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川柳的逍遥 人の世の一家言
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             かんばんの  達磨にめでて  札かえば 
                                      木戸あいらくも われとひらけり


                              
                     2019年 1 月 1 日
                           

                       了 味 茶 助

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あなたより先に電車が来てしまう  河村啓子

 

明治10年9月、一つの大きな星が、距離5,630万km、
光度-2.5等あまりにまで接近し、輝きを放っていた。
当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われ
た異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした
西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、「西郷星」と呼
ばれて大騒ぎになった。 やがてこれに便乗し、西郷星を描
いた錦絵が何種類も売り出されて人気を博した。また土星も
この時に火星の近くに位置していており、11月には、火星と
0度11分のところまで近づいたことから、つねに西郷の近く
にいた桐野利秋に因んで、それを「桐野星」と呼ばれた。

ガラガラポン秋は詩人のためにある  雨森茂喜

「西郷どん」 勝海舟も見た西郷星

西郷が西南戦争を起こし、利あらずして退却を繰り返している
最中の明治10年8月23日、梅堂国政描く錦絵「西南珍聞俗称
西郷星之図』が出た。そのころ東京や大阪で話題を呼んでいた
毎夜東方のの空に出る「西郷星」の絵である。「毎夜8時頃よ
り大なる一星光々として顕わる、夜更るに随い明かなること鏡
の如し、識者是を見んと千里鏡を以って写せしが其形人にして
大礼服を着し、右手には新政厚徳の旗を携え、厳然として馬上
にあり、衆人拝して西郷星と称し、信心する者少なからず」『奇態流行史』にある。

キャベツ畑で育つ次の十年  山口ろっぱ

つまり、生きていながらも≪星≫になっていたということだが、地位や名誉にこだわらない西郷には若いときから本拠地は天の
ような感じがあった。だから現世の利益にはこだわらなかったとも言える。いわばこの「未完の大将」に人々は惹かれた。西郷の人生は晩年にまでは至らない。永遠の青春小説なのである。

少し時間下さい 胸をうずめます  太田のりこ

とりわけその若さ、ひたむきさに惚れたのが、勝海舟だった。
江戸無血開城を西郷と共に成功させた海舟は、明治14年に
「是南洲翁死後五回之秋也」として、次の漢詩を作っている。

惨憺たり丁丑(ていちゅう)の秋 
思いを回らせば一酸辛 
屍は故山の土と化し、
遺烈精神を見る。

旧幕臣を統制して一兵も西郷軍に参加させなかった海舟だが、
西郷を愛することにおいては、誰にも負けなかったのである。

君のこと好きです 広い意味ですが  前原正美

そして、それから二年後「友人海舟散人と署名して、また
漢詩を作った。

亡友一高士 剣を握って大是を定む  
衣を払って天真を思ひ 偉業は胸裏に忘る  
悠然躬耕を事とす 嗚呼南洲氏  

敵としては正理を闘わす可く  
共に謀っては国紀を輝かす可し  
世変足下に起こり  賊名の謗りを甘受す

この残骸を擲きし  希はくは数弟子に報いん

毀誉はみな皆皮相  誰か能く其の旨を察せん

唯だ精霊の在る有らば 千載知己を存せん

 

「毀誉はみな皆皮相  誰か能く其の旨を察せん」に、
私は、自分だけは分かっているぞという海舟の自負をみる。

 

泣ききって早く日めくり明日にしよ  喜多川やとみ 

 

【付録】 岩山トクの回想(西郷の想い出)

 

岩山トクは西郷の妻イトの妹で、義妹にあたるため生前の
西郷と親しく接したという。そのトクが西郷の話をしたも
のがテープに録音されて現存している。これによると西郷
は、味噌や醤油を作るのが上手だったという。明治時代に
武村に住んでいた頃、自分で作るのではなく倉の中で手ほ
どきをしたらしい。「男子厨房に入らず」の時代に西郷は
家事に関心があったようだ。またその時、お客さんが来て、
イトを女中と思い「西郷さんはいらっしゃるか」と聞くと、
イトも女中のように返事していたそうである。この頃、西
郷家には、たくさんの書生や見習いが住み込んでいたので、
イトは女中と勘違いされるような仕事をする必要はなかっ
たが、一緒になって家事を行っていたようだ。西郷が手ほ
きを行い、イトが皆と一緒に家事を行う姿を想像すると
微笑
ましい。さらに料理が出来ると、西郷はなんでも「こ
れは良
くできました。おいしゅうございますよ」と言って、
一つ一
つ褒めたという。それに対してイトは「(人前で褒
められ)
かえって、恥ずかしいじゃありませんか」と言っ
たが、西郷
は、いつも感謝の気持ちを言葉にしたという。
       これにて西郷どんおしまいです

