川柳的逍遥 人の世の一家言
佐賀の乱 筆箱に痒い言葉をかけました 福尾圭司 が欧米諸国を巡遊している間に、西郷を主柱とする留守 政府は法律的な封建的身分差別を撤廃し、士族の特権を 解消した。秩禄処分という名の家禄削減も実行される。 こうした改革の遂行にめざましい働きをしたのは、西郷 が司法卿に推した江藤新平だった。江藤について評する 文章がある。 下記、徳富蘇峰『近世国民史』ゟ その向うはジンベイザメの領分 山口ろっぱ 「江藤新平は…機略の持ち主であり、且つつとに法度改正に心を用い、眼敏手快、当代まことに得易からざるの材であった。もし彼にして生存せしめたらんには、明治憲章の美を成したる勲功は、伊藤博文を待たずして、恐らくは彼に帰したであろう。…新政府草創の際、其の法度の整斉完美を要するに於いて、最も彼の手腕を必須としたるのは論を俟たず。惟(おも)うに彼は本来のラジカルである。ラジカルとは、徹底していて過激で急進的である事。特長、願望は彼の決して潔しとするところではなかった。彼が論理的の頭脳と、彼が峻烈なる気象と、而して鋭利なる手段とは、向う所可ならざるはなき有様であった。江藤は其の力を専ら法制の上に用いたるも、彼は本来政治家にして、決して刀筆の吏をもて、自ら満足するものではなかった」 失敗をすると決めてから笑う 森中惠美子 兎に角、江藤は備前佐賀藩が明治政府に送り込んだ鞘のない諸刃の剣のような男であった。触れれば怪我人が出る。しかし役には立つ。「国家とは何ぞや」という主題を、幕末のころから江藤も大久保も考えてきた。おそらくこれが国家だろうという想像で得た諸要素を建築材料とし、手品のように層々と組み上げて現実の国家をつくりあげてみせる才質は、この2人のほかに持っている者はない。国家をつくる仕事は、大久保という工匠の手に委ねられている。備前佐賀藩という微弱な勢力を背景とする江藤には施工権はなかった。それだけに江藤は大久保を憎んだ。憎む理由は、大久保が薩摩閥だから力をもっている、だけのことでである。 やじろべえちょこっと贔屓しているな 加納美津子 ただそれだけのことで他人を憎むが出来るというのは、一見異常に見えるが、しかし権力政治の社会ではありふれた感情であるにすぎない。江藤はかねがね権謀で薩長閥を倒そうとしており、これが行政面では、明治日本の法制の基礎を築いた男の執拗な素志であった。江藤の薩摩切り崩しの方法は、まず西郷をおだてることであった。それによって大久保と喧嘩をさせ、大久保を斃し、しかる後に西郷を斃してから長州を押し崩して、第二維新を成就する。ただ江藤の拙さは、その策を人にも言い散らし、そのことが大久保の耳にも入っていたことである。 カサコソと抱いた骨壷から返事 桑原伸吉 江藤が「薩摩人はバカだ」という意味のことを言ったのは、江藤の薩摩人に対する一般の印象だが、具体的に言えば西郷その人を指していた。江藤のいうバカは、「薩人は朴直にして淡泊なり。そのなすところも、大概、磊落にして、公正を失わず」という、人格美としての表現である。磊落とは、心が広く小事に拘らないさまをいう。要するに江藤は薩摩人をほめている。しかし江藤の人の悪さは「だから利用しやすい」というところにある。江藤は征韓論という国家の大事を道具にし、西郷を道具にし、政府を倒そうとしている。そういうことを聞き、察するにあたり、大久保は征韓論者としての江藤を許しがたいとしていた。 夕凪の裏に罵詈雑言の立つ 酒井かがり 江藤は緻密な論理化だが、同時にその論理に感情家であるかれの情念が入りすぎるためしばしば飛躍する。その飛躍が、この国家設計者の命取りとなる。「明治六年の政変」で江藤は西郷、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣とともに参議を辞し、故郷の佐賀に帰った。しかし江藤をライバル視する大久保は佐賀県権令に任じた岩村高俊を使って江藤を挑発し、暴挙に出ることを誘導する。途中で江藤は西郷を揖宿郡(いぶすき)の鰻温泉に訪ね、挙兵を迫った。「西郷の朴直は、事を共にするに足る」と、あれほど西郷の決起に期待しながら、肝心の西郷は応じなかった。