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川柳的逍遥 人の世の一家言
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起きなさい朝日迎えに来てますよ  中野六助
 
 
 
        北条政子
 
 
① 『女人此国ヲバ入眼スト申伝ヘタルハ是也』
(女人が日本の国を完成するといい伝えられているのは、
 このことである)

② 『女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ』
(日本国は女人が最後の仕上げをする国であるということは、
 いよいよ真実であるというべきではあるまいか)
(慈円は『愚管抄』に「日本国女人入眼」とか
  「女人此国ヲバ入眼ス」などと繰り返し述べている)


むら雲の嗚呼の部分のうすべにの  宮井いずみ


「鎌倉殿の13人」 北条政子・藤原兼子+慈円




「女人入眼」
 
「入眼」は、絵を描く時など最後に瞳を点じて完成とすることから、
「物事を成し遂げる、仕上げをするといった意味」で、慈円政子
「男たちが戦で彫り上げた国の形に、玉眼を入れるのは、女人であろう
 と、私は思うのですよ」と、語る。
 「入眼」とは、古辞書に「成就」の意とある。
 日本の国の仕上げをするのは、「女性」だというのである。
 
 
一日に二回は空へ吠えている  森 茂俊


「日本国女人入眼」の例としては、北条政子、藤原兼子から後白河法皇
の女御・建春門院、さらには古代の女帝まで含めて、かなり広い範囲に
わたっており、女帝の問題は特に重視されている。
慈円には、女人政治を基準とする時代区分があるとし。
「奈良時代の末までは、女帝の時代、平安時代は皇室から女帝を建てず、
 藤原鎌足の子孫が妻后(さいこう)・母后(ぼこう)となり、后の父
 に政治を行わせた時代。そして、その後に来るのが、退位した上皇が
 天皇の父として院政を行う時代」 としている。


仕上げには星の雫を二、三滴  合田瑠美子



     慈 円


「なぜ女性が活躍するのか」

「人間は母胎から生まれ、出産の苦痛は、言語を絶したものであって、
 人は女性である母の恩を受けているのだから、母を敬い孝養を尽くす
 のは当然であり、それ故に女性が政治に活躍するのだ」
と、慈円は延べ、母性としての女性の特質から説明している。


母という万能薬を持っている  田辺豊子


藤原鎌足の子孫であり、摂関家の出身である慈円が、
子女を天皇の后として政権を握ってきた摂関政治を合理化しているのは
当然であるが、それに留まらず、女性の本質に関する仏教思想的な省察
が見られるようである。
慈円の言うように、鎌倉前期は、「女流政治家」の時代である。
兼子の先輩には、後白河法皇の寵を得た高階栄子(丹後局)がいるし、
政子が争った相手には、北条時政の後妻・牧の方がいる。
しかし、これらの中では、いうまでもなく政子のスケールが際立って大
きい。
(政子を詠ったものとして、次の句がある)


一盛り六十余洲後家差配   江戸川柳
 
 
 慈円は、女人政治家の特質を母性に求めた。
丹後局牧の方は、この条件でまず失格である。
彼らは権力者の母ではなく、妻であるから、陰で権力者を操る程度の
ことしかできない。
藤原兼子は、後鳥羽上皇の乳母で、上皇よりも25年も年長だから
上皇に対しては、母に準ずる立場にあったといえよう。
45歳で典侍としてスタートして雇用されたのだから、
よほど有能だったのだろう。
しかし、所詮は上皇の秘書にすぎないから、上皇の機嫌をとり、后妃
だけでなく上皇、お気に入りの白拍子の世話まで焼かねばならない。


幸せな振りをしている飾り窓    田中 俊子  


手腕を振るったといっても、上皇に内密に奏聞したにすぎず、
それも多くは官位の昇進についてである。
それに対し政子は、頼朝の妻であったが、活躍するのは夫の没後であり、
将軍頼家・実朝の母としてであるから憚ることなく、権力を振るうこと
ができたのである。
とかく恐れられがちな、政子という女人のために、
とくに弁明しておきたいのは、頼家・実朝に対する彼女の行為が、
当時としては、何ら異様なものではないということである。


俎板の模様は母の形見です  北島 澪


武士の家庭では、親は子に対して、絶対の権限をもっており、
子を思いのままに勘当すらできる。
それは主として、父の権限であるが、父の死後は母が行使する。
親から見て不肖の子であれば、それを勘当するのは、家門を繁栄させる
立場からいえば当然なのだから、政子頼家を勘当したのは、
親の権限によるのである。
頼家を殺したことに政子はあずかっていないし、実朝にいたっては、
政子や北条氏が擁立したのであるから、殺害を唆す筈もない。
子どもに対する仕打ちで、政子が非難される理由はまったくない。


一の波二の波父と母である  太田のりこ



       北条政子


それよりも慈円を驚かせたのは、政子が父の時政を幽閉したことであり、
確かに当時の家族のあり方からは非難されることである。
「実朝が母、頼朝が後家ナレバ」
と、説明しているように、時政の主人にあたる頼朝、実朝の後家であり
母であるから家来である時政を幽閉したのも、当然だということであろ
うが、当時の主従と親子の軽重からいえば、政子の選択が普通であると
は必ずしも思えない。

