年のくれはなしの奥に春があり 柳多留拾遺
文久2年(1862)の絵暦 (国立国会図書館)
右肩の上部から順に1月(大)2月(小)3月(大)と続く。
中央部の重なっている緑の丸は、8月(大)閏8月(小)となる。
「江戸のカレンダー」
映画やドラマを見ていると、裏ぶれた長屋で浪人が長屋で傘張りの内職
をしていると、戸口の方で声がして、商人が集金にやってくる、という
シーンによくでくわす。江戸時代は「晦日払い」といって、酒などを買
うにしても、ひと月分をまとめて、月末に精算するのが一般的だった。
傘張りに精を出す浪人だったが、手元に支払えるだけの金はない。
「次回は必ず」などと頭を下げつつ、なんとかその場を取り繕う。
ほっとして、ふと、戸口から空を見上げると、その心象を表すようにき
れいな「満月」が浮かんでいる。
来たかとも言わず来たとも言いもせず 柳多留拾遺
我々はうっかり見逃してしまうのだが、実はこれは間違い。
江戸時代の晦日に「満月」が輝いていることは、ありえない、のである。
美しいびんぼう神に気がつかず 柳多留拾遺
現在、我々が使っている暦は、地球の公転を一年とする「太陽暦」だが、
明治5年(1872)まで日本で使われていたのは、旧暦(太陰太陽暦)
で、月の満ち欠けにより、ひと月を決めていた。月の満ち欠けの周期は
29,5日だった為、ひと月は大(30日)と小(29日)の二種類を使用した。
またこれだと一年は、354日となり季節のズレが生じるため、三年弱に
一度、ひと月分を増やす「閏月」を作り調整も行っていた。
然ればという所から先をよみ 柳多留拾遺
慶応3年(1867)の絵暦 (国立国会図書館)
判じ絵暦の一つ。
絵の中に文字が書かれていて福助の頭の上に「十」裃に「十一、十二」
着物の裾に「二」右袖に「八」左袖に「四と大」の月が描かれている。
旧暦では、月の始まりを新月としたため、満月は15日前後となる。
そうすると、月末である晦日に「満月」が輝いているはずがない。
満月の夜ならば、そもそも集金人がやってくる心配は、最初からなかった
のである。
月に村雲独吟の咽へ痰 新編柳多留
その月の「大小」、及び「閏月」は年ごとに変化するため、現在でいう
カレンダーも必要だった。これは「大小暦」と呼ばれ、商店ほか各家庭に
も一般的に貼られていた。干支や歌舞伎を題材とした絵暦のほか、一種の
「謎解き」のように趣向を凝らした「判じ絵暦」など種類も多様だった。
浮き世の鐘のやかましい大晦日 万句合
「一年の終わりに、ちょっと笑いで締め括る」
浪人のところへ掛け取りに行き、
「アイ、米屋でござります」
女房
「留守だ」という。
米屋、障子の穴から覗き、
「それ、そこにござるではないか。ここから見えます」
と言えば、浪人、蚤取り眼にて穴をふさぎ、
「どうじゃ。これでも見えるか」
「イヤ、見えませぬ」
「そんなら、留守だ」
年々歳々、1年が速く過ぎて行くような気がしますが、
皆さまは、いかがでしょうか。
この1年、この拙いブログにお付合いいただき、ありがとうございました。
「行動は、言葉よりも声が大きい」この名言とともに…
どうぞ良いお年をお迎えください。
いつかいい春におもてはなっている 柳多留拾遺
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