川柳的逍遥 人の世の一家言
頬杖のあとが三日もとれません 森田律子 佐藤一斎 西郷が沖永良部島で同じ流罪にあっていた薩摩藩の学者・川口雪篷に 佐藤一斎を(言志四録)を教えられ、その後一斎は西郷の心の師となった。 「西郷どん」 西郷復帰 大久保一蔵は島津久光が趣味の碁を自身も習得することによって接近し、 その人間性を徹底的に分析した。 くすぐり その結果、主君の自尊心を擽り乍ら思い通りに操る方法を確立させた。 そして薩摩藩の内政についても、実験を掌握することができた。 そこで大久保は西郷の復権を画策し、久光に西郷の赦免を働きかけた。 しかし久光は西郷赦免に強く抵抗する。 兄・斉彬と比較して、自分に辛らつな評価を下したことを忘れていない。 初対面の場では、自分を「地ゴロ(田舎者)」とまで呼んだ。 西郷は、久光より十歳年下でもあった。 屈辱を味合わされたことで、どうしても感情が先走る。 西郷への複雑な感情は終生消えることはなかった。 うなだれる時間は記録更新中 山口ろっぱ その頃、薩英戦争の顛末を風の便りで知った西郷は、鹿児島から遠く 離れた絶海の孤島・沖永良部島で地団駄を踏んでいた。 居ても立ってもいられなくなった西郷は、琉球にいる藩士の米良助右衛門 に次のような書状を送っている。 「7月、鹿児島湾にイギリスの軍艦が来襲して戦争になったと聞いた。 大変な世上となり、嘆息するしかない。詳報を知らせてほしい」 獄中にいる身が戦況を知っても詮無いこととは思いつつ全藩主・斉彬公の 大恩を受けている身として、薩摩藩が被った災難を傍観してはいられない。 西郷は沖永良部島を脱出して鹿児島に向いたい。 藩の危機に駆けつけるため、禁を犯しても島抜けを計ろうという思いを 胸に秘めていた。 伸びきったゴムでそれでも走るのか 山本早苗 薩英戦争図-1 一方、西郷アレルギーを持つ久光も藩内の西郷待望論は抑えきれなかった。 大久保も根気強く久光を説得した。 一時は幕府への発言権を得た久光だったが、一橋慶喜の巧みな政略により、 幕府への影響力をもがれ、西郷の必要性を再認識させられていた。 元治元年(1864)2月、ついに久光は西郷赦免に同意した。 28日、西郷は沖永良部島から鹿児島へ戻った。 3月4日には、鹿児島を出立し、京都へ向った。 西郷を京都に迎える大久保たちは、久光との関係を危惧していた。 再び久光の逆鱗に触れる言動に及んでしまうのではないか…と。 綻びを置いてゆくから胸騒ぎ 山本昌乃 だが二度目の配流生活は西郷を大きく変えていた。 佐藤一斎の「言志四録」を読み、自省して禅を学び、心を落ち着けること に努めた結果、慎重な性格も兼ね備えるようになっていた。 3月14日、京都に到着した西郷は、19日に久光に拝謁。 軍部役兼諸藩応接役に任命される。 朝廷、幕府、有力諸藩との交渉役を務めると同時に、 一般有事の際は、薩摩藩兵を指揮する役目が課された。 薩摩藩の京都代表部の地位に就いたのだった。 西郷は、38歳になっていた。 詰め放題です雨上がりの匂い 雨森茂喜 こうして西郷の言動が久光の不興をかうこともなく、大久保たちの 危惧は杞憂に終わる。 その後、西郷は、大久保とともに練り上げた薩摩藩の基本計画に対し、 情勢の変化に応じ、自分なりのアレンジを加えながら混迷を続ける 幕末政局に対処した。 西郷と大久保の関係は、二人三脚というより、大久保が黒子に徹し 西郷は舞台役者として主役を演じていくことになる。 4月18日、久光は後事を家老・小松帯刀や西郷に託して京都を去る。 以後は小松の指示を仰ぎながら、西郷が薩摩藩代表として政治活動を展開。 西郷の動きが薩摩藩・幕末の政局を大きく揺り動かしていくことになる。 