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川柳的逍遥 人の世の一家言
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枯草にまじり茗荷の芽が数多  徳山みつこ





        (題字・ 横尾忠則)


NHK・大河ドラマ「いだてん」 古今亭志ん生の巻

 


大河ドラマ・「いだてん」には、主人公が三人いる。
金栗四三中村勘九郎)、田畑政治(阿部サダヲ)、古今亭志ん生
(ビート・たけし)の三人である。ドラマ「いだてん」は、スポーツ
がテーマだけれど、メインの主役は、座っているのがお仕事の噺家・
五代目・古今亭志ん生である。
副題に「オリンピック噺」となっているから、志ん生の人生を追いつつ、
「こちらは口が走る」と言葉遊びをする、脚本家の魂胆が見える。
道理でドラマ中に、ところどころ落語が隠し味のように盛り込んである。
そもそも、脚本が大の落語ファンの宮藤官九郎だから、マニアックな
落語ネタが次々と飛び出てくるのも、仕方のないところか。
そのへんを少し拾い出したみると。


 

ペヤング焼きそばから一声の汽笛  平井美智子


 

金栗四三がマラソンの練習で、東京高等師範学校のある大塚から日本橋、
芝まで走る。東京の人なら分かるが、普通、大塚から日本橋へ行くなら、
南へ下がる方が近いのに、どういうわけか四三は東に向かい、上野から
さらに浅草へ行ってしまう。
つまり、まず目的地と全然違う方向に行ってから、浅草十二階で大きく
方向転換して日本橋に行く。四三がなぜ浅草から日本橋、さらに芝まで
行くのかというと、志ん生『富久』の主人公が辿った道に重ねている
のである。
ともかく『いだてん』は、ビートの古今亭志ん生が「オリンピック噺」
を寄席で語るという形で、ドラマは進んでいくようである。





ドラマのタイトルバックに出てくる浅草界隈の絵図

 

意思表示皴に刻んであるのです  小林すみえ

 

「富久」とは。
三遊亭円朝が実話を落語化したものとされ、多くの噺家が口演している。
落語の主人公は幇間の久蔵と旦那。
噺家によって、主人公や旦那の住い、富籤売り場を変えている。
志ん生の場合、久蔵の住まいは浅草三間町。旦那の住まいは芝の久保町。
富興行は、椙森神社(すぎのもり)で富札の番号は「鶴の千五百番」。
文楽場合、久蔵の住まいは浅草阿倍川町。旦那の住まいは日本橋横山町。
富興行は深川八幡で富札の番号は「松の百十番」
談志の場合、住いは深川で、後は志ん生と同じ。となっている。
ドラマの金栗四三は、志ん生コースを走った。

 

くねくねの道で私を試される  百々寿子



 

ストックホルム五輪のマラソン選手を決める予選会で野口源三郎(永山
絢斗)が急に腹を押さえて「腹が……」と言い出し、痛いのかと思った
ところで、「減りました~」と来る。落語『浮世床』である。
浮世床には、芝居小屋で男が「若い女から、掛け声をかけて下さい」
言われて、掛け声がどんどん小さくなるので、女が「どうしたんです?」
と聞く、すると男は「腹が、腹が…」というと女が「痛いんですの?」
と聞くと「減りました」
というやり取りである。
ここは、このブログ「浮世床」で、以前に書いたので一読下さい。
 同じく予選会の本部で手持ち無沙汰になった永井道明(杉本哲太)
がいきなり「将棋でも指しますか」と言い、続くのは、『持参金』か。
手をつけて腹ませた女中のお鍋を、佐助と番頭がどっかの阿呆(清さん)
に押し付けてしまうというくだりである。
清さん「…昨晩、佐助はんの世話で嫁を貰いましてな」
番頭 「へぇ、それはまた別の話で…」
清さん「別やおまへん、腹ぼてで、二十円付きで・・・」
と、これが持参金である。


 

ピンボケのキャッチボールがよく弾む  森吉留理惠


 

またドラマでは、落語『芝浜』が大活躍。予選会で四三がゴールして、
嘉納治五郎(役所広司)が水を飲ませようとした時に、金栗四三は
「いらねえ、優勝が夢になるといけねえ」と芝浜の落ちが出てくる。
また五輪出陣の日、新橋に見送りに来た師匠の橘家円喬(松尾スズキ)
が、餞別の煙草を「持ってけってんだよ」と投げつけているのは
『文七元結』
で、「なにすんだ、こんちきしょう」と落語のセリフで
孝蔵(森山未來)が返していたし、『付け馬』も出てくる。
孝蔵が遊郭で遊んで勘定を払わないので、店の者が彼の家まで行って
払わせようとする。無銭客に付いていく人を「付け馬」といい、孝蔵は
小梅という女郎に支払わせる嘘をついて逃げてしまう。孝蔵が付け馬を
まいて、寄席に飛び込むと、そこで円喬がちょうど付け馬を演じている、
という落の中で落ちを見せたりして、脚本の官九郎の遊び心満載である。
田畑政治に主役が変わる25話でも、「火焔太鼓」の演目をやっていて、
「半鐘はいけないよ、おじゃんになる」なんていうのは、記憶に新しい。
落語に興味のある人も、ない人も、謎々探しのつもりで見るとドラマは
楽しく面白いものになる。


