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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ピリオドの棘をきれいに抜いておく  みつ木もも花





             「新吉原櫻の景」 (歌川豊国/東京国立博物館)
蔦谷重三郎の本屋人生は、この吉原からはじまった。
夏痩の小川の水をふとらせて むなきもふらすゆふ立の雨  蔦唐丸
むなき=うなぎは古名「むなぎ」が転じた
夏痩せのように流れが細くなった小川の水を再び太らせて(大きくして)
うなぎのような(太い)雨を降らせる夕立の雨よ

蔦谷重三郎ー「戯作者と絵師たちの辞世の句」
生きていれば必ず訪れれ「死」。人間の営みの、また輪廻の一過程に過ぎな
いと言えども、その感覚は生きている者にとってみれば未知の世界であり、
怖いのと恐ろしいのと感情が定まらないので、できれば旅支度を終えてから
逝きたいものだ。落語のお決まりのセリフで「俺ァ死んだことがないから、
わからないが、こんなんだったら、若い時分にいっぺん死んどくんだった」
というのがあるが、まさにその通りである。
まだやりたいことがあったり、出来れば死にたくない者たちにとってみれば
「死」は理不尽で容赦ない。それでも何かを残そう、伝えようとするから、
人びとは「辞世の句」を詠んだ。
今では終活ノートとかいう風情皆無なものを書かされて、それも時代が進む
につれて必要なことで、風情とか言ってる場合ではないかもしれなう。




精霊とんぼ もの問いたげに言いたげに  太田のりこ





          「山 居」
山さとも茶菓子ハさらに事かゝす まつ風のおと落雁の声  馬琴


「辞世の句」には、立派なものが多い。
人生を全うし、生きてこれたこと、周りへの感謝が込められている。
死を前に達観している。
人の因果因縁、勧善懲悪を追求した曲亭馬琴の辞世の句は、
「世の中の役を逃れてもとのまま かへすぞあめとつちの人形」
馬琴は74歳で両目が不自由となり、口述筆記で『南総里見八犬伝』を完成
させたのは75歳だった。八犬伝の後、新たに美少年ものに挑戦するも未完
で馬琴は逝く。しかし「生きる役目を終えて、魂は天に、身体は土へと還る」
と詠んだこの句には、大作を描き上げられたという満足と安堵がみえる。




堕ちてゆく時は火球と決めている  山本早苗





         葛 飾 北 斎



馬琴が逝った半年後に、葛飾北斎も死出の旅に出る。
「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」
人魂になって夏の草原を気ままに飛んで行こう。
百歳まで生きようとした北斎だが、死期は悟っていたいたかもしれない。
「しょうがねェやな、人間一度は死ぬぬんだ」
という声が聞こえそうだ。
夏の原の向こうで、馬琴とまた仲良く喧嘩しながら絵をえがいてほしい。




永遠にさようならでもありがとう  福尾圭司





      十 返 舎 一 九




馬琴北斎も死を受け入れており、これを粛々と、飄々と詠んでいる。
ところが一筋縄ではいかないのが、粋と洒落を追求したクリエーターたちだ。
晩年の食客であり、重三郎が頼む仕事を何でもこなしたという十返舎一九は、
重三郎の死後に『東海道中膝栗毛』で旅行ガイド戯作という新しい分野で、
成功を収める。そんな彼が詠んだ辞世は、さすがの滑稽本作家で洒落が効い
ている。
「此の世をばどりゃおいとまと 線香の煙とともに灰左様なら」
ドヤ顔で「あばよ」とと言う旅装束の一九が見えるようだ。




遺言はさらりと未練匂わせず  新家完司





      朋誠堂喜三二




こうした自分の死をもコメディにしようとした人物は、他にもいた。
「死にとうて死ぬにはあらねど御年には 御不足なしと人の言ふらん」
八十歳近くまで生きた朋誠堂喜三二の辞世の句。
「俺は確かに長生きだけど、死にたくて死ぬんじゃねェんだよ」
とぼやきが聞こえるようだ。




淋しくてまた死んだふりしています  高橋レニ





                                        式亭三馬・浮世風呂




時代は下るが、京伝馬琴の次世代の作家として、式亭三馬がいる。
十返舎一九と並ぶ滑稽本で一時代を築いた。
「善もせず悪も作らず死ぬる身は 地蔵笑わず閻魔叱らず」
実に平凡な人生だったなァ、みたいなことを言っているが、三馬は京伝や馬琴
を怒らせたり、筆禍を受けたり『浮世風呂』『浮世床』といった日常の滑稽の
他に仇討や勧善懲悪譚を書いたり、あやしい「江戸の水」を売って儲けたりな
ど、それなりに好き放題やっていた。
彼を知る者は「嘘つけ!」と笑って、被せ気味に突っ込んだだろう。




