あなたより先に電車が来てしまう 河村啓子
明治10年9月、一つの大きな星が、距離5,630万km、
光度-2.5等あまりにまで接近し、輝きを放っていた。
当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われ
た異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした
西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、「西郷星」と呼
ばれて大騒ぎになった。 やがてこれに便乗し、西郷星を描
いた錦絵が何種類も売り出されて人気を博した。また土星も
この時に火星の近くに位置していており、11月には、火星と
0度11分のところまで近づいたことから、つねに西郷の近く
にいた桐野利秋に因んで、それを「桐野星」と呼ばれた。
ガラガラポン秋は詩人のためにある 雨森茂喜
「西郷どん」 勝海舟も見た西郷星
西郷が西南戦争を起こし、利あらずして退却を繰り返している
最中の明治10年8月23日、梅堂国政描く錦絵「西南珍聞俗称
西郷星之図』が出た。そのころ東京や大阪で話題を呼んでいた
毎夜東方のの空に出る「西郷星」の絵である。「毎夜8時頃よ
り大なる一星光々として顕わる、夜更るに随い明かなること鏡
の如し、識者是を見んと千里鏡を以って写せしが其形人にして
大礼服を着し、右手には新政厚徳の旗を携え、厳然として馬上
にあり、衆人拝して西郷星と称し、信心する者少なからず」と『奇態流行史』にある。
キャベツ畑で育つ次の十年 山口ろっぱ
つまり、生きていながらも≪星≫になっていたということだが、地位や名誉にこだわらない西郷には若いときから本拠地は天の
ような感じがあった。だから現世の利益にはこだわらなかったとも言える。いわばこの「未完の大将」に人々は惹かれた。西郷の人生は晩年にまでは至らない。永遠の青春小説なのである。
少し時間下さい 胸をうずめます 太田のりこ
とりわけその若さ、ひたむきさに惚れたのが、勝海舟だった。
江戸無血開城を西郷と共に成功させた海舟は、明治14年に
「是南洲翁死後五回之秋也」として、次の漢詩を作っている。
惨憺たり丁丑(ていちゅう)の秋
思いを回らせば一酸辛
屍は故山の土と化し、
遺烈精神を見る。
旧幕臣を統制して一兵も西郷軍に参加させなかった海舟だが、
西郷を愛することにおいては、誰にも負けなかったのである。
君のこと好きです 広い意味ですが 前原正美
そして、それから二年後「友人海舟散人」と署名して、また
漢詩を作った。
亡友一高士 剣を握って大是を定む
衣を払って天真を思ひ 偉業は胸裏に忘る
悠然躬耕を事とす 嗚呼南洲氏
敵としては正理を闘わす可く
共に謀っては国紀を輝かす可し
世変足下に起こり 賊名の謗りを甘受す
この残骸を擲きし 希はくは数弟子に報いん
毀誉はみな皆皮相 誰か能く其の旨を察せん
唯だ精霊の在る有らば 千載知己を存せん
「毀誉はみな皆皮相 誰か能く其の旨を察せん」に、
私は、自分だけは分かっているぞという海舟の自負をみる。
泣ききって早く日めくり明日にしよ 喜多川やとみ
【付録】 岩山トクの回想(西郷の想い出)
岩山トクは西郷の妻イトの妹で、義妹にあたるため生前の
西郷と親しく接したという。そのトクが西郷の話をしたも
のがテープに録音されて現存している。これによると西郷
は、味噌や醤油を作るのが上手だったという。明治時代に
武村に住んでいた頃、自分で作るのではなく倉の中で手ほ
どきをしたらしい。「男子厨房に入らず」の時代に西郷は
家事に関心があったようだ。またその時、お客さんが来て、
イトを女中と思い「西郷さんはいらっしゃるか」と聞くと、
イトも女中のように返事していたそうである。この頃、西
郷家には、たくさんの書生や見習いが住み込んでいたので、
イトは女中と勘違いされるような仕事をする必要はなかっ
たが、一緒になって家事を行っていたようだ。西郷が手ほ
どきを行い、イトが皆と一緒に家事を行う姿を想像すると
微笑ましい。さらに料理が出来ると、西郷はなんでも「こ
れは良くできました。おいしゅうございますよ」と言って、
一つ一つ褒めたという。それに対してイトは「(人前で褒
められ)かえって、恥ずかしいじゃありませんか」と言っ
たが、西郷は、いつも感謝の気持ちを言葉にしたという。
これにて西郷どんおしまいです。
振り向くとみんな大きな愛でした 牧渕富喜子
[2回]
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