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川柳的逍遥 人の世の一家言
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謎として風の起点を問うている  杉浦多津子

Saga Rebellion.jpg

            佐賀の乱

西郷が庄内藩士に語った言葉に、

「才芸ある人間を長官に据えたりすれば必ず国家を覆す」

というのがある。このことも若い頃の古傷から出た彼の

政治哲学に相違ない。この言葉は、むかし西郷が水戸の

藤田東湖から聞いた、という。その東湖の言葉とはー

「小人ほど才芸があって便利なものである。これは用い

なければならない。しかしながら長官に据え、重職を授

ける必ず邦家を覆す。であるから決して上に立ててはい

けないものである」正に江藤新平の乱を言い当てている。

筆箱に痒い言葉をかけました  福尾圭司

「徳富蘇峰『近世国民史』」の画像検索結果

「西郷どん」江藤新平と大久保利通

岩倉具視大久保利通、木戸孝允ら大掛かりの「観光団」
が欧米諸国を巡遊している間に、西郷を主柱とする留守
政府は法律的な封建的身分差別を撤廃し、士族の特権を
解消した。秩禄処分という名の家禄削減も実行される。
こうした改革の遂行にめざましい働きをしたのは、西郷
が司法卿に推した江藤新平だった。江藤について評する
文章がある。
下記、徳富蘇峰『近世国民史』ゟ

その向うはジンベイザメの領分  山口ろっぱ

「江藤新平は…機略の持ち主であり、且つつとに法度改正に心を用い、眼敏手快、当代まことに得易からざるの材であった。もし彼にして生存せしめたらんには、明治憲章の美を成したる勲功は、伊藤博文を待たずして、恐らくは彼に帰したであろう。…新政府草創の際、其の法度の整斉完美を要するに於いて、最も彼の手腕を必須としたるのは論を俟たず。惟(おも)うに彼は本来のラジカルである。ラジカルとは、徹底していて過激で急進的である事。特長、願望は彼の決して潔しとするところではなかった。彼が論理的の頭脳と、彼が峻烈なる気象と、而して鋭利なる手段とは、向う所可ならざるはなき有様であった。江藤は其の力を専ら法制の上に用いたるも、彼は本来政治家にして、決して刀筆の吏をもて、自ら満足するものではなかった」

失敗をすると決めてから笑う  森中惠美子   

兎に角、江藤は備前佐賀藩が明治政府に送り込んだ鞘のない諸刃の剣のような男であった。触れれば怪我人が出る。しかし役には立つ。「国家とは何ぞや」という主題を、幕末のころから江藤も大久保も考えてきた。おそらくこれが国家だろうという想像で得た諸要素を建築材料とし、手品のように層々と組み上げて現実の国家をつくりあげてみせる才質は、この2人のほかに持っている者はない。国家をつくる仕事は、大久保という工匠の手に委ねられている。備前佐賀藩という微弱な勢力を背景とする江藤には施工権はなかった。それだけに江藤は大久保を憎んだ。憎む理由は、大久保が薩摩閥だから力をもっている、だけのことでである。

やじろべえちょこっと贔屓しているな  加納美津子

ただそれだけのことで他人を憎むが出来るというのは、一見異常に見えるが、しかし権力政治の社会ではありふれた感情であるにすぎない。江藤はかねがね権謀で薩長閥を倒そうとしており、これが行政面では、明治日本の法制の基礎を築いた男の執拗な素志であった。江藤の薩摩切り崩しの方法は、まず西郷をおだてることであった。それによって大久保と喧嘩をさせ、大久保を斃し、しかる後に西郷を斃してから長州を押し崩して、第二維新を成就する。ただ江藤の拙さは、その策を人にも言い散らし、そのことが大久保の耳にも入っていたことである。