かれは江藤に踊らされることなく、江藤の方が踊り、明治七年佐賀の乱を起こし敗北、江藤は高知に逃れそこで捕まって鳩首された。だが、江藤の起こした佐賀の乱は、各地の士族の乱の導火線となり、私学校事件へと繋がっていく。 未完のままに流れていった結露 みつ木もも花 【付録】 西郷が語る-江藤の救援を拒否した理由 「江藤らは事を起こした。それに従った士族は、二千五百、三千にも達したであろう。しかるに事や敗るるに及んで彼らを見殺しにし、見捨てておいて、おめおめと逃げてきた。そういう同情なき者に対し、どうして私が面会できるか」。また大義を説いて聞かせる余地があるか」。 神様を跨いで運を取り逃がす 平井美智子 PR
明治7年1月9日付けの旧庄内藩士・酒井玄蕃の筆記がある。鬼玄蕃 地図にない島です花は咲いている 津田照子 西郷の征韓論である。西郷は「遣韓論」として、単身乗り込んで相手 シーソーに蓄積された片想い 渡邊真由美 ところが三条は西郷の手紙の前半の内容の方を重視し、西郷を「征 雨戸は開かないし時々鋸が響く 島田握夢 西郷が一見人が変わったように健康に気をつけはじめたのも、征韓論という一大希望を、国家と自己の人生の向こうに見出したからであった。西郷にとって生死の問題であった。だが、この西郷の悲壮感が大久保との亀裂を生むこととなる。幕末での西郷・大久保は、一対のものであった。ところが維新後、新国家建設の段階になると、互いにこれほど違った政治的体質をもったものも稀ではないかと気づくようになった。図式的にいえば、大久保のもとに新官僚群が集まっている。西郷のもとに意気と気概のある壮士的気分の者たちが、風を慕って集まっていた。両人とも徒党をなすことを意図しなかったが、自然に党派ができた。 鐘の鳴る方へ傾く陽も月も 嶋沢喜八郎 大久保が帰国した早々、西郷はしきりに大久保の邸に遊びに来た。そこで西郷は自分の西洋観を語った。「西洋は遠近を攻伐しあって今日の盛大を築いた。武を恐れては国家は成り立ちませぬぞ。一蔵さァ」と征韓論をいうのである。大久保は、にべもなく、西郷の議論に反対した。大久保はこの点、一歩も退かなかった。それには西郷もあきれ「尊王攘夷の一蔵が、ひとたび天下をとると、ああも腰抜けになるものか」とはたの者にこぼした。大久保の方も又、西郷の頑質にあきれ「吉之助さァは、ああいう物分かりの悪い人ではなかった。どうかしたのではないか」と思った。ただ両人の悲劇は、立場が立場だけに天下を二分する議論になってしまっていることだった。 顔よりも尻尾こんなに物を言う 竹内いそこ 大久保は、西郷のその頑質こそ国家を亡ぼすものと思った。これを何 初めからミシン目の付いていた二人 松島巳女 庄内藩は譜代の名藩であり、幕府から江戸市中警護を命じられ慶応3 ボクの今あなたの胸が現住所 ふじのひろし
「西郷どん」 東京遷都 明治維新のことだが、この成立に最大の功があったのは、徳川慶喜であると言っていい。ただ、この15代将軍は、日本国の政権という大荷物を京都御所の塀の中に投げ込んだだけで、さっさと大坂城に去り、ついで江戸へ帰った。当たり前のことだが、金や役所までつけて政権を渡したわけではない。このため、京にいる薩長など各藩の首脳は、政権という大荷物をとりまいて一時、当惑した。もともと薩摩の西郷や大久保利通の予定では、討幕によって革命を果たすつもりだったが、慶喜の大政奉還によって肩透かしされたのである。 汗染みが乾かぬ天下国家論 前中知栄 京には、役所もなかった。当座、御所のなかの施薬院を使ったり、また公卿筆頭の九条家の屋敷を「太政官代」とよんで、寄り合いに使ったりした。九条邸は堺町御門のそばにあり、公卿屋敷としては一番広かった。それでも江戸の大名屋敷の大きさとは、比べようもない。この小さな九条邸が、革命政権のいわば最初の政庁だった「どうも、手ぜまだ」と、嘆くうちに遷都論がひそかに論ぜられるようになった。むろん、公然と議論できない。古来、都は京都だったし、遷都を考えるだけでも不逞不遜のそしりをまぬがれなかった。 ボリュームを下げて本音を語りだす 百々寿子 まず薩摩の兵学者・伊地知正治が大阪への遷都を論じ、意見書を書いた。