った時、母の隆清院と再会をしている。

ガラガラポン長い試練も終わりそう  桑原すず代

「お田のその後」

佐竹義宣は寛永3年(1626)6月、大御所・徳川秀忠、

また同年8月には、将軍徳川家光の上洛に随行し、

弟・宣家と共に、
3ヵ月近く京都に在留した。

ある朝、佐竹兄弟が滞在していた屋敷で、義宣が目を覚ますと、

勇ましい掛け声が聞こえくる。

義宣が掛け声がしている方に行ってみると、

屋敷の裏庭で大勢の下女達が長刀の稽古をしていたではないか。

そこでは、鎧兜に身を固めた一人の女性が、指南をしていた。

その女性は毎日義宣たちの身の回りの世話をしている給仕人だが、

その凛々しい姿に義宣は、由緒ある家の出身ではないかと思い、

素性を尋ねると、名はお田と言い、信繁の忘れ形見であることが分かる。

引き出しの中からそっと波の音  高橋謡子

義宣は共に将軍家に随行していた弟・宣家が妻と不仲であることを、

日頃から
心配していたこともあり、宣家を元気づけるために

お田を宣家に紹介した。


その縁からお田は宣家の側室として、桧山の多賀谷氏に嫁ぐことになる。

寛永4年、晴れて24歳でお田の方となる。(因みに宣家は46歳)

姉が岩城氏と結婚したことで、幸信は祖父・秀次の旧姓である三好を

名乗り、
三好左馬之助幸信として亀田藩士として360石を与えられた。

そして翌寛永5年にお田の方は、宣隆との間に長男・庄次郎(重隆)を生む。

お田の方は、宣隆を支える良き妻であり、教育熱心な母親であったという。

膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒



「ルソン助左衛門」
堺の豪商・今井宗久から独立後、ルソンに渡海し、当時、現地では単なる
雑器という扱いだった壺に目をつけ、それを輸入、巨万の富を得た。
文禄3年(1594)、ルソンから帰国後、壺50個を秀吉に献上すると、
秀吉は甚く喜び、助左衛門はそこで名声を得、有数の豪商に登りつめる。
この時、秀吉への謁見を仲介したのが、三成の兄・石田正澄。
しかし、慶長3年(1598)、あまりに華美な生活を好んだため、
今度は弟・石田三成の讒言によって、秀吉から、
「身分をわきまえず、贅を尽くしすぎる」として邸宅没収の処分を受ける。

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時化になりそうあの日の音がする  桑原すず代


南瞻部洲大日本国正統図 (伝香寺旧蔵、唐招提寺所蔵)

戦国時代の弘治3年(1557)に描かれたとされる。
日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。
この図又は同一スタイルの地図が江戸時代の行基図の基本となる。
また、この時代には屏風絵の背景などにも「行基図」が採用された。

【戦国豆辞典】-「絵図」

地図は行政や軍事の要であり、国情や内容によっては秘密事項となる。

領土をめぐる抗争が続いたドラマの時代、

戦いには自国と自国に接する他国の正確な地図が欠かせなかった。

地図には、忍びなどが集めた情報をもとに、

領土の境界や河川、道、大まかながら高さも示された山などが描かれた。

当時は「行基図」を除き日本全体を表す全国図が描かれる事はなかった。

時々はふて寝するぜんまい仕掛  山本早苗


    行 基

行基図とは諸国を俵型に表して大まかに描いた絵画的な地図である。

公的な日本全図については、大化2年(646)や天平10年(738)などに

国郡図の作成を命じた記録があるが、いずれも地図は現存しない。

ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、

江戸時代中期に長久保赤水伊能忠敬が現われる以前の日本地図は、

基本的には、この行基図を元にしていたとされている。

行基の名称は、行基が基本を作ったという説がある。

日本全図は豊臣秀吉が、天下統一を果たしたことによって

作成されることになった。

塩分の補給おつゆも全部飲む  橋倉久美子

日本全図は、全国支配のための基礎資料である。

秀吉は、朝廷に献上するという名目で全国の大名に「御前帳」

「郡絵図」を作成させたが、残念ながらこのときの地図は残っていない。

徳川家康は、秀吉の方針を受け継ぎ、諸大名に「国絵図」を提出させた。

その国絵図は実測によるものではなかったが、

方位、地形、道、集落、
寺社などが、

当時としてはかなり正確に描かれていた。


※ 【御前帳】 天皇・将軍などの手元に掌握された帳簿で、
後北条氏の所領役帳なども御前帳と呼ばれた。
豊臣秀吉の「検地帳」も一つで朝鮮出兵の軍役負担の基礎帳簿となった。

※ 【国絵図】 国郡単位の絵図で、国・郡・村の名称や石高を記載。
山や川を骨格として、道路や航路など交通関係の記載のほか、
記号化された村や町、寺社なども書かれた。(郷帳とセットで作成)

未来図は黒一色で事足りる  井丸昌紀 

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男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

羽柴秀次の像(八幡公園)

