主語の無い部屋詠嘆と接続詞 藤本鈴菜 鎌倉右幕下焼香場に頼朝以下御家人勢揃い (歌川秀貞画) 建久10年(1199)53歳で亡くなった源頼朝に代わり、 鎌倉の後継者になったのは、息子で18歳の頼家だった。 頼家は意欲的に「鎌倉殿」として務めを果たそうとするが、 それはかえって、頼朝の代から仕えてきた御家人らとの間に 軋轢を生んでいく。 そこで、各所から持ち込まれる訴訟を、頼家の直裁にしない ために、「13人の御家人」が選ばれた。 勢揃いの御家人一部を拡大すると 梶原景時と比企能員 頼朝と肩に乗る万寿丸(頼家)と北条義時 左から小さく千葉常胤・上総広常・和田義盛 大江広元・田代冠者 北条時政・佐々木盛綱・高綱 下船中に畠山重忠 ロボットが武者人形に紛れこみ 宇都宮かずこ 「鎌倉殿の13人」・13人の合議制 大倉幕府跡の碑 西御門 頼朝が鎌倉に入るとこの地に屋敷を構え、ここに侍所、公文所、門注所 などを整備した。碑を中心に東御門、西御門と金沢街道に囲まれた地域 に幕府があったと考えられている。その広さは学校のグランド6面ほど と推定されている。 「鎌倉殿の13人」が確定する舞台裏。大倉の政所である。 他の者が立ち入らない状態で、「尼御前」または「尼将将軍」と、 呼ばれた北条政子と北条時政、大江広元の三人が、面をつきあわせ、 密議を行っている。 広元 「頼家公の親裁を停止するとおっしゃるのですか、尼御前」 政子 「御家人の訴訟は何より大事…いかに裁くかで鎌倉の価値が決り ます。残念ながら、あの子にはその器量がない」 時政 「威勢はいいが、ちと思慮に欠けておるでな」 政子 「亡き大将軍の御名を傷つけぬためにも……。 皆さんのお力を借り、合議制をとるのがよろしかろうと」 時政 「なるほど…それはいい」 林檎だと信じて植えた松だった くんじろう 広元 「そーしますと まず第一に時政殿と尼御前」 政子 「いいえ。私は表にでる立場ではありません。 それより大江殿、あなたに加わっていただかねば」 広元 「ありがとうございます」 時政 「そうすると、御家人からは、比企能員、三浦義澄、八田知家、 和田義盛、足立遠元…」 政子 「安達盛長、それと義時」 時政 「……梶原景時も外せんだろう…」 広元 「京から来た者では、三善康信、二階堂行政、中原親能」 ちなみに、中原親能(ちかよし)は広元の兄である。 政子 「全部で13人ね。では今後、裁判は彼らの談合で行うことに いたしましょう」 一つ遠いポストに愛を捨てに行く 石橋能里子 源頼家が将軍の座に就いた約3ヵ月後、この13人の有力御家人たちは、 頼家が直接、訴訟の裁断を行うことを停止させた。 これが、13人の合議制を構成するメンバーで、初めて実施された合議 であったと伝えられる。(『吾妻鏡』) これを根拠として「頼家は決定権を奪われた」と、されていたが、 より信用度の高い写本『吉川本』には、 「決断ではなく「聴断」を停止する」 と、あり、 「13人以外の人が取り次いではいけない」 という記述が続く。 つまり実際には、 「鎌倉殿は、直訴をきいてはならない。取次役は13人に限定する」 ということだったのである。 こめかみを押し常識に立ち向かう 国塩志保里 即ち、この体制は、<頼家の独断を制約する機能を持っていた> が、 御家人達の合議をへて、将軍が最終的な判断を下すよう定められていた ため、頼家の裁断そのものを、否定していたわけではなかった。 頼家の裁断の例として、 正治2年(1200)の「陸奥国新熊野社領の堺相論」がある。 この訴訟において、頼家は、係争地の絵図の中央に線を引き、 領家の主張に理を認め、尋問を経ずに地頭職を停止する、一方、 領主側の地頭停止要求に対し、地頭の陳状を踏まえ、 <地頭補任が頼朝の決定であること、地頭に不当な行為がない> ことを根拠に、その主張を非拠として却下するなど、それなりの判断を している。