心太として手際よくデビュー 山本早苗 道外武者御代の若餅 (歌川芳虎) 「君が代よつきかためたり春はるのもち」 「其絵様中の紋章等にて察すれば、織田信長が明智光秀と共に餅をつき、 其つきたる餅を豊臣秀吉がのしをし、徳川家康は座して其餅を食する図 なり、要するに徳川家康は巧みに立廻りて「天下を併呑するに至りしと いへる寓意なり…」宮武外骨著『筆禍史』 <餅搗の瓜の花の紋所の武者は「信長」。餅をこねる桔梗の紋の武者は 「光秀」。猿柄の陣羽織を着て、餅をのしている猿顔の武者は「秀吉」 餅を喰べている武者は「家康」である> 「麒麟」は、いったいだれなのか。まさしく、天下取りの面々を集めた はんじ物で嘉永2年閏4月8日の配り。
一生に二度は乗れない霊柩車 櫻田秀夫 「麒麟がくる」 変後、光秀の11日間 「各記録が教えてくれる光秀の変後」 本能寺の変の直後、光秀はまず多くの兵卒を洛中の「町屋」へ派遣して 「落人」を厳しく探索した。そのため京都の騒動は甚だしい状態だった という。(『信長公記』) 光秀自身は躊躇なく「大津通り」を下向し、織田権力の拠点・安土城を めざした。これは当初からの計画通りだったようで、未刻(午後2時ご ろ)に、吉田兼和は粟田口において光秀を出迎え「在所」の保全を依頼 している。(『兼見卿記』) 瓢箪を出れば我がもの顔の駒 岸田万彩 間もなく光秀は、瀬田に到着し、山岡美作・対馬兄弟に明智への協力を 求めた。しかし、山岡兄弟は瀬田の唐橋と山岡館を自焼して山中へ退き、 抵抗する意思を示した。ここで光秀は、唐橋の橋詰に「足がかり」を拵 えて、橋の修復を進め、いったん北上して坂本城へ入った。 (『信長公記』) また光秀は、別動隊を宇治に送り、京都ー奈良街道を遮断した。 (蓮成院記録』) 根に持つ性格ですから葉桜は 森田律子 一方、安土城では、2日の巳刻(午前十時)には、早くも光秀の謀反と、 信長・信忠の自害が伝わった。安土の人々は「信長横死」の情報が呑み 込めず「言葉に出して大事と存知、初めの程は目と目を見合わせ、騒ぎ つこと大方ならず」という状態であった。 しかし逃れてきた「御下男衆」らの情報から、信長の死が「必定」だと 認識され、ようやく人びとは、財産や家を棄て、家族を引き連れて美濃 尾張へと避難した。安土城に詰めていた山崎片家は、安土の屋敷を焼き、 居城の山崎へと退却した。 小指から人差し指に降格す 蟹口和枝 「本能寺の変」が起こったとき、混乱する城内で、安土城の留守居役で であった蒲生賢秀は、信長の上臈衆、子女を居城の日野へ非難させた。 上臈衆は退去する際、天守にある金銀、太刀などの宝物を取り出す事、 そして城を焼くべきと主張した。しかし、希代無欲を貫く賢秀は「天下 無双の御屋形」である安土城を焼くことは「冥加なき次第」であり、且 金銀の取り出しは「都鄙の嘲弄(とひのちょうろう)」を受けるとして、 この提案を一蹴した。 菜の花菜の花黄色の絵の具足りません 浅井ゆず のちに光秀が、莫大な恩賞により賢秀を勧誘するも、賢秀は、一貫して これを拒絶した。この光秀の勧誘を拒絶した律儀さにより「日野の頑愚 どの」との異名を受けた。しかし、一方で安土城に火を放たず、財物を そのまま残し退去したので「明智方に日野城まで、攻め込まれるのを恐 れてそのままにした」と臆病者、小心者との評価もある。 味方だと思い込んでいた敵の敵 笹倉良一 4日、瀬田を越えた光秀は、安土城に入城した。(『多聞院日記』) このとき、光秀と接触していた兼見は「蒲生父子が明智軍に反抗せず、 城を譲渡した」と認識。そのため、無血入城に近かったものと考えら れている。(『兼見卿記』) この時光秀は「信長の財宝を部下に分与し、家臣たちの歓心買おうと した」とある。(『日本耶蘇会年報』) 一方光秀の軍勢は、さらに近江北部へ展開し、北上して丹羽長秀の居城 佐和山城を攻めた。このとき、若狭守護家の武田元明が明智方として城 攻めに参加している。その落城後は、やはり明智方へ転じた山崎片家が これを守った。 接戦を制して湧いてきた自信 吉岡 民 さらに羽柴秀吉の「家城」だった長浜へは斉藤利三が入り、地元の有力 土豪・阿閉貞大(あつじさだひろ)が明智方に加担して長浜城を守った。 (『多門院日記』) この5日時点において、光秀の近江制圧が順調に進んだことが強く印象 付けられ、一時、光秀支援の先鋒隊を引き上げさせた大和の筒井順慶も、 ふたたび近江へ進撃して光秀「一味」に加わろうとした。 