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川柳的逍遥 人の世の一家言
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温泉宿の軒先の唐辛子  森田律子





一乗谷ー蘇る戦国時代の城下町


「長良川の戦」で敗死の斎藤道三に味方した明智光秀は、敵対した義龍
の軍勢に追われ、生国である美濃を離れ越前に逃げた。弘治2年(15
56)である。何故、越前なのか。土岐氏の居城・大桑城の城下町には
「越前堀」があり、また越前の優れた技術を美濃が導入していた友好国
でもあり、最も安心できる安定した隣国であったからである。
同時に越前・一乗谷の朝倉文化は、周防・山口の大内文化、駿府の今川
文化と「戦国三大文化」と並び称され、光秀には、親しみやすかったの
ではないかといわれている。


天秤に昨日と今日の正直さ  みつ木もも花



それに加えて、永禄9年の時点で、光秀と朝倉家との間に医学を通じて
接点があったこと、前年に、将軍の足利義輝が三好三人衆に殺されて、
近江にいる弟の義昭が自分を助けるよう諸将に要請し、光秀はこれに呼
応して田中城に入ったと思われることなどがある。



大匙ですくった酢の行き処  河村啓子



『遊行三十一祖京畿御修行記』





「麒麟がくる」 光秀ー越前にて


「明智光秀は越前国にいた。根拠は『遊行三十一祖京畿御修行記』」
「明智軍記」をはじめとする光秀の没後に成立した伝記類では、光秀
斉藤義龍に美濃を追われ、朝倉義景を頼って越前へ逃れたというものが
多くある。従来、この話の信憑性は不確かなものであるとされてきた。
ところが、これを裏付ける史料がある。『遊行三十一祖京畿御修行記』
といって、遊行上人(時宗の総本山遊行寺住職)の31代目である同念
上人が、天正6年(1578)7月から翌々年3月までの間に、東海・
関西各地を遊行した際の状況を近侍者が記録したものだ。原本は伝来し
ておらず、寛永7年(1630)に書き写された細切れの写本があるの
みである。


またひとつ終の住処の候補地か  下谷憲子




 





この『遊行三十一祖京畿御修行記』の天正8年正月24日条には「同念
上人が、従僧の一人を光秀の居城である坂本城へ遣わせた際、光秀が、
かつて称念寺門前に住んでいたので、旧情を温めるべく、その僧を坂本
城に留め置いた」という内容が記されてる。称念寺は、越前を代表する
時宗寺院なので、光秀は遊行上人方の訪問に懐かしさを覚えたのだろう。
条の一部に『惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、美濃土岐一家牢人た
りしか、越前朝倉義景頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住』
(光秀は義景を頼り称念寺門前に10年住んだ)とあり、光秀が越前に
いたことが確かめられる。ただし、そこに10年滞在したが、朝倉義景
に仕えたという記録はない。


偶然が三つ私が光りだす  津田照子
 
 




       針葉方・口伝


 

「医学にも精通していた光秀。そして光秀は」
近年熊本県で新たに発見された『針薬方』は、明智光秀の初期の活動を
示す史料として注目を集めました。これは足利義昭に仕えた米田貞能(
さだよし)が、永禄9年(1566)に書き写した医学書ですが、その元
の本はそれ以前のある時期に、光秀が近江の高嶋田中城に籠城していた
ときに「口伝」したものとされます。
さらに本文中に「セイソ散 越州朝倉家の薬」と見えます。中世後期の
『金痩秘伝下』には、「セイソ薬」とほぼ同じ材料で作る「生蘇散」
いう付け薬が紹介されており「深傷にヨシ」とあります。



論客よ君スキップはできるかね  徳山泰子




平面復原地区の中の医師の屋敷跡




屋敷跡では、薬の調合道具や「湯液本草(とうえきほんぞう)」という医
学書の一部が発見されています。当時は、戦乱で荒廃した京都から多く
の公家や僧侶、学者、芸能者などが一乗谷に下向してきており、手厚い
もてなしを受けていた。一乗谷には、発掘調査による出土遺物から医師
の屋敷と特定された場所があります。また、戦国期に一乗谷で医学書の
伝授が行われていたことも判明しています。したがって一乗谷では医学
がかなり普及しており、朝倉氏が薬剤を同時開発する素地は整っていた
といえるでしょう。本文に「朝倉家の薬」とうたわれていることから、
朝倉家中では、セイソ散が戦場必携の「定番薬」だったのだろう。
本書の発見によって、これまでの朝倉氏研究で知られていなかった「セ
イソ散」
の存在が明らかになりました。光秀と越前の繋がりを考える上
で、本書が重要な史料であることは間違いありません。


キミが蒲鉾ならボクは板になる  酒井かがり





光秀は朝倉家のセイソ散を知っていた





『湯液本草』の炭化紙片や薬の調合などに使われたとみられる乳鉢や匙
が出土した屋敷を、医師の家と推定しています。『湯液本草』は中国の
医家、王好古が1241年に著した医薬書で常用薬が厳選され、効能などが
簡潔にまとめられています。また、同屋敷からは、中国製などからの輸
入陶磁器が多数出土したことも、特筆すべきことといえます。当時とし
ても骨董品として扱われた憂品が存在します。


[セイソ散の作り方]
① (右上)芭蕉の巻葉
② (右下)スイカズラ
③ (左上)黄檗(キハダ)
④ (左下)山桃の実と皮
※ それぞれ「霜」すなわち黒焼きにして粉砕する。この4つの材料を
油をつなぎとして、それぞれ同じ分量を調合すれば、完成。春冬は等分
でよいが、夏は多めに入れるのがポイント。


