風生まれ命育む懐へ 合田瑠美子
姫路城・西ノ丸にある千姫・化粧櫓(国重要文化財)
「写真で見る千姫の時間」―姫路城へ潜入
徳川の血筋である千姫は、
落城の大坂城から救出されたあと、
翌・元和2年(1616)に
姫路城主・本多忠政の嫡子・忠刻と結婚し、
波乱の人生のなかで、
最も幸せな時期を姫路城で、過ごしたと言われる。
これからを踏ん張らねばと青もみじ 山本昌乃
外部から見る百間廊下 百間廊下
「姫路城」の西の丸には、忠刻と千姫の為に、
「中書丸」という御殿があり、
その御殿を、囲むように建てられているのが、
「百間廊下」といわれる建物。
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長い長い百間廊下
「百間廊下」の中には、
千姫お付きの女性たちが住んでいた「長局」があり、
それに続いて、「化粧櫓」がある。
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百間廊下から2階へ行く階段へ
『化粧櫓』とは、千姫が朝夕欠かさず、
城の西北の男山にある「天満宮」 を遥拝に訪れる折に、
身支度をしたり、
化粧直しをしたりするための休憩所である。
申し遅れましたが私は女 前中知栄
渡り廊下
この櫓、千姫の持参金で建てたといわれる。
もちろん、この「化粧櫓」だけでなく、
そこから続く「渡櫓」と、
塀に囲まれた西の丸一帯、
忠刻&千姫の屋敷も建てられた。
そうかそうかと時計回りのバスに乗る 森田律子
2階から3階長局へ
この内部からは、城内の天守群や、西ノ丸の各櫓、
三の丸などが、一望できる。
千姫が眺めていたであろう三の丸の、
西側には、かって「御殿や屋敷」があり、
東側には、「向屋敷と庭園」があり、
本多氏以降の政務の中心の場であった。
幸せになるまで廻る木馬たち 中井アキ
化粧櫓
建物や庭園は、明治時代に取り壊され、現存しておらず、
三の丸跡のうち、本城跡は「千姫ぼたん園」に、
向屋敷跡は、「三の丸広場」となっている。
三の丸広場は、「市民の憩いの場」となっており、
花見や各種のイベントスペースとしても使用されている。
人間の心を持っているお城 太田扶美代
化粧櫓ー出口
結婚の翌年、桑名から姫路に国替えとなり、
夫・忠刻とともに、千は、「姫路城」に入城する。
身の丈に合うまで靴を履き替える 笠嶋恵美子
姫路城大天守
「千姫生涯」
千姫は、慶長2年(1597)4月11日、
秀忠と江の長女として、伏見城内の徳川屋敷で産まれた。
慶長8年(1603)、7歳で、従兄弟である秀頼と結婚。
たいへん夫婦仲睦まじかったという。
二人が詠んだ連歌に2人の仲睦まじさが伝わる。
『初秋の 風を簾に まきとりて』 秀頼
『軒はにおほう 竹の葉の露』 千姫
花いかだ舞うて沈んでまた舞うて 神野節子
千姫筆跡
慶長20年(1615)19歳の時、
大坂夏の陣では、祖父である家康の命により、
落城する大坂城から救出される。
荒城の月は地デジになじめない 美馬りゅうこ
その後、秀頼と側室の間の娘・奈阿姫(天秀尼)が、
処刑されそうになった時に、
千姫は彼女を自らの養女にして、命を助けた。
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向かって左から二番目の、侍女に手紙を読ませている女性が千姫とされる。
≪葵紋を散らした鹿の子絞りの小袖を着ている≫
元和2年(1616)、本多忠刻と結婚。
この時、「千姫事件」が起こる。
津和野藩主・坂崎直盛が、輿入れの行列を襲って、
千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、
直盛は自害、坂崎氏は改易処分となった事件である。
≪この時に、忠刻には、10万石の化粧料を与えられたといわれる≫
風穴へ真面目な貌で入り込む 山本芳男
千姫と幸千代
元和3年、本多家が播磨姫路へ移封。
元和4年に、長女・勝姫を出産し、
元和5年には、長男・幸千代が生まれる。
しかし、元和7年に幸千代が3歳で死去し、
寛永3年(1626)には、夫・忠刻、姑・熊姫、
そして、母・江が死去するなど不幸が続いた。
止まり木に残る心の落し物 河津寅次郎
その後、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り出家。
「天樹院」 と号す。
出家後は、娘と2人で「竹橋の邸」で暮らした。
寛永5年(1628)に勝姫は、
父・秀忠の養女として、池田光政の元へ嫁いだため、
天樹院は、一人暮らしとなる。
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寛永9年(1632)、父・秀忠死去。
寛永16年(1639)、光政と勝姫の嫡男・池田綱政が誕生。
天樹院の外孫になる。
寛永20年(1643)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建。
正保元年(1644)には、迷信を避ける為に、
江戸城から移った弟・家光の側室・夏(順性院)と、
その後、生まれた家光の三男・綱重と暮らす。
≪このことで、天樹院は、大奥で大きな権力を持つようになった≫
寛文6年(1666)、江戸で死去。享年70歳。
生涯の一誌ありけり天の川 大西泰世
[7回]
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