 

振り向くとみんな大きな愛でした  牧渕富喜子

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満点のない人間が愛おしい  美馬りゅうこ
「薩摩潟しつみし波の浅からぬ はじめの違ひ末のあはれさ 皇后美子」の画像検索結果

 

「薩摩潟しつみし波の浅からぬ はしめの違ひ末のあはれさ」

西南戦争
で中津隊を率いて西郷軍に呼応した豊前中津藩・増田宋
太郎
は、西郷について次のように語っている。
「自分は諸君とは違い、西郷という人間と接してしまったのだ。
ああいう人間に接すればどうしようもない。
一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、
三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も
悪も死生を共にせんのみ」
この増田の言葉は、西郷という実像を的確に言い当てている。

積乱雲を食べに行きますが何か 赤松蛍子

「西郷どん」 明治天皇と西郷隆盛の特別な関係

西郷隆盛明治天皇が身近に接した期間は、明治4年から明治6年までの二年間ほどしかない。にもかかわらず、明治天皇に最も影響を与えた人物の筆頭として、西郷の名が挙げられるのはなぜなのか。
それは明治4年に西郷が中心となって行われた宮中改革と無縁ではないだろう。近代国家・日本の発展は、その日本を象徴する存在である天皇の大成なくしては、成立し得なかった。御所が江戸に移った以降も、宮中は公家や女官が仕切る旧態依然とした旧習を堅持しており、その伝統を一新すべく側近として武士を仕えさせようと西郷は考えた。この改革で側近として仕えたのが、吉井友美、村田新八、山岡鉄舟,高島鞆之助といった幕末から戊辰戦争にかけて活躍した、豪の者たちであった。また天皇に学問を進講する侍講には、熊本藩士で儒学者の元田永孚(ながさね)が登用された。

名水に眠ったままのまろやかさ  徳山みつこ

西郷は明治5年5月23日からはじまった天皇の「九州巡行」に近衛を統率して供奉し、天皇と濃密な時間を過ごした。多感な20代の青年であった天皇が、西郷という人間に魅せられ、傾倒していったであろうことは、容易に想像できる。西郷が下野し、西南戦争で賊軍の大将として明治政府に反旗を翻して、死んだ後も明治天皇の西郷に対する思いは変わらなかったとされる。

ソーラーパネルパネルに大鯰の小骨  森田律子

明治10年秋のある日、明治天皇は皇后や女官らに「西郷隆盛」というお題で和歌を詠じさせた。天皇はそのさい,ただし「西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ,唯今回の暴挙のみを論ずるときは,維新の大功を蔽うことになるから注意せよ」といわれたという。
西郷の死は、同年9月24日であったから,奥に閉じこもった天皇が,この時期に賊の追悼歌会をおこなうのは,政治的にも異常である。この天皇の思は、「政府問責」を掲げる士族の叛乱に呼応し、その首魁となってしまった西郷の心中に思いを馳せ、しかし「賊徒」を許すわけにもいかず、皇后や女官に勅題を出し、己の心を詠ませたのではないかと推測されるのおである。それほどに西郷への天皇の想いは強かった。皇后美子(はるこ)は「薩摩潟しつみし波の浅からぬ はしめの違ひ末のあはれさ」と詠んだ。
まさに天皇の心境を詠んだものである。

そだねーが一瞬熱気和らげる  松浦英夫

明治17年、天皇は西郷の嫡男・寅太郎に学費として年間千二円を下賜され、ドイツ留学を命じた。寅太郎はドイツで13年間学んだ後に帰国し、陸軍戸山学校射撃科を経て明治25年、陸軍少尉に任じられた。また、西南戦争後、島妻・愛可那との間の息子・菊次郎を外務省御用掛に任じられた。菊次郎は後に台北県支庁長に就任し、日本に帰国後、京都市長を務めた。