朗報は春の小川になりました 美馬りゅうこ 薩英戦争図-2 【付録】 薩英戦争 薩英戦争にきっかけは、文久2年(1862)8月に起きた生麦事件である。 東海道神奈川宿近くの生麦村で、久光の行列が騎行中のイギリス人を 殺傷してしまうという、突発的な事件だった。 この事件に、イギリスは軍事的威圧のもと謝罪と賠償金10万ポンドの 支払いを幕府に呑ませた。 続いてイギリスは、薩摩藩に犯人の処刑と賠償金の支払いを求めたが、 交渉は難航する。しびれを切らしたイギリスは、薩摩藩の蒸気船三隻を 拿捕に踏み切る。これを見た薩摩藩は文久3年7月2日開戦を決意する。 かげろうのまんなかへんを跳ぶ虚数 小川佳恵 天保山砲台からの砲撃を合図に、イギリス艦隊への砲撃を開始した。 薩摩藩の大砲は旧式砲だったが、命中弾が多く旗艦ユーリアラス号では 艦長まで戦死する。イギリス側も激しく応戦した。 薩摩の大砲とは比較にならない射程距離をもつ、アームストロング砲を 駆使することで薩摩の大半の砲台破壊に成功する。城下も焼失させたが、 7月4日には、鹿児島湾を去ってしまう。 弾薬や燃料が欠乏し、戦闘の継続が難しくなったからである。 納豆にからまれたので帰ります 中川喜代子 アームストロング砲 その後戦闘が再開されることはなかった。 薩摩藩側は戦死者5名、負傷者十数名、イギリス側は戦死者13名、負傷者 50名。薩摩藩は来襲したイギリス艦隊を退けた格好だが、彼我の軍事力の 差は認めざるを得なかった。薩摩藩は砲台の壊滅など再戦は無理と判断し、 イギリスと和平交渉に入る。 結果、犯人の捜索と処刑、賠償金2万5千ポンドの支払いに合意した。 犯人については、行方不明ということで処理され、イギリスもそれ以上追及 することはなかった。賠償金は幕府が立替える形でイギリス支払われたが、 薩摩藩が立替分を幕府に返却することはなかった。 責め際が甘かったのか返り討ち 北原照子 PR
虹消えた後は私の彩で描く みぎわはな
和宮の婚礼 「文久2年の出来事」 坂下門外の変 老中安藤信正暗殺未遂 (1月 ) 皇女和宮と第14代将軍・徳川家茂の婚礼 (2月) 薩摩藩・島津久光上洛 (4月) 徳川慶喜・将軍後見職に就任 (4月) 武蔵国生麦村にて生麦事件起きる (8月) 「西郷どん」 文久2年の出来事 「所詮、わしと久光公とは性が合わぬ」と覚悟し西郷は鹿児島に戻った。 そこで久光の命により文久2年(1862)西郷は、大島吉之助と改名させら れた上で、最初は徳之島、やがては沖永良部島に流されることになった。 半年前まで滞在していた奄美大島での生活と異なり、今回は流人としての 生活であるから、藩からの生活費の保障はなかった。 西郷が徳之島につくと、奄美大島から愛加那が子供を伴ってきていた。 徳之島の渡海途中に2人目の子・菊草も生まれており、西郷はひととき 家族との生活を楽しんだが、いい状況はそんなに長くは続かない。 すぐに沖永良部島での厳しい生活が待っているのである。 言い勝って胸のあたりに水たまり 嶋沢喜八郎 鹿児島から一番遠い島に流されたのは、暗に「西郷よ、飢え死にせよ」 という久光の意志が込められていた。 久光の気持ちを察した藩の保守層は、残った西郷の家族に謹慎を命じ、 知行など、全部没収してしまった。 それだけ久光の怒りは、大きかったのである。 沖永良部島に着いて西郷は牢に入れられた。 牢は風雨にさらされやすい劣悪なものであり、 心身への負担が非常に大きかった。 牢内ではさすがに健康を害し、西郷の印象であるでっぷりした体型も 見る影をなくしていたというほどである。 転落はあのこつんから始まった 寺島洋子 太った面影も消えた西郷 しかし、沖永良部島での西郷は奄美大島に渡った時とは、ガラリと人が 変わったように、もう島民たちに対し偏見も蔑んでみる気持もなかった。 