意見書では、大坂城の本丸を皇居とする、としている。さらには二の丸に百寮を設ける。そこは現在でいえば、N H Kや大阪府庁がある場所である。 目を閉じて見えてくるのは過去ばかり 笠原道子 大久保も大分以前から、遷都論を蔵していたが、その慎重な性格から、他に洩らさなかった。大久保が遷都論を口にするのは、翌年正月17日で、伊地知意見書から2ヵ月を経ていた。当然ながら、公家の多くは京に固執し遷都に反対した。いま天子を擁して、大坂にゆこうとするのは陰謀である。薩長相携えて天下を制せんとするものである、と岩倉具視に噛みついた佐幕派の公家もいた。結局、大久保は遷都という言葉を避け、巡航とし、大坂の本願寺別院を行在所(あんざいしょ)にする、ということにした。出発は3月21日ということになった。 積乱雲を食べに行きますが 何か 赤松蛍子 それより少し前の3月10日、「江戸寒士・前島来輔」という署名で、大久保の宿所に投書したものがあった。みると、大きな構想力をもった意見で、精密な思考が明晰な文章でもって述べられており、要するに、「大坂は非で、江戸こそしかるべき」であるという。大久保の卓越した決断力が、このとき鮮やかに躍動した。彼はこの一書生の投書の論旨に服し、江戸をもって首都とするに決めた。(司馬遼太郎・日本のかたちより) 東京の中から江戸を見つけ出し 岸本水府
江戸寒士の投書の要旨は、こんにち蝦夷地(北海道)が大切である。浪華(大坂)は蝦夷から遠すぎる。浪華の港は小船の時代のもので、海外からくる大鑑巨船のための修理施設がない。江戸には、横須賀の艦船工場がある。修理工場があってこそ安全港といえる。さらに浪華は市中の道路が狭く、郊外の野が広くない。その点江戸は大帝都をつくる必適の地である。浪華に遷都すると、宮城(きゅうじょう)から官衙(かんが‐官庁)邸第(ていだい)学校をすべて新築せざるを得ない。江戸にはそれが備わっている。浪華は別に帝都にならなくても、依然本邦の大市である。江戸は帝都にならなければ、百万市民四散して、一寒市になりはてる。 この筆者が明治の郵便制度の創始者・前島密であったことを大久保が知るのは、明治9年になってからである。大久保が希代の制度立案家を前に、当時を述懐し、あの投書の主は君と同じ姓だが、いったい誰だったろう、と言ったときはじめて前島は、自分であったことを明かした。 やんごとなき声で鳴く千代田区の鳩 中野六助 轍を残したまま過ぎてゆく冬 赤松蛍子
「西郷どん」 征韓論 征韓論の議論が正式に太政官の廟議にかけられたのは、明治6年6月12日である。当時、西郷は健康がすぐれなかった。少し歩くと息切れがし、心臓に圧迫感があった。西郷は書生や下僕といった無骨な連中にとりまかれていたとはいえ、彼の日常の世話が行き届かない。女手が必要であった。しかし西郷は女手を欲っしなかった。と言って 禁欲論者ではなく、この東京にあっては婦人をいっさい身辺に近づけず、また酒楼に登って芸妓とかかわりを持つということもしなかった。この私生活の清潔さは彼の無言の政治批判でもあった。 モアイ像の一つになっている時間 竹内ゆみこ かつての革命の士たちが、天下をとって太政官の大官になるや、いちはやく妾を蓄えたり、花柳界で豪遊したりすることが流行のようになっていた。西郷は他人の漁色について厳格なことを言ったことのない人物であったが、しかし革命政府の清潔ということについては異常なほどやかましく、少なくとも自分に対してだけは、修道僧のような生活を課していた。が、病気になった場合には、男手ばかりではうまくゆかなかった。弟・従道はそんな兄を心配して、政府が医学教育のために招いていたホフマンという内科医のところに連れてゆき、診察を受けさせた。ホフマンは西郷が肥満し過ぎていることを指摘し、運動をすすめた。 退き潮がくすぐっている足の裏 嶋沢喜八郎 そういう時期に、西郷の持論であった「征韓論」が、正式に廟議にかけられることになる。同年6月12日のことである。西郷は病を押して出席した。この日、6人の参議が出席した。西郷のほかに、土佐の板垣退助、後藤象二郎、佐賀の大隈重信、大木喬任、江藤新平、議長として公卿出身の太政大臣・三条実美が出た。 