カサコソと抱いた骨壷から返事  桑原伸吉

江藤が「薩摩人はバカだ」という意味のことを言ったのは、江藤の薩摩人に対する一般の印象だが、具体的に言えば西郷その人を指していた。江藤のいうバカは、「薩人は朴直にして淡泊なり。そのなすところも、大概、磊落にして、公正を失わず」という、人格美としての表現である。磊落とは、心が広く小事に拘らないさまをいう。要するに江藤は薩摩人をほめている。しかし江藤の人の悪さは「だから利用しやすい」というところにある。江藤は征韓論という国家の大事を道具にし、西郷を道具にし、政府を倒そうとしている。そういうことを聞き、察するにあたり、大久保は征韓論者としての江藤を許しがたいとしていた。

夕凪の裏に罵詈雑言の立つ  酒井かがり    

江藤は緻密な論理化だが、同時にその論理に感情家であるかれの情念が入りすぎるためしばしば飛躍する。その飛躍が、この国家設計者の命取りとなる。「明治六年の政変」で江藤は西郷、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣とともに参議を辞し、故郷の佐賀に帰った。しかし江藤をライバル視する大久保は佐賀県権令に任じた岩村高俊を使って江藤を挑発し、暴挙に出ることを誘導する。途中で江藤は西郷を揖宿郡(いぶすき)の鰻温泉に訪ね、挙兵を迫った。「西郷の朴直は、事を共にするに足る」と、あれほど西郷の決起に期待しながら、肝心の西郷は応じなかった。かれは江藤に踊らされることなく、江藤の方が踊り、明治七年佐賀の乱を起こし敗北、江藤は高知に逃れそこで捕まって鳩首された。だが、江藤の起こした佐賀の乱は、各地の士族の乱の導火線となり、私学校事件へと繋がっていく。

未完のままに流れていった結露  みつ木もも花

「江藤新平」の画像検索結果
  江藤新平

【付録】 西郷が語る-江藤の救援を拒否した理由

「江藤らは事を起こした。それに従った士族は、二千五百、三千にも達したであろう。しかるに事や敗るるに及んで彼らを見殺しにし、見捨てておいて、おめおめと逃げてきた。そういう同情なき者に対し、どうして私が面会できるか」。また大義を説いて聞かせる余地があるか」。
この三年後、西南の役で、若者への同情が西郷を挙兵に追い込み、その命を散らせる結果となった。皮肉なものである。東日本新聞社編・『西郷隆盛伝』、

神様を跨いで運を取り逃がす  平井美智子

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 ハンガーに下がったままのうしろ髪  みつ木もも花 関連画像

「西郷どん」 大久保との別れ

明治7年1月9日付けの旧庄内藩士・酒井玄蕃の筆記がある。鬼玄蕃
といわれた酒井は、庄内藩が西郷に傾倒して、藩主以下、次々と鹿児
島を訪れる中で、「明治六年の政変」で下野してまもなくの西郷を訪ね、その談話を筆記したものである。
荘内藩士酒井了恒(玄蕃)
栗田元輔、伊藤孝継の三人、菅氏の旨を受け、鹿児島に赴き、辞職後
の意中を問ひ、征韓論議の顛末を徴取するを得た
と始まり此の直
話は
・・・
続く。そこには征韓論をめぐるナマナマしい真相を
あきらかにすると同時に、西郷の胸中が面々と綴られている。西郷が
征韓論者ではなかったと、勝海舟『清譚と逸話』の中で述べているが、この後のページで紹介したい。

地図にない島です花は咲いている  津田照子

西郷の征韓論である。西郷は「遣韓論」として、単身乗り込んで相手
と交渉することに自信を持っていた。例えば、勝海舟とやってのけた「江戸無血開城」である。だから韓国へも丸腰で行くと主張していた。この点にブレはない。ではなぜ、その問題を巡って紛糾し「明治六年
の政変」となったのか。西郷は、声高に征韓を主張していない。三条
実美に送った手紙の末尾には、「只今私共事を好み、みだりに主張する論にてはこれなく・・・断然使節を召し立てられ、彼の曲分明に公普すべき時、何卒私を遣わされたく、決して御国辱を醸し出し候は万々これなく候につき、至急ご評決成し下されたい」と希望を表明している。

