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川柳的逍遥 人の世の一家言
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満点のない人間が愛おしい  美馬りゅうこ
「薩摩潟しつみし波の浅からぬ はじめの違ひ末のあはれさ 皇后美子」の画像検索結果

 

「薩摩潟しつみし波の浅からぬ はしめの違ひ末のあはれさ」

西南戦争
で中津隊を率いて西郷軍に呼応した豊前中津藩・増田宋
太郎
は、西郷について次のように語っている。
「自分は諸君とは違い、西郷という人間と接してしまったのだ。
ああいう人間に接すればどうしようもない。
一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、
三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も
悪も死生を共にせんのみ」
この増田の言葉は、西郷という実像を的確に言い当てている。

積乱雲を食べに行きますが何か 赤松蛍子

「西郷どん」 明治天皇と西郷隆盛の特別な関係

西郷隆盛明治天皇が身近に接した期間は、明治4年から明治6年までの二年間ほどしかない。にもかかわらず、明治天皇に最も影響を与えた人物の筆頭として、西郷の名が挙げられるのはなぜなのか。
それは明治4年に西郷が中心となって行われた宮中改革と無縁ではないだろう。近代国家・日本の発展は、その日本を象徴する存在である天皇の大成なくしては、成立し得なかった。御所が江戸に移った以降も、宮中は公家や女官が仕切る旧態依然とした旧習を堅持しており、その伝統を一新すべく側近として武士を仕えさせようと西郷は考えた。この改革で側近として仕えたのが、吉井友美、村田新八、山岡鉄舟,高島鞆之助といった幕末から戊辰戦争にかけて活躍した、豪の者たちであった。また天皇に学問を進講する侍講には、熊本藩士で儒学者の元田永孚(ながさね)が登用された。

名水に眠ったままのまろやかさ  徳山みつこ

西郷は明治5年5月23日からはじまった天皇の「九州巡行」に近衛を統率して供奉し、天皇と濃密な時間を過ごした。多感な20代の青年であった天皇が、西郷という人間に魅せられ、傾倒していったであろうことは、容易に想像できる。西郷が下野し、西南戦争で賊軍の大将として明治政府に反旗を翻して、死んだ後も明治天皇の西郷に対する思いは変わらなかったとされる。

ソーラーパネルパネルに大鯰の小骨  森田律子

明治10年秋のある日、明治天皇は皇后や女官らに「西郷隆盛」というお題で和歌を詠じさせた。天皇はそのさい,ただし「西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ,唯今回の暴挙のみを論ずるときは,維新の大功を蔽うことになるから注意せよ」といわれたという。
西郷の死は、同年9月24日であったから,奥に閉じこもった天皇が,この時期に賊の追悼歌会をおこなうのは,政治的にも異常である。この天皇の思は、「政府問責」を掲げる士族の叛乱に呼応し、その首魁となってしまった西郷の心中に思いを馳せ、しかし「賊徒」を許すわけにもいかず、皇后や女官に勅題を出し、己の心を詠ませたのではないかと推測されるのおである。それほどに西郷への天皇の想いは強かった。皇后美子(はるこ)は「薩摩潟しつみし波の浅からぬ はしめの違ひ末のあはれさ」と詠んだ。
まさに天皇の心境を詠んだものである。

そだねーが一瞬熱気和らげる  松浦英夫

明治17年、天皇は西郷の嫡男・寅太郎に学費として年間千二円を下賜され、ドイツ留学を命じた。寅太郎はドイツで13年間学んだ後に帰国し、陸軍戸山学校射撃科を経て明治25年、陸軍少尉に任じられた。また、西南戦争後、島妻・愛可那との間の息子・菊次郎を外務省御用掛に任じられた。菊次郎は後に台北県支庁長に就任し、日本に帰国後、京都市長を務めた。

三寒四温まだ咲いていた寒椿  籠島恵子

「東京招魂社」の画像検索結果

【付録】 西郷と靖国神社

明治新政府に反対し、兵を起こした西郷隆盛は、明治22年、その罪を許され正三位に叙されたにもかかわらず、今も靖国神社に祀られていない。
また、維新の役で朝敵の賊軍とされた会津藩の将兵も祀られていない。
靖国神社の由来を辿れば、招魂社と呼ばれて長州など各藩のお社だった。いわば長州の護国神社のような存在であった。それを大村益次郎が東京九段に勧請し、長州藩の守り神にすぎないものを、全国民に拝ませるようにしたものが、現在へとつづいている。

暗闇のアルファベットの生欠伸  北原照子

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