忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1] [2]
目まぐるし世に雑草の如く生き  宇都宮かずこ





           紫 式 部  (谷文晁画)





-------日記で知る紫式部は、いつもかなり絶望していた。
それらの「紫式部の絶望的心境」を川野一宇が聞き手として文学紹介者の頭木
弘樹さんに、読み解いて頂きました。
紫式部の絶望的な言葉。
『人生の苦さを味わって居る  過去を悲んで灰色になつて居る』
(与謝野晶子訳『紫式部日記』(『鉄幹晶子全集ゟ』以下同)




雨脚の少し斜めを沙羅の花  前中知栄






  寛弘5年(1008)11月1日の儀式後の宴会の様子

女房の扇を取り上げ冗談を言う藤原顕光、素焼きの杯を持ち催馬楽「美濃山」
を謡う藤原斉信、女房装束の褄や袖口の襲の色を観察する藤原実資。
「あなかしこゝのわたりわかむらさきや侯」と紫式部をさがす藤原公任など、
各人の様々な姿や表情を描く。(左奥が紫式部)




式部ー与謝野晶子・紫式部の絶望的心境 ①



頭木
「源氏物語を書いた作者の紫式部が、いったいどういう人なのか、
気になりますよね。それを今回、ご紹介したいと思います」
「実は『紫式部日記』というのがあるんです。
ただ、日記といっても、誰にも読まれないように、こっそり書いていたプライ
ベートなものではなくて、皆なに読んでもらう公式記録のようなものなんです」
――日記ではあるけれども、公式的記録のようなものだったということですか。
頭木
「当時、『女房日記』というものがあったそうです。
「女房」というと、今では妻のことですけど、当時は「宮廷や貴族の屋敷で働
いている女性」のことですね。
紫式部も「女房」でした。中宮彰子に仕えていました。
中宮というのは天皇の后、つまり妻のことです。
その中宮彰子の出産の様子を記録しているのが『紫式部日記』なんです」




動物の勘で明日の風を読む  武内幸子






      寛弘5年(1008)10月17日の夜

昇進の御礼を中宮彰子に啓上しようと、藤原斉信と藤原実成が、
宮の内侍と紫式部を訪ねてくる様子。




――公式的な記録だとすると、紫式部自身のことは、あまりよく分からないん
じゃないですか。
頭木
「それが不思議なことにですね、紫式部自身の内面の思いが、かなり書き込ん
であるんです。いかにも公式記録なところと、すごくプライベートな心情の描
写と、両方が混在しているんです」
――どうしてそんなことになったんでしょう。
頭木
「これはいろいろ説があるようです。
公式記録として書いた後に、自分のプライベートな内面を、書き足したんじゃ
ないかとか、誰かに書いた手紙が混じったんじゃないかとか。
いずれにしても『紫式部日記』のおかげで、紫式部がどんな人なのかが分かる
わけです。 やっぱり書き残すというのは、大きいですね」
――そうですね。では紫式部は、どういう方だったんでしょう。
頭木
「ひと言で言うと、いつもかなり絶望しているんです」




深読みをするから傷が痛みだす  原 洋志










――与謝野晶子は、明治から昭和にかけて活躍した歌人で『源氏物語』も訳
していますね
頭木
「そうなんです。与謝野晶子は、12歳の頃に『源氏物語』を素読していたと
いう人で、『源氏物語』の文体とかリズムが、体にしみついているんですね。
『源氏物語』の訳も、学者の訳のように、一語一語正確というのではないんで
すが、原文が伝えようとしていることを見事にくみ取って、美しい文章にして
いるんです。大正時代の訳なので、現代では少し難しいんですが、それもちょ
うどいいくらいかなと。
そういう古風な感じのする訳で、紫式部の言葉を味わっていただければと思い
ます」




スリッパ履きで冬木立の仲間入り  酒井かがり



――わかりました。
では、冒頭でご紹介した紫式部の言葉を、改めてご紹介しましょう。
頭木
「これは『紫式部日記』の冒頭のところの一節ですが、冒頭から自分のことを
こんなふうに描写しているんですね」
『自分は過去に何と云ふ長所も無く、さればと云つて、未来に希望と慰藉を求
 めることも出来ない女である。
自分の憂悶が、人並のものであつたなら…
人生の苦さを味わって居る。
過去を悲しんで灰色になつて居る心。
さらに。 自分は過去に何と云ふ長所も無く、さればと云つて、未来に希望と
慰藉を求めることも出来ない女である。
自分の憂悶が人並のものであつたなら…』
頭木 
「過去もダメ、未来もダメという、なかなかのネガティブさですよね。
自分の憂悶が、人並みのものであったならと言うほどですから、
人並み外れて、うつうつと悩んでいたということですよね」




消しゴムの黒くなるまで思案する  梶原邦夫





  藤原道長が訪れて来ても簾越しでしか会話をしない紫式部





――『源氏物語』のようなすばらしい物語を書ける人が、どうして、こんなに
暗く落ち込んで悩んでいるんですか。
頭木
「それをこれから見ていきたいと思います」
紫式部が女に生まれて「自分は不幸」と嘆く父・藤原為時。
『弟の式部丞が、子供の時分に史記を習つて居るのを傍で聞き習つて
居て、弟が覚えていなかったり、忘れて居たりする所を、
自分が弟に教へるようなことをしたので、学問好きの父は、
「残念なのはこの子を男の子に生まれさせなかつたことだ。
 自分はこの一事で不幸な人間と云つていい」
とよく嘆息をついていた』
「弟は頑張って勉強をやろう、覚えよう、とする気持がまるでない。
一方、小さいころから白居易などを読破していた紫式部は、父の教えが分かる、
離れたところで、聞いているだけで覚えてしまう。
幼いころからの才能に恵まれた天才肌の少女であったことから、息子と娘が逆
であればと思うのも、父が残念がるのも無理はなかったでしょう」




言い訳の終着駅に舞う枯葉  山下和一




-------当時の男性貴族は、漢文を習得しないといけなかった。
一方で、女性は漢字を使うことはなかった。
頭木
「女性が学問をすると、不幸になる」と言われていた時代である。
紫式部が大人になって家で漢文の本を読んでいると、侍女たちが集まってきて、
こんなことを言うんです」
『奥さまは、あのような難しい物をお読めになるのはかえって、ご不幸なもと
になるのですよ。女というものは、言ってしまえば漢字で書いた本などを、読
んでいいものではないのですよ。
むかしはお経さえも、そんな理由で、不吉だと云つて、女には見せなかったの
ですから』
こうしたことを紫式部は、次のように言っている。
『自分の家の侍女達にさえ、読書するのにも気兼ねをしたものだ』




