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三日月に隠しきれない7番目の脊椎 酒井かがり
大坂城埋立対照図
「つかの間の平穏」
豊臣方が、和議に応じたのは「淀君が命の危険を感じた」という他にも
様々な要因があった。
その一つが「弾薬の不足と厭戦気分」である。
盛んに銃撃・砲撃を行なっていたのは、徳川軍だけでなく、
城内にいる豊臣軍も同様だった。
早い段階で一時休戦に持込み、城の包囲を解いてもらう方が得策と
豊臣方も判断したのだ。
一方の徳川軍も厳寒の中で包囲を続けるのは相当に堪えていた。
この「和睦交渉」は徳川方の強引なごり押しではなく、
双方の首脳部の思惑が一致したうえで行なわれたことである。
躓いたおかげで拾う人間味 宮崎美知代
慶長19年(1614)12月18日、和議の交渉は京極忠高の陣営で始った。
豊臣軍の使者は淀の妹・常高院(初)である。
一方の徳川方は家康の側室・阿茶局に本多正純が同行した。
女性二人の主導のもと交渉は進められた。
この時代、女性の地位は低かったと見られがちだが、この交渉における
顔ぶれや豊臣軍のリーダーが事実上は淀君であったことを鑑みると、
女性の中にも一定の権限を担うほどの人物がいたことが分かる。
血縁を少し残した瓶の底 三好光明
そして、和睦がなり大阪城の堀は埋められた。
後世の人は半年後に「夏の陣」が開戦することを知っているが、
当時この時点で、豊臣方は夏の陣開戦を想定していなかった。
首脳陣としては、徳川軍がそれ以上攻めて来なければよかったのである。
ただ、城の防衛機能を削り取る要求を呑んだのは、
やはり目算が甘かったというほかはない。
結果、年が明けた慶長20年1月23日までに二の丸、
三の丸と大半の堀が更地となり、秀吉が築いた難攻不落の城は、
本丸を残すだけの裸城となる。
ともあれ東西和睦となり、大坂城周辺には束の間の平和が訪れた。
あの世でもアホだアホだといいそうだ 中前棋人
のぶただ
2月、大阪城内の幸村のもとを叔父の真田信尹が訪問する。
幸村については、冬の陣前は家康も余り情報がなかったかも知れないが、
真田丸の攻防で認識を新たにした。
家康は敗北の直後から側近の本多正純と政重(前田利常の家老)の兄弟や
また信尹を介して、幸村の懐柔工作を考えたのである。
信尹は家康の依頼を受けた本多正純を通じて「信濃10万石」を条件に、
徳川方へつくよう説得に来たのだった。
幸村は「浪人して高野山へ落ちぶれたのを秀頼様に召し出され、
ひとつの曲輪を預かる身となった。出仕せよといわれても難しい」と、
これを突っぱねている。
そこで正純は「ならば信濃一国ではどうか」と条件を引きあげた。
何ごともなかったように避けておく 山本昌乃
信濃一国といえば、約40万石に相当する。
父・昌幸が治めていた上田4万石の10倍という破格の条件である。
しかし幸村は拒否するどころか、今度は信尹と会おうとさえしなかった。
幸村は、おそらくそれを本気にしなかったのだろう。
関が原の戦いの前、伊達政宗に「百万石のお墨付き」を与えながら、
わずか2万石の加増に留めた家康のことだ。
もし幸村が徳川についたとしても、本当に信濃一国を与えたかどうかは
甚だ疑問と考えたのである。
カラオケとカンオケの因数分解 黒田忠昭
そして、和睦成立後の正月から3月にかけて幸村は上田の姉・村松殿や、
その夫で義兄にあたる小山田茂誠へ手紙を書いた。
「今年何もないようでしたら、またお目にかかりたいと存じます。
しかしさだめなき浮世のこと。一日先のことは分かりません。
もう私はこの世にいないと思ってください」
再戦がそう遠くないことを悟り、覚悟を決めた幸村の事実上の遺書である。
平穏はいつまで菊を根分けする 高島啓子[4回] PR
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