言わんでもその顔見たら分かります 北原照子 西郷の方がむしろ温和であった。西郷は断じて「軍事行動は不可である」と反対した。まず特命大使を送る。遣韓論である。意を尽くして朝鮮側と話し合い、それでもなお朝鮮側が聴き入れなければ、世界に義を明らかにして出兵する。その特命全権大使は、かつてのペリーのごとく軍艦に乗って出かけたり、護衛部隊を連れて行ったりすることも不可である、いっさい兵器を持たずに韓都に乗り込む、あるいは殺されるかも知れないが、「その役は私にやらせてもらいたい」と西郷は言った。 むつかしく考えないで水を飲む 谷口 義 この征韓論という一国の運命を決定しようとしている内閣は、厳密には「留守内閣」にすぎない。おもな閣僚は国家見学団という名目で外遊中である。大久保だけは単身帰国していたが、彼の留守中、かれの作ったはずの日本国家が急に侵略主義国家に変質しようとしていることに仰天し、しかも単独では抗するすべもなく、他の外遊組が帰ってくるまで病気静養と称して、ある種の昆虫のように死んだ真似をしようと考えた。大久保にすれば、はらわたの煮えるような憤りがある。「外遊組が帰るまで国家の大事を決してはならない」という約束を留守を守る閣僚たちと入念に交換していたのである。征韓論を実施すれば、たちどころに朝鮮の宗主国である清国とロシアを敵にすることになる。かれら留守参議は国家を玩具だと思っているかと大久保は歯噛みながらおもった。 哀の方へ傾いてゆくやじろべい 徳山泰子 大久保は外遊出発前に大隈重信参議に言い含めていた。「留守組のブレーキとなり、責任をもって出先へ報せてくれ」と。大隈は明治初年の少壮期には、「政治的奇才が高く評価され、合理主義者で才腕があった。大久保はそんな大隈を知り抜き、使うべしと思った。「私の留守中、大蔵省すべてをまかせる」という一言が、大隈をして終生の大久保びいきにした。 熨斗つけてお返ししたい人がいる 新川弘子 ところが明治6年6月12日当日の「征韓論」についての第一回閣議が開かれたとき、大隈は為すところがなかった。大隈も同じ参議とはいえ、西郷が吼え、板垣がそれに和せば、手のつけようがなかった。 方程式狂って影を切り刻む 上田 仁 【付録】 夏季休暇 「征韓論」が廟議に上がったのは、明治6年6月12日である。それっきりであった。あとは廟議がなかなか再開されず、その政局停帯の理由として、三条実美は、「清国に使いしている副島種臣外務卿が戻ってから」 無言という常備薬が効いてくる 佐藤正昭 頷いているだけでいい苦労人 近藤北舟 右・姫路藩十五万石酒井雅楽頭の中屋敷 江戸城大手門を正面に広大な酒井雅楽頭の屋敷がある。 「西郷どん」 維新後の西郷 江戸が東京に変わったという有り様は、大名や旗本の何千、何万坪という広大な屋敷に「官員」という新時代の権力者が入り込んで住み始めたということである。東京の多くの庶民にとっては、この種の「御前様どもの田舎訛り」が耳障りなだけで、代わり映えしなかった。日本橋川の北岸の一角が小網町で、そこにかっての酒井雅楽頭の中屋敷があり、長いなまこ塀が思案橋あたりから汐留までずっとつづいている。「いまは薩州の軍人やら書生やらが群れて住んでいるらしい」という噂があったが、当主の名前は知られていない。 人情の行き交う路地でひとり住む 小川賀世子 ときどき途方もない大男が、門のくぐりから出てくる。紋服に羽織袴という姿だったり、薩摩絣の着流しに小さな脇差を一本帯びているという格好だったりした。関取でもない証拠に頭は丸坊主であった。太い眉の下に闇の中でもぎょろりと光りそうな大目玉を持っていて、見様によっては伝奇小説に出てくる海賊の大頭目のようでもある。これが西郷参議であった。通称は吉之助、名乗りは隆盛。もっともこの隆盛というのは、彼の幕末当時からの同藩の同士である吉井友実が、新政府に名前を届け出るにあたって、「吉之助の名乗りは何じゃったかナ、たしか隆盛じゃったナ」とひとり合点して登録してしまった名前である。「あァ、おいは隆盛でごわすか」と、西郷は訂正しにも行かず、結局はこの名前が歴史の中の彼の名前になった。 