最初から、苦しい生活をしている島民たちに同情をした。 今度こそ鹿児島へは戻れない覚悟の上で、彼は島民たちの生活向上に 力を尽くし、学問をどんどん島民たちに教え、また生活向上のための知恵 を与え、労働には自分も参加した。 そんな西郷に感動した現地の役人・土持正照が、まともな座敷牢を造り 住まわせるようにした。 やがて西郷の知己が役人として赴任してきたこともあり、西郷の生活は、 いい方向に改善された。 言い勝って胸のあたりに水たまり 嶋沢喜八郎 ある日、この島に西郷より先に流されていた川口雪蓬という学者が 西郷を訪ねてきた。そして川口は「上杉鷹山を名君にしたテキストです。 鷹山はそこに書かれたことを実行したと言われる本です。」 おうめいかんいそう といって西郷に一冊の本を差し出した。細井平洲の「嚶鳴館遺草」である。 川口は首を傾げる西郷に言った。西郷はその本を読んだ。 本に書かれていたのは、 「藩主や藩士のために藩民がいるわけではない。藩民のために、 藩主や藩士が存在するのだ」 西郷は驚き、目から鱗が落ちた。こんなことは考えたこともない。 その夜、西郷は天を仰いだ。無数の星が輝いていた。 「西郷よ、民のためにもう一度立ち上がれ」と告げているようだった。 このとき「敬天愛人」の思想が閃いたときだった。 水際に立って明日を考える 岸井ふさゑ 生麦事件 一方の島津久光は無位無官の立場ではあったがなかなかの政治家だった。 文久2年4月、計画通り勅使を立てて勅使の供をして江戸城に乗り込んだ。 そして、自分や藩の希望を強引に押しつけた。 人間面でも大きな改革を求めた。幕府は腹を立てた。 しかし勅使がいるので、虎の威を借りるキツネのような久光に対しても 文句が言えなかった。 同年8月、久光は意気揚々と京都へ引き揚げた。 その途中、鹿児島にとっては大事件となる「生麦事件」が起こる。 武蔵国生麦村で行列を横切ったイギリス人を斬殺した事件である。 このことが誤解されて諸国に伝わった。 つまり、「久光は攘夷を実行した」という評判である。 きわどさを選んでしまうハッカ飴 美馬りゅうこ 当初の上洛こそ、幕府人事の変更などの成果を収めたものの、 その後は、尊攘志士を押え切ることができず、更には幕府、朝廷、 雄藩との折衝にも苦労していた。 久光は尊攘志士の暴発を抑えるために会津藩と手を組んで、 「八月十八日の政変」を起こしたものの、勤皇派とみられていた薩摩が、 会津と組んだことで、薩摩藩自体が諸勢力から「信用ならない」という 目で見られるようになった。 ともかくも政治の前面に出てきた久光だったが、大きな不足があった。 人の世はモヤモヤモヤの繰り返し 喜田准一 それは西郷の存在だ。鹿児島藩内のもならず京都・大坂・江戸でも、 「西郷待望論」は渦巻き、絶えなかった。 政治面に厳しい立場に追いやられた久光に対し、「西郷さんを呼び戻せ」 というシュプレヒコールは大きくなっっていく。 久光もバカではない。 やはり自分の野望を遂げる過程で、西郷を抜きにしてはとても薩摩藩が まとまらないことを身に染みて知っていた。 久光はしぶしぶながら「西郷を呼び戻せ」と命じた。 西郷は戻ってきた。 レンコンの闇から生還を果たす 山本早苗 坂下門外の変 鹿児島で西郷を切望していたのは、精忠組と呼ばれるグループである。 「誠」を信条とするこのグループは、あまりにも野望を露骨にした 政略を展開する久光に嫌悪感を覚えていた。 彼らもまた、「斉彬公は違った」と口々に唱えあった。 これが久光の癇の虫にさわる。 久光が何よりも嫌ったのは斉彬との比較だ。 したがって、久光は考えた。 「西郷を使って、自分に悪感情を持つ連中を手なずける必要がある」と。 そうしなければ、自分の幕閣参加の野望が実現されないからである。 