痛いとこ取れたらすぐに行くからね  安土理恵





                            太 田 南 畝




天明期の文壇の重鎮、太田南畝は多くの人物を見送ってきた。
吉原で共に散々遊び倒し、改革とともに去った恋川春町、ライバルとして意識
しつつも同志だった朱楽菅江、いつの間にか懐に入ってきた版元の蔦谷重三郎
無名の頃に目をかけた喜多川歌麿。自分より早くに逝ってしまった。
「今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」
最後の最期で正直な感情を吐露する南畝。
しかし、狂歌師南畝のことなので、言外には、
「まぁ、生まれた時から決まっていたことだし」
と年貢の納め時を詠んだのかもしれない。自分の死をも笑い飛ばしてしまう。
それは当の本人にとっての問題で、他人からしてみれば戯作に描かれる滑稽の
ネタでしかない。自分たちも、そのネタで飯を食ってきたではないか。
だからこそ詠める、ヤケクソの句。そして後世に至るまで「粋な最期」として
語られる。





カタログの海老にはひげがあったはず  原 洋志
 










「拍子木と幕引き」
蔦屋重三郎は、寛政9 (1797) 年5月6日に48歳で死去した。
脚気であり、江戸の出版王も病には勝てなかった。
この日、重三郎は「午の刻(現在の12時)に死ぬ」と言い、家の者に、今後の
ことを指示し、妻にも礼と別れを告げたという。
辞世の句は遺していない。ただ、最後の言葉は伝わっている。
「場上末撃柝(げきたく)何其晩也」(場はあがれるに、未だ撃柝せず何ぞそ
の遅い「きや」=場が上がるとは場面が終わることで、撃柝とは拍子木をいう)
「芝居が終わったのに、まだ拍子木が鳴らないなんて、遅いじゃないか)
こう言って笑って目を閉じ、夕方に息を引き取ったという。




番号札ときどき軽い咳をする  荒井慶子





            蔦谷重三郎の初黄表紙




自分の死を予言して葬式まで始めたのに、死ねない落語に『ちきり伊勢屋』
ある。占い師に「親の因果で2月25日生九つに死ぬ」と言われた伊勢屋の旦那
伝次郎は、どうせ死ぬならと善行で余生を送り、冥途の土産にと遊び倒した。
金を使いきって予告の前日、芸者幇間をあげてどんちゃん騒ぎの通夜をやり、
当日は葬式を済ませ棺桶に入り、今か今かとと待つが一向に死ぬ気配がない。
待っているうちに腹が減ったので鰻を食べて、煙草を吸ったり便所に行ってみ
たり待てど暮らせど死ねない。死ぬのを諦めて寺から50両借り、帰る家もなく
さ迷っていると占い師に再開する。もう一度見てもらうと「人助けをして徳が
積まれたので、80歳の長生きです」
自らの人生を芝居の舞台に見立てた重三郎は、死をも大団円に演出した。
ところが、予言は、大いに外れて死ぬ気配がない。
これを「鳴らねぇねーか、どうなってるんでぃ」と言ったのを聞いて、周りに
いた人たちは「ホントですよ」「ほら、もー格好つけるから」などと、一緒に
ひと頻り笑っただろう。




鐘を衝くこの世の過去がいとしくて  山本昌乃





          蔦屋重三郎




きぬ〳〵は瀬田の長橋長びきて 四つのたもとぞはなれかねける 
                          蔦唐丸(蔦屋重三郎)
想い人と別れる後朝には、別れが瀬田の長橋のように長引いて、
男女双方の両手の袂四
(午前三時頃の意を掛ける)が離れられない事だ。
重三郎が充分に生きたかどうかはわからない。
しかし生き急いだ人生は、まさしく重三郎一代物語であった。
自分の人生を笑いで締めくくった重三郎は、生きることこそエンタメであれと、
考えていたのかもしれない。




さみしさの発展形になる夕陽  中野六助





「さようなら」
本望をとけしそひ寝もけさはまた かねをかたきとおもふ別路  十返舎一九
山々の一度に笑ふ雪解に そこは沓沓爰は下駄下駄  京伝
早乙女の脛のくろきに仙人も つうをうしなふ気つかひハなし  蜀山人
我もまた身はなきものとおもひしが 今はのきはぞくるしかりけり 恋川春町
南無阿弥陀ぶつと出でたる法名は これや最後の屁づつ東作 平秩東作(へづつ)
執着の心や娑婆に残るらん 吉野の桜さらしなの  朱楽菅江(あけら かんこう)
狂歌師もけふかあすかとなりにけり 紀の定丸もさだめなき世に  紀 定丸




あの世へのていねいすぎる道しるべ  青砥たかこ


昨日まで人のことかと思いしが 俺が死ぬのかそれはたまらん
                       蜀山人

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