紫陽花の弱弱しさに気を引かれ  若林くに彦






      女房たちの部屋・左が紫式部





-------『紫式部日記』より中宮彰子に仕えていたときのエピソード。
『左衛門の内侍と云ふ女がある。
不思議にも、自分に悪感情を持つて居ると云ふことである。
自分にはどう云うわけか解らない。
その人の口から出たと云う悪評を随分多く自分は聞いた。
陛下が源氏物語を人に読ませてお聞き遊ばれた時に、
「この作者は日本記の精神を読んだ人だ。立派な識見を備へた女らしい」
と、仰せになつたことに不徹底な解釈を加へて、
「非常な学者ださうですよ」
と殿上役人などに云い触らして日本記のお局と云う名を自分に附けた。
-----中略-----
この事を聞く女達が、またどんなに自分に反感を持つかも知れないと
恥ずかしくて、御前に居る時などは、お屏風の絵の讃にした短い句をも
何事か解らぬ風をして居たのである』




ひとりぼち風を味方につける知恵  靏田寿子



頭木
「日本記というのは『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史のことで、
いずれも漢文で書かれている。
それを男性が理解できるのは、立派なことだけど、女性だと、こうしてからか
いや反感のたねになってしまう、というのである。
こんなことだから紫式部は、屏風に書かれた漢字も読めないふりをしていたと
いい…」
『一(いち)と云う漢字をさえも書くのをはばかつた』
と書いている。




あるがまま我が人生の如き庭  山谷町子






            催 馬 楽

漢字はあまり使わず、やわらかなカナで書かれた催馬楽の様子。





――でも紫式部は、『源氏物語』を書いたわけです。
当然、それは漢字を使わずに書いたということになりますね。
頭木
「平安時代に入って女文字といわれる「ひらがな」が発明されて、女性も
文字を使えるようになって、「女文字」と呼ばれていたそうです。
だから、かなで書いたのでしょうね。
ただ、紫式部の直筆原稿は残っていないんです。
すべて写本、つまり他の人が書き写したものです」
-------紫式部は漢文の読み書きができたのに、女性であるがために、それを
発揮できないどころか、隠さなければならなかった。
なんと残念なことでしょう。



日常に少し離れて花の下  津田照子

拍手[4回]

PR

https://lonpari2.blog.fc2.com/

移転先でもよろしくお願いいたします!

拍手[2回]

お祈りをしてから鮎の骨を抜く  笠嶋恵美子



  「富嶽三十六景三十六景」 江都駿河町三井見世略図


この絵は、富士山が作り出す三角の相似関係が狙いのように見えるが、
本当の葛飾北斎の狙いは、別のところにある。
歌川広重「自分の絵は見たままの景色を写しているのに対し、北斎の
絵は、構成の面白さに主眼を置いている」と言っているように、ここは
「越後屋」という有名な呉服商がある場所で、風景画の題材として、し
ばしば選ばれる。が、普通の浮世絵師ならば往来の雑踏や、ずらりと並
ぶ呉服商の暖簾を必ず˥描こうとする。下の広重の「名所江戸百景」と比
較しても判るように、北斎は一階部分をばっさりカットして、あえて二
階部分をクローズアップしている。
土産物の絵葉書のような役割を持つべき浮世絵として、あり得ない構図
を選択している。これが北斎の北斎たる奇想なところでだろう。
「山を見るためにまん中あけておき」


「無いものを見せて嗅がせる六代目  きゅういち




       呉服物品 越後

北斎の絵の下にちょこっと見えるのは越後屋の看板。
越後屋が信奉する「三囲」(みめぐり)をもじったものでしょう。
「三囲の雨以降傘を貸しはじめ」 宝井其角
「一に富士二には三井をほめて行き」
越後屋では、俄雨の時に店のマーク入りの傘を無料で貸し出す商法で
江戸っ子たちに喜ばれた。


頑固親爺が着るバリバリの浴衣  岸井ふさゑ


「川柳で詠む江戸の町」 呉服店・越後屋


 (拡大してご覧ください)
名所江戸百景「駿河町」(廣重)


江戸の町人地の中心となった日本橋は、南北の町屋から、江戸城と霊峰
富士が望めるように、道路向きが縄張りされている。駿河町の通りから
南西方向の正面に駿河の富士が望めることで、「駿河町」と名付けた。
「駿河町畳の上への人通り」
「本店と出店の間に不二が見へ」
「木戸をしめると越後屋のにわになり」
雨が降るとさすがに富士山は見えないようで…
「するがからするがが見えるいい日より」
「くもってる時にはゑちご丁(町)になり」
「するが丁ほうらい山もよそならず」


利き足に小春日和を巻いておく  みつ木もも花




「越後屋・歴史」
今から三百年ほど前、伊勢は松坂の町に「越後屋の酒屋」という評判の
高い酒屋があった。以前は武士であった主人の三井越後守高俊は夫人の
内助を得て営業も繁盛し、町の人々の尊敬を受けていた。これが越後屋
の歴史の出発点である。そして高俊の子の三井高利が星雲の志を抱いて
江戸へ出、本町一丁目に「越後屋」という呉服商を開いた。
延宝元年(1673)のことである。
高利は今までの呉服屋が売掛金を七月、十二月の二季に集金するために
資金繰りに不便を感じているのを改め、店頭の「現金売り」をして資金
の廻転をはかり、更に「現金掛値なし」という定価販売を決行し、それ
までの顧客の顔色を見て値をつける悪習慣を打破したり、又は、顧客が
必要とする寸法の布地が自由に買える「切り売り制度を敢行した。
「越後屋に長い返事もきれい也」
「したてまで一夜に出来る駿河町」
「あいさつもけんぶのようなごふく店」
長い返事は「あ~い」 けんぶは絹裂く音。