 

軽く鳴ったのは草笛式の義歯  井上一筒


 

孝蔵時代、志ん生の最初の師匠は伝説の名人といわれる三遊亭小円朝で、
ドラマでは橘家円喬から小円朝に預けられて、巡業の旅に出されている。
小円朝は、志ん生と満州に行ったこれまた名人とされた三遊亭円生が、
「私が生涯に聞いた噺家の中で、名人と言えるのは円喬ただ一人」と言
い切っている。
志賀直哉も橘家円喬の『鰍沢』が絶品と語り、八代目・桂文楽は、
「円喬師匠が、耳にこびりついているから、演れったてとても出来はし
ませんよ…急流のところでは、本当に激しい水の流れが見え、筏が一本
になってしまうのも見えた」と言い、
志ん生「さっきまで晴れていたのが雨音がする。『困ったな』と思っ
てたら、師匠が鰍沢の急流を演ってた」なんてベタ褒めをしている。
ともあれ、志ん生にとって円喬は「神」であったとドラマも炙る。


 

見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁

 

長男・馬生の証言
『うちのオヤジさんが、円喬の弟子だって言ってましたけど、それは
一つの見栄でいいじゃないですか。最初は円盛(三遊亭)、“イカタチ”の
円盛さんの弟子で…弟子っていうか、あの頃は、とにかく咄家になれれば
よかったわけです。師匠は誰でもかまわなかったんです。
で、咄家になってその後、小円朝(二代目)さんの所へ自然と吸収されて
いくわけです。で、一時、円喬師の弟子が足りなくなっちゃんで、
小円朝さんの所へ、「誰か若い者を貸してくれよ」って言ってきたんで、
オヤジさんが行ったらしいんですね』
(このころ名乗りは、柳家甚語楼)


ハナうたは忘れたとこがしまいなり  柳家甚語楼
耳かきは月に二三度使われる  柳家甚語楼

 



古今亭志ん生 65歳



「古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の履歴」
明治23年、孝蔵が誕生した美濃部家は、菅原道真の子孫を称する徳川
直参旗本であったとされ、由緒正しき家柄だったが貧しかったようだ。
幼少期の孝蔵は、かなりの悪ガキで小学校を退学させられ、奉公にださ
れるが、どこも長くは続かず、朝鮮の京城(ソウル)の印刷会社に奉公
に出されることになる。しかしそこも逃げ出し日本へ帰国、改心したか、
浅草区浅草新畑町にて、家族と住む。


 

たらればは言わないことに決めました  足達悠紀子




古今亭志ん生 65歳


 

孝蔵が芸事、ことに落語に興味を持ち始めたのは、明治40年、17歳
のころで、馬生の話にも出た落語家・三遊亭円盛の門下となる。
そこで三遊亭盛朝と名乗り落語家としての出発点となる。
明治43年には、2代目・三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太と名乗る。
大正の5年には三遊亭圓菊を。大正7年には、4代目・古今亭志ん生門に
移籍し、金原亭馬太郎に改名。
大正10年には、真打になり金原亭馬きん名乗る。
大正14年、講釈師に転向する。これは当時の実力者だった三升家小勝
と対立し落語界で居場所を失ったためである。
二年後に孝蔵が小勝に謝罪して、落語界へ復帰する。
昭和14年に古今亭志ん生5代目を襲名するまで、なんと16回も改名
している。
適当な人間をいう「ぞろっぺい」な性格は、相変わらずである。


 

マシュマロの真ん中を押す進化論   くんじろう




古今亭志ん朝(6代目・志ん生)、志ん生、りん、金原亭馬生、池波志乃

 

落語家としての形が付き始めた大正11年、孝蔵は、清水りん(夏帆)
結婚をする。2年後には、長女・美津子(小泉今日子)が誕生。
その翌年には、次女・喜美子(三味線豊太郎)、昭和3年には長男・
(金原亭馬生)が誕生。3人の子供に恵まれた。
結婚後も酒が大好きで「無駄遣い」の性分は相変わらずだったため、
孝蔵一家はずっと貧乏だった。
余分な金が入ると、骨董品や古書などひょいと買ってしまう。
だが、それほど執着していた道具類でも、しばらくするとポイと売って
しまう。苦しい家計の足しにしたこともあろうが、大概はすぐに飽きて
しまったようだ。
耐乏生活の極みは、小勝に謝罪して落語界へ戻ってきたが、前座同然の
扱いで、田んぼを埋めたてた通称・「なめくじ長屋」での暮らしをした
ときである。その時の妻・りんの苦労はドラマで味わってもらうとして、
当時の貧乏生活が滲みでている志ん生の句がある。


