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川柳的逍遥 人の世の一家言
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チャルがゆれて架空が色づいた  森井克子
 
 
 
                            都名所之内 愛宕山之図
 
 
「麒麟がくる」 光秀愛宕百韻


 「応仁の乱」という革命の発端から百数十年続いた乱世で、悉く秩序は
壊れた。その反動として、人々は秩序を求めた。
その一例が「連歌」の流行である。連歌は平安末期、京の宮廷とその周
辺で生まれ発達、一人が和歌の上の句を詠むと他の一人が下の句を詠み、
最後の挙句まで、繋げて楽しむ遊びである。
順序として、先ず「発句」で始まる。「発句」は挨拶の句とされ、通常
はその会の主賓が詠む。傍からみれば、七面倒くさいものだが、座の人
々はその制約をよろこび、一座の秩序に服した。「連歌」とは、4,5
人から10人ほどが一座をなし、第一句(発句)を一人が詠むと、第二
(脇)、第三句(第三)、最後の「挙句」というふうに、人々が順次
詠みあう形式に発展し、規則として固定化した。



指を折る音色に今日をかけてみる  今井弘之
 


 
                             里 村 紹 巴
 

明智光秀が連歌会に初めて参加したのは、永禄11年(1568)11
月15日に催された百韻興行で、連歌師の里村紹巴(じょうは)の一門
である昌叱(しょうしつ)心前のほか、細川藤孝ら12名が参加して催
された。紹巴が12句、藤孝が10句を詠む中で、光秀はわずか6句し
か詠んでいない。それは光秀が、信長配下となって日が浅く、また連歌
の熟練度が相当レベルまで達していなかったからだろう。
光秀は判っているだけで、生涯で50数回の連歌会を主催あるいは参加
したといわれている。天正5年以降になると、光秀の連歌熱はいっそう
高まることになる。



秋風に晒す薄っぺらい矜持  徳山泰子



「光秀の連歌経歴」
天正5年4月5日から7日の3日間にわたり、光秀は京都の愛宕山千句
「賦何(ふすなに)連歌」を興行した。参加したのは紹巴やその一門
に加え、藤孝も招かれていた。千句の興行の場合は、百韻を十回繰り返
すハードなものだった。以降、光秀はハードな千句の興行に力を入れて
いく。
天正7年7月18日、光秀は居城の丹波亀山城で、千句の賦何連歌を興
行した。天正9年1月6日にも、光秀は居城の近江坂本城で、連歌会を
催しており、かなり嵌っていたようだ。
元亀元年の「比叡山焼き討ち」後の坂本城築城工中にあった次のような
エピソードがある。



瓢箪を磨いていると葉書あり  高野末次



「三甫という人物が <浪間より かさねおける 雲のみね> と発句を詠む
と、光秀は <いそ山つたへ  しげる杉村> と即、脇句を付けた」という。
光秀の脳内は、連歌のこと半分、戦のこと半分だったようだ。



脳回路は真綿色からミモザの黄  山本早苗



天正9年4月12日には、丹後宮津の細川忠興に饗応膳に紹巴とともに
招かれ、そのあと「連歌会」を催している。
また、光秀は戦場に立つ先々で
「ほととぎす いくたひもりの 木の間哉」とか「夏は今朝 嶋かくれ行く
なのミ哉」などと発句を口ずさんでいる。
前者は生田の森を、後者は明石から見える淡路島を詠んだものだろうか、
光秀が連歌に大層、ご執心であったことが伺える、記録である。
そして「本能寺の変」まで7日前と迫った天正10年5月28日、
愛宕山の西坊へ紹巴を招き「連歌会」を催した。
参加したのは、当代隋一の連歌師・里村紹巴、昌叱、兼如、心前、行祐
(ぎょうゆう)、宥源(ゆうげん)、光秀子息の十兵衛光慶、家臣の東六
郎衛行澄らであった。



思い出はやさしく口惜しさは強く  中村幸彦
 


 
                           愛 宕 百 韻

 
 
この「連歌会」は、「発句から挙句まで百句詠む」という形式のもので
「愛宕百韻」と呼ばれる。この前日、光秀は戦勝祈願をするため、愛宕
山に入った。愛宕山には愛宕神社があり、愛宕勝軍地蔵が祀られている。
光秀が謀叛を決意していた証だろう。光秀は、2度3度と神籤をひいた、
という。
やがて会は「ときは今 あめが下知る 五月哉」と光秀の発句で始まった。
「とき」は土岐氏の一族である光秀自身を指し「あめが下知る」は天下
を治める、という意味が込められている。と解釈されてきた。



満月を君は寂しい月という  宮井いずみ
 
 
 