シーソーに蓄積された片想い  渡邊真由美

ところが三条は西郷の手紙の前半の内容の方を重視し、西郷を「征
韓即行論者」
と思ってしまった。その文面とは「朝鮮の一条、ご一
新涯より御手をつけられ、もはや五六年にも相立ち候わん。然る処、
最初親睦を求められ候儀にてはこれある間敷、定めてご方略これあり
たる事と存じ奉り候。今日彼が驕誇侮慢(きょうこぶまん)の時に至り、始めを変じ因遁の論に渉り候ては、天下の嘲りを蒙り、誰あって
国家を隆興すること得んや」とある。この文意は、まず三条の意向を
さぐり、西郷は対朝鮮強硬論に傾いているように見せるものであった。自分を使節に決めさせるための脅しみたいなものであった。三条は元
来、生真面目な性分だけに、この征韓論が廟議にかけられてこのかた、痛々しいほどに痩せてしまった。まともな思考のできる状態ではなか
った。この部分で三条は西郷が征韓論者であると流布してまわった。

雨戸は開かないし時々鋸が響く  島田握夢

西郷が一見人が変わったように健康に気をつけはじめたのも、征韓論という一大希望を、国家と自己の人生の向こうに見出したからであった。西郷にとって生死の問題であった。だが、この西郷の悲壮感が大久保との亀裂を生むこととなる。幕末での西郷・大久保は、一対のものであった。ところが維新後、新国家建設の段階になると、互いにこれほど違った政治的体質をもったものも稀ではないかと気づくようになった。図式的にいえば、大久保のもとに新官僚群が集まっている。西郷のもとに意気と気概のある壮士的気分の者たちが、風を慕って集まっていた。両人とも徒党をなすことを意図しなかったが、自然に党派ができた。

鐘の鳴る方へ傾く陽も月も  嶋沢喜八郎

大久保が帰国した早々、西郷はしきりに大久保の邸に遊びに来た。そこで西郷は自分の西洋観を語った。「西洋は遠近を攻伐しあって今日の盛大を築いた。武を恐れては国家は成り立ちませぬぞ。一蔵さァ」と征韓論をいうのである。大久保は、にべもなく、西郷の議論に反対した。大久保はこの点、一歩も退かなかった。それには西郷もあきれ「尊王攘夷の一蔵が、ひとたび天下をとると、ああも腰抜けになるものか」とはたの者にこぼした。大久保の方も又、西郷の頑質にあきれ「吉之助さァは、ああいう物分かりの悪い人ではなかった。どうかしたのではないか」と思った。ただ両人の悲劇は、立場が立場だけに天下を二分する議論になってしまっていることだった。

顔よりも尻尾こんなに物を言う  竹内いそこ

大久保は、西郷のその頑質こそ国家を亡ぼすものと思った。これを何
とか阻止しようとした。仲間が帰ってくるまで政治活動を起こさなかったが、しばしば「西郷は困ったもの」と、大久保は訪欧中の薩人たちに書き送った。たとえば西郷の従弟で幕末には西郷の手足になって働いた大山巌が、このころ陸軍少将の身分を捨て、一書生としたフランスに留学中だったが、大久保はこれに対し、「国家のことは、一時的な奮発とか暴挙とかでもって愉快を語るものではありません」と、暗に西郷のことを語っている。この後、大久保は東京を離れることにした。東京にいては人が訪ねてくる。もし会えば多少の意見を述べねばならぬかも知れず、意見を述べれば拡大されえ世間に聞こえ、西郷ら征韓派を無用に刺激せぬとも限らないからである。大久保は8月16日に東京を発った。その夜には、温泉に浸かっていた。

