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川柳的逍遥 人の世の一家言
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横隔膜 流人の辿りついた波  高橋 蘭
 


                  橋を渡る人々

人々で賑わう四条大橋。当時の京の中心地であるとともに街道の出発点
でもあった。武士・僧侶・女・子供と様々な人が行き交う。

 
鎌倉二代将軍・実朝は、京風文化の憧れは強く、和歌や蹴鞠を好んだ。
特に和歌に熱中し、藤原定家鴨長明に指導を仰いだほどである。
元久2年(1205)9月、自らも数首ほど出した「新古今和歌集」が、
後鳥羽院より藤原定家の門弟・内藤兵衛尉朝親が届けた。

朝親 「もっと早くにお届けしたかったのですが…」
実朝 「いや~、待ち焦がれておった」
” 見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ "
 実朝 「これは定家殿の歌だな…父上の歌もあるぞ…」
" みちすがらふじの煙もわかざりきはるるまもなき空の景色に "
相模国・三浦三崎にて (実朝の3句)
” 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまのを舟の綱手かなしも "
伊豆の海と初島を眺めて
" 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ "
" 大海の磯もとどろによする波 割れて砕けて裂けて散るかも "

実朝の詠んだ和歌は、後に「金槐和歌集」に纏められた。


木漏れ日を浴びて詩人の顔になる  郷田みや
 


      鴨長明の草庵の想像復元図

 庵の東側に3尺余りのひさしを差し出して、その下を柴を折って
  燃やすところ(炊事場)とした。
② 東側隅にわらびの穂を綿代わりにした敷物を敷いて寝床にした。
 室内は西側北の部分に衝立を立て、その奥に阿弥陀如来と普賢菩薩
  の絵をかかけ、前には法華経を置いてある。
 西側の南半分に、竹のつり棚を拵えて、黒い皮籠を3つ置いた。
  中には、歌書・楽書さらに「往生要集」などの抜き書きを入れた。 
  その横には琴と琵琶をそれぞれ一面ずつ立ててある。
 南側に竹の簀の子板を敷く。


小さくなった庵の前に立ち庵を眺める長明


 
「鎌倉殿の13人」 鴨長明・方丈記&古今和歌集


『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
 久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人と棲(すみか)と、又かくの如し』


この有名な書き出しで始まる『方丈記』の作者・鴨長明は、久寿2年
(1155)京・下鴨神社の禰宜(下級神官)鴨長継ながつぐ)の
次男として生まれた。
若くして、父方の祖母の家を継いだ長明の未来は、前途洋々だったが、
19歳で父を失うと急速に没落し、その後は失意の生活を送ることに
なる。30歳を過ぎてから、祖母の家を出て加茂川の畔の庵に移るが、
その大きさは、「以前の家の10分の1しかなかった」と、長明は書
き残している。
平家の没落から鎌倉幕府の樹立へと、激しく激動する時代のなか、
長明は、和歌と管弦の道に没頭し、やがて歌人として認められるよう
になった。


すーっと風洗い流してくれました  津田照子


建仁元年(1201)長明は、後鳥羽上皇によって再興された和歌所の
寄人(よりうど)として抜擢される。
しかし、ここでも長明の不運は続く。
後鳥羽上皇の庇護によって、いったんは下鴨河合社の禰宜に就くことが
決っていたが、同族の妨害によって実現しなかったのだ。
この生涯2度目の挫折に悲嘆した長明は、50歳で出家し京都・大原に
隠棲する。
だが、ここも安住の地ではなかったらしく、承元2年(1208)長明
は、大原から日野山の奥に移り、いわゆる一丈四方(4畳半程)の草庵
を結んだ。新しい住まいは、最初に作った庵の100分の1にも足りな
い大きさだった。


平均という甘い居場所にしがみつく  原 洋志
 




日野山に移ってから間もなく、長明『新古今和歌集』の選者の1人で
ある藤原雅経に伴われて、鎌倉に赴く。
すでに長明は、新古今和歌集に10首も入るほど、和歌の名手として知
られていた。
雅経は、こうした長明の才能を惜しみ、歌人としても名高い将軍・実朝
の歌道師範として推挙したのだ。
鎌倉では、実朝と何度も和歌談義し、指導もしたが、結局、この最後の
仕事も長くはつづかなかった。


階段はいらん養成所の裏手  酒井かがり


京へ戻った長明が、建暦2年(1212)3月、自らの生涯を顧み乍ら、
草庵での暮らしぶりを書いたのが『方丈記』なのである。
方丈記の前半は、長明が体験したさまざまな災害が簡潔で迫力に満ちた
文体で語られている。
そして後半では、自らの半生と日野山に庵を結んだ経緯と、
そして庵の形態や日々の暮らしぶりが綴られ、長明の院政生活を垣間見
ることができる。
長明がたどり着いた終の栖とは、どんなものだったのだろうか。


