- 2016/11/02
- Category : ポエム&川柳
最古の真田丸・絵図
真田丸奮戦
大坂の陣直前に幸村が築いた真田丸、その存在は以前から知られていたが、
近年、そのその構造や役割について見直しが進んでいる。
従来、真田丸は大阪城の弱点である南東平野口の防御を固めるべく、
あくまで惣構えの補強として設けられた「曲輪」だとされてきた。
しかし実は、およそ南北220m、東西140mにも威容を誇る、
惣構えの外に築かれた「独立した城」であった。
最新の研究によれば、真田丸の周囲には水堀ではなく空堀が巡っていた
ことが明らかになっている。
また南東口は地形的にも弱点というより、むしろ、
天然の要害であったという。
悲しみを瞳の底に書き留める 小池正博
松江歴史館で見つかった真田丸絵図(上が南)
「真田丸最古の絵図見つかる」
今回見つかった真田丸の絵図は、元禄年間(1688〜1704)頃のもので、
真田丸を詳細に描いたこれまで最も古い絵図は、
広島中央図書館所蔵の「摂津・真田丸」宝暦3年(1753)とされてきた。
大坂冬の陣(1614)で豊臣方の武将・真田幸村が大坂城南側に
築いた出城「真田丸」の江戸時代の絵図(縦28センチ、横41センチ)が、
2016/10月12日、松江市の松江歴史館で見つかった。
真田丸の絵図は、戦時の布陣を示す略図が多いが、
今回のものは跡地で写実的に描かれたとみられ、専門家は、
「謎が多い真田丸の姿に迫ることができる重要な発見」としている。
(各紙掲載文参照)
三日月の欠けた部分がわたしです 岩田多佳子
今回の絵図は、江戸時代の武士が研究に用いた城の絵図集で、
松江市の男性が市に寄贈した「極秘諸国城図」(74枚)の1枚。
絵画集の包み紙には作製時期を示すとみられる
「元禄」(1688〜1704)の文字が書かれていた。
絵図の北側には「出丸 廿五(二十五)間程」と記載があり、
真田丸に「本丸」と「出丸」があったと解釈できる。
絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)は、
「真田丸自体に出丸と本丸があったとすれば、
大坂城から独立した軍事拠点といえる」 と話している。
屋台にはガラスの騎士の席がある ふじのひろし
大坂冬陣備立図 (大阪城と真田丸の位置関係)
真田丸の北側には大坂城があり、当時は防御の必要性が低かったと
こしぐるわ
みられるが、出丸の東側には側面を防御する「腰曲輪」も描かれている。
また真田丸の南側に一番外側の堀を意味する「惣構堀」と記れた堀があり、
堀の底に下りるようなスロープが描かれている。
こうしたことから、「真田丸の独立性がうかがえる」というのだ。
真田丸は、幸村が1614年の「大坂・冬の陣」で築いた砦で、
戦いのあとすぐに取り壊されたため、大坂城の中にあったのか、
独立した出城として建てられたのか解明されていなかった。
サランラップで包む私の急所 雨森茂樹
PR