身の丈を知らぬ天狗の転び癖 上田 仁 戻ってきた西郷は、もう久光に面と向って罵るようなことはしなかった。 彼は成長していた。 「大きなことをするためには、小さなことは我慢しなければならない 場合がある」と悟っていた。 小魚が大きな魚になり、その大きな魚に磨きがかかっていたのである。 久光は西郷に「軍賦役を命ずる。京都に在駐せよ」と命じた。 他藩との意見の調整や、諸事の斡旋役をつとめる外交官である。 西郷は承知した。 城から退る西郷の後ろ姿を睨みながら、 久光は、銜えていた煙管をガリガリと噛み続けた という。 技ありも一本もない日曜日 くんじろう 【付録】 「南洲遺訓」 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。 この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は為し得られぬ也」 という言葉が「南洲遺訓」の中にある。西郷はこの言葉の実行者だった。 自分では一切私利私欲もなく「敬天愛人」の心情を基に、生涯の生命を 燃焼し尽くした。2回の島流しで得られたものは、この言葉の体感であり、 その実行力を身につけたことではないだろうか。その芽を育てるために、 肥やしになったものが沢山ある。何といっても、島流しはこの世で言えば、 地獄に落ちたことだから、彼には、そこから這い上がる力と勇気を持って いたということである。 考える機会あたえてくれた水 立蔵信子
シーザーの気持が分かる冷や奴 瀬渡良子
大久保満寿(利通の妻) 「西郷どん」 尊皇攘夷 江戸期、官学は朱子学だった。朱子学は尊王と攘夷に直結しているが、 当時、夷というものが国内におらず、近隣にもいなかった。 ところが、幕末ぺリーショック以来、にわかに「尊皇攘夷」という言葉が、 流行語になり、その大合唱が討幕運動へと転化していくのである。 この尊王攘夷という思想が急速に広まったのは、黒船の脅威もあるが、 孝明天皇が大の外国人嫌いであったこともあり、幕府の弱腰に対する批判 が朝廷への期待に変わり、また幕末の日本が、何度も大災害に見舞われた ことによる、生活苦を招く経済状況の悪化も幕府への不満となり、 朝廷期待の裏返しになった。 朝顔の蔓からぬっと湿度計 くんじろう 諸藩においても、特に下級武士の中の若い武士達は、現状への不満、 現状打開への意識から、尊皇攘夷活動へと身を投じるものが増えていた。 西郷や大久保もそうした流れを汲んでいたのであり、彼らを中心とした 精忠組が有力な組織として島津久光の機構に組み込まれた。 このような時代背景のなかで尊王攘夷を大合唱する志士達は、朝廷のある 京都へ多数集まって来ていた。ただ当面、尊皇攘夷の為に何をするという プランがあったわけではなく、攘夷の邪魔になりそうな者達を排除しよう とテロを起こし、そのテロが波及して、京はテロが横行する街と化した。 闇鍋の中で嗤っているダスト 中村幸彦 こうした状況の中で久光が上京する話が京にも伝わってくる。 多くの尊皇攘夷派は久光こそ尊皇攘夷の牙城と捉えており、 「これを機に、島津の殿様を頭に据えて倒幕をも実現しよう」 とより過激なテロ計画を立てるようになった。 しかし久光は攘夷は考えていたものの、倒幕ではなく公武合体を考えて いたため、過激な尊皇攘夷が増えることは望んでいなかった。 ゆえに久光は、京都に着く前から尊皇攘夷派を抑えつけるように命じた。 ちりもほこりもぼくの財産だと居座った 神野節子 この事態に驚いた薩摩藩の尊皇攘夷派は、有馬新七、柴山愛次郎、 樋口壮介が中心となり、実力行使によって久光を無理矢理尊皇攘夷活動 に取り込むことを計画した。 