                                     里 村 紹 巴
 
 
「その前に、連歌の基礎的知識として」
連歌師宗匠・紹巴が連歌についてルールを述べている。
「連歌の発句「切字」というものが入っておりませんと、発句とは言
えません。もし切字が入っておりませんと、それは「平句」ということ
になり、まずいのであります。また発句には、必ず「季語」が入ってい
なければならず、無季の発句というものはありません。「俳諧」の発句
も、まったく同じです。切字と季語を必須の条件とします」。
即ち、発句はすべての起こりとして、ここから変転、果てしない連歌の
世界が始まるのです。



狙いますあなたのハート鷲摑み  藤内弥年 



そして二番手の「脇」は、発句に添えて詠み、座を仕切る亭主が詠む。
「当季、体言止め」とする。体言止めとは、句の最後を体言(名詞)で
終えること。そうすることで、余情・余韻が残るということ。
(「挙句の果て」の「挙句」は、この連歌を起源としている)



ふわり雲失くしたものが出てきたは  山本昌乃



「第三句」は、相伴客あるいは、宗匠の次席、にあたる者が詠む。
発句・脇句の次にくる17字の付句。発句と同じ季語を入れること。
「脇句」からの場面を一転させ、多く「て」で止める。
「第三も脇の句程わなくとも、是も発句に遠からぬ時節をするべし。
発句、真名字留の時は、第三まな字留は、かしましき也」(長短抄)
 第三句は、転回をしなければならないルールがあり、前句には付け
るが、そのもうひとつ前の句からは離れる。
次の「第四句」「軽み」「あしらい」を要求される。
これも、ルールである。
では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの芸能がいる。



栄養不足の脳へ刻む哲学書  靏田寿子
 






では光秀が主催した「明智光秀張行百韻」をルールに合わせみてみよう。
時は今雨が下しる五月哉  光秀
水上まさる庭の夏山  行佑
花落る池の流れをせきとめて  紹巴
発句に光秀は、「時は今雨が下しる五月哉」と詠みあげ、
続いて脇が、「水上まさる庭の夏山 と詠む。
第三句は「花落る池の流れをせきとめて」と続いた。



針金で縫いたいほどの心傷 伊藤良一



光秀が美濃の「土岐源氏」であることは、席につく誰もが知っている。
光秀の華麗な「暗喩」に富む句は、土岐の世が来るということを「時」
でほのめかし、その時こそ「五月の雨」の季節であり「雨は天」と掛け、
「しるは統べる」に重ねた。
脇を付けた愛宕西之坊威徳院住職の行佑は、光秀の真意を察し、
「水上まさる庭の夏山」と詠み鮮やかに毒を抜いた。
次の第三句では、脇から句境を一転せしめ「て留め」にする決まりがある。
そこで紹巴、「花落る池の流れをせきとめて」と光秀の世間に知られる
と危険な句を、さらに無毒にする句を詠んだ、と解釈される。
 
 
 
欲望を静かに消してゆく硯  堀川正博


『明智光秀張行百韻・全句』続けてお読みください


 


 天正十年五月廿七日「愛宕百韻」に臨んだ光秀の脳の内は
「信長打倒」のことが、離れない意味の句がつらつら並んだ。
出席者と歌の数。
光秀 15 紹巴 18 昌叱 16 兼如 12 心前 15 
仰佑 11 宿源 11 行澄  1 光慶  1


時は今雨が下しる五月哉  光秀
 水上まさる庭の夏山  行祐
花落る池の流れをせきとめて  紹巴
(4句目から挙句までを平句と呼ぶ。季語にはこだわらない)
 かせは霞を吹(き)をくるくれ  宿源
松も猶かねのひひ(び)きや消(え)ぬらん  昌叱
 かたしく袖は有明の霜  心前
うら枯に成ぬる草の枕して  兼如
 きヽなれにたる野辺の松虫   行燈
秋はたゞ涼しきかたに行きかへり  行佑


替芯も冬の星座も見失う  くんじろう


 尾上のあさけ夕くれの空  光秀
立つゝく松の木葉や深からん  宿源 
 浪のまかひの人うみの里  紹巴
漕帰る海士の小舟の跡遠み  心前
 隔りぬるも友ちとりなく  兼如
しは(ば)したゞ嵐の音のしつまりて  兼如
 たゞよふ雲はいつく成らむ  紹巴
月は秋あきは寂中の夜半の空  光秀
 それとは(ば)かりの声ほのか也  宿源
たたく戸の答はとふる柿の露  紹巴


筆圧を変えて吐露する胸の内  上田 仁


 我より先にたれ契るらん  心前
いとけなきけはいならぬはねたまれて  昌叱
 とひてかくいひ(い)そむくくるしさ  兼如  
度々の仇の情は何かせん  行祐
 たのみかたきはなを後の親  紹巴
初瀬路や思わぬかたにいさ(ざ)なはれ  心前
 ふかくたつぬる山時鳥  光秀
谷のと(戸)に草の庵をしめ置て  宿源
 薪も水も絶(え)やらぬかけ  昌叱
松か根の朽(ち)そひにたる岩つたひ  兼如


