川柳的逍遥 人の世の一家言
西南戦争で中津隊を率いて西郷軍に呼応した豊前中津藩・増田宋 太郎は、西郷について次のように語っている。 「自分は諸君とは違い、西郷という人間と接してしまったのだ。 ああいう人間に接すればどうしようもない。 一日、先生に接すれば、一日の愛生ず。三日、先生に接すれば、 三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も 悪も死生を共にせんのみ」 この増田の言葉は、西郷という実像を的確に言い当てている。 積乱雲を食べに行きますが何か 赤松蛍子 「西郷どん」 明治天皇と西郷隆盛の特別な関係 西郷隆盛と明治天皇が身近に接した期間は、明治4年から明治6年までの二年間ほどしかない。にもかかわらず、明治天皇に最も影響を与えた人物の筆頭として、西郷の名が挙げられるのはなぜなのか。 名水に眠ったままのまろやかさ 徳山みつこ 西郷は明治5年5月23日からはじまった天皇の「九州巡行」に近衛を統率して供奉し、天皇と濃密な時間を過ごした。多感な20代の青年であった天皇が、西郷という人間に魅せられ、傾倒していったであろうことは、容易に想像できる。西郷が下野し、西南戦争で賊軍の大将として明治政府に反旗を翻して、死んだ後も明治天皇の西郷に対する思いは変わらなかったとされる。 ソーラーパネルパネルに大鯰の小骨 森田律子 明治10年秋のある日、明治天皇は皇后や女官らに「西郷隆盛」というお題で和歌を詠じさせた。天皇はそのさい,ただし「西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ,唯今回の暴挙のみを論ずるときは,維新の大功を蔽うことになるから注意せよ」といわれたという。 そだねーが一瞬熱気和らげる 松浦英夫 明治17年、天皇は西郷の嫡男・寅太郎に学費として年間千二円を下賜され、ドイツ留学を命じた。寅太郎はドイツで13年間学んだ後に帰国し、陸軍戸山学校射撃科を経て明治25年、陸軍少尉に任じられた。また、西南戦争後、島妻・愛可那との間の息子・菊次郎を外務省御用掛に任じられた。菊次郎は後に台北県支庁長に就任し、日本に帰国後、京都市長を務めた。 【付録】 西郷と靖国神社 明治新政府に反対し、兵を起こした西郷隆盛は、明治22年、その罪を許され正三位に叙されたにもかかわらず、今も靖国神社に祀られていない。 暗闇のアルファベットの生欠伸 北原照子 PR |
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