しりとりのうまい男と銀河まで  森田律子




(拡大してご覧ください)
掛け値なしに賑わう越前屋


『先祖は寛永の頃、勢州松坂より江戸へ奉公に出で…中略…大店三ヵ所
ありて、千余人の手代を使い、一日に金二千両の商いあれば、祝をする
と云う。二千両の金は米五千俵の価なり、五千俵の米は五千人の百姓が
一ヶ年苦しみて納めるところなり。五千人が一ヶ年苦しみて納むべきも
のを、畳の上に居て楽々と一日に取ることなり。又地面より取り上ぐる
所が二万両に及ぶという。是五万石の大名の所務なり。十月蛭子講の祝
に用ゆる酒五十樽、吸物にする鴨の代百両以上なりと云う。是を持って
大造を知るべし』(文化13年(1821)『世事見聞録』ゟ)
(因みに宝永4年~天保14年迄の越後屋の最高売り上げは、享保3年
の26万両とある)「三越『花ごろも』ゟ」
「夢に見てさえよい所へごふく店」
「壱丁は井桁に三がひらひらし」
「五十里も先を手に取る呉服店」
越後屋の紋は「井桁に三」 駿河の国は「五十里先にあり」


あの辻で出会ってからの半世紀  吉川幸子




(拡大してご覧ください)
三井陳列場側面来客出口の光景


「越後屋にきぬさく音や衣更 其角」
越後屋の前を通ると其角の耳にも、布を切っている音が聞こえてきたよ
うだ。その革新的な販売方法と顧客に奉仕する精神で江戸へ出て5年目
で本町に2店目を開き、両店とも大繁盛をした。が、同業者から蛇蝎の
如く嫌われ、その迫害と江戸の大火を機に天和3年(1683)駿河町
に移転した。
「駿河町呉服より外用はなし」
「するが屋とかえてやり度き呉服店」
「うざついたあきんどのないふじのすそ」
うざついたは「うじゃうじゃ居る」「ありきたりの」


流しそうめんの速度が気に入らぬ  大野佐代子  





 (拡大してご覧ください)
  三井開店の図


「ひじがよく見へると元和見世を出し」
<ひじ><ふじ>の間違いだろう。天和2年12月28日駒込大円寺
から出火した大火災に本町店焼失、翌年、駿河町に新築されたので句と
上の絵の<元和><天和>も字が似ていて間違いか。
とりもなおさず「越後屋」の成功を横目に、通一丁目の「白木屋」や本
町四丁目の「伊豆蔵屋」など、当時の多くの呉服屋が越後屋を理想とし、
同じ経営手法を選んだことはいうまでもない。
「白木屋」の句
「根のつよい見せと大ぜい水をくみ」
「白木屋で娘八丈買うている」
「しんだいをひろげた親と鑓の手じゃ」
「伊豆蔵」の句
「伊豆蔵が店に非番の氷室守」
氷献上(6月1日)で名高い。




鼻母音でおのおの方と言いなさい  くんじろう



 扶桑名処名物集

絵の右側、木綿店の前の町方番所。俗に「番太郎」といわれ、
越前者が多く勤めていたので、越後屋に対して「越前屋」と洒落た。
「越後屋の前にちっさな越前屋」


ところで、「越後屋」の江戸進出に先立つこと67年前の慶長11年
(1606)伊勢出身の木綿商が大伝馬町へ多数出店した。いわゆる
「伊勢商人」たちの江戸進出だ。日本橋に出店した呉服屋を見ると、
「越後屋」を筆頭に、元禄時代の四大呉服店と呼ばれた「伊豆蔵屋」
「大黒屋」「家城太郎次郎」
は、みな「伊勢商人」だった。もちろん、
日本橋で活躍したのは「伊勢商人」だけではない。近江国から商圏を
広げていった「近江商人」も、日本橋で多く活躍した人々だった。
「日本橋西川」「白木屋」「高島屋」といった老舗・大店は近江国に
ルーツをもつ企業だ。されど越後屋は№1。
「越後屋の庭を大名通るなり」
「ごふくやの門から曲がるお江戸入り」
「いつくらも見せてごふくやほしがらせ」


荒海を描けば故郷の風の音  相田みちる




( 拡大してご覧ください)
  越後屋本店内




呉服物を買うためでなく普通に駿河町を通り抜けようとする人々に対し
ても、丁稚、小僧が「(御用)は何でござります〳〵」と用向きを聞く。
それがなみ一通りのやかましさではない。
「あいそふすぎて一町のやかましさ」
「うろつけばなぜ〳〵といふごふく店」
「うっかりとのぞかれもせぬ呉服店」
「壱丁を通り抜けるとしづかなり」


大きな呉服店には<茶番>という湯茶接待係が居て、
その接待用の湯茶は買い物の決まった客にのみ出した。
もっとも店に入る客は大体買い物をしたと思われる。
「呉服見世大和茶ほどにたぎらかせ」
「何かくゝんではん取よ茶番よび」
「ひれふして仕廻うと茶番〳〵也」
くゝんでは「咥えて」 はん取は「金銭や品物の受渡役番頭」


捕まえた陽射しと午後のお茶にする  吉川幸子




(拡大してご覧ください)
  越後屋本通り


千客万来する客も、多種多様で品物を買いに来る客以外に、
土産話に見物していく人もあった。
「するが町めしを三石一斗たき」
一人一食一合五勺として約2千人、ちょっと大袈裟なきらいも。
これだけ忙しい呉服店、どのように飯にありついたのか…?
拍子木を打ってめし時をしらせたという。
「ひやうし木で人をおろぬくごふく店」
「いつめしを喰うやらしれぬごふく店」
「若衆一群越後屋の飯」
髪を結うところも店内にあった。
「髪結いのようなのもいるごふく店」
「剃りたての浅黄に揃うごふく店」
「げんぷくを一チ時にするごふく店」


ヒトの手はつなぐかたちにつくられた  渋谷さくら




(拡大してご覧ください)
 呉服屋の風景


番頭たちは暖簾分けの関係上、相当な年齢になってもお嫁さんがもらえ
ないという「呉服店残酷物語」があった。
「ごふく店天命しつて女房もち」
「ばけそうな花むこの出るするが丁」
「番頭のまつご子のあることをいい」


大福をいくつ食べても来ない福  銭谷まさひろ


また番頭となると休日も増え、給料も高くなり、懐も豊かなので、深川
遊里へよい客として出かけていたことが句でわかる。
「旦那白川番頭は夜ぶねなり」
「さよふけてから番頭はまかりこし」
「かね四ツにするが町までこぎつける」
とはいえ公休日にも責任上、四ツ(午後10時)の門限は守らなければ
ならなかった。