(『吾妻鏡』) 労いの言葉こころの温湿布 三浦幸子 北条政子 前賢故実 「母子の対立を生んだ合議制」 専制体制で独裁政治を勧めた頼朝の跡を継いだ頼家は、 自分も同じやりかたをするつもりでいた。 ところが母・政子によって阻まれることとなった。 まだ18歳で、人間的にも未熟な頼家に対して、不安をもった政子は、 重臣たちの合議で、幕府の政治を運営することに決めたのだ。 これでは頼家は面白くない。 実の母子といえども、政治の場面では、敵対関係となってしまった。 実はそうまでして政子が、合議制にしたのには、深い理由があった。 それは頼家が、乳母や妻の出身である比企氏を、何かと大事にするため、 そのままでは、比企氏に幕府を乗っ取られることを恐れたからである。 妻の実家の持つ権力の大きさは、何よりも、政子自身が知っていたのだ。 住み慣れた家も私も焦げ茶色 新家完司 だが、この「13人の合議制」は、長くは続かなかった。 御家人たちの間の結束にも、ひびが入り、相互に不信感をつのらせて、 紛争が絶えなくなったのだ。 結果、元号が改正され正治元年(1199)となった11月、 13人の合議制を構成員であった梶原景時が失脚し、 翌年に、安達盛長と三浦義澄が病没したことで、13人の合議制は解体、 その後の権力闘争の末、頼家政権も崩壊することになった。 実際は、、頼家は若くて、経験も浅いから、御家人たちが支えなければ いけない、そのために13人の取次が設けられたわけだが、 御家人が滑って、襤褸を出していたのでは、うまくいくわけはなかった。 前略と書いてそのまま日が暮れる 成田雨奇 「選ばれし13人」
大江広元 栗原英雄 「私は成人してから涙を流したことがありません」 源実朝の暗殺の直前、広元はこのように語ったと云われる。 広元は、幕府の文官筆頭として、将軍や北条氏の厚い信任を受け、 鎌倉幕府の基礎固めに力を注いだ、最大の功労者である。 一見、非情にも感じられる上述の言葉には、情に流されず冷静な判断力 で幕政を運営し、御家人間の抗争から距離をおいて宿老の地位を保った。 北条時政 坂東彌十郎 「時政・牧の方VS義時の確執」へ後述。 絶妙のバランス空気成分表 相見柳歩 三善康信 小林隆 母が源頼朝の乳母(比企尼)の妹であった縁で、流人として伊豆国に あった頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていた。 もともとは、太政官の書記官役を世襲する下級貴族であった。 治承4年(1180)5月の以仁王の挙兵の2ヶ月後、 三善康信は頼朝に使者を送り、 「諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるよう」 にと伝えるなど、頼朝の挙兵に大きな役割を果たした。 元暦元年(1184)4月、康信は鎌倉に下り、頼朝から 「武家の政務を補佐せよ」と、望まれ正式に御家人となった。 すこやかに生きて情けのど真ん中 上田 仁 中原親能 川島潤哉 もとは京の下級官人で、弟の大江広元に先んじて鎌倉に下り、 頼朝に仕えた。 幕府では朝廷外交の代表者となり、寿永2年(1183)義経が初めて 頼朝の代官として、京に向った際も同行している。 頼朝が死去した年、出家し寂忍と号した。 が、その後も京に常駐し、幕府のスポークスマンとして活躍した。 なお、親能は「頼朝のご落胤」説もある。 わたくしの模様なんです汗の染み 三浦蒼鬼 三浦義澄 佐藤B作 三浦氏は相模の有力在庁官人で、「御三年の役」で活躍した源義家の 時代から、家人として源氏に仕えた。 