三寒四温まだ咲いていた寒椿  籠島恵子

「東京招魂社」の画像検索結果

【付録】 西郷と靖国神社

明治新政府に反対し、兵を起こした西郷隆盛は、明治22年、その罪を許され正三位に叙されたにもかかわらず、今も靖国神社に祀られていない。
また、維新の役で朝敵の賊軍とされた会津藩の将兵も祀られていない。
靖国神社の由来を辿れば、招魂社と呼ばれて長州など各藩のお社だった。いわば長州の護国神社のような存在であった。それを大村益次郎が東京九段に勧請し、長州藩の守り神にすぎないものを、全国民に拝ませるようにしたものが、現在へとつづいている。

暗闇のアルファベットの生欠伸  北原照子

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 にんげんは風を起こしてかき混ぜて  森井克子


「西南戦争」の画像検索結果
           城 山 の 戦 い
 

「西郷どん」 私学校②-西郷の城山

明治10年2月6日、作戦会議が行われ、具体的な進攻案が議論
される中、熊本鎮台司令長官の前歴を持つ、桐野利秋の主張する
「このたびの出兵は大義を天下に天下に問う義戦であり、奇襲戦
法は義兵の名を辱める。相手はとるに足らない農兵であり、鎮台
がたとえ百万の軍隊をもって対抗するも一蹴するのみ」という意
見で一致し、熊本攻めが決定した。そして2月15日、1万3千
の藩軍は、上京訪問の名目で鹿児島を起ち、熊本鎮台のある熊本
城へ向かった。同22日、薩軍は総攻撃をかける。守勢になった
政府軍3千5百人は、熊本城に籠城を決意する。
熊本城は加藤清正が実戦に備え造った城である。周辺は見通しが
効き120ある井戸は常に水をたたえ、畳はかんぴょうや芋作る
など、籠城対策にも充分であった。

モアイ像の一つになっている時間  竹内ゆみこ

「熊本城など青竹棒でひとかき」と気勢を上げた薩軍だったが、
続々と送り込まれる援軍や物量、そして通信網を駆使した政府軍
に、薩軍は次第に追い込まれていった。この戦闘中、雨が多く、
「薩軍に困るもの3つあり、一つに雨、二つに赤帽、三つに大砲」
とうたわれたが、薩軍の先込銃は雨に弱かった。
政府軍の主力小銃は、後装式のスナイドル銃で雨に強かったが、
薩軍の主力銃は、エンフィールド銃で火薬入れを持ち歩かねばな
らなかった。政府は抜刀隊を投入して戦機を好転させ3月20日
に総攻撃を仕掛けた。田原坂の薩軍を前後から挟み撃ちにする作
戦に出て、これが成功を収め、熊本戦線はついに17日におよぶ
激闘に終止符がうたれたのである。

原罪を詫びてリンゴの皮を剥く  岡谷 樹

北と南で敗れた薩軍8千に対し政府軍は3万の兵力になっていた。
肥後平野で行われた城東の合戦で薩軍は保田窪(ほたくぼ)健軍
で有利に戦いを進めたが、御船では大敗し、天然の要害、人吉に
集結して再起を図ろうとした。過酷な山越えをおこない人吉に集
結したが、結局、政府軍は7方向からこれをこれを攻略する。
士気の下がっていた薩軍はあっさりと敗走した。
人吉陥落後、薩軍は都城に再結集したが、政府軍は包囲網を築い
て追い詰めていく。ついに都城が陥落すると、薩軍3千名は佐土
原、高鍋、美々津と敗走し、本営の延岡も陥落する。延岡を奪還
しようと延岡の北方にある和田越に布陣する。ここで西郷自らが
初て陣頭指揮に立った。対する政府軍は5万の大軍になっていた。

感情を製氷皿に注ぐ夜  渡邊真由美

多勢に無勢あえなく和田越の戦いにも敗れて、西郷は全軍に向け
解散令を出した。これ以上、負け戦に若者の命を費やすことに耐
えられなかったのである。ここに薩軍に呼応して参加した各地の
士族隊は次々と投降したが、私学校党の600名は西郷と運命を
共にすることにした。
しかし周りの山々は政府軍が厳重に包囲しており、袋のネズミ状
態であった。そこで辺見十郎太や河野主一郎は、標高728㍍の
可愛岳(えのだけ)を突破することを提案する。
しかし可愛岳は断崖絶壁の天険で、足腰の強い薩摩人も震え上が
るほどのとこである。

