忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1043] [1042] [1041] [1040] [1039] [1038] [1037] [1036] [1035] [1034] [1033]

追憶の道サンザシの実が浮かぶ  宮井いずみ


 
                       実朝エピソードに出てくる相模川橋脚跡

 
大正12年、関東大震災と余震による液状化現象で相模川付近にあった
水田から、突如太い木の柱のようなものが出現した。
調査によりこれらが鎌倉時代、相模川にかけられた「橋の橋脚」である
ことが考証された。
出現した10本の柱の配置から、現在とは異なり、相模川は東西方向に
流れており、橋は、南北方向に架けられていたことが分かった。
橋の大きさは、幅約9m、長さは40m以上あることも分かった。
 『吾妻鑑』によると、橋は源頼朝の家臣・稲毛重成が架かけたもので、
頼朝が渡り初めをした、とある。
この相模川橋脚は、歴史遺産としての重要性に加え、関東大震災の地震
状況を示す天然記念物、また当地の地域遺産として保存されている。


自然薯のように私は永らえる  岸本 清


「鎌倉殿の13人」 実朝エピソード



  モズ、獲物を獲保の場面


episode ①  鷹とモズ

3代将軍となった実朝は、繊細な性格の中にも将軍としての威厳も持ち
合わせた父・頼朝に似たところがあったようだ。
 例えば15歳の時、鷹を扱わせたは名人といわれる鷹飼の櫻井齋頼
「小さな鳥のモズでも、鷹のように獲物を捕らえさせることができる」
と、聞いた。すぐにそれを見たくてしょうがない実朝は、相州すなわち
執権・北条義時に相談をした。そのとき
「子どものようなことを言って、自分でもしょうがないと思うけれど」
と、恥ずかしそうに、付け加えている。
実朝の家臣を思いやる、優しい心が垣間見られる言葉遣いである。
この時、義時は、実朝の希望を察して、すでに齋頼を呼んでいたので、
このすぐあと、齋頼が現れ、スズメを三羽捕えてみせたので、実朝は、
すっかりご機嫌になった、という。
そこには、やはりまだ幼さの抜けない少年、実朝の姿があった。


鏡には父に似てきた顔がある  広瀬勝博



    相模川橋脚史跡


episode ②  相模川にかかる橋修理

相模川にかかる橋の修理を三浦義村が上申した。
その橋は、頼朝が完成時の席に招かれた帰路に落馬して「やがて死んだ」
といういわくつきだったため、それを不吉とした北条義時らが、修理の
不要を決めたという報告をすると、実朝は「不吉なことなど関係ない。
それよりもこの橋は伊豆・箱根の参詣道で、民衆の往復にも便利だから
早く修理するように」と、改めて修理を命じたという。
部下への心配りや政治家としての、見識の高さを示す実朝の小さなエピ
ソードだが、兄・頼家の乱行に手を焼いた母・政子にとっては、
将来を期待させるには十分だった。


くすぐってやるとほぐれるわだかまり  青砥たかこ
 
 
 
          実朝の妻 (大通寺蔵) 
 
 
episode ③  実朝の妻

幕府の実権を握っていく北条氏に頭が上がらなかった観がある実朝だが、
『吾妻鏡』では、そうそう北条氏の言いなりになっていない。
有力御家人で、源氏一族の足利氏の娘を娶るよう北条氏から働きがけが
あっても、実朝は頑として受け付けず、京の公家の娘を妻に迎えている。

 実朝の妻は、建久4年 (1193) 京都生まれ。
姉妹2人ずつが、後鳥羽順徳の後宮に入る家柄で、幕府と後鳥羽院
結ぶ政略結婚であったが、実朝自身が妻には、京の娘を求めていた。
1つ上の実朝とは仲睦まじく、2人してよく寺社詣でや花見などに出か
けたという。
しかし、実朝が暗殺されてしまうと、翌日には出家し、京都へ帰った。
そして、実朝が所有していた西八条第に住み、尼となって実朝の菩提を
弔う寺として、遍照心院を建てている。
晩年、「代々将軍家の祈祷を行う寺院として、廃れることのないよう、
戒行を保ち、寺物を私物化しない律僧を長老とすること」を定めている。
あれほどの強い姑・政子とも円満だった、ことからみても、かなりしっ
かりした女性だったらしい。