建久元年(1190)頼朝の上洛の際、官職に推挙された10人の御家 人に名を連ね、頼朝が、「征夷大将軍」に任官した際は、鶴岡八幡宮で 任命書を受け取る栄誉を得るなど厚遇された。 そよぎとかせせらぎとかをポケットに 河村啓子 八田知家 市原隼人 八田氏は「七日関白」こと藤原道兼の末裔といわれ、 父・宗綱は京で、院武者所に仕えた。 母は宇都宮朝綱の娘・八田局で父は源義朝というご落胤という説もある。 この説でいけば、知家の母は頼朝の祖母になる。 また姉は、下野の有力武士・小山正光に嫁して、後に頼朝の乳母となる 寒河尼。 寒河尼は、頼朝の挙兵後、自ら頼朝の陣を訪れ、 末子の結城朝光を反乱軍に参加させた。 小山氏の参陣により、北関東に靡かせた功績は大きく、 その兄弟である知家の厚遇に繋がった。 やさしさは花の形で降りてくる 佐々木智恵子 和田義盛 横田栄司 将軍家との関係や能吏としての手腕が期待されたメンバーの中にあって、 個人の武勇でもっとも秀でていたのが、義盛であった、が、 地位への執着が強く短慮で、その行動には凄まじいものがあった。 こうした性格的な義盛の野望は、やがて「和田合戦」へと進化し、 北条義時と刃を交わすことになる。 比企能員 佐藤二朗 「比企の反乱」へ後述。 言い訳をすればするほど爪が反る 笠嶋恵美子 安達盛長 野添義弘 政子と頼朝の縁を演出したのが、安達盛長である。 もともと頼朝の意中の女性は、政子の妹(阿波局)であったという。 しかし、盛長は、政子の人柄を見て、頼朝から託された妹への恋文を 政子に渡し、そこから2人の恋が始まったという。 それでも、乳母(比企尼)の縁に連なる御家人の中で、頼朝からもっと も厚い信頼を寄せられたのが盛長である。 善人を装うことは自信ある 奥 時雄 足立遠元 大野泰広 安達盛長の弟。「平治の乱」で悪源太義平が率いる17騎の精鋭 として、平氏軍と激戦を繰り広げた。 乱後は朝廷に出仕して、右馬允の官職につき、娘を後白河上皇の近臣・ 藤原光能に嫁がせた。 東国武士でありながら、院の権力と結ぶ遠元の人脈や素養は、 幕府の対朝廷外交に大きな力を発揮した。 梶原景時 中村獅童 「景時誅殺」へ後述。 次の間に待たせています冬蛍 酒井かがり 二階堂行政 野仲イサオ 治承4年に主計少允に任官したが、間もなく頼朝との縁を頼って御家人 となった。 その後、公文所寄人、政所次官などを歴任、幕府の能吏として公文署の 作成、発給、頼朝の祐筆など、行政事務で幕府を支え、建久4年には、 政所別当に名を連ねた。 後年、二階堂と呼ばれた永福寺の近くに住んだことから二階堂を名乗る。 (永福寺=頼朝が奥州平泉の中尊寺二階大堂を模して創建) 言の葉も紅葉も背伸びしてキャッチ 合田瑠美子 【知恵袋】 「御家人」とは、頼朝と直接に主従関係を結んだ武士のことをいうが、 実際には何人くらいいたのだろうか。 『吾妻鏡』によれば、 奥州藤原攻めに参加した兵士は、「28万4千騎」とあるが、 御家人だけでなく、その郎党まで含めた数字としても誇大すぎる。 同じく『吾妻鏡』には、 文治元年(1185)、頼朝上洛の折に鎌倉に集まった東国の御家人は 「主だった者、2096人」と、記されている。 しかし、建治元年(1275)京都六条八幡宮の社殿が修造された時に、 北条氏ら御家人たちが費用を負担したが、その記録では、 「鎌倉在住123人、京都在住28人、その他の諸国318人、 合計469人」となっている。 「鎌倉御家人の本当の数は、意外に少なかった」のには驚き…。 天も地も借りものだよと赤とんぼ みつ木もも花
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