人間は一人ぼっちが苦手です  能勢良子

8月17日午後10時に山越えを決行、闇夜の行軍は困難を極め
た。西郷も駕籠から降りて急斜面をよじ登ったが「よべ(夜這い)
のようだ」
と言って、周りを笑わせたという。翌朝4時に頂上北
部に到着したが、政府軍は「まさか可愛岳を越えてこないだろう」
とすっかり油断していた。その隙をついたのである。ラッパを吹
き鳴らして突撃してくる薩軍に、政府軍は不意を衝かれ慌てて退
却した。この時、政府軍が放棄した食糧、銃器、弾薬、砲一門の
奪取に成功している。薩軍は可愛岳を突破し、その後も艱難辛苦
の行軍を繰り返して、奇跡的に逃げのびた。

格子の向こう花魁ですか神ですか  安土理恵

彼らを支えたのは、西郷への崇敬心と薩摩隼人の誇りだった。
そして望郷の念もあったか、故郷鹿児島に戻ってきた。
しかし、やがて城山に追い詰められていく。立て籠もった薩軍は
総勢372名、それを包囲する政府軍は5万で、ネズミ一匹通さ
ない厳戒態勢であった。籠城は20数日にも及んだ。
薩軍は城山の岩崎谷に11個の洞窟を掘って応戦した。
薩軍諸将は西郷の助命を模索したが、時期遅く政府軍の総指揮官
山形有朋から、自決を勧告する文書が送られてきた。9月24日
それが政府軍総攻撃の日であった。前日の夜、西郷を囲んで諸将
が決別の宴を催した。明日の定めを知り、大いに酒を酌み交わす。
全員討死を決意し、斃れるまで戦い続けることを誓いあった。

落城の前に献血しておこう  くんじろう

「西南戦争」の画像検索結果
          城 山 の 西 郷

24日午前4時、総攻撃が開始される。午前6時、岩崎谷の洞窟
の前に西郷、桐野、村田、別府、辺見ら40数名が集結した。
谷を下り、岩崎谷の入り口で全員斬り死にし、有終の美を飾るた
めである。銃弾が飛び交う中を突撃したが途中、桂久武が銃弾を
受け落命。「この辺りでどげんでしょう」と辺見は自刃を問うた
が、西郷は「まだまだ」と答えている。しかし島津
応吉邸の前で
西郷の身体を銃弾が貫いた。腹部と股部に銃弾を受けた西郷には、
もう立ち上がる力は残っていなかった。
「晋どん、もうここでよか」側近の別府晋介に告げ、西郷は襟を
正して皇居の方向に
遥拝した。
介錯を頼まれた別府も足に重傷を負っている。
それでも「先生、ごめんやってもんせ」と呟くと、最後の力を振
り絞って刀を振り下ろした。
西郷隆盛51歳。維新の巨星の壮絶な最期だった。

喪の席に着信音が鳴り響く  赤松ますみ

【付録】 司馬遼太郎の一言

西郷という、この作家にとってきわめて描くことの困難な人物を
理解するには、西郷にじかに会う以外になさそうにおもえる。
われわれは他者を理解しようとする場合、その人に会ったほうが
いいというようなことは、まず必要はない。
が、唯一といっていい例外は、この西郷という人物である。

星がひとつ運河を突き抜けていく  徳山泰子

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仮の世の終わりあたりへ来たらしい  安土理恵

 「薩摩 私学校王国」の画像検索結果

「西郷どん」 私学校―運命の導火線

西郷征韓論に敗れ下野すると、西郷につき従う辞職帰郷者が数百名に及んだ。西郷は、政府への不平不満から暴挙に走ろうとする、これらの青年に一定の方向を与え指導統御するために、明治7(18746厩(うまや)跡に私学校創立したやがて私学校は次第に勢力を拡大し、その関係者が県の区長や副区長の過半数を独占、また警察を牛耳り、鹿児島県は「私学校王国」と化した。桐野利秋篠原国幹ら私学校幹部は、たびたび政府を激しく批判し、生徒たちは強い影響を受けていった。さらに政府の発令した地租改正にも従わず、県内で徴収された税金が国庫におさめられることはなかった。木戸孝允は「独立国の如し」と痛烈に非難し、薩摩閥の大久保利通内務卿の責任を厳しく追及した。

