川柳的逍遥 人の世の一家言
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目まぐるし世に雑草の如く生き 宇都宮かずこ
紫 式 部 (谷文晁画)
-------日記で知る紫式部は、いつもかなり絶望していた。 それらの「紫式部の絶望的心境」を川野一宇が聞き手として文学紹介者の頭木
弘樹さんに、読み解いて頂きました。 紫式部の絶望的な言葉。
『人生の苦さを味わって居る 過去を悲んで灰色になつて居る』
(与謝野晶子訳『紫式部日記』(『鉄幹晶子全集ゟ』以下同)
雨脚の少し斜めを沙羅の花 前中知栄
寛弘5年(1008)11月1日の儀式後の宴会の様子
女房の扇を取り上げ冗談を言う藤原顕光、素焼きの杯を持ち催馬楽「美濃山」
を謡う藤原斉信、女房装束の褄や袖口の襲の色を観察する藤原実資。 「あなかしこゝのわたりわかむらさきや侯」と紫式部をさがす藤原公任など、
各人の様々な姿や表情を描く。(左奥が紫式部) 式部ー与謝野晶子・紫式部の絶望的心境 ①
頭木
「源氏物語を書いた作者の紫式部が、いったいどういう人なのか、
気になりますよね。それを今回、ご紹介したいと思います」 「実は『紫式部日記』というのがあるんです。
ただ、日記といっても、誰にも読まれないように、こっそり書いていたプライ
ベートなものではなくて、皆なに読んでもらう公式記録のようなものなんです」 ――日記ではあるけれども、公式的記録のようなものだったということですか。
頭木
「当時、『女房日記』というものがあったそうです。
「女房」というと、今では妻のことですけど、当時は「宮廷や貴族の屋敷で働 いている女性」のことですね。 紫式部も「女房」でした。中宮彰子に仕えていました。 中宮というのは天皇の后、つまり妻のことです。
その中宮彰子の出産の様子を記録しているのが『紫式部日記』なんです」
動物の勘で明日の風を読む 武内幸子
寛弘5年(1008)10月17日の夜
昇進の御礼を中宮彰子に啓上しようと、藤原斉信と藤原実成が、 宮の内侍と紫式部を訪ねてくる様子。 ――公式的な記録だとすると、紫式部自身のことは、あまりよく分からないん
じゃないですか。 頭木
「それが不思議なことにですね、紫式部自身の内面の思いが、かなり書き込ん であるんです。いかにも公式記録なところと、すごくプライベートな心情の描 写と、両方が混在しているんです」 ――どうしてそんなことになったんでしょう。
頭木
「これはいろいろ説があるようです。
公式記録として書いた後に、自分のプライベートな内面を、書き足したんじゃ ないかとか、誰かに書いた手紙が混じったんじゃないかとか。 いずれにしても『紫式部日記』のおかげで、紫式部がどんな人なのかが分かる わけです。 やっぱり書き残すというのは、大きいですね」 ――そうですね。では紫式部は、どういう方だったんでしょう。
頭木
「ひと言で言うと、いつもかなり絶望しているんです」 深読みをするから傷が痛みだす 原 洋志
――与謝野晶子は、明治から昭和にかけて活躍した歌人で『源氏物語』も訳
していますね 頭木 「そうなんです。与謝野晶子は、12歳の頃に『源氏物語』を素読していたと
いう人で、『源氏物語』の文体とかリズムが、体にしみついているんですね。 『源氏物語』の訳も、学者の訳のように、一語一語正確というのではないんで すが、原文が伝えようとしていることを見事にくみ取って、美しい文章にして いるんです。大正時代の訳なので、現代では少し難しいんですが、それもちょ うどいいくらいかなと。 そういう古風な感じのする訳で、紫式部の言葉を味わっていただければと思い
ます」 スリッパ履きで冬木立の仲間入り 酒井かがり
――わかりました。
では、冒頭でご紹介した紫式部の言葉を、改めてご紹介しましょう。 頭木
「これは『紫式部日記』の冒頭のところの一節ですが、冒頭から自分のことを
こんなふうに描写しているんですね」 『自分は過去に何と云ふ長所も無く、さればと云つて、未来に希望と慰藉を求
めることも出来ない女である。 自分の憂悶が、人並のものであつたなら…
人生の苦さを味わって居る。
過去を悲しんで灰色になつて居る心。
さらに。 自分は過去に何と云ふ長所も無く、さればと云つて、未来に希望と
慰藉を求めることも出来ない女である。 自分の憂悶が人並のものであつたなら…』
頭木
「過去もダメ、未来もダメという、なかなかのネガティブさですよね。
自分の憂悶が、人並みのものであったならと言うほどですから、 人並み外れて、うつうつと悩んでいたということですよね」 消しゴムの黒くなるまで思案する 梶原邦夫
藤原道長が訪れて来ても簾越しでしか会話をしない紫式部
――『源氏物語』のようなすばらしい物語を書ける人が、どうして、こんなに 暗く落ち込んで悩んでいるんですか。 頭木
「それをこれから見ていきたいと思います」
紫式部が女に生まれて「自分は不幸」と嘆く父・藤原為時。
『弟の式部丞が、子供の時分に史記を習つて居るのを傍で聞き習つて
居て、弟が覚えていなかったり、忘れて居たりする所を、
自分が弟に教へるようなことをしたので、学問好きの父は、