初めからミシン目の付いていた二人  松島巳女

忠篤公
















イケメン藩主・酒井忠篤

【付録】
 庄内藩の忠義

庄内藩は譜代の名藩であり、幕府から江戸市中警護を命じられ慶応3
年(1867)末には江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件を起こしている。
この時、薩摩藩士40数名が死んでいる。戊辰戦争では会津藩ととも
に激しい抵抗を行った。
よって鶴岡城が接収された時、藩主も家臣も報復による厳しい処罰を
覚悟していた。だが官軍参謀の黒田清隆は、軍門に下った庄内藩主を
丁重に待遇した。家臣たちは予想もしなかった寛容な処置に感激し、
明治2年菅実秀(すげさねひで)が上京して黒田を訪ね、礼を述べた。
その時「寛大な処置は西郷の指示」だったことを知り、西郷の温かい
人柄に心打たれたのだった。翌年の秋、謹慎が解けた旧藩主の酒井忠
(ただすみ)は藩士70数名と共に鹿児島を訪れ、西郷の教えを受
けた。西南戦争が起こったときも多くの庄内藩士がいたが、西郷は、
彼らを巻き込みたくないと国に帰した。それでも、数人の庄内藩士が
西南戦争に参加し、戦死を遂げている。

ボクの今あなたの胸が現住所  ふじのひろし

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はかどりが悪く酢コンブ噛んでいる  山本昌乃「東京遷都」の画像検索結果

         東京遷都 (月岡芳年)

慶応4年(1868)9月、江戸は東京と改称、元号は明治と改められる。9月20日には、明治天皇は岩倉具視や伊達宗城らを伴い京都を出発、長州・土佐・大洲の4藩の警護に守られ東京に行幸。その総数は3,300人にも及んだ。

「西郷どん」 東京遷都

明治維新のことだが、この成立に最大の功があったのは、徳川慶喜であると言っていい。ただ、この15代将軍は、日本国の政権という大荷物を京都御所の塀の中に投げ込んだだけで、さっさと大坂城に去り、ついで江戸へ帰った。当たり前のことだが、金や役所までつけて政権を渡したわけではない。このため、京にいる薩長など各藩の首脳は、政権という大荷物をとりまいて一時、当惑した。もともと薩摩の西郷大久保利通の予定では、討幕によって革命を果たすつもりだったが、慶喜の大政奉還によって肩透かしされたのである。

汗染みが乾かぬ天下国家論  前中知栄

京には、役所もなかった。当座、御所のなかの施薬院を使ったり、また公卿筆頭の九条家の屋敷を「太政官代」とよんで、寄り合いに使ったりした。九条邸は堺町御門のそばにあり、公卿屋敷としては一番広かった。それでも江戸の大名屋敷の大きさとは、比べようもない。この小さな九条邸が、革命政権のいわば最初の政庁だった「どうも、手ぜまだ」と、嘆くうちに遷都論がひそかに論ぜられるようになった。むろん、公然と議論できない。古来、都は京都だったし、遷都を考えるだけでも不逞不遜のそしりをまぬがれなかった。

ボリュームを下げて本音を語りだす  百々寿子

まず薩摩の兵学者・伊地知正治が大阪への遷都を論じ、意見書を書いた。意見書では、大坂城の本丸を皇居とする、としている。さらには二の丸に百寮を設ける。そこは現在でいえば、N H Kや大阪府庁がある場所である。
大坂城は16世紀の秀吉の時代でこそ、この城は世界の耳目を驚かすほどに大きかったが、慶応3年の日本のサイズには適いそうになく、とくに大坂城二の丸に多くの政府機関を置くなどは、ベビー服を関取に着せようというに等しい。

目を閉じて見えてくるのは過去ばかり  笠原道子

大久保も大分以前から、遷都論を蔵していたが、その慎重な性格から、他に洩らさなかった。大久保が遷都論を口にするのは、翌年正月17日で、伊地知意見書から2ヵ月を経ていた。当然ながら、公家の多くは京に固執し遷都に反対した。いま天子を擁して、大坂にゆこうとするのは陰謀である。薩長相携えて天下を制せんとするものである、と岩倉具視に噛みついた佐幕派の公家もいた。結局、大久保は遷都という言葉を避け、巡航とし、大坂の本願寺別院を行在所(あんざいしょ)にする、ということにした。出発は3月21日ということになった。

