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川柳的逍遥 人の世の一家言
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臨時ニュースキャベツの芯がえらいこと  雨森茂樹
 
 
 
 
「大日本名将鑑 織田右大臣平信長」月岡芳年



「臨時ニュースです」
天正10年6月2日未明、本能寺において、天下統一目前の織田信長
家臣の明智光秀が暗殺するという事件が起こりました。怨恨による個人
的突発的事件か別の動機があるのかと騒がれましたが、このほど「計画
的な反抗」であったことが判明。それは親交もあり、信長の旧来の敵で
ある上杉家へ、光秀はあらかじめ使者を送り、本能寺の襲撃計画を伝え
ていたというのです。光秀が、信長の敵と同盟してまで、主君を倒そう
としたのは何故なのか。その背景に「信長の改革」に対するさまざまな
勢力からの「反感と抵抗」があったものと推察されています。
これはまさに、日本の歴史の流れを断ち切る事件ともいえるものです。



悪事決行白い手袋はめながら  城後朱美



 
「殿、それはいかがなものでしょうか」などと、いくら正論であれ
上司に諫言してはならない。恵林寺問題で信長に諫言した光秀は、
信長の怒りを買った。

 
 
「麒麟が来る」 本能寺の変へ



【明智光秀が謀反を決めた日】
天正10年(1582)春、光秀55歳。光秀は武田家を滅ぼした信長
の甲州征伐に参陣した。諏訪の法華寺で開かれたその論功行賞の席で、
光秀が信長から折檻を受けたという逸話が伝わる。これが「本能寺の変」
の遠因とする説もある。が、これは後世の創作の可能性が高い。むしろ
5月15日からの徳川家康らの饗応をめぐる確執は、それが変の原因か
どうかはともかく、信憑性の高いものと考える向きが多い。
光秀は、安土城で家康の接待中に、突然に信長から「中国地方へ出陣せ
よ」との命を受けた。その後、準備のために丹波亀山城へ戻った光秀に、
「信長から使者が来た」 何事かと光秀はいぶかしんだ。



真実という劇薬を処方され  都司 豊




光秀・謀叛の理由の1
出雲・石見への国替えに苦悶する光秀
 

 
使者は次のように伝えた。
「光秀の丹波・近江の領地は召し上げ、代わりに出雲・石見を宛がう」
(明智軍記)
丹波・近江は、かつて信長のために粉骨砕身した褒美として与えられた
領地であったはず。こここそと自分の土地として今日まで営々と領民と
慈しんできた。それを召し上げ、代わりに、今だ敵の領地である「出雲
石見に行け」という。武士を土地から切り離し、全国どこへでも移動を
命じようとする。信長の政策は、これほどまでに容赦のないものであっ
たのか。使者の伝達を受けた光秀の、その後の動向は、不明で筆まめで
知られる吉田兼見の日記でも5月17日から4日間が空白となっている。



その口がいつも火種になっている  河村啓子




光秀謀叛の理由の2
饗応役解任に抵抗をした光秀は、信長の勘気に触れる。
殴打するのは森蘭丸。



省みれば、四国の長曾我部氏も、まもなく同じ運命にあおうとしている。
光秀の胸中には、さまざまな思いがよぎったに違いない。義理や名誉を
重んじる光秀にとって、自分を頼ってきていた長曾我部氏が過酷な処分
を受けるのは耐え難いことであった。
「四国遠征軍の出発日は、6月2日に迫っていた」
奇しくも同じ6月2日、信長は京の都にいるはずだった。中国出陣を前
にして、何事かを朝廷に言上する予定だったからである。
「もはや、信長をこのままにしてはおけない」
光秀の胸中に殺意が固まったのはこの時であったはずである。室町幕府
将軍の追放、武士階級の再編成、天皇の権限への介入…。と、
さまざまな理由が…、光秀の胸中を駆けめぐった。



踏まれてから気づきはじめる自尊心  畑 照代



【上杉景勝への密使】
江戸時代を通じて、上杉家の一部の人にしか閲覧が許されなかった資料
がある。この中に明智光秀の名前が記された書状があった。
それにしても光秀は、この書状をいつ、認めたのだろうか。
当時の交通
事情では、使者が上杉氏のもとの到着するまでには、どんな
に急いでも
3、4日、場合によっては一週間程度の要したと考えられる。
というこ
とは、光秀は、6月1日よりかなり前に「信長打倒」を決意し、
諸大名に
呼びかけていたことになる。すなわち「本能寺の変」は決して
突発的な
事件ではなく、極めて計画性の高い大がかりなもの、であった
ことになる。




消えかけた感情線を引き直す  山本さくら



「密使の内容」
『昨日自明智所魚津迄使者指越』
(いっさくじつあけちのところよりうおづまでししゃさしこし)
<一昨日、明智光秀が越中の魚津に使者をよこしてきた>
一昨日とは、6月1日、つまり「本能寺の変」の前日のこと。
魚津城は当時、上杉家の勢力圏であった。光秀「本能寺の変」の前に、
信長の敵・上杉氏に使者を送っていたのである。使者が伝えた内容とは、
『御当方、無二御馳走申し上げるべき』
<上杉家は、最大限の援助を申し上げるべきである>
言葉遣いからみて、上杉氏が援助すべき相手は、将軍義昭だったと推測
される。つまり光秀は「かつて信長と敵対して都を追放された義昭のた
めに上杉氏が働くよう」にと伝えたのである。光秀はこの時すでに信長
に反逆し、諸大名と連携して、義昭を担ぎ上げ、時代をふたたび室町の
世に戻そうと考えていたとみえる。



