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川柳的逍遥 人の世の一家言
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牛乳を少し垂らせば方丈記  くんじろう

(画像は拡大してご覧下さい)
信政が家康から 拝領した粟田口吉光の短刀
 (真田家宝物館蔵

関が原の戦いの際、人質となっていた4歳の信政が拝領。
松代藩主真田家の重宝として代々伝えられた。
信政は、松代城主を父・信之から継いだ後急死した。

「真田魂を継ぐ松代歴代藩主」

明暦3年(1657)真田信之は91歳になってやっと隠居を許された。

これまで再三の隠居願いに対して四代将軍・家綱は「真田は天下の飾り者」

としてその願いを許さなかった。

幕府の許可を得た信之は、真田領13万石のうち、

長男・信吉が早世していたため、二男の信政に松代10万石を、

信吉の二男・信利に沼田3万石を与えた。

ところが六ヶ月後、信政が急逝する。
                       うえもんのすけ
残ったのは2歳である信政の五男・右衛門佐(幸道)だけであった。

 飾り者とは武士の鑑のこと。

吐息もれ朝の吊り革揺らしてる  木口雅裕

真田家に相続争いが起きる。

信吉の長子・信利が松代城主の座を狙ったのである。

信利の母は下馬将軍といわれた幕府の実力者・酒井忠清の叔母にあたる。

背後に実力者を持つ信利は、強く松代藩主の座を要求したのだ。

こうした事態に信之は「歴戦の強者」ぶりを発揮した。

「真田の魂、武門の意地に掛けても松代は右衛門佐に譲る」

とする信之に圧力をかける忠清であったが、

信之の覇気と真田魂が家臣団をも動かした。

信之が後見となることで、幕府も家督相続を許した。

そして、信之は死の間際まで後見でありつづけた。

サメの抱き心地マグロの抱き心地  雨森茂樹


  真田信政

真田信之の二男、母は小松姫。
大坂の陣では、病気の父に代わり兄・信吉とともに出陣している。

「松代藩歴代藩主」

真田信之の生涯には派手さはないものの、

隠忍自重した行動と、
徳川家の忠臣の立場で真田本家を守った。

いわば信之は「守成の人」である。

信之が基礎を築いた松代藩10万石はその後、跡目争い、火災、

厳しい財政を抱えながらも、一応は安定した統治を保ちつづけた。

なお、松代領主の座を望んで信之とぶつかった沼田城主で孫の信利は、

その後、不行跡のゆえに改易処分とされている。

信之の慧眼が見事に当たったことになる。

改易処分とは、信利が後継者の座を狙って失敗したあと、
幕命によりそれまで松代藩の分領であった沼田領は分離独立。
信利は沼田藩主となったが、江戸・両国橋の用材を期限までに
納入しなかったことや、困窮した農民による直訴が起こるなど、
統治不良の責任を問われ、改易となった。

体内を夜明けの貨車が過ぎていく  嶋澤喜八郎


   真田幸貫

幕府老中となり、その翌年には海防掛も兼任。
幕末期に産業開発や人材養成などを進め、富国強兵をめざした。

信之が松代藩に遺した財産は、30万両に及んだという。
                                 のぶなり
三代・幸道の跡を継いだ信弘は二代・信政の庶子・信就の7男である。

以後、信安、幸弘と信弘の血筋がつづき、ここで男児が絶えたため
                    ゆきたか
井伊家から迎えた養子が七代・幸専であったが、やはり男児に恵まれず、
                           ゆきつら
養子になったのが八代将軍・吉宗の曾孫・幸貫である。

幸貫は、寛政の改革で知られる老中・松平定信の二男でもある。

天保12年(1841)に真田家としては初の老中に就任する。

 「庶子」とは、正室以外が生んだ子。

とりあえず午後から雲の動くまま  山本昌乃

幸貫は、幕末に「世界の中の日本」を意識し「日本の国防」を見据えて、

人材の登用と殖産興業、藩政改革、軍制改革を果たした。

この幸貫に感化され、世界を見据えるようになったのが佐久間象山である。

幸貫35歳、象山15歳という出会いが、

君臣を超えた信頼と互いを認めることに繋がった。

象山の「海防八策」などは幸貫の思想から出たといっても過言ではない。

象山の門には吉田寅次郎(松陰)、小林虎三郎という二虎がいて、

後世に名前を残すことになる。

名月はまだかと鯉が口あける  森田律子


    真田幸民

最後の松代藩主。
9代藩主・幸教が病弱であった為、養子に迎えられ17歳で藩主となった。
       ゆきのり
幸貫の孫・幸教が九代藩主になり、藩校文武学校をつくる。
                           だてむねなり      ゆきもと
しかし、またしても男児がなく宇和島藩・伊達宗城の長男・幸民

十代藩主として迎えた。

幸民は戊辰戦争には新政府軍として、2271人の藩兵を

飯山・会津などに
派遣して幕府方と戦った。

幸民は最後の真田藩主でもあった。

その後、松代藩知事となり廃藩置県で辞し、明冶24年に伯爵となった。

肩を貸そうか口笛でも吹こか  酒井かがり

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