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川柳的逍遥 人の世の一家言
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謝っているようだけど威張ってる  飯田イッキ
 


            源 平 武 者 戯
右上=名代の芋屋は平忠度と一個くれと客の岡部六弥太
右下=曽我五郎と小林朝日奈が枕引きという遊戯をしている。
左上=土佐坊(堀川御所の義経の刺客)と鰹で土佐藩。
中央=家紋から太夫は津藩(藤堂)、三味線は大村藩(肥前)
左下=さなだ与市(尾張)と又野五郎(幕府)そ下の2人は鳥取藩の兵。


源頼朝の跡を継いで、鎌倉幕府の2代将軍となったのは、
源頼朝北条政子の嫡男で、まだ18歳の頼家だった。
苦労知らずのぼっちゃんにありがちな、独断専横な振舞で、母・政子に
見限られ、藩政は、御家人や京下り貴族たちなど、宿老たちの合議制に
よって、運営されるようになった。
当然、この決定に頼家は反発し、近臣の者たちとともに、さらに反抗的
な態度をとるが、それは御家人たちの気持ちを、ますます頼家から引き
離していった。


不意打ちで急所二の句を継がせない  上田 仁


「鎌倉殿の13人」・二代将軍・源頼家
 



「傍若無人の二代目・頼家」

若き将軍・源頼家は自分のお気に入りの5人の家臣・小笠原長経、比企
三郎、細野四郎、和田知盛、中野能成を側近として、特別扱いした。
それは
「5人が鎌倉で狼藉を働いても、敵対してはならないし、敵対した者は
 処罰する」 という、
触書を出すほどの非常識さだった。
 やがて、鎌倉中が大騒動になる事件が起こった。
御家人・安達景盛の愛人に目をつけた頼家が、景盛を三河国に遣わして
追い払うと、その留守に中野能成にその女の誘拐を命じ、自分のものに
したのだ。
しかも、三河から帰ってきた景盛が「頼家を恨んでいる」と聞くと、
将軍への謀反として景盛を討ってしまおうと、合戦の準備まではじめた。
こうなると、頼家の所業は、暴君そのもので、世の批判を集めるのは、
目に見えている。


不意打ちで急所二の句を継がせない  上田 仁


事態を知った母親の政子の対応はすばやかった。
景盛の邸に駈けつけ、頼家に対して、
「謀反の野心はないと、起請文にして差し出しなさい」
と、アドバイスする一方、それを持って頼家に、最近の暴挙のありさま
に苦言を呈したのだった。
母親の説得に、さすがの頼家も刀をおさめ、事件は事無きを得た。
しかし、この事件の波紋は大きかった。
頼家にとって、何かといえば、挙兵以来の勲功をひけらかす父の代から
の宿将たちは、疎ましい存在だった。
この事件は、彼らに対する頼家の、反抗心から生まれた行動だったが、
部下に出張を命じて、その留守に愛人を奪い、さらに帰ってきた部下を
討とうとした二代目の狼藉三昧に、御家人たちの心が離れていったこと
は間違いなかった。


決心のつかぬ地雷を握ってる  百々寿子


 
                   「年中行事絵巻」 蹴鞠する頼家 田中家蔵

宿老たちへの反発は、頼家を雅な強風文化へと向かわせ、やがて貴族の
代表的な遊びだった「蹴鞠」に熱中させることになった。


「蹴鞠に耽るおぼっちゃま」

建仁2年(1202)晴れて将軍となった頼家だが、政治の実権は、
宿老たちに握られたままだった。
御家人たちへの不満は、もともと、雅な京文化へ傾倒していた頼家を
ますます偏重させたが、中でも、「蹴鞠」にはわざわざ京都から、
蹴鞠の名人を招くほどの凝りようだった。


ことば数減らして余生微調整  掛川徹明
 
 
この前年の秋、関東は大暴風雨に見舞われ、甚大な被害を受けた。
鎌倉でも、民家はもちろん鶴岡八幡宮までも破損した。
しかし、この際にも、頼家は蹴鞠に耽って、政務を顧みなかった。
見かねた北条泰時義時の嫡子)が、頼家の近侍である中野能成
会って相談したところ、それを知った頼家は、泰時に対し、
「時政や義時をさしおいて小賢しい」
と、不機嫌さを表したという。
「世人の困窮を忘れてはいけない」 という
泰時の思いは通じず、頼家の蹴鞠への執着ぶりはその後も続いた。


挫けないゼレンスキーをお手本に  新家完司


 
                       京の雅にはまる頼家


政子も何度か頼家をたしなめたが、頼家の蹴鞠好きは、いっこうに止ま
らなかった。
そしてそれと並行するように、頼家の京下貴族への偏重と御家人たちを
無視する態度も続いたのである。
こうして、頼家が蹴鞠に興じている間に、頼家に対する御家人たちの
反感は、限界ぎりぎりまで高まっていたのだった。