1+1はたいがいビブラート  くんじろう



  執務の一時、蹴鞠を楽しむ実朝ら


episode ④  実朝の政治感覚

「承元三年十一月十四日、相州、年来の郎従のうち、功あるの者をもっ
 て、侍に准ずべきの旨、仰せ下さるべきの由、これを望み申さる。
 内々その沙汰ありて、御許容なし。その事を聴さるるにおいては、
 然るごときの輩、子孫の時に及びて、定めて以往の由緒を忘れ、
 誤りて幕府参昇を企てんか。御難を招くべきの因縁なり。
 永く御免あるべからざるの趣厳密に仰せ出さる、と、云々」

叔父の義時「功績ある自分の家来を御家人の列に加えて欲しい」と、
願い出たのを実朝が許さなかった。
「御家人に引き立てれば、本人たちは特例であったことをわきまえても、
 子孫の代にはそんなことすっかり忘れ、後々の争いのタネとなりかね
ない」と、実朝は厳しく言い渡している。
実朝がまだ18歳のときの事だから、後に北条氏の家来たちが「御家人」
として専横を極め、幕府が衰退する原因のひとつとなったことを考えると、
実朝には、優れた先見性、政治感覚があったことが察せられる。


三回目の欠伸ここらで保釈する  藤村タダシ



      太子信仰・聖徳太子絵伝  (秦致真筆)


episode ⑤  実朝が尊敬する歴史上の人物

「承元四年十月十五日、聖徳太子の十七条の憲法ならびに守屋逆臣の跡
 の収公田の員数在所、および、天王寺法隆寺に納め置かるるところの
 重實等の記、将軍家日来御尋ねあり。廣元朝臣相触れて、これを尋ね
 今日進覧すと云々」
「同年十一月廿二日、御持仏堂において、聖徳太子の御影を供養せらる。
 眞智房法橋隆宣導師たり。この事日来の御願と云々」

実朝聖徳太子に非常に関心を寄せていたことを示す記事である。
後者の太子の肖像の供養は、他の年にもでてくる。
また、太子を拝するだけでなく、十七条の憲法を見たり、太子と戦った
物部氏の記録まで求めさせている実朝の行動からは、聖徳太子の実際の
政治的動向を具体的に知りたいという意思が見えてくる。


青ジソが芝の中まではえている  平井和美



      唐 船


episode ⑥  実朝の夢を砕いた謎の宋人

寿永元年(1182)からの「東大寺大仏の再興」に携わり、重源上人
をサポートしていた陳和卿という宋朝の鋳物師がいた。
 建久6年(1195)東大寺復興の落慶供養に参席した頼朝が、この
和卿に会いたいと希望したが「多くの生命を断ってきた頼朝は罪深い」
として拒否した経緯がある人物である。
 その和卿が21年後の建保4年(1216)、鎌倉へひょっこり姿を
現し、時の将軍・実朝と対面した。和卿は実朝の前で、
「あなたの前世は、宋国医王山の長老で、自分はその時に一門弟として
仕えていた」と、涙を流しながら話した。
実朝も5年ほど前、夢の中で1人の高僧が同じことを言ったことを思い
出し、和卿を信じてしまう。
こうして交流していくうちに、和卿の話に引き込まれた実朝は、
中国へ渡る「唐船」の製造を決意し、和卿にそれを命じた。


ドクターの意見にだけは素直なり  靍田久子

 
宋商船想像図 (谷井健三画)
鎌倉時代、日本と宋を往復する船を唐船と呼んでいた。


1年後、大きな唐船が完成した。
由比ガ浜の海に船を浮かべる引き手に、御家人数百人が召し出され、
和卿の指示で舟を出す……はずだったのだがいくら引いても船は動かず、
海に浮かべるどころではない。
由比ガ浜は、唐船のような大きな船は、出入りできない浅瀬だったのだ。
その海の深浅も考えずに、船をつくった和卿の失敗だった。
この和卿、船の進水に失敗するやいなや、さっと姿を消してしまった。


不発弾捨てにときどき旅に出る  原 洋志

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開