積乱雲を食べに行きますが 何か 赤松蛍子

それより少し前の3月10日、「江戸寒士・前島来輔」という署名で、大久保の宿所に投書したものがあった。みると、大きな構想力をもった意見で、精密な思考が明晰な文章でもって述べられており、要するに、「大坂は非で、江戸こそしかるべき」であるという。大久保の卓越した決断力が、このとき鮮やかに躍動した。彼はこの一書生の投書の論旨に服し、江戸をもって首都とするに決めた。(司馬遼太郎・日本のかたちより)

東京の中から江戸を見つけ出し  岸本水府

「東京遷都」の画像検索結果
   明治天皇の東京行幸

【付録】 「江戸寒士・前島来輔

江戸寒士の投書の要旨は、こんにち蝦夷地(北海道)が大切である。浪華(大坂)は蝦夷から遠すぎる。浪華の港は小船の時代のもので、海外からくる大鑑巨船のための修理施設がない。江戸には、横須賀の艦船工場がある。修理工場があってこそ安全港といえる。さらに浪華は市中の道路が狭く、郊外の野が広くない。その点江戸は大帝都をつくる必適の地である。浪華に遷都すると、宮城(きゅうじょう)から官衙(かんが‐官庁)邸第(ていだい)学校をすべて新築せざるを得ない。江戸にはそれが備わっている。浪華は別に帝都にならなくても、依然本邦の大市である。江戸は帝都にならなければ、百万市民四散して、一寒市になりはてる。

この筆者が明治の郵便制度の創始者・前島密であったことを大久保が知るのは、明治9年になってからである。大久保が希代の制度立案家を前に、当時を述懐し、あの投書の主は君と同じ姓だが、いったい誰だったろう、と言ったときはじめて前島は、自分であったことを明かした。

やんごとなき声で鳴く千代田区の鳩  中野六助

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轍を残したまま過ぎてゆく冬  赤松蛍子

 「征韓論」の画像検索結果
         中央に座しているのが西郷

もともとは「遣韓論」であった西郷の主張は、どこかで「征韓論」へと歪められた。陰で動いたものがいる。

「西郷どん」 征韓論

征韓論の議論が正式に太政官の廟議にかけられたのは、明治6年6月12日である。当時、西郷は健康がすぐれなかった。少し歩くと息切れがし、心臓に圧迫感があった。西郷は書生や下僕といった無骨な連中にとりまかれていたとはいえ、彼の日常の世話が行き届かない。女手が必要であった。しかし西郷は女手を欲っしなかった。と言って 禁欲論者ではなく、この東京にあっては婦人をいっさい身辺に近づけず、また酒楼に登って芸妓とかかわりを持つということもしなかった。この私生活の清潔さは彼の無言の政治批判でもあった。

モアイ像の一つになっている時間  竹内ゆみこ

かつての革命の士たちが、天下をとって太政官の大官になるや、いちはやく妾を蓄えたり、花柳界で豪遊したりすることが流行のようになっていた。西郷は他人の漁色について厳格なことを言ったことのない人物であったが、しかし革命政府の清潔ということについては異常なほどやかましく、少なくとも自分に対してだけは、修道僧のような生活を課していた。が、病気になった場合には、男手ばかりではうまくゆかなかった。弟・従道はそんな兄を心配して、政府が医学教育のために招いていたホフマンという内科医のところに連れてゆき、診察を受けさせた。ホフマンは西郷が肥満し過ぎていることを指摘し、運動をすすめた。