商都・近江八幡の礎を築いた秀次は、地元で名君として慕われた。

「武功夜話」

早くから秀吉に仕え、豊臣秀次のお目付け役だった前野長康の一族が、

子孫から子孫へ、語り継がれてきた史書がある。

「武功夜話」である。

ここに書かれている、「秀次事件」の経緯は、

秀次に近い立場の人たちの、
子孫から出てきたものでありながら、

秀次に厳しいものになっている。


昨日まで冗談だった落とし穴  三村一子

それによると、

「秀吉の実子で、織田家の血をも引く若君(拾君)に、

 天下が返るのは、仕方がないのでありますまいか」

と秀吉の最古参の家臣であり秀次の家老・前野長康は、秀次に進言した。

ところが、長康の子・景定など若い側近たちが、

秀次を守ろうとして妥協を阻止し、

また軍事教練まがいのことをしたとある。


容疑者はメロンの皮に紛れ込む  嶋沢喜八郎

断罪の直接の引き金は、朝鮮遠征費用の捻出に困った毛利輝元が、

秀次に借金の申し出をしたところ、

「忠誠を求める書き付け」を要求されたことが不安になって、

太閤殿下に提出したことにある。


現に、秀吉の年齢を考えれば、秀次に近づいておく方が、将来、

有利だと考える大名たちは、秀次に取り入ったりもしていた。

吐息まで同化してゆくおぼろ月  桑原すず代

石田三成前野長康

「豊臣政権安泰のためには、

 なんとか殿下と関白には、仲良くあって欲しいのだが、

 どちらの側にも、へつらうものがいる。

 殿下は弱きになって、徳川家康と前田利家の屋敷に、

   足繁く通うなどしているが、両者はいずれも野心家で、

   朝鮮遠征でも渡海を免れた。

 一方、西国の大名たちに恩賞を与えるために、

 全国で検地を行って、財源を探しているのだが、簡単でない」

という趣旨のことを「武功夜話」で言っている。 

呑むために生きると決めて恙無い  山本芳男

ともかく、秀次に近い者たちからすると、秀次さえあわてて

「将来はお捨君に譲る」 などと約束せずに、

時間を稼げば、いずれは、殿下の寿命も尽きるという思案があった。

茶々お捨君に近い立場からすると、

だからこそ、
「秀次を早々に、処分して欲しい」

ということになる。

もしも、秀次の弟・秀勝が生きていたら、

茶々たちの立場も、
少し違ったのかも知れないが、

今となっては、秀次と茶々たちを繋ぐ絆は、
細くなっていた。

耐えるしかないのと雑草のあした  杉浦多津子

お捨君がまだ幼少なので、将来を危惧した秀吉は、

同年代の徳川家康前田利家の二方を、信頼して力を持たせ、

しかも、いずれか突出しないようにと考えた。

利家はもともと、織田家のなかでの序列はあまり高くなかったが、

柴田、丹羽、明智、滝川、佐々、堀秀政らが亡くなったために、

織田家の家臣の中で、最長老になっていた。

残される淀にとって織田家に連なる者が、力を失くしてしまった以上、

利家がもっとも、頼るべき存在だった。

黄昏を泡立てているもう一度  笠嶋恵美子

人柄が見える日野川桐原新橋の秀勝像

こうして、太閤による関白の包囲網は狭まっていく。

それでも、秀吉が聚楽第を訪ねたり、

秀次が伏見で能を上演して、秀吉を招待したりしたしているのだ。

いくらでも修復のチャンスはあったが。

秀次に欲が出てしまった、のか、秀吉の心配を払いのけるような、

思い切った行動がとれなかった。

その間にも、太閤のもとには、秀次周辺の不穏な動きが報告される。

まだまだの端がほつれてきた誤算  山本早苗

淀やその周辺の者が、

「お捨君の将来への不安を取り除いてください」

と殿下に迫った。

これに対し秀吉は、家康と利家に、秀次のことを密かに言う。

「太閤殿下の好きにされれば、あとは、我々がお捨君をお守り致します」

と2人は答えている。

そして家康が、江戸に帰国するとき、京都に残る家康の三男・秀忠に、

「秀吉と秀次の争いになったら、秀吉につくように」 とも言い残している。

世の中の仕組みをみたり髑髏  前中知栄

もともと、身分の低い階層の出である秀吉は、

上流の権力者とは違って、家族に対しての愛着は、

現代の人間と似たものを持っている。

また秀吉一族の人たちの心にも、権力者になった秀吉に対して

「まさか、自分に悪いようにはしないだろう」 

という甘えがあった。

当然、秀次にもそうした気持ちが多分にはたらいたのだろう。

あじさいを素通りバカが乾きだす  酒井かがり

しかし、それぞれの家来たちは違う。

自分たちの浮沈は、それぞれが仕えている主の運命にかかっている。

主人がいったん失脚すれば、身内でもないだけに、

命も危ないということになるのだ。

しかも、むかしからの武将たちには、

若いころから豊臣家興隆のために、
頑張ってきた恩情もあるが、

第二世代には、若者らしいドライさに加えて、


親密だったころの思い出がないから、どうしても、極端に走ることになる。

はらりと涙振り向くことを忘れた日  森田律子

いよいよ7月3日、石田三成増田長盛が、秀次に行状を詰問した。

それを受けて、秀次は朝廷に銀五千疋を献上して、救援を求めたが、

これは、悪あがきであった。

「関白を辞める」

とでも太閤に申し出ればよかったのだろうが、

秀次の若い側近達は、それを許さなかった。

こうして関白が、無為に時間を過ごすうちに、

太閤は一計を案じた。

いまでいう女性秘書として重宝していた孝蔵主を、

聚楽第へ派遣して、言葉巧みに、

「単身で伏見に来れば、太閤殿下も納得する」

といって、関白を連れ出した。

そして、このまま高野山から切腹へとつながっていく。

けんけんのリズムを誘う落ち椿  古田祐子

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