理想論だったと思う今思う  津田照子




          明智軍の進軍ルート



「変、前日」
ひと足先に入洛していた織田信忠は、父・信長が近日中に京にやってく
ることを知り、徳川家康・穴山梅雪らと予定していた堺への物見遊山を
取り止め京に残ることにした。5月29日、家康と梅雪は予定通り堺に
向かう。まさに運命の分かれ道である。堺に向かった家康は。いわゆる
「神君伊賀越え」で命拾いし、京に戻った信忠は、光秀の軍門に下るこ
とになる。
亀山城入城の翌日、愛宕山に登った光秀は、宿坊に泊まり、
翌28日に
「愛宕百韻」に参加、「ときは今…」の句を詠んだ。

謀叛の決意を如実に示した連歌会である。愛宕山から丹波・亀山城に戻
った光秀は、備中出陣の用意を本格化させ、29日には、玉薬(弾薬)
兵糧などを西国に向けて発送している。が、これは偽装工作であった。



企みをひっそり詰めた柿の種  中川隆充




  亀岡市曽我部町法貴明智岩(通称・明智戻り岩)
摂津と丹波とを結ぶ峠道にある大岩。
ここで京・本能寺へとコースを変更して逆戻りしたと伝える。



そして6月1日夜、1万3千人を率いて光秀は、同城を出立した。
本来
備中へ向かうのであれば、西へ進まないといけないが、明智
方は、丹波・
山城国境の老ノ坂を経て、沓掛で三段に分けた将兵
に食事を摂らせた。

 この時、光秀は、安田作兵衛らを先発させて本能寺の物見(偵察)
命じると共に、馬廻りに「本能寺に注進するような者がいたら、
容赦なく
斬り捨てろ」と命じたという。
沓掛は、京と西国の分岐点にあたる。

そして出陣時に言った通り、「馬揃えをお見せする」という名目で
明智
軍は京への道を進んだ。



複雑なシナリオ酢昆布が臭う  山本早苗



同日、信長は公家たちの訪問を受けていた。勧修寺晴豊「天正十年夏
記」6月1日の日記には、この時、信長は、2月に要求した「暦の変更」
を再び突き付けて強く迫ったとある。このままでは、いずれ信長の言い
なりにならねばならぬことは明らかだった。
そして、そのあとは、博多の豪商・
島井宗室や先の公家らと、本能寺で
深夜まで茶会を催した。




カレンダーに印ついてる何だっけ  下谷憲子
 
 
 

   森蘭丸(左)を退け信長(右)に迫る安田作兵衛(中央)



「変、当日」
6月2日未明、光秀一行は桂川に到達する。光秀はここで新たな触れを
出し、兵たちに臨戦態勢をとらせた。『明智軍記』に書かれている有名
「敵は本能寺にあり」のセリフは、桂川を渡り切ったあたりで発せら
れた。卯の刻(午後6時頃)明智本隊は、ひたひたと本能寺を取り巻き
鬨の声を「どう」と挙げて、弓や鉄砲を撃ち込む。
夜半に寝付いた信長は、ただならぬ喧騒に目を覚まし、矢玉が撃ち込ま
れるに及んで、謀叛んを確信する。信長は「これは謀叛か。如何なる者
の企てぞ」と小姓・森蘭丸に問うた。すぐさま蘭丸は、屋外に出て寄せ
手の旗幟を確認し、「明智の者と見え申し候」と言上する。
蘭丸の報告に接した信長は「是非に及ばず」と口にし(『信長公記』)
当初は弓、次いで槍で明智方と戦う。



正面の顔がやっぱり阿修羅像  小林満寿夫 
 
 

 

本能寺の激闘
最初、信長は弓で戦ったが、弦が切れてしまったため、槍をとって
押し寄せる明智勢に抗った。
太田平春永(信長・右)保利蘭丸永保(中央)安田宅兵衛(左下)




しかし織田方は、信長の他は小姓などが百人少々いただけという多勢に
無勢であったため、やがて肘に傷を負った信長は、本能寺の建物の中へ
入っていく。これを見た安田作兵衛はなおも信長に追い縋ったが、蘭丸
に遮
られた。この後、蘭丸は十文字槍、作兵衛は槍で戦い、蘭丸は討死。
その間に信長は御殿に火を放って自刃する。
戦闘は一時間程度で終結した。




カサコソと抱いた骨壷から返事  桑原伸吉  

 
 
 
一方、妙覚寺にいた信長嫡男・信忠は、明智の謀反をしり本能寺に駆け
付け
ようとするが、京都所司代である村井貞勝が来て、本能寺がすでに
焼け
落ちたことを告げ、二条御新造に立て籠もるよう進言した。二条御
新造
に移った信忠は、みずから陣頭に立ち獅子奮迅の活躍をしたという。
あまりの奮戦に、明智軍の先手組がいったん退き、二陣の寄せ手と入れ
替わった。(と『明智軍記』は記す)
やがて京都市中にいた将兵が駆け付けたことから、二条御所の織田方は
500人以上になっていたというが、1万3千人を擁する明智方の敵で
はない、信忠の奮闘もここまで。最期は、家臣の鎌田新介に介錯を務め
させ、自刃する。26歳だった。



太陽の裏へご一緒致します  井上一筒

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