退き潮がくすぐっている足の裏  嶋沢喜八郎

そういう時期に、西郷の持論であった「征韓論」が、正式に廟議にかけられることになる。同年6月12日のことである。西郷は病を押して出席した。この日、6人の参議が出席した。西郷のほかに、土佐の板垣退助、後藤象二郎、佐賀の大隈重信、大木喬任、江藤新平、議長として公卿出身の太政大臣・三条実美が出た。
板垣は政論は常に痛快でなければならないと思っている男で、この席上まっ先に口火をきり、「朝鮮国の暴慢はもはや極に達している。ただちに朝韓半島に兵を送るべきである。外交談判などはそれからのことだ」と主張した。板垣という過激な征韓論者が、のち自由民権運動の急先鋒に転ずるというところをみても、この時期の征韓論がいかに複雑なエネルギーを含んだものであったかがわかる。

言わんでもその顔見たら分かります  北原照子

西郷の方がむしろ温和であった。西郷は断じて「軍事行動は不可である」と反対した。まず特命大使を送る。遣韓論である。意を尽くして朝鮮側と話し合い、それでもなお朝鮮側が聴き入れなければ、世界に義を明らかにして出兵する。その特命全権大使は、かつてのペリーのごとく軍艦に乗って出かけたり、護衛部隊を連れて行ったりすることも不可である、いっさい兵器を持たずに韓都に乗り込む、あるいは殺されるかも知れないが、「その役は私にやらせてもらいたい」と西郷は言った。

むつかしく考えないで水を飲む  谷口 義

この征韓論という一国の運命を決定しようとしている内閣は、厳密には「留守内閣」にすぎない。おもな閣僚は国家見学団という名目で外遊中である。大久保だけは単身帰国していたが、彼の留守中、かれの作ったはずの日本国家が急に侵略主義国家に変質しようとしていることに仰天し、しかも単独では抗するすべもなく、他の外遊組が帰ってくるまで病気静養と称して、ある種の昆虫のように死んだ真似をしようと考えた。大久保にすれば、はらわたの煮えるような憤りがある。「外遊組が帰るまで国家の大事を決してはならない」という約束を留守を守る閣僚たちと入念に交換していたのである。征韓論を実施すれば、たちどころに朝鮮の宗主国である清国とロシアを敵にすることになる。かれら留守参議は国家を玩具だと思っているかと大久保は歯噛みながらおもった。

哀の方へ傾いてゆくやじろべい  徳山泰子


木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通

大久保は外遊出発前に大隈重信参議に言い含めていた。「留守組のブレーキとなり、責任をもって出先へ報せてくれ」と。大隈は明治初年の少壮期には、「政治的奇才が高く評価され、合理主義者で才腕があった。大久保はそんな大隈を知り抜き、使うべしと思った。「私の留守中、大蔵省すべてをまかせる」という一言が、大隈をして終生の大久保びいきにした。
大隈は西郷があまり好きではなかった。西郷はアホだと思っていた。政治は才略よりも人格であるという考え方をする西郷が愚鈍に見えたのである。また江藤新平は同じ佐賀藩出身ながら性格的にあわない。かれは緻密な論理派だが、同時にその論理に感情家であるかれの情念が入り過ぎるため、危険な匂いがするのである。中間派の大木喬任はたわいない。議長の三条実美は政治的に物事を処理できるような能力はない。面々を見て大隈は大久保の期待に応えようと考えたことは言うまでもない。

熨斗つけてお返ししたい人がいる  新川弘子

ところが明治6年6月12日当日の「征韓論」についての第一回閣議が開かれたとき、大隈は為すところがなかった。大隈も同じ参議とはいえ、西郷が吼え、板垣がそれに和せば、手のつけようがなかった。
とくに西郷が、「なにも韓国に対して武力を用いようというのではござりませえぬ。是非私に遣韓大使を仰せつけあって彼の国都へ遣わしていただきたいということでございます」という分には、大隈として反対の仕様がなかった。西郷は言葉の丁寧な人物で、こういう場合、標準語をつかい、粗野な言葉はいっさい使わなかった。土佐の後藤象二郎は雷同した。江藤新平は1も2もなく征韓論派である。大木は征韓論派でなかった。しかし反対もしなかった。