スロープの優しい顔に導かれ 北原照子 西郷はその屋敷ぜんぶは使わず、長屋の一角だけを居所にしており郷里から妻子さえ呼び寄せていなかった。西郷にとって東京は、というよりも新政府の大官という浮世の栄誉は、この一事をみても、身につけてしまう存念がなかったように思われる。西郷のこの寓居での家族は、男ばかり8,9人である。熊吉は幕末当時から西郷に仕えている古い下僕だが、明治後、薩摩伊集院生まれの与助が加わり、さらに同谷山生まれの市助、同じく矢太郎、鹿児島城下で生まれた書生の小牧新次郎などがその面々であった。彼らの仕事はおもに掃除と雨戸の開け閉めであった。この大屋敷は毎日雨戸をあけて風を通さないと朽ちてしまう。それを1人でやる場合、朝から開け始めて昼前に終わるという大変な作業で、しかもその広大な屋敷を使おうとせず、かつて足軽が住んでいた門長屋の一角を、居所としているだけであった。 居心地がよくて胸びれうしろ肢 山本早苗
漬物屋の隣に渋いモノクロ屋 くんじろう 西郷は不在であった。「先生は何処おじゃしたか」と聞くと、熊吉が出てきて「先生は下総え鉄砲打ちにおじゃして」夕刻には帰られるはずだ、と答えた。狩猟は内科医のホフマン先生の勧めで、日常に取り入れている肥満解消のための運動である。日が暮れてから西郷が帰ってきた。西郷が供に連れていたのは、江戸生まれの児玉勇次郎という若者だが、ひと足先にくぐり戸から入って、朋輩の熊吉に―「お帰りだよ」と耳打ちしただけである。この一事だけでも西郷という人物が、世間一般の人間とは余程変わった男であることがわかる。 利き腕へ左右の地位がずれていく 森井克子 この当時、新政府の大官といえば、ほんの一部の人を除いては大名気取りで、旧大名のしきたりをそのまま踏襲している者が多かった「御前」と、使用人に呼ばせ花柳街などでも、大官に対してそう呼んだ。新呼称であった。かつては大名や旗本は殿様と呼ばれていたが、まさか殿様という敬称は時勢にそぐわないため、明治になってからそういう呼称ができた。が革命の最高の元老である西郷は人にそのように呼ばれたこともなく、呼ばせもしなかった。彼はこの時期、陸軍大将参議、近衛都督という、文武の最高権力を一身で兼ねていたが、その日常はまったく書生風で、例えば、帰宅のとき正門さえ開けさせないのである。 ピカピカのブランド着た日は疲れます 梅谷邦子 ついでに言えば、旧幕の大名・旗本から明治の大官に至るまで、当主が帰宅するとき、従者が先に走って玄関から「お帰りーっ」と叫ぶ。すると門内にいる家来衆がまず大門をぎぃ~と八の字にひらくのである。当主が入ると玄関の式台から廊下にかけて、家来や女中が居並んで平伏する。こういうバカバカしい容儀が、明治の東京でも行われていた。大官の多くは、そういう面では実に醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるものではなく、急に偉くなったものだから威厳を勘違いするものが多かった。が西郷はそうではなかった。裏で足を洗ってから座敷へあがり、「今じゃった」と挨拶してから、そこに川路がいるのを見ると、全身で喜びをあらわし、「今日は落ち着いて、ゆっくいと、飯でん食え」と言って歓待する。川路はそういう西郷に接する時、震えるような喜びを感ずるのである。 寸分の相違もなくてあほらしい 雨森茂樹 【付録】 西郷の本音 この時期、日本の朝野をとわず「征韓論」で沸騰しており、西郷はその渦中にいた。というより、西郷がこの渦を巻き起こした張本人のように見られており、事実西郷という存在がこの政論の主座にいなければ、これほどの騒ぎにはならなかったに違いない。と言って、西郷の心境は複雑で、彼は扇動者というより、逆に桐野利秋ら近衛将校たちが「朝鮮征すべし」と沸騰しているのに対し、「噴火山上に昼寝をしているような心境」と西郷自身が書いている。自分の昼寝によって辛うじて壮士的軍人の暴走を抑えているつもりであった。 秋の蚊が右脳ばかりを攻めて来る 合田瑠美子 |
最新記事
(11/21)
(11/14)
(11/07)
(10/31)
(10/24)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|