具体的には関白・九条尚忠と京都所司代を暗殺して、その首を久光の下に 持っていこうというのである。 この2人は朝廷と京都における幕府機関においての、公武合体派の中心 人物と目されており、特に和宮降嫁に貢献したことで尊皇攘夷派から 目の敵にされていた。 うす皮をはがすと欲が浮いてくる 靍田寿子 しかしこうした動きは、まもなく久光の知るところとなる。 ただ彼らは寺田屋に集まっていることは分かっていたため、 まず彼らの決意を変えさせるべく側近の大久保一蔵、海江田武次、 奈良原喜左衛門を次々と送り込んだが交渉は不調に終わった。 彼らが説得に応じない場合、上意討ちも視野に いれていた久光は、次の手段として腕達者な奈良原とは別に、 7人の剣術の優れた藩士を寺田屋へ同行させていた。 寺田屋に乗り込んだ藩士は、志士側としばらく議論を交わしていたが、 なかなか拉致があきそうもなく遂には、「上意である」と斬りつけた。 よろしいですかと良心を片付ける 山口ろっぱ 斬り合いの末に志士側は有馬新七、柴山愛次郎、樋口壮介、西田直五郎、 弟子丸龍助、橋口伝蔵の6人が死亡し、2人が重傷を負った。 久光側も1名が死亡、1名が重傷を負った。 尚、久光側の唯一の死者は、道島五郎兵衛であるが、有馬ともみ合いに なったところ、有馬が「五郎兵衛もろとも、俺を刺せ」と仲間に叫んで 相討ちになったものである。 惨劇の末に寺田屋にいた志士達の大半は久光側に従い連行された。 このうち薩摩藩の者は謹慎処分を、真木和泉ら他藩のものは追放された。 こうして一時的ではあるが尊皇攘夷派の主要人物は京からいなくなった。 (因みに、西郷の弟・信吾(後の従道)は寺田屋騒動に参加したが、 年少(19歳)だったため謹慎処分となっている) あの頃はレールを食べて生きていた 井上一筒 利通の京都妻おゆう 【付録】 大久保利通の鹿児島妻、京都妻 安政4年(1857)12月、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の二女・満寿は、 御徒目付(おあかちめつけ)を務める28歳の大久保利通(当時・正助)と結婚。 満寿21歳であった。。新婚当初の大久保家は貧しく生活は厳しかったが、 夫の利通は愛情深く満寿に接したようで、夫婦仲は睦まじかった。 ただ、満寿に関する史料はほとんど残っておらず、詳しい人物像はよく 分かっていないが、利通が倒幕運動から明治新政府の樹立へ向けて各地に 飛び回り、留守となる家をよく守り、利通も満寿を思ってか、子煩悩で 大変家庭的だったという。安政6年には長男・利和(としなが)を生み。 4人の男児、1人の女児を産んでいる。 ふるさとは余白の多い時刻表 ふじのほろし 冷徹で非情な人という印象のある利通には、意外にも京都妻がいる。 名は「お雄(ゆう)」。おゆうは京都・祇園のお茶屋一力亭の芸妓である。 2人が知り合うのは、薩摩の仲間同士が斬り合うという寺田屋騒動から 間もなくのこと。おゆうは久光のこと西郷のことなど、悩みが絶えない 利通を精神的に支え、出入りの多い来客の接待から、身の回りまでのこと すべてにわたり誠心誠意、利通に尽くしたという。 そして、おゆうとの間にも、4人の男児をもうけている。 戊辰戦争の勝利の決め手となった「錦の御旗」はおゆうが生地を調達して 作ったと言うエピソードが残っている。 頷いているだけでいい苦労人 近藤北舟 明治6年(1873)利通が初代内務卿となり翌年、満寿たちも東京に移る。 利通は、本妻と実子は本邸に、おゆうと庶子は、高輪別邸に住まわせた。 明治10年、満寿は長女・芳子を生むと、利通はこの娘を溺愛した。 この翌年5月14日、利通は東京・紀尾井坂で士族6名の襲撃を受け死亡。 その後の10月、おゆうが利通の8男を出産するが、満寿は12月17日、 夫の跡を追うようにして世を去った。一方おゆうは長生きをしたとだけ伝わる。 余談だが、利通の次男・伸顕の娘・雪子が吉田茂に嫁ぎ3女・和子を生む。 その和子が副総理・麻生太郎を生む。あの寡黙な大久保利通の子孫に口の軽い 麻生太郎がいるとは、とても信じられません。 聞こえない振りもときには良いものだ 瀬川瑞紀
