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川柳的逍遥 人の世の一家言
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死に顔はこうか薄目で鏡見る  堀尾すみゑ

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       二条城

家康は二条城から「大坂の陣」に出陣した。

「大坂冬の陣」

「関ヶ原の役」後に、御家取り潰しなどに遭い、

徳川家への復讐に燃える者、

戦乱に乗じて、一旗上げようとする者など、

集まった豊臣方の総兵力は、約10万人。

そんな中に、真田幸村、長宗我部盛親、後藤又兵衛、

毛利勝永、塙直之、大谷吉治 など、

豊臣軍に歴戦の勇士が揃った。

強靭な遺伝子を持つ草の種  新家完司

とはいえ、寄せ集めは、寄せ集めである。

烏合の衆を、なかなか一つに纏めることが出来ない。

豊臣軍の内部は、二つに割れた。

大野治長を中心とする " 籠城派 " は、

二重の堀で囲われ、

さらに巨大な惣堀(防御設備)で固められた、

大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて、

有利な講和を、引き出そうというのである。

つぎはぎだらけのシャトルの乗り心地  井上一筒      

一方、真田幸村ら” 攻撃派" は、

近江の瀬田川で、関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、

足止めしている間に、諸大名を味方につけ、

その見込みが無いときに、初めて城に立て籠るという

二段構え作戦 を主張した。

これに、後藤又兵衛・毛利勝永も、幸村案に同調し、

対立したが、

結局は、治長の 「堅固な大坂城に籠城する案

が採用された。

時間を買えば生命線がのびますか  岩田多佳子

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     大坂冬の陣

「家康の老獪な豊臣打倒の手順」

11月18日、家康が秀忠のいる茶臼山に着陣。

    19日、戦闘が開始される。

12月1日、豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は、

             約20万の軍で完全包囲する。

        2日、家康、攻城設備の構築を命じ、

      攻撃設備の構築を行いつつ
大坂城に接近する。

こうした攻撃的な戦法の裏で、

12月3日より、徳川の方から、和議の打診を行っている。

             ① 真冬の戦であること。

             ② 徳川方の兵糧不足(豊臣方の買占めによる)。

             ③ 真田丸・城南の戦で被った徳川軍の大きな損害。

などで、家康は和議を求める作戦に出ている。 

しりとりは「る」攻めをすればほぼ勝てる  毛利由美

 

     9日~家康、大坂城に大砲による本格的な攻撃を指示。 

≪ 国産3貫目の大砲、イギリスの大砲(5門)・オランダの大砲(12門)

  和議の成立まで撃ちつづけた≫

 

砲声は京にも届き、

その音が、途切れることはなかったという。

これに対し、豊臣方・塙直之らも、

夜襲をしかけ、応戦したが、

劣勢であることは否めず、和議に応ずることとなる。

あっと秋それもかなりに深い秋  時実新子

織田有楽斎を通じて、行っていた和平交渉は、

  12日、有楽斎と治長が、本多正純、後藤光次

       講和について、
書を交わす。

その中に、「浪人たちを城内に留め置くかわりに

       「淀殿が人質として江戸に行く」

という案も出ていたという。

    16日、兵糧不足、弾薬の欠乏、

      徳川方の心理戦による将兵の疲労
などで、

淀殿も、軟化せざるを得なくなったようだ。 

手折られて花に虚ろな風ばかり  井上裕二

 