若いわたし想い出の中だけに棲む  岡本なぎさ


今と変わらずこの時代にも万引きはいた。
やはり万引きは店の悩みの種であったようで、中二階の踊り場のような
ところから見張りをつけていた。
「ごふく店上に目の有る処なり」
「ごふくやの目明し二かい住居なり」
「呉服屋でぶちのめされる万左衛門」


言い訳をするたび鱗はがれだす  山本早苗





   伝馬町大丸


貸傘は頭にも書いたが、越後屋以外にも尾張町の各呉服屋も降雨の際に
広告を兼ねて貸傘の倣いがあった。
「するが町江戸一番の傘や」
「ごふくやのはんじょうを知るにわか雨」
「ごふくやの傘内心はかえさぬ気」
「ゑちごやを又かしにするにわか雨」
「するが丁とあるのが私の傘」
「夕立のあす指を折るごふく店」
呉服店の宣伝広告は、貸傘の他に引き札配ったり、神社仏閣のお手洗い
の手拭に自家の名を染めたものを奉納したりして行った。
「江戸中の家数を知る呉服店」
「まくら紙江戸中くばるごふく店」
「引き札にふじをえがかぬ斗りなり」


中七に八分休符が利いている  井丸昌紀




扨て、三井家の先祖は深く「三囲稲荷(みめぐりいなり)」を信心し、
その利益により、家運益々繁盛し、終には、江戸一番ではない日本一
の呉服店に成った。ということで今日に至るまで深く渇仰(かつごう)
し、同社のために資材を惜しまず後援した。
「一めぐり半も三井で持って居る」
「越後屋のいなりを其角しゃくるなり」
「ない雨のさいかくをした名句なり」
時に元禄6年6月28日、其角33歳の時、次のように詠った。
うだちや を三囲りの みならば」
「三めぐりの雨は豊の折句なり」とある通り、
其角の句は、ゆたか(五穀豊穣)の「三字の折句」になっている。


真夜中の雷お忘れものですか  都倉求芽          



 (拡大してご覧ください)
  絵本艶庭訓

新築の棟上げ祝いに当時は餅を蒔いた。 


   

やがて越後屋を立ち上げた三井高利の優れた経営センスに、幕府も一目
置いた。貞享4年(1687)高利は親戚でもある三代本因坊・道悦
通じて、将軍綱吉の側用人・牧野成貞の知遇を得て、六大店の呉服商で
独占されていた「幕府御用達」となる。天和3年(1683)この幕府
御用により、駿河町に「両替屋」を出店すると、高利は幕府の勘定方に
「千両箱を馬の背にのせての輸送は、盗賊の襲撃の警護など、負担が大
きく危険です」
と、越後家の為替決済網の利用を勧めた。その後幕府は、
元禄4年(1691)に12の両替商を「御為替」に指定し「株仲間」
が形成された。三井家は、この「両替商」でも、江戸、京都、大阪の三
都に決済網を持ち巨利を得た。
「すさまじく呉をとりさばく越の見世」
「越後の謙信掛値なしの軍」
「三百里もちをふらせる始皇てい」
呉は呉服 越は越後屋。中国の呉越に掛けた。
二句目は、越後の謙信と越後屋の戦いぶり。
三百里は万里の長城。そこに餅を降らせる。などと大きく出たものだ。


ここ一番山を動かす低姿勢  後洋一



(拡大してご覧ください)
「絵本庭訓往来」北斎画 




ここから越後屋を離れて他の呉服店へ。
「ゑびす屋・布袋屋・亀屋」
「尾張町二丁目西側北門より南中程過ぎるまでは、亀屋七左衛門、夷屋
八郎左衛門といえる呉服商人の家只二軒なりしを…亀屋も今は、跡形も
なくなりて夷屋のみ残れり」「『神代余波』斉藤彦麿」
「賑やかさ亀の左右に福の神」
「十月(蛭子=恵比寿屋)の隣へ布袋見世を出し」
「大黒でありそうな見世布袋なり」
「宝船ごふくや二軒乗って居る」
「尾張町福井町ともいいつべし」
ゑびす、ほてい、亀、皆縁起のよい名。浅草には福井町もあると作句者。
これらの呉服店の貸傘の句。
「恵比寿屋へ大黒傘を客へ貸し」
「大黒をかすゑびすやの俄雨」
「尾張町われ劣らじと傘を貸し」
「七福の中三人はごふく店」
「駿河尾張は人を濡らさない国」
大黒傘といのは、番傘の粗末なもので傘の端に大黒天の印が押してあった。
「大丸」
「大丸や傾城どもが夢の跡」
「どちらから見ても四角な大丸屋」
「大丸の向こう一万三千里」
「伊豆蔵」
「伊豆蔵が店に非番の氷室寺」


沢庵も人のうわさもまだ噛める  美馬りゅうこ




ゑびすやは元禄13年とある



「松坂屋」
越後屋・白木屋などは会社のPRを兼ねて、創業から今の隆盛に至る
まで社史が編纂刊行されている。しかし、この松坂屋は明和・安永期
以降の江戸の呉服店として、越後屋・大丸に次いでの名店舗であった
にもかかわらず、江戸愛好家以外に殆ど知られていない。社史による
と明和5年(1768)4月、 江戸進出。上野広小路の「松坂屋」
買収し、同店を「いとう松坂屋」と社史にあるが、『川柳江戸砂子』
には、開店の時代を「甚だ憶測ながら安永頃に開店したことと思う」
とあるのみ。その基点をみてみると、
「この頃迄呉服店は…中略…<新橋まつ坂や見世開き>のおひろめを、
勘三郎芝居において、『木場の親玉という団十郎かげ清の狂言時、春
芝居に広めしなり』」という箇所があるが、これだけ。
「芝口の松のうしろに二葉町」
「目黒から引っきりもなくすすめこみ」
「法眼の筆万木にすぐれたり」
尾張町『増補浮世絵類考』に「呉服屋の仕入物などに画名見ゆ」とあ
り、二代目・柳文朝が尾張町にあった呉服太物店の布袋屋や、芝口の
呉服店・松坂屋の景色を描いている。


結論はいつも諭吉が引き受ける  ふじのひろし

拍手[3回]