 あるときはナマコあるときはイタチ  笠嶋恵美子


長明「方丈の庵」は、組み立て式で、いつでも何処へでも運んでいけ
るつくりになっていた。
土台を組み、簡単な屋根をつくり、木と木のつなぎ目ごとにつなぎ留め
の金具をかけて固定した。
これは、その土地が気に入らなくなれば、手軽にほかの場所へ家を移動
させるためで、いわば、モンゴルの遊牧民の住居である「包(ばお)」
と同じである。
当然、家具もいたって少なく、わずかな所持品をおく棚、阿弥陀仏や菩
薩の画像、文机、炊事用の竈など、全部でも、荷車2台分しかない。
また寝床は、わらびの穂を入れた敷物を布団の代りにしていた。


八月はキャットタワーを塒とす  山本早苗
 




庵の周辺は南に懸樋(かけひ)があり、岩を組み立てて水が溜まるよう
にしている。
近くには林があるので、薪にする小枝には不自由しない。
念仏・読経に身が入らないときは、散策に出かけ、山草を摘んだり、
山芋を採ったり、時には、麓の田圃に行って落穂拾いなどもする。
所有欲を捨てた、まさに隠者のシンプルライフである。


『よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
 久しくとゞまりたるためしなし。
 世中にある、人と栖(すみか)と、又かくのごとし』


思いっきりここで泣いてもいいんだよ  蟹口和枝


『たましきの都のうちに、棟(むね)を並べ、甍を争へる、
 高き、いやしき人の住ひは、世々を経て、尽きせぬ物なれど、
 是をまことかと尋れば、昔しありし家は稀なり。
 或は去年焼けて今年つくれり。
 或は大家(おほいへ)ほろびて小家(こいへ)となる。
 住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、
 いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。 
 朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似りける』


欠点をさらすと楽になる余生  靏田寿子


『不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。
 又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか
 目を喜ばしむる。
 その、主と栖と、無常を争ふさま、いはゞあさがほの露に
 異ならず。或は露落ちて花残れり。
 残るといへども、朝日に枯れぬ。
 或は花しぼみて露なほ消えず。
 消えずといへども、夕を待つ事なし』


耳に落つ涙は海になってゆく  平井美智子


家を、人と世の無常の象徴としてとらえ、晩年に住んだ「方丈の庵」
思いを託した鴨長明の「方丈記」は、俗世間の煩わしさから解放された
隠者として生きることの宣言でもあった。

枕とていづれの草に契ちぎるらむ行くをかぎりの野辺の夕暮
(今夜は枕として、どこの草と縁を結んで寝れば良いのだろう)

見ればまづいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけはなれけん
(前世で結んだ契りのせいで、賀茂社と縁が切れてしまったのだろうか)


無印で生きて笑顔を友とする  柴辻踈星


   
    後鳥羽院             鎌倉右大臣実朝


「後鳥羽上皇の『古今和歌集』への熱意」


後鳥羽上皇が和歌に熱中し始めたのは、譲位の直後、「六百番歌合」
「花月百首」など、当代の天才秀才たちの作品に触れてからだった。
和歌は帝王学の基本の一つとして、元服以前から専門家の教育を受けて
きたが、そのような義務的な親しみ方の時には鬱陶しいばかりであった。
それが上皇となって、ゆったりとそれらの作品を味わうようになると、
たちまち興味を惹かれたのである。


人になる準備句集抱きしめる  藤本鈴菜


やがて、才気渙発な上皇は、正治2年(1200)7月、新しい勅撰集
『新古今和歌集』の編纂を思い立つ。
建仁元年(1201)には、和歌所を置いて、宮廷貴族の中の指折りの
和歌の名手たちに、何度も百首歌を詠進させた
後鳥羽上皇は、そこから二千余首の候補作を選び、何度も選考を重ねて
いった。
藤原定家など撰者に任命された者たちは、その作業の大変さに疲労困憊
したが、院はますます熱中するばかりだった。
「新古今和歌集」頼朝の和歌を採ったのも、幕府を傘下におさめよう
とする上皇の政治思想によるものであろう。
こうして元久2年(1205)、一応の完成を見た。
その序文には、
「歌は世を治め、民を和らぐる道とセリ」とある。
実朝はこの「新古今和歌集」をきっかけに、民のために政を行った朝廷
政治を学んだ。
そしてそれを将軍としての理想とするようになっていったのである。


君を見る丸い水晶体を持つ  河村啓子

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