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川柳的逍遥 人の世の一家言
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半月のかすかな笑みを見ましたか  合田瑠美子

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         徳川16将図
家臣の名が記されている将図。
本多忠勝と向かい合って中央に描かれていることからも、
井伊直政の徳川家中での存在が大きいことを感じさせる。


16将図の中の井伊直政

「おんな城主-直虎」の予習―⑤

井伊家最大の危機を脱した天正2年(1574)、鳳来寺に匿われていた

虎松は、
井伊直親の7回忌に出席するため、井伊谷に帰還を果たした。

この法要には井伊直虎をはじめ直虎の母・松下清景と再婚した虎松の母、

南渓和尚らも顔を合わせている。

この時、以後の井伊家の方向を決める話し合いが行なわれたようだ。

その結果、虎松は母親が再嫁した松下家に一旦養子として入り、

徳川家に出仕させる。

そのうえで井伊家再興を図るという方針となった。

対岸にちょっと残っている希望  森田律子

翌天正3年(1575)2月、虎松は浜松城外で年の最初の鷹狩り(初鷹野)

出ていた
徳川家康と対面する。
           よしみ
家康は、虎松がかって自分と誼を通じようとしていた井伊直親の子と知り、

家臣に取り立てることにした。

そしてその際、300石が与えられることとなった。

そして小姓として身辺に置く。

この対面の際、虎松は母と直虎が仕立てた小袖を身に付けていたとされる。

家康の元に出仕するようになると虎松は、井伊姓を名乗ることを許される。

そして家康の幼名の竹千代に因み「井伊万千代」と改名するのであった。

こうして虎松は井伊氏復活への一歩を踏み出した。

外づらは整いましたハイチーズ  嶌清五郎


    鷹 狩 り
シボルトが著した「NIPPON]で描かれている鷹狩りの風景。

この頃の家康は、武田信玄の後を継いで武田家を率いていた勝頼の攻勢に

尚も苦しめられていた。

織田信長の支援も後手に回っていたが、

この年の5月、信長は主力をもって出陣。

武田軍に包囲された三河長篠城救援に赴いた。

ここに織田・徳川連合軍と武田軍による「長篠の戦い」が勃発。

大量の鉄砲を準備した連合軍が、武田軍を大敗に追い込んでいる。

この戦いで武田氏は宿老の多くを失ってしまう。

一方家康は戦勝に乗じて、武田勝頼に奪われた城の奪還に動き出した。

万千代は天正4年(1576)、勝頼との戦いで初陣を飾る。

掌中の宝が一人歩きする  三村一子  

芝原の陣で家康の宿所に忍び込んだ敵を討ち取る手柄を挙げた。

さらに天正6年(1578)の田中城攻めでは、格別の働きが認められた。

長篠の戦い以降、信長は武田方とほとんど事を構えていない。

そのため勝頼は信長との和睦を模索するが、信長はこれを無視する。

その上で家康に降伏や開城を認めず高天神への総攻撃を促した。

天正9年高天神城攻めで万千代は、城への水の手を断ち切り、

城兵を追いつめている。

風林火山は水に憧れています  田口和代

このとき勝頼は、後詰めを送ることができず、

高天神城を見殺しにしたことで勝頼の威信は地に落ちた。

浜松の家康の元でめきめきと頭角を現して行く万千代の様子を

耳にする度、
井伊谷に残った直虎は井伊家の未来に光明を

見出していったに違いない。


そして天正10年、長年に渡り徳川家を苦しめてきた武田氏を、

織田・徳川連合軍が完全に攻め滅ぼしたのである。

どなた様かは存じませんがおめでとう  前中知栄

その年の5月、家康は信長の招きにより安土城から京、堺を周遊していた。

これに万千代は供回りとして同行している。

そして迎えた運命の6月2日、僅かな手勢で京の本能寺に宿泊していた

信長は、家臣の明智光秀の謀反に遭いこの世をさってしまう。

堺に滞在中だった家康一行は、この出来事に危機を感じ、

決死の伊賀越えを敢行、無事に岡崎城へと帰還することができたのだった。

このときの功により、家康に万千代は孔雀の尾羽の陣羽織を拝領している。

そのことから見ても、

脱出行に万千代が格別の働きを見せたことが、容易に想像ができる。

死にたくなるほどの裏切りを受ける  福尾圭司

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