 

甘鯛の味思い出す侘住居  柳家甚語楼
表札のない質屋に時間すぎ  柳家甚語楼



 


志ん生の「何でも買って何でも売る」という癖は、戦後も変わらない。
長男馬生が持っていた圓朝全集を全て売ってしまったことがあった。
「エピソード」
一門の弟子や孫弟子が口を揃えるように、志ん生は最晩年まで、尊敬する
圓朝の『圓朝全集』を離さず、毎日読み続けていた。
そんな父親の姿を見ていたせいか、馬生も戦後復刻版で出た圓朝全集を
揃えていたが、ある日寄席から帰ってきたら、秘蔵の全集が見当らない。
「とうちゃん、あれしらねえか」
「ああ、あれかい。売っちゃったよ」
「あれは俺のもんだよ!」
「何言ってやんでぇ、おめえは俺がこしらいたんだから」
そうまで言われては、馬生としては言い返せない。
自分の古い「圓朝全集」は、売らないでしっかり持っているのである。
以後、馬生の弟子たちは、志ん生の長男の悲しい思い出を何度も何度も
聞かされることになる。

 

おばさんは買ったときだけいうお世辞  柳家甚語楼
気前よく金を遣った夢をみる  柳家甚語楼


 

昭和13年、次男・強次(3代目古今亭志ん朝)誕生。
昭和14年、5代目・古今亭志ん生を襲名。
昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。
昭和20年4月13日、空襲が激しくなり、住いを本郷区駒込動坂町へ移
してまもない5月6日、6代目三遊亭円生、講釈師の2代目猫遊軒伯知
夫婦漫才・坂野比呂志らと共に、慰問芸人として満州へ渡る。
しかし、満州へ着いた2日後に日本は敗戦し、終戦を迎える。
だが日本に帰国することができない。
引き揚げ船に乗れなかったからである。昭和21年頃の日本国内では、
「志ん生と圓生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた。
酒好きの志ん生はウオッカに酔いながら、望郷の日々だったという。
そして昭和22年1月中旬にやっと、日本への帰国が叶う。


 

花巡り孤独の深さ分かち合う  靍田寿子

 

帰国すると、復興を目指す日本では、ラジオ放送が持て囃されていた。
しばらくして志ん生もラジオ放送に挑戦する。
志ん生が名前を知られ、売れ出すのはこの頃で、聴視者に愛された。
昭和28年7月1日、ラジオ東京と専属契約を交わす。
売れっ子だから呼ばれれば、他局の番組にも出る。
専属といわれても、その意味を知らず、それを指摘されると、
「専属とは、他に出てはいけないのが不自由だ」と周囲に零したという。
ラジオ東京側も「志ん生だから仕方がない」といってあきらめたという。
かつて寄席の本番中に酒に酔い、寝てしまって、客に「寝かせておいて
やれ」と言わせた志ん生ならではである。
一年契約であったため、昭和29年6月30日に契約解除し、翌日から
ニッポン放送と放送専属契約を結ぶ。
しかし、この時期にも、ニッポン放送専属だったにもかかわらずNHKに
出演。ニッポン放送との放送専属契約は昭和37年9月3日まで続いた。
凡そこの10年は、志ん生が貧乏と縁を切った時代である。


 

一切なりゆきが一番売れているらしい  櫻田秀夫




  火焔太鼓

 

「落語家と川柳」
落語家が集まって開く句会に「鹿連会」というのがある。
鹿連会の「鹿」は、はなしか(噺家)の「しか」から名づけられた。
戦前の第一次鹿連会は2年でぽしゃって、第二次が昭和28年に復活。
昭和31年鹿連会はピークを迎え、同年6月19日には川柳家・寿山
で行われた句会は、東京放送が録音。
2日後に「落語家と川柳界」と題して放送された。
翌月には、志ん生宅で「茶の湯川柳会」を開催。
その年の暮れには、人形町末廣で「川柳鹿連会」を開き、自慢の即席
川柳を披露して、やんやの喝采を浴びた。
聞くところによると、この会の後、四谷で忘年会を開き、芸者を呼んで
騒いだらしい。そのぐらいは懐具合もよかったのである。
そんな中での、志ん生の句は酒にまつわるものが多い。
(第二次鹿連会も3年で「おじゃん」と鳴った)

 

空っ風おでんの店へ吹き寄せる  古今亭志ん生
ビフテキで酒を飲むのは忙しい  古今亭志ん生
パナマをば買ったつもりで飲んでいる 古今亭志ん生


 

金と酒が絡めば、まさに志ん生ワールド。
「パナマ」のお題で詠んだ句に、「女房と喧嘩のもとはパナマなり」
というのがある。いつかきっとビート・たけしは、パナマ帽を被って
「いだてん」に登場してくるだろうこと、お約束をして終わります。


 

今少しつっかい棒でいてあげる  森田律子

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