    18日より、徳川方の京極忠高の陣において、

         詰めの交渉が行われる。

            家康側から、本多正純、阿茶局

            豊臣側から、常高院。

   19日、講和条件が合意する。

    20日、誓書が交換され和平が成立。

諸将の砲撃が停止され、約一か月の戦いは終息した。

ハンもらうまでは貫く低姿勢  片岡加代

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ところが、家康は、

当初に取り決めた城の破却と、堀の埋め立てを、

豊臣側の領分まで、徹底的に行い、

大坂城を、丸裸にしてしまった。

人間の声をうたがう耳になる  中 博司

抗議する常高院に対し、家康は、

「秀頼の領地替え」 か、

「城内の浪人者の放逐か」 を条件に加え、

「それが出来なければ、ふたたび攻める」

と言い出す。

大坂に帰った常高院は、必死に淀殿を説得するも、

淀殿は、拒否。

ふたたび戦は、避けられなくなった。

許せないことのひとつを咀嚼する  合田瑠美子

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       大坂・夏の陣

4月14日、大坂・夏の陣が始まった。

戦況は明らかに徳川軍有利だった。

秀頼が陣頭に立てば、

「戦況は変わる」 という幸村たちの要請に、

秀頼は、その気になったが、淀殿はこれを拒否した。

もし秀頼が出馬していたら、

家康に味方していた福島正則、黒田長政、細川忠興

山内一豊たち、豊臣系大名は、

大坂城を攻めることに、躊躇しただろうし、

あるいは、

豊臣側として働いたかも知れないのだ。

ハンカチよりタオルがほしいエピローグ  谷垣郁郎

7b9b576e.jpeg  8ea0695f.jpeg  

大河ドラマ・「お江」-第42回-「大坂冬の陣」  あらすじ

慶長19(1614)年11月19日、

徳川方の軍勢が豊臣方の砦に襲いかかり、

ついに、「大坂・冬の陣」が始まった。

数で勝る徳川方は、大坂城周辺での戦いで勝利を重ね、

一気に城を落とさんばかりの勢い。

陣中では、

「このまま大坂城に攻め入るべし」 

と主張する武将も続出する。

だが、家康(北大路欣也)は、慎重だった。 

太刀打ちが出来ぬとぼけた顔がある  牧浦完次

 

家康は、「焦っては思わぬ手落ちを招く

と諸将をなだめ、城攻めには打って出ない。

それどころか、はやばやと、

豊臣方に和睦を申し入れるのだ。

だが、豊臣方は、家康の申し入れを突っぱねる。

総大将である秀頼(太賀)は、和睦に前向きだったものの、

家康を信用できなくなっていた淀(宮沢りえ)が、

断固反対したのだ。

偽物を掴んでからの不整脈  山本昌乃

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そんな中、大坂城の弱点ともいえる場所に、出丸を築き、

不気味な存在感を示していた幸村(浜田学)が、

彼の誘いに乗って、攻撃を仕掛けてきた徳川勢を、

さんざんに打ち破る。

この勝利により、豊臣方は息を吹き返した。

水たまりに浮かんだ乗り気らしきもの  壷内半酔

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それでもなお、家康は慌てない。

家康は、無理に攻めることなく、敵に圧力をかけ続け、

優勢のまま、

和議を結ぶことしか考えていなかったのである。

なぜなら、家康の真の狙いは、

講和条約に、堀の埋め立てを盛り込み、

停戦するやいなや堅城・大坂城を

裸同然にしてしまうことにあった。

さらさらと滞空時間さらけだす  酒井かがり

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一方、江戸城では、 

「これより先は、大坂からもたらされる、

  ありとあらゆる知らせを私のもとに届けよ」

 

ついに大坂で、戦が始まったと知り、

江(上野樹里)は、江戸城に残る家臣たちにそう命じる。

それが、大坂城にいる姉や娘の身を案じていた彼女が、

今できる唯一の行動だった。

あとはただ、祈るのみである。

指に止まったアカトンボの伝言  田中博造

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やがて、そんな江のもとに、和睦成立を伝える文が届く。

豊臣方の交渉役を務めた常高院(水川あさみ)の、

尽力もあり、

淀や秀頼は、無事に大坂城にとどまれる

ことになったとのこと。

ひとまず胸をなでおろす江。

だが、講和後すぐ、大坂城の堀が埋められていると聞き、

一抹の不安を覚える・・・。

数珠入れたままで吊るしてある喪服  小佐野昌昭

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