「残念なのはこの子を男の子に生まれさせなかつたことだ。
自分はこの一事で不幸な人間と云つていい」
とよく嘆息をついていた』
「弟は頑張って勉強をやろう、覚えよう、とする気持がまるでない。
一方、小さいころから白居易などを読破していた紫式部は、父の教えが分かる、
離れたところで、聞いているだけで覚えてしまう。 幼いころからの才能に恵まれた天才肌の少女であったことから、息子と娘が逆
であればと思うのも、父が残念がるのも無理はなかったでしょう」
言い訳の終着駅に舞う枯葉 山下和一
-------当時の男性貴族は、漢文を習得しないといけなかった。
一方で、女性は漢字を使うことはなかった。
頭木 「女性が学問をすると、不幸になる」と言われていた時代である。
紫式部が大人になって家で漢文の本を読んでいると、侍女たちが集まってきて、
こんなことを言うんです」 『奥さまは、あのような難しい物をお読めになるのはかえって、ご不幸なもと
になるのですよ。女というものは、言ってしまえば漢字で書いた本などを、読 んでいいものではないのですよ。
むかしはお経さえも、そんな理由で、不吉だと云つて、女には見せなかったの
ですから』 こうしたことを紫式部は、次のように言っている。
『自分の家の侍女達にさえ、読書するのにも気兼ねをしたものだ』
紫陽花の弱弱しさに気を引かれ 若林くに彦
女房たちの部屋・左が紫式部 -------『紫式部日記』より中宮彰子に仕えていたときのエピソード。 『左衛門の内侍と云ふ女がある。
不思議にも、自分に悪感情を持つて居ると云ふことである。
自分にはどう云うわけか解らない。
その人の口から出たと云う悪評を随分多く自分は聞いた。
陛下が源氏物語を人に読ませてお聞き遊ばれた時に、
「この作者は日本記の精神を読んだ人だ。立派な識見を備へた女らしい」
と、仰せになつたことに不徹底な解釈を加へて、
「非常な学者ださうですよ」
と殿上役人などに云い触らして日本記のお局と云う名を自分に附けた。
-----中略-----
この事を聞く女達が、またどんなに自分に反感を持つかも知れないと
恥ずかしくて、御前に居る時などは、お屏風の絵の讃にした短い句をも
何事か解らぬ風をして居たのである』
ひとりぼち風を味方につける知恵 靏田寿子
頭木
「日本記というのは『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史のことで、
いずれも漢文で書かれている。
それを男性が理解できるのは、立派なことだけど、女性だと、こうしてからか
いや反感のたねになってしまう、というのである。 こんなことだから紫式部は、屏風に書かれた漢字も読めないふりをしていたと
いい…」 『一(いち)と云う漢字をさえも書くのをはばかつた』
と書いている。
あるがまま我が人生の如き庭 山谷町子
催 馬 楽 漢字はあまり使わず、やわらかなカナで書かれた催馬楽の様子。 ――でも紫式部は、『源氏物語』を書いたわけです。 当然、それは漢字を使わずに書いたということになりますね。
頭木
「平安時代に入って女文字といわれる「ひらがな」が発明されて、女性も
文字を使えるようになって、「女文字」と呼ばれていたそうです。 だから、かなで書いたのでしょうね。
ただ、紫式部の直筆原稿は残っていないんです。
すべて写本、つまり他の人が書き写したものです」 -------紫式部は漢文の読み書きができたのに、女性であるがために、それを
発揮できないどころか、隠さなければならなかった。 なんと残念なことでしょう。
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金栗四三がマラソンの練習で、東京高等師範学校のある大塚から日本橋、
意思表示皴に刻んであるのです 小林すみえ
「富久」とは。
ストックホルム五輪のマラソン選手を決める予選会で野口源三郎(永山
ピンボケのキャッチボールがよく弾む 森吉留理惠
またドラマでは、落語『芝浜』が大活躍。予選会で四三がゴールして、
軽く鳴ったのは草笛式の義歯 井上一筒
孝蔵時代、志ん生の最初の師匠は伝説の名人といわれる三遊亭小円朝で、
見え透いたお世辞空気が多角形 上田 仁
長男・馬生の証言
たらればは言わないことに決めました 足達悠紀子
孝蔵が芸事、ことに落語に興味を持ち始めたのは、明治40年、17歳
マシュマロの真ん中を押す進化論 くんじろう
落語家としての形が付き始めた大正11年、孝蔵は、清水りん(夏帆)と
甘鯛の味思い出す侘住居 柳家甚語楼 志ん生の「何でも買って何でも売る」という癖は、戦後も変わらない。
おばさんは買ったときだけいうお世辞 柳家甚語楼
昭和13年、次男・強次(3代目古今亭志ん朝)誕生。
花巡り孤独の深さ分かち合う 靍田寿子
帰国すると、復興を目指す日本では、ラジオ放送が持て囃されていた。
「落語家と川柳」
空っ風おでんの店へ吹き寄せる 古今亭志ん生
金と酒が絡めば、まさに志ん生ワールド。
今少しつっかい棒でいてあげる 森田律子 |
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