温泉宿の軒先の唐辛子  森田律子





一乗谷ー蘇る戦国時代の城下町


「長良川の戦」で敗死の斎藤道三に味方した明智光秀は、敵対した義龍
の軍勢に追われ、生国である美濃を離れ越前に逃げた。弘治2年(15
56)である。何故、越前なのか。土岐氏の居城・大桑城の城下町には
「越前堀」があり、また越前の優れた技術を美濃が導入していた友好国
でもあり、最も安心できる安定した隣国であったからである。
同時に越前・一乗谷の朝倉文化は、周防・山口の大内文化、駿府の今川
文化と「戦国三大文化」と並び称され、光秀には、親しみやすかったの
ではないかといわれている。


天秤に昨日と今日の正直さ  みつ木もも花



それに加えて、永禄9年の時点で、光秀と朝倉家との間に医学を通じて
接点があったこと、前年に、将軍の足利義輝が三好三人衆に殺されて、
近江にいる弟の義昭が自分を助けるよう諸将に要請し、光秀はこれに呼
応して田中城に入ったと思われることなどがある。



大匙ですくった酢の行き処  河村啓子



『遊行三十一祖京畿御修行記』





「麒麟がくる」 光秀ー越前にて


「明智光秀は越前国にいた。根拠は『遊行三十一祖京畿御修行記』」
「明智軍記」をはじめとする光秀の没後に成立した伝記類では、光秀
斉藤義龍に美濃を追われ、朝倉義景を頼って越前へ逃れたというものが
多くある。従来、この話の信憑性は不確かなものであるとされてきた。
ところが、これを裏付ける史料がある。『遊行三十一祖京畿御修行記』
といって、遊行上人(時宗の総本山遊行寺住職)の31代目である同念
上人が、天正6年(1578)7月から翌々年3月までの間に、東海・
関西各地を遊行した際の状況を近侍者が記録したものだ。原本は伝来し
ておらず、寛永7年(1630)に書き写された細切れの写本があるの
みである。


またひとつ終の住処の候補地か  下谷憲子




 





この『遊行三十一祖京畿御修行記』の天正8年正月24日条には「同念
上人が、従僧の一人を光秀の居城である坂本城へ遣わせた際、光秀が、
かつて称念寺門前に住んでいたので、旧情を温めるべく、その僧を坂本
城に留め置いた」という内容が記されてる。称念寺は、越前を代表する
時宗寺院なので、光秀は遊行上人方の訪問に懐かしさを覚えたのだろう。
条の一部に『惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、美濃土岐一家牢人た
りしか、越前朝倉義景頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住』
(光秀は義景を頼り称念寺門前に10年住んだ)とあり、光秀が越前に
いたことが確かめられる。ただし、そこに10年滞在したが、朝倉義景
に仕えたという記録はない。


偶然が三つ私が光りだす  津田照子
 
 




       針葉方・口伝


 

「医学にも精通していた光秀。そして光秀は」
近年熊本県で新たに発見された『針薬方』は、明智光秀の初期の活動を
示す史料として注目を集めました。これは足利義昭に仕えた米田貞能(
さだよし)が、永禄9年(1566)に書き写した医学書ですが、その元
の本はそれ以前のある時期に、光秀が近江の高嶋田中城に籠城していた
ときに「口伝」したものとされます。
さらに本文中に「セイソ散 越州朝倉家の薬」と見えます。中世後期の
『金痩秘伝下』には、「セイソ薬」とほぼ同じ材料で作る「生蘇散」
いう付け薬が紹介されており「深傷にヨシ」とあります。



論客よ君スキップはできるかね  徳山泰子




平面復原地区の中の医師の屋敷跡




屋敷跡では、薬の調合道具や「湯液本草(とうえきほんぞう)」という医
学書の一部が発見されています。当時は、戦乱で荒廃した京都から多く
の公家や僧侶、学者、芸能者などが一乗谷に下向してきており、手厚い
もてなしを受けていた。一乗谷には、発掘調査による出土遺物から医師
の屋敷と特定された場所があります。また、戦国期に一乗谷で医学書の
伝授が行われていたことも判明しています。したがって一乗谷では医学
がかなり普及しており、朝倉氏が薬剤を同時開発する素地は整っていた
といえるでしょう。本文に「朝倉家の薬」とうたわれていることから、
朝倉家中では、セイソ散が戦場必携の「定番薬」だったのだろう。
本書の発見によって、これまでの朝倉氏研究で知られていなかった「セ
イソ散」
の存在が明らかになりました。光秀と越前の繋がりを考える上
で、本書が重要な史料であることは間違いありません。


キミが蒲鉾ならボクは板になる  酒井かがり





光秀は朝倉家のセイソ散を知っていた





『湯液本草』の炭化紙片や薬の調合などに使われたとみられる乳鉢や匙
が出土した屋敷を、医師の家と推定しています。『湯液本草』は中国の
医家、王好古が1241年に著した医薬書で常用薬が厳選され、効能などが
簡潔にまとめられています。また、同屋敷からは、中国製などからの輸
入陶磁器が多数出土したことも、特筆すべきことといえます。当時とし
ても骨董品として扱われた憂品が存在します。


[セイソ散の作り方]
① (右上)芭蕉の巻葉
② (右下)スイカズラ
③ (左上)黄檗(キハダ)
④ (左下)山桃の実と皮
※ それぞれ「霜」すなわち黒焼きにして粉砕する。この4つの材料を
油をつなぎとして、それぞれ同じ分量を調合すれば、完成。春冬は等分
でよいが、夏は多めに入れるのがポイント。


マツキヨで買った薬くさい理論  雨森茂樹










特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の第51次発掘調査地に「医師の屋敷跡」
特定された区画がある。そこからは薬研・乳鉢・薬匙などの道具が出土
した。中でも決定打となったのは『湯液本草』(中国の医学書の写本)
の断簡である。火を受けて切れ切れな状態で、奇跡的に残った。
一乗谷には、医療を「生業」とする人が存在したのである。また一乗谷
で医学書の伝授が行われていたことも判明している。ともかく、一乗谷
では医学・医療が一定程度以上の水準で普及しており、朝倉氏がセイソ
散のような家伝薬を、独自開発する素地を十分整っていたのである。


放り投げた下駄から波が始まった  くんじろう


『金痩秘伝集』という針井流の金痩医術書がある。その書には、以下の
人々の手を経て伝えられたとある 細川高在(たかのり)→② 
地(智)十兵衛→ 越前桜井新左衛門尉→ 同 円蔵坊→ 越後
成就坊→ 同 蓮秀坊→ 関上弥五右衛門→ 善方半七