足音になってあなたに付きまとう 井上一筒
島津久光 「西郷どん」 西郷と久光 西郷が奄美大島に配流されている頃、幕府は二つの問題を抱えていた。 一つはペリーにどう対応するかということであり、 もう一つは次の将軍を誰にするかということであった。 当時の老中・阿部正弘はこれを、国民への情報公開と国民の国政参加 によって乗り切ろうとした。 これに対し保守的な井伊直弼はこれを嘲笑い、同時に怒った。 「日本国政は、幕府主導によって民はよらしむべし。 この方針によっ二百数十年を送ってきた。阿部はこれを覆した。 しかしいきなり国民に情報を与えても猫に小判だ。 国民の方が却って混乱する。 こういうことは時間をかけなければ駄目なのだ。 幕府や藩が、国民や藩民が信頼できる政治を行っていれば、国民は食うの に忙しいのだから余計な情報を欲しがるはずがない。阿部はバカだ」 と言っていた。安政4年(1857)6月、その阿部が死んだ。 あの煙り過去のエラーを焼いている 森井克子 そして、井伊が大老として幕府の中枢を担うことになる。 大老とは井伊が老中の上位の役職として、独断で決めたものである。 同時に井伊は阿部の政策を全部ひっくり返した。 中でも特に彼は次の将軍に一橋慶喜を擁立しようとしたグループを憎んだ。 また、市井にあって妄説を唱え国民を惑わす学者や思想家を憎んだ。 これらの層に厳罰を与えた。安政の大獄である。 だがこうした強権の先には、必ず反動がある。 阿部の死から3年後の冬、井伊は桜田門外において、白昼にもかかわらず 脱藩した水戸の藩士によって、暗殺される。 この事態により幕府の威信は失墜し、これを契機に各地で尊皇攘夷の 活動が火をふくことになった。 梅干しの皮を爪楊枝で破る くんじろう 井伊がいなくなった幕府に対し、薩摩を含む外様大名は、 かねてからの悲願であった幕政進出を狙いはじめる。 同時にこうした時代のうねりに合わせ、西郷待望論が膨れ上がる。 薩摩藩では斉彬の弟・久光が国父として、藩内部での影響力を強め、 「兄斉彬が死んで出来なかった大望を自分が実現したい」と考えた。 斉彬の大望というのは、幕閣に入って国政に参加することだ。 久光は大久保一蔵をブレーンにして、その方策を考えた。 現在は無位無官の立場の久光に、大久保が与えた知恵は、 「朝廷を活用する」ということだった。幕府に対し勅使を派遣し、 その護衛として久光が薩摩軍を率いていけば、徳川幕府も勅使に対しては、 いい加減な扱いはできないというのが、大久保の考えだった。 背開きの方があの世で顔が利く 板垣孝志 久光はこれを採用した。しかし忠実な部下がいない。 結局は今西郷を待望している若い藩士たちを味方にしなければならない。 久光は不本意ではあったが、西郷を大島から呼び戻すことにした。 召還を受けた西郷は妻・愛加那の生活が立つようにして、鹿児島へ戻った。 生きていることが幕府に発覚しないよう大島三右衛門と改名し、 久光との面会を果たす。久光は、西郷に自分の考えを話した。 ほころびの跡が勲章めいてくる 斉藤和子 久光の野望に西郷はこう応じた。 「先代の斉彬様は諸侯にも名を知られた存在でしたが、御前は違います。 斉彬様なら今のお話が成功したでしょう。しかし御前には斉彬様ほど の才能も器量ももっておられない。その上、無位無官で薩摩から出たこ ともないジゴロ(田舎者)の御前では、相手にされるはずありません。 