ひたすらに画面繰ってる蜘蛛がいて 徳山泰子
明治の群馬県庁
「楫取素彦の業績」
明治9年に熊谷県は、群馬県と埼玉県に分かれ、
楫取素彦は群馬県の県令
(知事)となった。
群馬県が
「難治」であったのは、気性が荒く反骨的であるという
上州人の気風にも原因があった。
長州の幕末の志士から東国の県令に転身した楫取は、
群馬県政という困難な仕事に際し、
松陰から託された
「至誠」の精神で臨んだ。
※当時の熊谷は群馬県のほぼ全域と埼玉県の大半に及ぶ広い県であった。
松陰から
「正直すぎて困る」と言われたこともあった楫取だが、
その「至誠」は上州人に受け入れられた。
人間が乗る一枚の磁気カード 猫田千恵子
楫取が県政の柱としたのは、
「産業と教育」だった。
この二つの柱を群馬一県にとどまらず全国に広めようとした。
さんし
群馬で育てた蚕糸産業と群馬で人材が国家の役に立って欲しい
という使命感を抱いていたのだ。
この国家をよくしたいという使命感は、
かって松下村塾で松陰らと培ってきたものである。
長州からはるか離れた群馬の地で、
楫取は、若き日に見た夢を着実に実現させていったのだ。
産業では蚕種・養蚕・製紙・織物と其々の熟練者の研究を奨励して、
「群馬県を日本一の蚕糸県に育てた」。
やわらかな指が開いていく未来 田村ひろ子
森山芳平
その過程で楫取と関わった上州人が2人いる。
森山芳平と新井領一郎である。
明治16年、アムステルダム万国博覧会で、
県内の桐生織物が一等賞金牌を受賞した。
この世界的評価を受けたのが
森山芳平で、
森山は楫取が明治9年に開校した群馬県医学校聴講生として
理化学を学び、それを近代染色術に活かした人物だ。
森山は自分の工場で新技術を、
全国から訪れる門下生に惜しげもなく教えた。
その結果、福井、山県、埼玉、福島で輸出羽二重の生産が
盛んとなり、福井は群馬を凌ぐほどになった。
お人好しとも言える話だが、
これは群馬の技術を広め、名声を上げようとした
楫取の施政方針の影響である。
裸木の鋭く潔い線よ 新家完司
星野長太郎と新井領一郎 渡米先の新井(中央)
もう一人は貿易に関わる人物である。
明治7年に水沼製紙場を設立した
星野長太郎の弟・
新井領一郎は、
兄と楫取の支援を受けて、生糸の直輸出のため渡米を計画した。
外国商人に奪われていた利益を日本にもたらそうとしたのである。
新井が渡航前に楫取のもとを訪れた際、
楫取の妻・
寿は、
「松陰の鎮魂のため」と形見の短刀を贈った。
松陰が果たせなかった渡米という夢は、盟友・楫取と妹・寿を介し、
「松陰の魂」が込められた短刀を携えた新井によって実現された。
その日ならずっとにじんでおりました 竹内ゆみこ
下村善太郎像
前橋初代市長・下村善太郎は、江戸時代末から明治にかけての生糸商人。
廃藩置県後、県庁が高崎に決定した時、仲間の生糸商とともに、
巨額の私財を投じて、前橋への県庁誘致を実現させた。
また、前橋本町大火災での義援活動、教育、産業、交通、防災など
都市基盤つくりに私財を投じている。
産業奨励と並んで楫取県政の柱となっていた
教育について。
長州の藩校・明倫館、松陰の松下村塾で教育者として過ごし、
幕末・明治の重要人物たちを育ててきた楫取は、
政治家になってからも教育に熱心であった。
気性が荒く、反骨の気風がある上州人を説得するとともに、
商人など地元の有力者に寄付を募り、教育の必要性を訴えた。
楫取は、県庁に各地から役人が訪れると、
まず教育のことを問うたと言われる。
蝸牛到達点は動かない 寺川弘一
自分でも握り飯、草履履きで県内を回り、
学校の行事に積極的に参加して訓話を行い、
求められると揮毫をした。
楫取の熱心な教育行政のおかげで、
群馬県の就学率は50パーセント、
全国平均の38パーセントをはるかに上回っている。
また楫取が県職員に命じて編纂させた偉人の小伝集
『終身説約』は、
全国に普及した。
「群馬県百年史 上巻」に楫取の業績について次のような記述がある。
『楫取の熊谷県時代は、現在の群馬県政の基盤が、
この時、築かれたと言って良いほど重要な仕事が
矢継ぎ早に行なわれた。
師範学校の設立、地租改正、県機構の整備、大小区集会の開催、
産業、教育、土木、衛生・その他革新的な新事業が施工された。
楫取素彦は人格識見学識高く、
歴代群馬県知事中随一と言われる人である』
存在を点で表し無限大 日下部敦世[4回]
PR