 注目は②→③である。③の桜井新左衛門尉は朝倉氏の重臣である。
永禄11年(1568)5月、足利義昭朝倉義景邸御成の際の記録・
『朝倉亭御成記』には、義景の「年寄衆」の一人に「桜井」がみられる。
金痩医術書の奥書に、光秀と朝倉家臣が併記されたこと自体、興味深い。
光秀の医学知識も相当なものであったことを示している。大したレベル
でなかったなら、ここに書かれていないだろう。それよりも何より「針
葉方」「セイソ散」
も含め、朝倉氏の地において、二つの医学書に光
秀の名が確認できたことは、不明部分のの多い光秀を見つけるための大
きな史料となった。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄






   朝倉義景


【朝倉氏の歴史】
・元亀元年(1570)4月、織田信長は、三好氏と朝倉氏を敵として
天下の儀の成敗権を義昭に認めさせ、4年にわたって朝倉氏を攻撃した。
「元亀の争乱」である。戦場ではよくあることで、浅井・六角の裏切り、
本願寺顕如との対決が加わり、この年の戦は信長にとって厳しいものと
なった。
元亀2年、信長方は、前年朝倉氏に協力した比叡山延暦寺と坂本日吉
社を焼き討ちして見せしめにした。一方の朝倉義景は、信長の越前攻撃
に備えて敦賀に滞在、湖北と湖西の両方面に備えた。
元亀3年、信長は浅井氏の居城・小谷城に本格的な攻撃を決行。義景
自ら出陣して、小谷城の大嶽(おおづく)に6か月にわたって籠城した
が、兵糧の不安から、同年12月に越前へ帰陣した。
 ・元亀4年、信長は湖西を攻め、義景は3月から5月まで敦賀に在陣。
湖西と小谷城の両方に対処した。信長が岐阜に帰陣した隙に小谷入城を
図るが失敗、逆に退却の途中刀根坂で信長方に大敗を喫する。 義景は
一乗谷に帰陣するが、信長は府中龍門寺に着陣して、軍勢を一乗谷に遣
わせ、8月18日から20日まで3日3晩にわたって一乗谷を谷中一宇
残さず放火し、破壊した。義景も20日に自尽。享年41。


返された鍵を裁断機にかける  清水すみれ




 
・(その後)天正元年(1573)、義景の母・光徳院と遺子の愛王丸
は生捕りにされ、身柄は府中の信長のもとに護送され、信長の部将丹羽
長秀に預けられて、26日、今庄の帰(かえる)の里で刺し殺され、堂
もろとも火をかけて焼かれた。ここに朝倉氏の嫡流は絶え、ここに朝倉
氏は滅亡。戦後処理で信長は、最初に信長方に寝返った大功を認めて、
前波長俊を越前の守護代に任じて一乗谷の館にすえ、部将の滝川一益・
羽柴秀吉・明智光秀の3人に越前の戦後処理を命じ、それぞれの代官が
北庄に駐留した。多くの朝倉氏同名衆は生き残って本領を安堵されたが、
苗字を変えられて、朝倉氏は解体した。


鰓が震えている忍び泣いている  雨森茂樹


・信長や一向一揆によって越前を制圧された朝倉氏の一族が、手をこま
ねいて滅亡したわけではない。
朝倉氏の同名衆の朝倉景嘉は、上杉謙信を頼って越後へ下向し、上方へ
馬を進めるつもりだと天正2、3年ころの書状に記している。
朝倉宮増丸は天正6年、朝倉氏同名衆の鳥羽景富の子・与三景忠を家督
に立てて朝倉氏を再興することを、毛利氏の勢力に期待して備後の鞆に
滞在していた足利義昭に要請している。
このように朝倉氏再興を計る朝倉氏一族もいたが、頼りにした謙信
利氏、足利義昭らは、急死や信長の強さには歯がたたず、それらの試み
は、すべて失敗に終わった。

蓮だってたまに反抗して開く  山本昌乃


(そして一乗谷の今)商人や寺社は信長政権下でも、その役割を認め
られて、柴田勝家の北庄城下に引っ越し、一乗町、一乗魚屋町などの町
が形成される。一乗谷の大規模寺院・西山光照寺、心月寺、安養寺など
も北庄城下の周縁部に移転され、今に至っている。
朝倉氏の時代に築かれた商業や宗教活動の伝統は、絶えることなく近世
の城下町に引き継がれている。

引き潮がくすぐっている足の裏  嶋沢喜八郎

拍手[4回]

枯草にまじり茗荷の芽が数多  徳山みつこ





        (題字・ 横尾忠則)


NHK・大河ドラマ「いだてん」 古今亭志ん生の巻

 


大河ドラマ・「いだてん」には、主人公が三人いる。
金栗四三中村勘九郎)、田畑政治(阿部サダヲ)、古今亭志ん生
(ビート・たけし)の三人である。ドラマ「いだてん」は、スポーツ
がテーマだけれど、メインの主役は、座っているのがお仕事の噺家・
五代目・古今亭志ん生である。
副題に「オリンピック噺」となっているから、志ん生の人生を追いつつ、
「こちらは口が走る」と言葉遊びをする、脚本家の魂胆が見える。
道理でドラマ中に、ところどころ落語が隠し味のように盛り込んである。
そもそも、脚本が大の落語ファンの宮藤官九郎だから、マニアックな
落語ネタが次々と飛び出てくるのも、仕方のないところか。
そのへんを少し拾い出したみると。


 

ペヤング焼きそばから一声の汽笛  平井美智子


 

金栗四三がマラソンの練習で、東京高等師範学校のある大塚から日本橋、
芝まで走る。東京の人なら分かるが、普通、大塚から日本橋へ行くなら、
南へ下がる方が近いのに、どういうわけか四三は東に向かい、上野から
さらに浅草へ行ってしまう。
つまり、まず目的地と全然違う方向に行ってから、浅草十二階で大きく
方向転換して日本橋に行く。四三がなぜ浅草から日本橋、さらに芝まで
行くのかというと、志ん生『富久』の主人公が辿った道に重ねている
のである。
ともかく『いだてん』は、ビートの古今亭志ん生が「オリンピック噺」
を寄席で語るという形で、ドラマは進んでいくようである。





ドラマのタイトルバックに出てくる浅草界隈の絵図

 

意思表示皴に刻んであるのです  小林すみえ

 