方程式狂って影を切り刻む  上田 仁  

【付録】 夏季休暇

「征韓論」が廟議に上がったのは、明治6年6月12日である。それっきりであった。あとは廟議がなかなか再開されず、その政局停帯の理由として、三条実美は、「清国に使いしている副島種臣外務卿が戻ってから」
とした。副島が帰朝すると、同年7月の暑気はものすごく、「暑いために廟議をしばらく休みます」という三条は、いかにも公卿らしい言い訳が通し、「太政官は夏季休暇中」の札を会議室のドアに掲げさせ、政局の動きを止めた。もっとも、この夏季休暇を妙案を設けさせたのは大久保利通の差し金であった。大久保らしい「沈黙」の手段である。平成の今もこの方式は生きている。

無言という常備薬が効いてくる  佐藤正昭

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頷いているだけでいい苦労人  近藤北舟

 

右・姫路藩十五万石酒井雅楽頭の中屋敷

江戸城大手門を正面に広大な酒井雅楽頭の屋敷がある。
この酒井家屋敷は明治になり、新政府に接収され、
明治4年、新政府の役人に招かれた西郷隆盛に屋敷と
して与えられた。この雅楽頭屋敷跡は、相当に広く、
全てではないらしいがそれでも、西郷一人の屋敷と
しては、広大であった。

拡大してご覧ください。
 江戸城図

「西郷どん」 維新後の西郷

江戸が東京に変わったという有り様は、大名や旗本の何千、何万坪という広大な屋敷に「官員」という新時代の権力者が入り込んで住み始めたということである。東京の多くの庶民にとっては、この種の「御前様どもの田舎訛り」が耳障りなだけで、代わり映えしなかった。日本橋川の北岸の一角が小網町で、そこにかっての酒井雅楽頭の中屋敷があり、長いなまこ塀が思案橋あたりから汐留までずっとつづいている。「いまは薩州の軍人やら書生やらが群れて住んでいるらしい」という噂があったが、当主の名前は知られていない。

人情の行き交う路地でひとり住む  小川賀世子

ときどき途方もない大男が、門のくぐりから出てくる。紋服に羽織袴という姿だったり、薩摩絣の着流しに小さな脇差を一本帯びているという格好だったりした。関取でもない証拠に頭は丸坊主であった。太い眉の下に闇の中でもぎょろりと光りそうな大目玉を持っていて、見様によっては伝奇小説に出てくる海賊の大頭目のようでもある。これが西郷参議であった。通称は吉之助、名乗りは隆盛。もっともこの隆盛というのは、彼の幕末当時からの同藩の同士である吉井友実が、新政府に名前を届け出るにあたって、「吉之助の名乗りは何じゃったかナ、たしか隆盛じゃったナ」とひとり合点して登録してしまった名前である。「あァ、おいは隆盛でごわすか」と、西郷は訂正しにも行かず、結局はこの名前が歴史の中の彼の名前になった。

スロープの優しい顔に導かれ  北原照子

西郷はその屋敷ぜんぶは使わず、長屋の一角だけを居所にしており郷里から妻子さえ呼び寄せていなかった。西郷にとって東京は、というよりも新政府の大官という浮世の栄誉は、この一事をみても、身につけてしまう存念がなかったように思われる。西郷のこの寓居での家族は、男ばかり8,9人である。熊吉は幕末当時から西郷に仕えている古い下僕だが、明治後、薩摩伊集院生まれの与助が加わり、さらに同谷山生まれの市助、同じく矢太郎、鹿児島城下で生まれた書生の小牧新次郎などがその面々であった。彼らの仕事はおもに掃除と雨戸の開け閉めであった。この大屋敷は毎日雨戸をあけて風を通さないと朽ちてしまう。それを1人でやる場合、朝から開け始めて昼前に終わるという大変な作業で、しかもその広大な屋敷を使おうとせず、かつて足軽が住んでいた門長屋の一角を、居所としているだけであった。