マツキヨで買った薬くさい理論  雨森茂樹










特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の第51次発掘調査地に「医師の屋敷跡」
特定された区画がある。そこからは薬研・乳鉢・薬匙などの道具が出土
した。中でも決定打となったのは『湯液本草』(中国の医学書の写本)
の断簡である。火を受けて切れ切れな状態で、奇跡的に残った。
一乗谷には、医療を「生業」とする人が存在したのである。また一乗谷
で医学書の伝授が行われていたことも判明している。ともかく、一乗谷
では医学・医療が一定程度以上の水準で普及しており、朝倉氏がセイソ
散のような家伝薬を、独自開発する素地を十分整っていたのである。


放り投げた下駄から波が始まった  くんじろう


『金痩秘伝集』という針井流の金痩医術書がある。その書には、以下の
人々の手を経て伝えられたとある 細川高在(たかのり)→② 
地(智)十兵衛→ 越前桜井新左衛門尉→ 同 円蔵坊→ 越後
成就坊→ 同 蓮秀坊→ 関上弥五右衛門→ 善方半七

 注目は②→③である。③の桜井新左衛門尉は朝倉氏の重臣である。
永禄11年(1568)5月、足利義昭朝倉義景邸御成の際の記録・
『朝倉亭御成記』には、義景の「年寄衆」の一人に「桜井」がみられる。
金痩医術書の奥書に、光秀と朝倉家臣が併記されたこと自体、興味深い。
光秀の医学知識も相当なものであったことを示している。大したレベル
でなかったなら、ここに書かれていないだろう。それよりも何より「針
葉方」「セイソ散」
も含め、朝倉氏の地において、二つの医学書に光
秀の名が確認できたことは、不明部分のの多い光秀を見つけるための大
きな史料となった。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄






   朝倉義景


【朝倉氏の歴史】
・元亀元年(1570)4月、織田信長は、三好氏と朝倉氏を敵として
天下の儀の成敗権を義昭に認めさせ、4年にわたって朝倉氏を攻撃した。
「元亀の争乱」である。戦場ではよくあることで、浅井・六角の裏切り、
本願寺顕如との対決が加わり、この年の戦は信長にとって厳しいものと
なった。
元亀2年、信長方は、前年朝倉氏に協力した比叡山延暦寺と坂本日吉
社を焼き討ちして見せしめにした。一方の朝倉義景は、信長の越前攻撃
に備えて敦賀に滞在、湖北と湖西の両方面に備えた。
元亀3年、信長は浅井氏の居城・小谷城に本格的な攻撃を決行。義景
自ら出陣して、小谷城の大嶽(おおづく)に6か月にわたって籠城した
が、兵糧の不安から、同年12月に越前へ帰陣した。
 ・元亀4年、信長は湖西を攻め、義景は3月から5月まで敦賀に在陣。
湖西と小谷城の両方に対処した。信長が岐阜に帰陣した隙に小谷入城を
図るが失敗、逆に退却の途中刀根坂で信長方に大敗を喫する。 義景は
一乗谷に帰陣するが、信長は府中龍門寺に着陣して、軍勢を一乗谷に遣
わせ、8月18日から20日まで3日3晩にわたって一乗谷を谷中一宇
残さず放火し、破壊した。義景も20日に自尽。享年41。


返された鍵を裁断機にかける  清水すみれ




 
・(その後)天正元年(1573)、義景の母・光徳院と遺子の愛王丸
は生捕りにされ、身柄は府中の信長のもとに護送され、信長の部将丹羽
長秀に預けられて、26日、今庄の帰(かえる)の里で刺し殺され、堂
もろとも火をかけて焼かれた。ここに朝倉氏の嫡流は絶え、ここに朝倉
氏は滅亡。戦後処理で信長は、最初に信長方に寝返った大功を認めて、
前波長俊を越前の守護代に任じて一乗谷の館にすえ、部将の滝川一益・
羽柴秀吉・明智光秀の3人に越前の戦後処理を命じ、それぞれの代官が
北庄に駐留した。多くの朝倉氏同名衆は生き残って本領を安堵されたが、
苗字を変えられて、朝倉氏は解体した。


鰓が震えている忍び泣いている  雨森茂樹


・信長や一向一揆によって越前を制圧された朝倉氏の一族が、手をこま
ねいて滅亡したわけではない。
朝倉氏の同名衆の朝倉景嘉は、上杉謙信を頼って越後へ下向し、上方へ
馬を進めるつもりだと天正2、3年ころの書状に記している。
朝倉宮増丸は天正6年、朝倉氏同名衆の鳥羽景富の子・与三景忠を家督
に立てて朝倉氏を再興することを、毛利氏の勢力に期待して備後の鞆に
滞在していた足利義昭に要請している。
このように朝倉氏再興を計る朝倉氏一族もいたが、頼りにした謙信
利氏、足利義昭らは、急死や信長の強さには歯がたたず、それらの試み
は、すべて失敗に終わった。

蓮だってたまに反抗して開く  山本昌乃


(そして一乗谷の今)商人や寺社は信長政権下でも、その役割を認め
られて、柴田勝家の北庄城下に引っ越し、一乗町、一乗魚屋町などの町
が形成される。一乗谷の大規模寺院・西山光照寺、心月寺、安養寺など
も北庄城下の周縁部に移転され、今に至っている。
朝倉氏の時代に築かれた商業や宗教活動の伝統は、絶えることなく近世
の城下町に引き継がれている。

引き潮がくすぐっている足の裏  嶋沢喜八郎

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