到底無理でしょう」 と、ズバリ言い切った。周りがはらはらした。 しかし久光はこの屈辱に耐えた。 野望達成のためには、どうしても西郷が必要だったからである。 プチプチをつぶして無我になる時間 合田瑠美子 そこで久光は、「おまえを供にするが、先に馬関(下関)まで行け。 そして上方の情報を集めよ。間違っても、それから先へ行ってはならない。 必ずわしを待つのだ」と厳命した。 西郷はこの命令に従って馬関に行った。 しかし馬関で得た情報は、生易しいものではなかった。 それは久光が上洛するというので、京都や大坂に集まった志士たちを勘違い させることになった。 「久光公が討幕の軍を起こして上洛され、やがて江戸へ向う」 というものだった。西郷は驚いた。そして 「こんな誤解はどうしても解かなければならん」 「それには馬関に居るわけにはいかない」と言い、急遽大坂に向った。 蟷螂の左のカマの軋み癖 くんじろう 遅れて馬関についた久光は、カンカンになって怒った。 「おのれ西郷め、あくまでわしに楯突く気か!」 と怒鳴りまくったという。そして西郷捕縛命令を出した。 大久保は久光に願い出て西郷の後を追った。 そして西郷の様子を探って兵庫に達していた久光に報告しようとしたが 怒りがおさまらぬ久光は、大久保との面会まで拒否してしまう。 途方に暮れていた大久保のところに、ひょっこり西郷が訪ねてきた。 思いつめていた大久保は、そこで 「これまでの苦労と努力が無になってしまい、今となってはおはんと 刺し違えてお詫びするしかない」と告白した。 西郷は、 「おはんがおらんと我が藩は成り立たぬ、おいは心静かに縛につくから 早まってはならぬ。思いとどまれ」 と逆に大久保を激励した。 修復不可能過去帳の綻び 雨森茂喜 【付録】 西郷と久光の関係をより複雑にした男 久光の側近に、「久光四天王」といわれる中の1人に中山中左衛門がいる。 西郷と久光の関係が急激に悪化した陰には、その中山という人物の 存在がある。中山は小松帯刀や大久保一蔵や堀次郎らとともに久光の 信任を受けていたが、忠義一途のこの人物が西郷を必要以上に悪く久光 に告げたことで、久光の悪意がより強くなったといわれている。 西郷が沖永良部島という辺境に流された裏にも中山の影響があったと いわれている。また大久保利通暗殺にも加わった一味ともいわれる。 道ばたの小石きき耳たてている 三村一子
一つだけ違う色した影がある みつ木もも花
「西郷どん」 エピソード (拡大してご覧ください) 西郷と二匹の犬 白い方を「雪」、黒い方を「攘夷家」という。 攘夷家は川辺郷の中条良正に贈られた犬で、 洋服の人を見かけるとよく吠えたことからそう名付けられた。 「西郷のあれやこれ」「うんざりした」 明治維新とは、薩長の書生による革命というべきものであった。 きび 木戸孝允など第一級の書生はともかく、その「驥尾に付していた連中」の 中で思わぬ身分を得て、心の平衡を失うものも出た。 それらが馬車に乗り、洋服を着、官員風を吹かせて四民の上に君臨する さまは、旧幕府の旗本の比ではなかった。 福沢諭吉はそういう連中に対して、「人面獣心」と吐きすてた。 ※ 驥尾に付す=優れた人物の後につき従っていれば、自分の能力以上の ことが成し遂げられること。 芯がない鉛筆けずるまた今日も 杉山ひさゆき 歴史散歩偉人たちの末裔は今 で初公開された西郷の肖像画 しかし西郷は、そういう官員たちとは違っていた。 彼は東京に在るとき、日本橋小網町の古屋敷に下僕と共に住み、 雲水のように男所帯でひっそり暮らし、出入りは徒歩だった。 このため近所の人々も、彼が誰とも知らず、まして参議・陸軍大将である とは気づいていなかった。 