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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ほど遠いところに靴を脱いできた  筒井祥文


   士族の反乱

「前原一誠の決意」

中央集権国家を建設する為に、

明治政府が維新の功労者である士族を切り捨てるのは、

歴史の皮肉な必然であった。

まず明治4年、「廃藩置県」が断行され、士族はよりどころを失い、
                   (一時金)
明治9年には、代々の禄も「金禄公債」と引換えに打ち切られた。

金禄だけで生活できる者はまれで、

多くの士族は資金を元手に商売を始めるが、

俗に士族の商法と嘲笑されたように大半は失敗した。

また、四民平等となり名字帯刀の特権が失せ、

「徴兵制度」の施工で戦士の価値も焼失。

帯刀を禁じる「廃刀令」が追い討ちをかけた。

ストローの向こうで木々が枯れていく 湊 圭司

このように士族は、政府によって経済的困窮に追い込まれ、

その誇りもいたく傷つけられた。

300万士族の怒りは、いつ爆発してもおかしくなかった。

明治7年2月、ついに、

佐賀県において大規模な不平士族の乱が勃発する。

首魁は参議で司法卿をつとめた江藤新平であった。

内務卿・大久保利通は鎮台兵を大量に投入してこれを完全に鎮圧、

捕らえた江藤をみせしめとして、晒し首にした。

辛いことあったんでしょう土瓶口  岩根彰子

その後も「士族の乱」は続発するが、

いずれも政府軍の前にあっけなく破れた。

この頃、すでに徴兵制度が確立され、近代軍備も整い

不平士族は政府の脅威の対象ではなくなりつつあった。

むしろ、政府としては、残る不平分子を挑発し、

暴発したところを徹底的に潰しておきたかった。

ぶつかった物が纏わり付いてくる  みつ木もも花


宇竜港で捕縛される前原一誠

「前原一誠」


前原一誠は文久2年(1862)、萩藩を脱藩し、

上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが失敗に終わる。

その後も倒幕活動に尽力。

戊辰戦争では、長岡城攻略や会津戦線で武功を挙げた。

新政府に於いて参議を務め大村益次郎の後任で兵部大輔も兼ねた。

しかし、大村の方針であった徴兵制に反対し、木戸孝允と対立。

やがて、徴兵制を支持する山県有朋に政界を追われ、

明治8年、故郷の萩へ帰郷する。

青黴になって疼痛を途中下車  山口ろっぱ

政府の参議まで務めた前原が萩に帰ると、

地元の不平士族が待ちかまえていたように、

前原に政府への不満と生活の窮状を訴えてくる。

木戸は、前原が不穏な動きの渦中に巻き込まれることを憂慮し、

同年の春、朝旨を拝いで上京を促した。

6月、前原は萩を発って東上したが、

元老院議官への推任を辞退して、8月には再び萩へ戻る。

そこでは故郷の仲間たちが、

「かつて共に戦った上司の者たちは、

   元勲になって豪華な邸宅に住み、贅沢な暮らしをしている。

   こんなことのために、自分たちは命をかけて戦ってきたのか!」

と前にも増して憤り、叫んでいる。

難民の群れを戦火が急き立てる  菱木 誠

そして明治9年8月、思い込めば一直線の前原は、

同士の幹部と密議し、熊本の敬神党、福岡の秋月党と東西呼応して、

挙兵することに決した。

敬神党は10月24日、秋月党は26日をもって蜂起、

前原らも明倫館に会して「殉国軍」を結成し、27日に決起した。

この日は奇しくも、松陰が処刑されてから、

18回目の命日であった。

挙兵の名義とするところは、上京して天皇に諫奏し、

「君側の奸」を除くというものであった。

戦いは、11月6日の政府軍の総攻撃で、殉国軍は壊滅、

2日ばかりで事件は落着した。

何だって?柩がゴトゴト揺れたって?  山本美枝

萩での戦闘に敗れた前原は、上京して挙兵の真意を天皇に訴えようと、

同志の奥平謙輔・横山俊彦・山田頴太郎らとともに萩・江崎港から

船に乗るが、暴風のため宇龍港に避難中に捕縛される。

前原らは萩に送り返され、前原ら8名は斬首の刑に処された。

その時の介錯人を務めたのは、

松陰の妹であり、寿と美和の姉・千代であった という。

明治9年12月3日、享年43才。

「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。

   人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」

これが前原が最期に残した言葉である。

そして辞世は、

これまではいかい御苦労からだどの よびだしの声まつむしや秋の風

わたくしを残さず焼いてくれますか  皆本 雅



「玉木文之進と乃木希典」

玉木文之進「自己の教育責任を一死以ってこれを償ふ」

と言い、門下生である前原一誠らが起こした「萩の乱」

責任をとって自刃した。
                       まさよし
乃木家から玉木家に迎えた養子・正誼も萩の乱で命を落としている。

正誼の兄は、第三軍司令官・陸軍大将として、

日露戦争で旅順攻撃を指揮した乃木希典である。

乃木は赤穂浪士割腹の屋敷に生まれ、その忠臣の影響を受けて育ち。

乃木も青年期には、

正誼と一緒に松陰の伯父・玉木文之進から教えを受けた。

その感化により勤皇の志が厚かった。

水が氷になるのを許すべきなのか  福尾圭司

乃木は、「吉田松陰先生の薫化」という文章のなかで、

「私は直接松陰先生より、ご教授を受けたことはなく、

   また御面会する機会も得られなかったため、

   先生のご行動その他においては、

   あまり多く語るべきことを持たないが、

  その教訓、その感化は、間接とはいえ深く私の骨髄に浸潤して、

  幼少よりこの年に至るまで、在住坐臥、

  常に先生の教訓に背かないようしている」

欲望に逆らいながら生きている  松岡ふみお

「私の受けた先生の薫化は、皆間接的であるが、

   玉木先生と玉木先生のご夫人から、

   一挙一動に至るまで松陰先生を模範として、訓戒されたので、

   実に忘れられないものがたくさんある。

   なかでも、松陰先生は非常に勤勉家であったそうで、

   玉木先生は常に“寅次郎の半分勉強すれば大丈夫だ”と言っていた」

  などと寄稿している。

我を捨てて足の形になった靴  橋倉久美子

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