それだけ政子の行為が、公人としての、より高い立場からなされている
ことになるし、また実朝を大事と考えていたことが、この面からも論証
される。


春の日の紙飛行機は二人乗り  米山明日歌


しかし政子、「真に指導者として、独裁的な手腕を発揮した」のは、
実朝の没後であった。
慈円は妻后とか母后とか、男性との関係で女性政治家ととらえているが、
それでは男性権力者の影にすぎないことになり、
妻でもなく、母でもない、独身の女性の方が、独裁者の条件に相応しい
のではなかろうか。
あるいはまた、古代の女帝の多くがそうであったように、
政子は頼経が成人するまでの繋ぎの意味を、持っていたのかもしれない。       
                         (上横手雅敬)


心配は母の職業病と知る  伊藤良一 




「女人入眼」は、永井沙耶子さん著で現代版人気発売中です。
 2022年7/22発表の直木賞候補でしたが、今どき感が弱くて惜しむ
らく負けてしまいました。総合点では勝っていたのに、なぜか賞を獲得
したのは、窪美澄『夜に星を放つ』でした。が、ドラマ性は断トツの評。
ということは、面白いということ。歴史好きの方には、必読の書である
ことは間違いなし。なお、
今年の直木賞・芥川賞の作者は、両方とも女性だったことを書き添えて
おきましょう。まさに「女人入眼」です。

(あらすじ)
権勢を誇った後白河院の死後、都ではその寵妃・丹後局と関白の九条
兼実が権力争いを繰り広げていた。
丹後局は、鎌倉の頼朝を味方にするため、女官の周子を鎌倉に送り込み、
大姫を天皇に嫁がせようとする。
男たちが彫り上げた国という仏に目を入れるのは女たち……。
パワーゲームに翻弄され心を閉ざす大姫を、周子は救えるのか…
歴史好きの方には必読の書です。


クライマックスまで、3・2・・・・・ 山口ろっぱ
 


  丹後局(鈴木京香)


「藤原兼子」

卿の二位、あるいは今日の局とも呼ばれた藤原兼子
彼女は後鳥羽院の乳母であったことから、天皇の趣味・嗜好を熟知して
おり、後鳥羽が上皇になってからも彼に愛人や、美少年を世話するなど
して、うまくとりいった。
さらに当時、権勢を誇っていた源通親と結び、盤石の地位を獲得した。
陰から政治に口を出し、富と権力を欲しいままにしたのだ。
兼子は、任官叙位の権限まで握っていたので、
皆こぞって立身出世のために賄賂を贈った。
藤原定家などは、彼女を「狂女」呼ばわりしながら、
ちゃっかり昇進の斡旋を依頼している。


ひらがなのふの字の好きな人が好き  佐藤正昭


兼子はこうして得た金や土地屋敷を転売交換して、地価の上がりそうな
二条大路近辺の一等地を買い占めた。
財テク、土地転がしの手腕も一流だったのだ。
兼子は実朝の後継者について政子と折衝し、自分が養育した後鳥羽上皇
の皇子・頼仁親王を次期将軍にと画策したが、これは実現しなかった。
幕府の権力にまでその手を伸ばそうとしていたのだから恐れ入る。
まさに宮中随一のやり手バァであった。


海亀の甲羅びっしり苔むして  くんじろう
 


   松崎天神縁起 一人で旅する女性


「蛇足」 鎌倉時代の女は強かった。

「武家の女性は男性を陰で支えるもの」
というイメージがあるが、鎌倉時代はちょっと違ったようだ。
兄弟たちと並んで、女子も所領を相続することができた。
家を継ぐ嫡子は、通常は男であったが、ときには女が嫡子として
一族の惣領になることもあったのである。
また、夫が亡くなった場合は、後家として譲与され所領を一族の代表と
して管理しなければならなかった。
地頭職に就く女性もいたというから、この時代の武家の女は、
強くなければならなかったのである。


禁煙せねば灰皿飛んでくる  銭谷まさひろ



  前大僧正慈円

慈円は歌人としても名高く、6千首を超える数が残っている。
歌仙絵にもその独特の風貌が描かれている。歌仙絵の歌は、
おほけなく うき世の民に おほうかな  わが立つ杣に 墨染の袖 "


 「慈円」

「愚管抄』は、承久の乱(1221)が起る直前に書かれており、
この中で慈円は、後鳥羽上皇の無謀な倒幕計画を痛烈に批判している。
「愚管抄」の目的は、上皇の幕府転覆を阻止することにあったようだ。
摂関家という名門出身であり、加えて僧としても、天台座主も任じられた
ことのある慈円は、世の「変遷」「道理」の展開ととらえた。
藤原氏による摂関政治も、鎌倉幕府の成立すべて「道理」であり、
よって保元の乱(1156)以降の武家勢力の台頭は必然であると、肯定した。
慈円は、兄・九条兼実と同じく親幕府派の人物であった。
東大寺開眼供養の折に、上洛した頼朝と対面し、まるで旧知の仲のように
打ち解けたという。
疑り深い性格の頼朝がすぐに心を許したのだから、慈円の寛大な人柄が
想像される。


玄関で積乱雲になってます  森田律子

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