「富久」とは。
三遊亭円朝が実話を落語化したものとされ、多くの噺家が口演している。
落語の主人公は幇間の久蔵と旦那。
噺家によって、主人公や旦那の住い、富籤売り場を変えている。
志ん生の場合、久蔵の住まいは浅草三間町。旦那の住まいは芝の久保町。
富興行は、椙森神社(すぎのもり)で富札の番号は「鶴の千五百番」。
文楽場合、久蔵の住まいは浅草阿倍川町。旦那の住まいは日本橋横山町。
富興行は深川八幡で富札の番号は「松の百十番」
談志の場合、住いは深川で、後は志ん生と同じ。となっている。
ドラマの金栗四三は、志ん生コースを走った。

 

くねくねの道で私を試される  百々寿子



 

ストックホルム五輪のマラソン選手を決める予選会で野口源三郎(永山
絢斗)が急に腹を押さえて「腹が……」と言い出し、痛いのかと思った
ところで、「減りました~」と来る。落語『浮世床』である。
浮世床には、芝居小屋で男が「若い女から、掛け声をかけて下さい」
言われて、掛け声がどんどん小さくなるので、女が「どうしたんです?」
と聞く、すると男は「腹が、腹が…」というと女が「痛いんですの?」
と聞くと「減りました」
というやり取りである。
ここは、このブログ「浮世床」で、以前に書いたので一読下さい。
 同じく予選会の本部で手持ち無沙汰になった永井道明(杉本哲太)
がいきなり「将棋でも指しますか」と言い、続くのは、『持参金』か。
手をつけて腹ませた女中のお鍋を、佐助と番頭がどっかの阿呆(清さん)
に押し付けてしまうというくだりである。
清さん「…昨晩、佐助はんの世話で嫁を貰いましてな」
番頭 「へぇ、それはまた別の話で…」
清さん「別やおまへん、腹ぼてで、二十円付きで・・・」
と、これが持参金である。


 

ピンボケのキャッチボールがよく弾む  森吉留理惠


 

またドラマでは、落語『芝浜』が大活躍。予選会で四三がゴールして、
嘉納治五郎(役所広司)が水を飲ませようとした時に、金栗四三は
「いらねえ、優勝が夢になるといけねえ」と芝浜の落ちが出てくる。
また五輪出陣の日、新橋に見送りに来た師匠の橘家円喬(松尾スズキ)
が、餞別の煙草を「持ってけってんだよ」と投げつけているのは
『文七元結』
で、「なにすんだ、こんちきしょう」と落語のセリフで
孝蔵(森山未來)が返していたし、『付け馬』も出てくる。
孝蔵が遊郭で遊んで勘定を払わないので、店の者が彼の家まで行って
払わせようとする。無銭客に付いていく人を「付け馬」といい、孝蔵は
小梅という女郎に支払わせる嘘をついて逃げてしまう。孝蔵が付け馬を
まいて、寄席に飛び込むと、そこで円喬がちょうど付け馬を演じている、
という落の中で落ちを見せたりして、脚本の官九郎の遊び心満載である。
田畑政治に主役が変わる25話でも、「火焔太鼓」の演目をやっていて、
「半鐘はいけないよ、おじゃんになる」なんていうのは、記憶に新しい。
落語に興味のある人も、ない人も、謎々探しのつもりで見るとドラマは
楽しく面白いものになる。


 

軽く鳴ったのは草笛式の義歯  井上一筒


 

孝蔵時代、志ん生の最初の師匠は伝説の名人といわれる三遊亭小円朝で、
ドラマでは橘家円喬から小円朝に預けられて、巡業の旅に出されている。
小円朝は、志ん生と満州に行ったこれまた名人とされた三遊亭円生が、
「私が生涯に聞いた噺家の中で、名人と言えるのは円喬ただ一人」と言
い切っている。
志賀直哉も橘家円喬の『鰍沢』が絶品と語り、八代目・桂文楽は、
「円喬師匠が、耳にこびりついているから、演れったてとても出来はし
ませんよ…急流のところでは、本当に激しい水の流れが見え、筏が一本
になってしまうのも見えた」と言い、
志ん生「さっきまで晴れていたのが雨音がする。『困ったな』と思っ
てたら、師匠が鰍沢の急流を演ってた」なんてベタ褒めをしている。
ともあれ、志ん生にとって円喬は「神」であったとドラマも炙る。


 

見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁

 

長男・馬生の証言
『うちのオヤジさんが、円喬の弟子だって言ってましたけど、それは
一つの見栄でいいじゃないですか。最初は円盛(三遊亭)、“イカタチ”の
円盛さんの弟子で…弟子っていうか、あの頃は、とにかく咄家になれれば
よかったわけです。師匠は誰でもかまわなかったんです。
で、咄家になってその後、小円朝(二代目)さんの所へ自然と吸収されて
いくわけです。で、一時、円喬師の弟子が足りなくなっちゃんで、
小円朝さんの所へ、「誰か若い者を貸してくれよ」って言ってきたんで、
オヤジさんが行ったらしいんですね』
(このころ名乗りは、柳家甚語楼)


ハナうたは忘れたとこがしまいなり  柳家甚語楼
耳かきは月に二三度使われる  柳家甚語楼

 



古今亭志ん生 65歳



「古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の履歴」
明治23年、孝蔵が誕生した美濃部家は、菅原道真の子孫を称する徳川
直参旗本であったとされ、由緒正しき家柄だったが貧しかったようだ。
幼少期の孝蔵は、かなりの悪ガキで小学校を退学させられ、奉公にださ
れるが、どこも長くは続かず、朝鮮の京城(ソウル)の印刷会社に奉公
に出されることになる。しかしそこも逃げ出し日本へ帰国、改心したか、
浅草区浅草新畑町にて、家族と住む。


 

たらればは言わないことに決めました  足達悠紀子




古今亭志ん生 65歳


 

孝蔵が芸事、ことに落語に興味を持ち始めたのは、明治40年、17歳
のころで、馬生の話にも出た落語家・三遊亭円盛の門下となる。
そこで三遊亭盛朝と名乗り落語家としての出発点となる。
明治43年には、2代目・三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太と名乗る。
大正の5年には三遊亭圓菊を。大正7年には、4代目・古今亭志ん生門に
移籍し、金原亭馬太郎に改名。
大正10年には、真打になり金原亭馬きん名乗る。
大正14年、講釈師に転向する。これは当時の実力者だった三升家小勝
と対立し落語界で居場所を失ったためである。
二年後に孝蔵が小勝に謝罪して、落語界へ復帰する。
昭和14年に古今亭志ん生5代目を襲名するまで、なんと16回も改名
している。
適当な人間をいう「ぞろっぺい」な性格は、相変わらずである。