好きなことやりたい時にする余生  樋口 眞


「比企一族の悲劇と頼家暗殺」

宿老たちと反目する頼家、中でも母・政子の実家である北条氏との確執
は、日増しに深刻な状況になっていく。
建仁3年(1203)年7月20日、政務を顧みず、蹴鞠にふける頼家
だが、怠惰な生活が祟ったのか、突如、病に倒れ重態に陥った。
8月27日、政子らは、後継について相談し、関東28ヶ所の地頭職と
惣守護職を、長子一幡(6歳)に、西国38ヶ所の地頭職を、弟・千幡
(実朝12歳)に継がせることに決めた。
言い足しておくと、若狭局は、比企能員の娘であり、頼家の妻である。
この2人の間に、一幡が生れている。
だからその決定には、義父の比企能員と一幡の母・若狭局は不満だった。


右廻り左廻りで揉めている  下林正夫
 

 ーーーーーーーー


病床の寝間の頼家を前に、若狭局能員が何やらきけん会話を交わ
している。
能員 「若宮さまには、余りにも不当な仕打ちでございます」
若狭局「結局は尼御前よ…自分のことばかり考えて…」
能員 「われら殿に身近な者が力を発揮できるような体制が必要ですぞ」
頼家 「討つか! 北条を!」
能員 「そうです! 殿の病気をよいことに…北条は勝手にことを運び、
    若宮さまから家督を奪おうとしているのですよ」
頼家 「だが、一幡はまだ幼い」
若狭局「そんな弱気では困ります」
能員 「討ちましょう!」
たまたま、回廊を歩いていた政子が、簾越しに3人の企みの会話を耳に
してしまった。
政子 「何ということを! 急いで父に知らせなければ…」
政子は能員の企みを文に認め、父・北条時政に送った。


玄関で素早く面を付け替える   小谷小雪
  

 「もうどうにも止まらない」

かねてより政権剥奪を狙っていた北条時政は、3男の時連(時房)を
頼家の側近におく一方、孫の泰時と三浦半島を本拠地とする、大豪族の
三浦義村の娘を結婚させるなど、着々とその布石を打っていった。
それに比べて頼家は、何の備えもしていなかった。
そんな中で、時政が計る「将軍の権力二分化」の決定を、病床で知った
頼家は、ついに「北条氏追討」の命令を比企能員に下し、
時政のやり方に不満を持っていた能員も動くことにした。
頼家の妻・若狭局の実家であり、将軍後継者の一幡の祖父にあたる比企
能員は、将軍家外戚という立場から、当時、幕府内に大きな力を持って
いたが、同じ外戚である北条氏の台頭に、危機感を持っていた矢先のこ
とであった。

人間の進化を止める独裁者  ふじのひろし


文による政子からの知らせに、時政は、大江広元と相談の上、
「薬師如来の供養をする」
といって、自邸(名越亭)に招き、そこで殺害することにした。
何も疑わずに、名越亭に訪れた能員が、門を潜るやいなや、
時政 「…謀反人! 比企能員!」
広元 「覚悟!」
能員 「謀りおったな!!」
能員は、刀を抜く暇も与えられず、その場で首を刎ねられた。
「…比企能員 謀反の企て露見したるによって、誅殺せり!」
その頃、義時・泰時の率いる北条軍が比企の館に攻め行っていた。
しかし館内では、頼家の妻・若狭局が我が子・一幡を連れて自決し、
比企一族は、ここに滅亡したのである。
「尼御前の仰せにより、一幡どのを受け取りにまいった。
 速やかに解放されよ!」
義時のこの叫びは、館から声出す者もなく、余にも虚しいものになった。


悔しいが夢のつづきはみられない  吉崎徳造



 比企能員邸に建てられた一族ゆかりの妙本寺


その直後、幕府は、
「頼家が死んだので3代将軍として、千幡をたてる」
との許可を受けるため、使者を京都に派遣した。
実際には、頼家は死んでいなかったが、<臨終は近いだろう>とという
時政らの読みがあたったのだろう。
ところが、頼家は持ち直す。
自分が病の間に、妻子が死に、妻の実家の一族が滅ぼされた頼家は、
激怒した。
すぐさま堀親家を使者として、「時政誅滅」和田義盛、仁田忠常に命
じるが、義盛がこの令状を、直に時政に届けたため、その密告によって
堀親家は殺され、翌日には、仁田忠常も滅ぼされる。
やがて、頼家は、伊豆修禅寺に流され幽閉されることとなる。
同じ日、頼家の弟・千幡を征夷大将軍に任ずる宣旨が下されたのだった。


見る場所は違っていても同じ月  津田照子

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