順番が来て山茶花は散りました 嶋沢喜八郎


あらためてかこふ垣のふる寺  心前
 春日野やあたりも廣き道にして  紹巴
うらめ(み)つらしき衣手の月  行佑
 葛の葉の乱るヽ露や玉かつら  光秀
たはゝになひ(び)くいと萩の糸  紹巴
 秋風もしらぬ夕やぬる小てふ(蝶) 昌叱
みきりもふかき霧そ(ぞ)こめたる  兼如
 村竹の淡雪なか(が)ら片敷(い)て  紹巴
岩根をひたす涛のうすらひ  昌叱
 鶯鴨やをりゐる羽ねをかはすらん  心前


ひょっとしてあの冗談は本音かも  荒井加寿


みたれふしたるあやめ菅原  光秀
 山風の吹(き)そふ音は絶(え)やらて  紹巴
とち果にける住ゐ(い)寂しも  宿源
 問(う)人もくれぬるまゝに立帰り  兼如
心のうちにあふやうらなひ  紹巴
 はかなきを頼(り)かけたる夢かたり  昌叱
おもひになか(が)き夜は明しかた  光秀
 舟はたゞ月にそうかふ浪の上  宿源
ところ〳〵にちる柳かけ  心前
 秋の色を花の春迄うつしきて 光秀


アルミ缶踏んづけている解消法  河村啓子


山はみな瀬の霞たつくれ  昌叱
 下とくる雪の雫の音す也  心前
なをも折たく柴の屋の内  兼如
 しほれしを重ね侘たるきよ衣  昌叱
おもひなれぬる妻そ(ぞ)えたゝる  光秀
 浅からぬふみの数々つもるらし  行佑 
とけるも法は聞ふるにこそ  昌叱
 賢は時を待(ち)つゝ出るよ(う)に  兼如
心ありける釣のいとなみ  光秀
 行々も濱辺つたひの霧晴(れ)て  宿源


5ミリほど残る未練とここにいる  桑原すゞ代


一筋しろし月の川水  紹巴
 紅葉はや分(け)る立田の峯おろし  昌叱
夕さひ(び)しき小男鹿のこゑ  心前
 里とをき庵も哀(し)住(み)馴(れ)て  紹巴
捨てる憂みのたのみこそあれ   行佑 
 みと(ど)り子の生たつ末を思ひやり  心前
猶なかゝれの命ならす(ず)や  昌叱
 契たゝ(懸け)つゝくめる盃に  宿源
別れてこそはあふ坂の闘  紹巴
 旅なるを今日は明日はの神もしれ  光秀


蓮開くこの世あの世の境目で  笠嶋恵美子


爰かしこなか(が)るゝ水のひややかに  仰佑
秋の蛍や暮いそく(ぐ)らむ  心前
村雨の跡よりもなほ霧降(っ)て  紹巴
露はらひ(い)つゝ人のかへ(え)るさ  宿源
宿とする木陰も萩の散(り)盡し  昌叱
山より山にうつるうつるうく(ぐ)ひ(い)す  紹巴
朝霞うすきか(が)うへに重りて  光秀
ひき捨けらし横雲の空  昌叱
出なむも浪風かは(わ)る泊舟  兼如
めくるしく(ぐ)れの遠き浦々  昌叱


竹林の庵でひねる妄想句  櫻田秀夫


むら芦の葉かくれ寒き入日陰  心前
立(ち)さはき(騒ぎ)ては鴨の羽かき  光秀
行人もあらぬ田面の秋過(ぎ)て  紹巴
かたふくままのとまふきの露  宿源
月みつゝ打もや明けす(ず)さよ衣  昌叱
ねむ袖の夜半の休(やす)らひ  仰佑
しつ(づ)まらは(ば)更てこんと(ど)の契にて 光秀
あまたの門を中のかよひ路  兼如
埋めつゝ竹のかけ桶の水の音  紹巴
岩まの苔は幾重成らむ  心前


闇に文字描いて明日を吉にする  瀬川端紀


みつ(密)か(書)きは八千代へぬへきと計に  仰佑
 翁さひ(し)たる袖のしらゆふ  昌叱
明(け)る迄霜夜のかくらさやかにて  光秀
 とり〳〵にしもうたふこゑ添ふ  紹巴
はるは(ば)ると里の前田を植渡し  宿源
 縄手の行衛たゝちとはしれ  光秀
いさむれは(ば)いさめるまゝの馬の上  昌叱
 うちゑみつゝもつるゝともなひ  仰佑
色もかもゑひをすゝむる花の下  心前
 國々は猶長閑なる時  光慶


心音を数えて一日が終わる  合田瑠美子

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