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川柳的逍遥 人の世の一家言
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さよならは空耳だった気もします  美馬りゅうこ


高杉雅子刀自 今年七十二歳

「高杉晋作の妻・雅子の回想」

(高杉東行夫人政子刀自住い、飯倉五丁日六十番地の邸にて)
三月十七日午前十時。  
夜来の陰雨名残なく霽れて、

近頃にない暖かい朝日が庭の回り椽にさしていた。
りんどうの紅い蕾が、ポツポツと立つ水気の間に浮かんで見えた。

さすがに女性ばかりの宿に音ずれる春は、繊やかであった。
八畳の客間の椽に雅子刀自は、毛布を布いて、
はなやかなめりんすの座蒲団をしつらえて、其上に坐られた。
そうして静かに東行先生が閉門されておられた時の話を始められた。

其人を見れば、其容秀麗、其気生々、目もはっきりしていらるれば、
耳も達者である。
襖を隔てて其の声のみを聞いていれば、
若き娘のささやきを聞く様な、力がこもっていた。

感動も歎きも点の一つから  杉山太郎


晋作自画自賛像

「回想」〔晋作終焉の偏〕

私は高杉と一所にいましたのは、

ほんのわずかの間で其間東行はいつも外にばかり出ていました上に、

亡くなりましたのが、

未だニ十九というほんの書生の時でございましたから、

私は何んにも東行に就て御話する記憶がございません。

其の内、馬関で東行が病気にかかりまして、

大ぶひどいという知らせが参りましたので、

私は両親とー緒に馬関に参りました。

東行は馬関の新地の林屋という家の奥の座敷に寝ていました、

林屋と申しますのは、唯今でいえば、

新地の村長さんとでも申します家でございました。

東行の病気は唯今の肺炎とでも申す様な病気でございまして、

私共が参りました時は、

もう大ぶ悪くなった時で、沢山吐血をいたしました。

揺れながら女の顔で立っている  谷口 義

御飯もおもゆ位しかいただけませんので、

もうすっかり弱ってしまっていました。

井上(馨)さんや福田(侠平)さん等がよく御尋ね下さって、

御話をして下さいました。

東行は白分の体は悪くなるし、

それにひき代え世間は愈々騒々しくなるので、

日に日に昂奮するばかりでいつもいらいらしていました。

井上さんや福田さんに向っていつも

『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。

   しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』

と言い続けて亡くなりました。

いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。

『しっかりやって呉れろ』

というのが遺言といえば遺言でございましょう。

いい人の明るい棘を持てあます  丸山 進



野村望東尼さんは、一所に林屋に来て下さいまして、

東行が亡くなるまで、

それはそれは一通りならぬ御世話をして下さいました。

それで東行が亡くなりましてから東行のかたみの品を

望東さんへ御贈りいたしました。

それは何んでございましたかもう忘れましたが、

何んでも東行の衣類であったかと思います。

その時、望東さんは三田尻におられましたが、

その地から大へん御叮寧な御礼状を頂きました。

その手紙は今に私の文箱に保存しています。

雨だれをゆっくり聴きながら土に  下谷憲子


晋作の句に望東が書き足した歌

「おもしろき こともなき世を おもしろく」  東行 
「すみなしものは 心なりけり」        望東

望東さんは、御存じの通り大へん御手のいい方で、

御らんの通り此の手紙なども却々達筆でございます。

歌も大へん御上手であり其の外、生花縫取り等も却々御上手で

何んでもよく出来た方でございました。

東行が亡くなりました時に、歌を書いた短冊を下さって、

これを是非、東行の柩の中に入れて一所に葬って呉れろ

と頼まれましたが、

これはとうとう私が手ばなし兼て、今に保存いたしています。

その歌は

"おくつきのもとにわがみはとどまれど わかれていぬる君をしぞおもふ"
                           〔望 東〕
お歌も却々よく出来ていますが、

この歌を拝見しますと昔のことが昨日のように思われます。

菜の花の畑に置いてきた時間  立蔵信子

東行は平生天満宮様と観世音様を大へん信仰していましたから、

望東さんが東行の生前に観音経を写して下さいましたことがあります。

それは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』 というので、

二寸に四寸位の薄葉紙に書かれたもので三十六枚あるのを

綴ったものであります。

その裏に

"ふでのうみすずりの海もちかなから えもふみなれぬ鳥のあとこれ"  
                          〔望 東〕
と書き添えてあります。

望東さんのやさしい心掛けが、

この歌の中にも見えている様に思われます。

その裏に東行がいたずら書をしています。

こころ空しく風の音水の音  牧野芳光

それは何んのつもりでございますか、何から見たのですか、

次の様な歌を書いています。

〔尾張美濃の国境にて、人をやく烟を見て〕
                                  美濃      尾張
”あれを見よ我もあの身に成海坂 明日ともしれぬ身のをわりかな”
                       〔詠み人知らず〕
其れを聞いて 倚人

"あすあすと思ふ心はあだ桜 よひに嵐のふかん物かや"
                                                                              〔倚人〕
又前の人

"あすあすと兼て心に思へ共 昨日明日とは思はざりけり"
                        〔詠み人知らず〕
と書いています。

何か自分で思いついて書きつけて置いたものでありましょうが、

今日になって見ますれば、

何となく白分の事を白然に知っていた事のように思われます。

あの人が好きで嫌いで春嵐  吉松澄子



東行が亡くなりました後に、

望東さんが此の経文のことを思い出されまして、

次のようなお歌を下さいました。

"のりのみち君先かくるふみとしも しらでかたみにやりしかなしさ"
                                                                                        〔望東〕
望東さんはお歌がお上手でいらっしゃいましたから、

お歌を拝見していると、

何となく昔にさそわれて行くような心地がいたします。

これは東行に関したものではございませぬが、

望東さんのお短冊を東行が持っていましたのに

"さわがしき世にもならはで秋の野の 花のすがたはみなのどかなり"   
                                                                                          〔望東〕
というのがございます。

三角へゼムピン四角へフラフープ  和田洋子

東行が持っていました短冊の中に、

あなたのお国の平野国臣先生のがございます。

それはこれでございます。

"玉敷のたいらの宮路たえまなくみつぎのくるまはこぶよもかな"
                                                                                          〔国臣〕
下田歌子さんが

先年東行の十七年祭の折に書いて下さいました短冊は、

天の橋立の杉板でございますが、お歌は

"国の為つくすしるしは顕はれていさほくちせぬ谷のあや杉"

東行が剃髪いたしました折の歌に

"西へ行く人をしたひて東行く  わがこころをば神やしるらん "
                               〔東行〕
というのがございますが、

偶然にも父が西行法師を詠じました歌がございます。

それは

"世をうしとすてしうちにもすてやらぬ しきたつ沢の秋の言の葉 "
                               〔丹治〕
と申すのでございます。

喜怒哀楽使い果たして点になる  古田祐子

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