居心地がよくて胸びれうしろ肢  山本早苗

「川路利良」の画像検索結果
   川路利良

この寓居を将来大警視(初代警視総監)になる川路利良が訪れた。「正どん、お前さァも一緒に行かんか」とフランス行きの肩を押してくれた西郷への帰国挨拶のためである。挨拶の順としては、官僚社会の親玉・大久保利通や直属の上司である江藤新平司法卿より、大恩ある西郷は後回しだった。そのような順番など気にしない西郷であることを知っていたからである。川路が西郷とじかに接するようになったのは元治元年の「蛤御門の変」以来だったから、当時西郷のそばにいた西郷の弟・慎吾(従道)や従妹の大山弥助(巌)流罪を共にした村田新八、用心棒のように身辺から離れない中村半次郎(桐野利秋)などから比べれば、ずっと新参者だった。新参とはいえ、西郷というおの巨大な光芒を浴びてしまったという点では、その連中と変わりはなかった。
                      司馬遼太郎「翔ぶが如く」より

漬物屋の隣に渋いモノクロ屋  くんじろう

西郷は不在であった。「先生は何処おじゃしたか」と聞くと、熊吉が出てきて「先生は下総え鉄砲打ちにおじゃして」夕刻には帰られるはずだ、と答えた。狩猟は内科医のホフマン先生の勧めで、日常に取り入れている肥満解消のための運動である。日が暮れてから西郷が帰ってきた。西郷が供に連れていたのは、江戸生まれの児玉勇次郎という若者だが、ひと足先にくぐり戸から入って、朋輩の熊吉に―「お帰りだよ」と耳打ちしただけである。この一事だけでも西郷という人物が、世間一般の人間とは余程変わった男であることがわかる。

利き腕へ左右の地位がずれていく  森井克子

この当時、新政府の大官といえば、ほんの一部の人を除いては大名気取りで、旧大名のしきたりをそのまま踏襲している者が多かった「御前」と、使用人に呼ばせ花柳街などでも、大官に対してそう呼んだ。新呼称であった。かつては大名や旗本は殿様と呼ばれていたが、まさか殿様という敬称は時勢にそぐわないため、明治になってからそういう呼称ができた。が革命の最高の元老である西郷は人にそのように呼ばれたこともなく、呼ばせもしなかった。彼はこの時期、陸軍大将参議、近衛都督という、文武の最高権力を一身で兼ねていたが、その日常はまったく書生風で、例えば、帰宅のとき正門さえ開けさせないのである。

ピカピカのブランド着た日は疲れます 梅谷邦子 

ついでに言えば、旧幕の大名・旗本から明治の大官に至るまで、当主が帰宅するとき、従者が先に走って玄関から「お帰りーっ」と叫ぶ。すると門内にいる家来衆がまず大門をぎぃ~と八の字にひらくのである。当主が入ると玄関の式台から廊下にかけて、家来や女中が居並んで平伏する。こういうバカバカしい容儀が、明治の東京でも行われていた。大官の多くは、そういう面では実に醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるものではなく、急に偉くなったものだから威厳を勘違いするものが多かった。が西郷はそうではなかった。裏で足を洗ってから座敷へあがり、「今じゃった」と挨拶してから、そこに川路がいるのを見ると、全身で喜びをあらわし、「今日は落ち着いて、ゆっくいと、飯でん食え」言って歓待する。川路はそういう西郷に接する時、震えるような喜びを感ずるのである。

寸分の相違もなくてあほらしい  雨森茂樹

【付録】 西郷の本音

この時期、日本の朝野をとわず「征韓論」で沸騰しており、西郷はその渦中にいた。というより、西郷がこの渦を巻き起こした張本人のように見られており、事実西郷という存在がこの政論の主座にいなければ、これほどの騒ぎにはならなかったに違いない。と言って、西郷の心境は複雑で、彼は扇動者というより、逆に桐野利秋ら近衛将校たちが「朝鮮征すべし」と沸騰しているのに対し、「噴火山上に昼寝をしているような心境」と西郷自身が書いている。自分の昼寝によって辛うじて壮士的軍人の暴走を抑えているつもりであった。

秋の蚊が右脳ばかりを攻めて来る  合田瑠美子

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