そんな西郷が、うつ病患者のような時期がある。 明治6年11月、新政府の人間や政治にうんざりした西郷は、 俄かに参議の職を辞め、単身故郷に帰ってしまう。 その時の詩に「脱出ス、人間虎狼ノ群」という激しい句があり、福沢のいう 人間獣心とよく照応している。 そしてそんな西郷を癒し、西郷が唯一心を許したのが「犬」であった。 雲として暮らす一身上の都合 月波与生 犬を連れ西郷の軍服姿(床次正精画) 「西郷のあれやこれ」 犬好きだった 上野の西郷像は犬を散歩させている珍しい銅像で、モデルになったのは、 「ツン」という名のメス犬だった。 西郷は大変な愛犬家で、20頭ばかりの犬を飼っていたという。 京都霊山歴史館にある西郷の肖像画には愛犬の「ユキ」と「ゴジャ」が 描かれている。 ユキは真っ白だったことからそう名付けられた。 ゴジャは明治6年頃、飼い始めた鹿児島川辺産の猟犬で黒の斑があった。 洋服を着た人間によく吠えたことから、西郷が「攘夷家」という愛称を つけて可愛がっていたという。 筋書きのない一日が暮れていく 合田瑠美子 私欲のなかった西郷も犬だけは例外で、鰻を食べさせ店の人を怒らせたり、 肉を与えすぎて猟犬を肥満体にしてしまったこともあるらしい。 また西南戦争末期には、愛犬との別れを惜しんで、 男泣きしたという話も残っている。 西郷は愛犬「寅」を京都祇園の料亭にも連れて行っている。 木戸孝允、山形有朋、伊藤博文、は若い芸者を呼んで、 夜更けまで騒いでいたが西郷だけは、昼間に「寅」と一緒にやってきて、 一緒に鰻を食べてすぐに帰ったという。 祇園の芸妓君竜は「ほんまに粋の中の粋を知ったお方」と評している。 また明治政府に出仕した時に「西郷が妾を2人抱えた」という噂が流れた。 そこで真相を確かめようと若い軍人が訪ねたところ「2人抱えたよ」と 西郷は何を隠すこともなく、連れてきたのは、2匹の猟犬で両方とも、 メスだったという。 乗らぬブランコ押している揺らしてる 徳山泰子 「西郷のあれやこれ」 甘党だった。 西郷は愛煙家だった。 故郷鹿児島県国分の煙草を愛し、刻みタバコとキセルを常に携帯していた。 西郷所有の煙草入れが現存している。 ありすがわみやたるひと これは鳥羽伏見の戦いの戦功により、東征大総督・有栖川宮熾仁親王より 賜ったものである。 しかし西郷は甘党だったから、酒はほとんど飲まなかった。 ただ桜田門の変の一周忌には、朝から黒糖焼酎を飲んで酔っ払ったという 話が残っている。 西南戦争の時に白金酒造の焼酎を大量に買ったという話もある。 これは飲むためではなく、負傷した兵の傷を消毒するためであった。 なんでやろ飲めば宿無し犬になる 新家完司 「西郷のあれやこれ」 お洒落について。 西郷はオシャレには、まるで頓着しないイメージがあるが、 女性の調度品、特に、櫛・簪にはかなりの鑑識眼を持っていた。 これは篤姫が将軍・家定に輿入れする際の調度品を調達したからである。 また青竹を熱したもので髪の毛を巻いて、パーマをかけていたこともある。 そんな西郷であったが、戊辰戦争の途中で鹿児島に帰った時は、 丸坊主にしていた。 当時西郷はのぼせ症だったので、髪の毛を剃っていたのである。 そして、意外に近代的な懐中時計を持っていた。 これは英国のロンジン社製で薩摩藩主の島津忠義から贈られたという。 しかし服装は、明治政府に出仕していた時にも、 木綿の着物に小倉袴という質素な身なりだったという。 かすり 鹿児島に帰ってからは、肥満のために暑がりだったようで木綿藍染の絣や、 自宅では、裾の短い単衣で寛いでいたらしい。 戸締りはしない家にもこころにも 阪本こみち |
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