切れ長の目に翻弄されて現在地 魚住幸子 「蛍大名」ご呼ばれた近江の・京極高次 実際、光秀は山岡氏や蒲生氏の抵抗を受けつつも、かつて守護職の流れ をくむ、近江北部の京極高次、おなじく若狭の武田元明を味方につけて おり、着実に版図(はんと)を広げているようにみえた。 当時、北陸戦線を収拾して、光秀打倒の軍をまとめようとした柴田勝家 も近江一国が、ほぼ光秀に制圧されたと認識していた。 ユニクロを着たカモシカを補色する くんじろう 武田元明の妻・京極竜子 女好きの羽柴秀吉は竜子の美貌にメロメロ。 元明が秀吉に討たれて死後に側室となり兄・京極高次の出世につなげた。 6日になり、吉田兼和は誠仁(さねひと)親王の依頼を受けて、安土城 へ勅使として派遣された。これは朝廷が光秀の政治的立場を認めたこと でもあった。 7日に兼和は、安土城において光秀と対面し「謀反之存分」を雑談して いる。(『兼見卿記』) 「謀反之存分とは」 <「謀反は大罪」であり、光秀が自らの行動を「謀反」と表現すること はありえない。謀反・反逆のことばに変えて、光秀は「討果」「相果」 「誅」等の言葉を書状では使っている。よって「謀反」とは、あくまで も兼見の表現で使っていること。ということは、兼見は、光秀のしたこ とは悪事と決めつけているのである。こうした変の善い悪いを、二人は、 どのような顔で、雑談として会話したのだろうか> ひょっとしてあの冗談は本音かも 荒井加寿 ところで、畿内・近国における信長の子息たちは、どのような状況だっ たのだろう。当時、四国攻め直前で堺に在陣していた三男・織田信孝と その補佐役の丹羽長秀は「本能寺の変」の情報が伝わると、光秀の娘婿 だった津田信澄(信長の甥)を大坂で殺害した。光秀と気脈を通じてい ると認識したのであろう。しかし、こうした疑心暗鬼の雰囲気は、軍勢 にも伝わり、信孝、長秀らの軍勢は、四散してしまい「一向無人之山」 (『蓮成院記録』)「左右に侍スル所、わずかに八十余騎」(『丹羽家 譜伝』)という状態に陥り、単独での行動が取れなくなった。 真っ先に僕が消された消去法 雨森茂樹 一方、伊勢・伊賀を束ねる次男・織田信雄(のぶかつ)は、光秀を討伐 するために土山まで出陣したが、背後の伊賀では「信長ニ所領ヲ奪ワレ シ伊賀ノ浪客」らが蜂起したため(『武徳編年集成』)やはり自軍のみ で行動できず、日野の蒲生氏との合流を模索する、ありさまであった。 片や、光秀方も比較的至近にいる信孝・信雄と安易な衝突を避け、あく までも無理をせず、自軍の温存に努めていた。 9日、光秀は京都に戻り、公家衆の出迎えを受けた。光秀は、自己の正 当化を図るため御所へ銀五百枚、五山に百枚、大徳寺に百枚送っている。 (『兼見卿記』) 現金は綺麗な言葉より強い 新家完司 (拡大してご覧ください) 細川藤孝 筒井順慶 「友達なのに、最期の最期で明智光秀を見捨てた三人の盟友」 その直後、光秀は、羽柴秀吉の東上を察知し、下鳥羽に出陣する。 ちなみに、同日に出された細川藤孝宛の光秀覚書によれば、光秀は「藤 孝忠興父子が味方する」と信じていた。(『細川文書』) 藤孝は剃髪して信長への弔意を示し、光秀との距離をあけ、さらに忠興 は光秀の娘だった妻・お玉と離縁した。(『細川家記』) 光秀は若狭国、摂津国を与える旨を伝え、再度帰順を促した。が、6月 8日以前に藤孝は、丹羽長秀とも連絡を取り「反光秀」を表明していた。 (『松井家譜』) 只、かつて丹後を治めていた守護家・一色氏も不穏な動きをみせており、 藤孝・忠興も明確な態度を示せなかったようである。 とりあえず忠興も三戸野(京丹後)へ幽閉したのみで、実家明智家へは 返しておらず、完全に袂を分けるまでには至っていない。一方、痺れを 切らせた丹波北部の光秀軍は、丹後の区域に入り、一部の藤孝軍の域を 占拠していた。(『細川文書』) 麒麟の目寂しい冬の動物園 藤本鈴菜 大和の筒井順慶も、大和という京都に近い分国であった為、あえて旗幟 を鮮明にしない曖昧な態度を貫いた。 さらに高槻城主の高山右近は、本来中国攻めで光秀軍と合流するはずで あったが、「本能寺の変」によって、光秀方につくことを拒否した。 光秀は、右近がキリシタンであることから、宣教師・オルガンティーノ をして、帰順するよう説得を試みたが、成功しなかった。 なにはともあれ、光秀は畿内近国の制圧に奔走が奏功して、武田・京極 氏などの守護家を味方につけるなど、一定の成果を収めつつあった。 しかし、織田方に服属していた武将や国衆は事態の推移を見極めようと したため、明確な態度は取らなかった。 右脳から雫がポトリ蓮の池 今井弘之
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