練っているうちに鮮度が落ちてくる 青砥たかこ
天狗党
「薩摩藩の変心」
「蛤御門の変」の直後、長州はイギリスやフランスなど、
四国艦隊との戦争にも惨敗し、いよいよ攘夷が困難であると思い知る。
倒幕に根強く反対していた上層部も、
高杉晋作、伊藤俊輔らの軍事クーデターにあって
淘汰され長州の藩論は、武力藩論にまとまった。
こうして長州の藩論が武力倒幕一本でまとまるなか、
新たに倒幕へと傾き始めた勢力があった。
薩摩藩である。 かねてから薩摩藩は、
「公武合体派」として会津藩らと長州排斥の前線にいたが、
禁門の変以降は、次第に幕府と一線を画す態度を見せるようになる。
何故と言うてもこの世はこんなものらしい 加納美津子
何故、薩摩が幕府に敵対する態度をとるようになったのか。
ひとつは、
西郷隆盛は、幕臣の勝海舟らから、
「幕府には時局をまとめる力がまったくない」
ことを聞かされていた事。
西郷は幕府の弱体化を知り、
ひそかに倒幕へ帆の向きを変えるのである。
もうひとつは元治元年
(1864)12月、水戸の天狗党の結末である。
幕府による天狗党に対する残酷な大量処刑が、
薩摩をして幕府から離れるきっかけともなった。
中流を震撼させる世の乱れ 清水久美子
大久保利通
天狗党始末ー降伏した天狗党の一行は,まず敦賀の寺に収容され,
その後,肥料用のにしんを入れておく蔵に移された。
火の気もふとんもないうす暗い蔵の中では,
厳しい寒さと粗末な食事が原因で,20数人が病死していった。
たぬまおきたか
間もなく,幕府の
田沼意次の孫・若年寄の
田沼意尊による
取り調べが行われ,天狗党一行に対する刑が決められた。
死罪…352人 ・ 島流し…137人 ・ 水戸藩渡し…130人。
あの
安政の大獄でも,死罪となったのはわずか8人だけである。
雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪
〔武田耕雲斎〕
かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき
〔藤田小四郎〕
この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の
大久保利通は,
「このむごい行為は,
幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」
と日記に記している。
これが薩摩が幕府を見限った瞬間である。
この世では歩けぬ草履履かされる 利光ナヲ子
幕末の江戸城
さらに幕府は、助命した天狗党員の一部を薩摩へ流刑とすることを、
計画したが、西郷は幕府への書状を起草し、
「道理において出来かね申し候」 と謝絶。
彼らは、次第に幕府への信頼を薄めていったのだ。
こうした薩摩の微妙な変化は、
やがて長州藩への強力な後方支援として結実する。
うっすらの虹です夢の途中です 太下和子
西郷隆盛
ただし、薩摩藩のトップは、
幕藩体制の遵守を掲げていた
島津久光である。
家臣にすべてを任せていた長州藩の藩主・
毛利敬親と違い、
久光が倒幕行動を許すとは考えられない。
そこで西郷は盟友の大久保利通と協力して、
久光に相談せずに武力倒幕の道を模索することになった。
すると、倒幕という方針で共通する両藩を結びつけようとする
人物が現れた。
土佐の脱藩浪士である
坂本龍馬と中岡慎太郎である。
しかし、長州と薩摩は犬猿の仲。
とくに長州は
「蛤御門の変」で薩摩に苦い屈辱を味合わされている。
その折、幕府の征討軍参謀として公務を担っていたのが薩摩藩の
西郷隆盛だった。
尻尾だけ踊り狂っている舞曲 皆本 雅
この深いしこりがあって両藩はなかなか歩み寄ろうとせず、
龍馬の仲介役は難航した。
そこで龍馬は一計を案じる。
長州は武器の不足に悩み、
薩摩は天災による米不足に頭を悩ませている。
龍馬は、薩摩藩が武器弾薬を買い付けて長州に渡し、
長州はその見返りに米を渡す、
という両藩が抱えている問題点を表出し、
両藩の目の向きを、経済面へ変えさせることを提案したのである。
龍馬のこの狙いは的中、長州と薩摩は経済同盟という形で手を結んだ。
慶応2年
(1866)1月22日、
「薩長同盟」の成立である。
まだ噛んでいる夕飯のモンゴイカ 井上一筒
武田耕雲斎のその時
「天狗党の乱」
元治元年3月27日、尊皇攘夷の総本山とも言えた
水戸藩の過激派が、筑波山挙兵を決行。
彼らは天狗党と呼ばれていた。
中核を成していたのは、桜田門外の変を起こした連中と同じく、
より過激な行動を起こす一派であった。
天狗党の要求は、横浜鎖港が一向に実行されないことに憤り、
即時鎖港を幕府に要求することであった。
しかし、7月には追討軍が組織されたため、西へ向かって進撃、
だが12月11日、越前敦賀で加賀藩に投降し、乱は終結する。
土壇場で言い訳しない喉ぼとけ 美馬りゅうこ[3回]
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