 

マシュマロの真ん中を押す進化論   くんじろう




古今亭志ん朝(6代目・志ん生)、志ん生、りん、金原亭馬生、池波志乃

 

落語家としての形が付き始めた大正11年、孝蔵は、清水りん(夏帆)
結婚をする。2年後には、長女・美津子(小泉今日子)が誕生。
その翌年には、次女・喜美子(三味線豊太郎)、昭和3年には長男・
(金原亭馬生)が誕生。3人の子供に恵まれた。
結婚後も酒が大好きで「無駄遣い」の性分は相変わらずだったため、
孝蔵一家はずっと貧乏だった。
余分な金が入ると、骨董品や古書などひょいと買ってしまう。
だが、それほど執着していた道具類でも、しばらくするとポイと売って
しまう。苦しい家計の足しにしたこともあろうが、大概はすぐに飽きて
しまったようだ。
耐乏生活の極みは、小勝に謝罪して落語界へ戻ってきたが、前座同然の
扱いで、田んぼを埋めたてた通称・「なめくじ長屋」での暮らしをした
ときである。その時の妻・りんの苦労はドラマで味わってもらうとして、
当時の貧乏生活が滲みでている志ん生の句がある。


 

甘鯛の味思い出す侘住居  柳家甚語楼
表札のない質屋に時間すぎ  柳家甚語楼



 


志ん生の「何でも買って何でも売る」という癖は、戦後も変わらない。
長男馬生が持っていた圓朝全集を全て売ってしまったことがあった。
「エピソード」
一門の弟子や孫弟子が口を揃えるように、志ん生は最晩年まで、尊敬する
圓朝の『圓朝全集』を離さず、毎日読み続けていた。
そんな父親の姿を見ていたせいか、馬生も戦後復刻版で出た圓朝全集を
揃えていたが、ある日寄席から帰ってきたら、秘蔵の全集が見当らない。
「とうちゃん、あれしらねえか」
「ああ、あれかい。売っちゃったよ」
「あれは俺のもんだよ!」
「何言ってやんでぇ、おめえは俺がこしらいたんだから」
そうまで言われては、馬生としては言い返せない。
自分の古い「圓朝全集」は、売らないでしっかり持っているのである。
以後、馬生の弟子たちは、志ん生の長男の悲しい思い出を何度も何度も
聞かされることになる。

 

おばさんは買ったときだけいうお世辞  柳家甚語楼
気前よく金を遣った夢をみる  柳家甚語楼


 

昭和13年、次男・強次(3代目古今亭志ん朝)誕生。
昭和14年、5代目・古今亭志ん生を襲名。
昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。
昭和20年4月13日、空襲が激しくなり、住いを本郷区駒込動坂町へ移
してまもない5月6日、6代目三遊亭円生、講釈師の2代目猫遊軒伯知
夫婦漫才・坂野比呂志らと共に、慰問芸人として満州へ渡る。
しかし、満州へ着いた2日後に日本は敗戦し、終戦を迎える。
だが日本に帰国することができない。
引き揚げ船に乗れなかったからである。昭和21年頃の日本国内では、
「志ん生と圓生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた。
酒好きの志ん生はウオッカに酔いながら、望郷の日々だったという。
そして昭和22年1月中旬にやっと、日本への帰国が叶う。


 

花巡り孤独の深さ分かち合う  靍田寿子

 

帰国すると、復興を目指す日本では、ラジオ放送が持て囃されていた。
しばらくして志ん生もラジオ放送に挑戦する。
志ん生が名前を知られ、売れ出すのはこの頃で、聴視者に愛された。
昭和28年7月1日、ラジオ東京と専属契約を交わす。
売れっ子だから呼ばれれば、他局の番組にも出る。
専属といわれても、その意味を知らず、それを指摘されると、
「専属とは、他に出てはいけないのが不自由だ」と周囲に零したという。
ラジオ東京側も「志ん生だから仕方がない」といってあきらめたという。
かつて寄席の本番中に酒に酔い、寝てしまって、客に「寝かせておいて
やれ」と言わせた志ん生ならではである。
一年契約であったため、昭和29年6月30日に契約解除し、翌日から
ニッポン放送と放送専属契約を結ぶ。
しかし、この時期にも、ニッポン放送専属だったにもかかわらずNHKに
出演。ニッポン放送との放送専属契約は昭和37年9月3日まで続いた。
凡そこの10年は、志ん生が貧乏と縁を切った時代である。


 

一切なりゆきが一番売れているらしい  櫻田秀夫




  火焔太鼓

 

「落語家と川柳」
落語家が集まって開く句会に「鹿連会」というのがある。
鹿連会の「鹿」は、はなしか(噺家)の「しか」から名づけられた。
戦前の第一次鹿連会は2年でぽしゃって、第二次が昭和28年に復活。
昭和31年鹿連会はピークを迎え、同年6月19日には川柳家・寿山
で行われた句会は、東京放送が録音。
2日後に「落語家と川柳界」と題して放送された。
翌月には、志ん生宅で「茶の湯川柳会」を開催。
その年の暮れには、人形町末廣で「川柳鹿連会」を開き、自慢の即席
川柳を披露して、やんやの喝采を浴びた。
聞くところによると、この会の後、四谷で忘年会を開き、芸者を呼んで
騒いだらしい。そのぐらいは懐具合もよかったのである。
そんな中での、志ん生の句は酒にまつわるものが多い。
(第二次鹿連会も3年で「おじゃん」と鳴った)

 

空っ風おでんの店へ吹き寄せる  古今亭志ん生
ビフテキで酒を飲むのは忙しい  古今亭志ん生
パナマをば買ったつもりで飲んでいる 古今亭志ん生


 

金と酒が絡めば、まさに志ん生ワールド。
「パナマ」のお題で詠んだ句に、「女房と喧嘩のもとはパナマなり」
というのがある。いつかきっとビート・たけしは、パナマ帽を被って
「いだてん」に登場してくるだろうこと、お約束をして終わります。


 

今少しつっかい棒でいてあげる  森田律子

拍手[3回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開