黄河へ流すぞとたこ焼きをおどす  森 茂俊

明治9年10月には、不平士族の反乱が相次いだ。政府は軍隊を派遣して鎮圧したが、全国の反政府派は西郷の決起に期待し、薩摩に熱い視線を送っていた。政府にとって私学校は不気味な存在であり、正に一触即発の状態であった。しかし西郷は動かなかった。ボウズヲ、シサツセヨ」 木戸から生温かいと詰め寄られた大久保は警視庁大警視の川路利良に命じ、少警部・中原高雄以下23名を密偵として鹿児島に送り込んだ。明治10年1月6日から15日、それぞれが様々な理由で鹿児島に入ったが、敵情視察と私学校党の内部分裂を工作することが目的だった。

いじめられ歪になったボタン穴  嶋沢喜八郎
 
しかし、この動きは私学校党が東京で出していた雑誌『評論新聞』によってすぐに知らされ、私学校党は谷口登太という逆スパイを密偵団内に潜入させた。谷口は遷卒として政府で警官をしていた人物で、中原は同じような境遇から数回の面会で谷口を信用した。そして「ボウズヲ、シサツセヨ」の密命を明かしたのである。ボウズとは「西郷」のことで、シサツとは「刺殺」、つまり西郷の暗殺計画である。

一枚のコピーで人を売り渡す  森中惠美子

同じ頃、三菱商会の赤竜丸という汽船が夜間、錦江湾にあらわれた。政府の依頼を受け、集成館や草牟田(そうむた)の火薬庫から武器弾薬を運び出したが、鹿児島県庁に何の連絡もなかったため、私学校の生徒たちは浮足立った。密偵団のこともあり、生徒の緊張と興奮は頂点に達し、1月29日、松永高美(たかみ)ら20数名が草牟田の火薬庫を襲うという実力行使に出た。幹部に知られると止められると分かっていたので無断であった。その夜、幹部たちが集まり対策を練ったが、松永らを政府に差し出そうという者は誰もおらず、むしろ政府との全面対決を決心した。翌30日は千人以上の生徒が火薬庫を襲い、この襲撃は2月2日まで続いた。火薬庫を襲うことは国家への反逆であり、後戻りできない状況に追い込まれていった。

雪憎しみて雪に似て兎死す  阪本きりり  

結果的に、私学校党はまんまと政府の挑発にのってしまったのである。東京にいた大久保はこれを聞き、「ひそかに心中には、笑みを生じ候くらいにこれ有り候」伊藤博文に手紙を書き、ほくそ笑んでいた。その頃、西郷は狩猟に出かけ、大隅半島の高山から小根占に滞在しており、何も知らなかった。そこへ2月1日、末弟の小兵衛辺見十郎太がやってきて、この数日の騒動の様子を伝えた。これを聞いた西郷は怒気を発している。2月3日には武村の自宅に帰ったが、事情を説明しようとする私学校生を叱責した。

神様の吐息でしょうか星が降る  合田瑠美子

5日、私学校の講堂で幹部会議が行われ、200余名が集まった。白熱した議論が行われたが、別府晋介「政府を問責するために出兵すべし」と発言し、大勢はこの意見に賛成であった。ところが永山弥一郎「多数の兵隊を引き連れず、西郷先生と桐野どん、篠原どんら数人で上京し、正々堂々、政府の非を鳴らせば、それで事足りる」と出兵に反対する。河野主一郎らもこれに賛成したが、桐野利秋「それではみすみす捕虜になりに行くようなものだ」と反論した。「若干の兵隊を与えられれば、大久保政府に密偵を証人として突き付けて、政府の不正を糾弾する」村田三介。また野村忍助「兵6千名を率いて海路を行き、若狭小浜に上陸して、京に行幸中の天皇に西郷先生の上京許可を得よう」と発言した。出兵に慎重な者に対して、篠原「死を恐れて議論するな」と一喝し、桐野は「政体を一新するために、西郷先生を押し立てて総出兵する他に道はない」と主張、満場の賛同を得て出兵が決まった。
                         私学校ー西郷参戦へ続く

人形の家の芝居はエンドレス  山口ろっぱ

【付録】 等身大の大久保利通

大久保には厳乎とした価値観がある。富国強兵のためにのみ人間は存在する―それだけである。かれ自身がそうであるだけでなく、他の者もそうであるべきだという価値観以外にいかなる価値観も大久保は認めていない。―何のために生きているのか。という人生の主題性が大久保においては、一言で済むほどに単純であり、それだけに強烈であった。歴史はこの種の人間を強者とした。翔ぶが如くゟ

悪党の一人もいないまずい酒  松田俊彦 

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