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川柳的逍遥 人の世の一家言
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うめぼしと呼べばくるぶしハイと言う  井上一筒


  真田幸村生存説

「知将の横顔」

大坂城での真田信繁の人質時代、豊臣秀吉、大谷吉継、石田三成の厚遇を

得た信繁は、
秀吉政権の武将や官僚たちとの交友にも恵まれることになる。

信州上田にいたら決して、経験し得ない大名などからも声をかけられた。

これらは信繁が武人としても、人間としても大きく成長する糧になった。

そして、直江兼続に教えられ、吉継や三成からも学んだ「義」について

考えるうちに
父・昌幸「義」を思うようになった。

冬という茶鼠色の父のこと 河村啓子

この時点での昌幸の生き方は、

「真田を如何に生き長らえさせるか」

にあって、そのために徳川・北条・上杉、さらには豊臣に、

と猫の目のように臣従先を替えている。

およそ義からは遠い位置にいるのではないか、と考えたこともあった。

しかし吉継や三成の義を知って、

「父は、武田信玄・勝頼という二代に仕えることで、義を全うした。

  今は、真田を守ることが、祖父・幸隆への義と捉えているのだはないか」

と思い至る。

生臭い我が右の手を煮沸する  嶋沢喜八郎

考えてみれば、昌幸ほど、武田への義に生き抜いた武将はいなかった。

それが、

「大勢力に屈せずに、智謀を駆使して真田の生き残りを懸けているのだ。

   それこそが真田の六文銭の誇りであり、

   私を人質にした理由であったのだ」


と信繁には理解できた。

信繁は越後、大坂という外側から、真田家と父親の昌幸を眺めることで、

上田にいたのでは絶対に気付かない多くのことを悟った。

武人としては何よりも「「義」が大事であり、また「真田の家」こそ、

守るべき誇りであることに、信繁は気付かされたといってもいい。

止めてくれどんどん人が好きになる  むさし    


   日本の伝説


「信繁逸話・伝説」

直江兼続、大谷吉継、石田三成。

信繁は人質時代、彼らと親しく接したと伝わるが、

その背景には将才とともに、誰からも愛される人柄もあったようだ。

信繁の人となりを伝える逸話はいくつか残る。

主家・武田氏が滅亡した折、信繁は兄・信之とともに甲斐・新府城から

上野岩櫃城へと脱出を図るが、途中、難所の雁ヶ沢にさしかかった。

深い谷に信繁は「これは落ちたら命はない」と驚くが、

信之と「どちらが飛び降りるか」とふざけ合い、

さらに「飛び降りる勇気なあるものはいるか?」

と家臣たちに冗談で声をかけた。

命からがら逃げている最中とは思えない、信繁の陽気な一面が窺える。

踝に無理難題を強いている  三村一子

しかし問題はこの後で、

なんと家臣の一人、赤沢嘉兵衛が冗談を真に受けて

本当に飛び降りてしまったのだ。

幸い赤沢は無事だったが、必要もないのに家臣を危険にさらしたことで、

信繁が後に父・昌幸から酷く叱られたのは言うまでもない。

真っ青な心の空を遺産とす  本多洋子



薩摩半島頴娃の伝真田幸村の墓

「幸村、秀頼・の薩摩落ち伝説」

戦国時代、不遇の死を遂げた人物にまつわる噂として囁かれる「生存説」

明智光秀=天界説をはじめ、現在も語り継がれる歴史ロマンのひとつに、

真田幸村豊臣秀頼「薩摩落ち伝説」というものがある。

この説は大坂の陣の際、秀頼の焼死体が本人のと確認できなかったことと

幸村には7人もの影武者があり、首実験をした幸村の叔父でも、

それが本人だと断定できなかったことに付随する。

歴史的にもっともらしいのは、

信繁の家臣の1人が「幸村の7つの首」
中の一つを抱きしめ涙を流し、

その首を葬った後に腹を切って果てたので、


家康はそれが本物のものとして納得したというものである。

しらばくれてる塩つぼ砂糖つぼ  美馬りゅうこ

「幸村は合戦で死なず、山伏になり秀頼·重成を伴い薩摩に逃げた」

その後、大坂の陣の一ヶ月後には、

「秀頼が重臣を引き連れ薩摩で暮らしている」

との噂が流れるようになり、


揚句の果てには、 幸村・秀頼のものとされる墓まで存在する。

「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて、

    退きも退いたり鹿児島へ」


このようなわらべ歌が実しやかに流行ったという。

おもしろいことにNHKの「歴史秘話ヒストリア」まで、

「幸村と秀頼のお墓」、
「わらべ歌」をとりあげ、放映している。

何はともあれ、偉人たちの生存説に笑顔で耳を傾けるのも一興ではないか。

やや開きすぎた嫌いはありますが  雨森茂樹



信長・三成・光秀・島(上左より時計回りで)

「生存説ーあの人も実は生きていた」

「織田信長の場合」
信長も本能寺の変の際、その死を確認した者がなく、
遺体も見つからなかったことから、生存説が主張されているのだ。
森蘭丸と共に薩摩に落ち延びたが、
本能寺の変で負った傷が深くまもなく死亡した。という。


生き延びた先がどうして薩摩が多いのか、それは関が原の戦いのあと、

実際に薩摩に落ち延びた宇喜多秀家の存在が影響しているのではないか、

秀家は落ち延びて数年で家康に見つかるも、死罪は免れ83歳まで生きた。

「明智光秀の場合」
小栗栖で死なず、のちの家康の幕僚・南光坊天界になった。
1.日光東照宮になぜか明智家の家紋である桔梗紋がある。
2.日光の明智平という地名が、天海によって名付けられている。
3.徳川将軍2代・秀忠・3代・家光、2人あわせると光秀になる。
これらが、光秀が生存している理由になっている。

「石田三成の場合」
処刑されたのは影武者で親密だった佐竹義宣に匿われた。
義宣は城外の八幡村に帰命寺を立てて三成を住まわせ、
京の知恩院から名僧を招いたとした。
その後、三成を慕った石田の残党が秋田を次々と訪れ。
その数100名を越すようになり、三成再挙の噂が立ち、
徳川が疑いの目を向けると、
佐竹は、「帰命寺の主僧は入寂した」と宣伝。
「帰命寺の開祖・長音上人は石田三成の弟でございましたが、
ある事情のために僧になった人で義宣に招かれて当地に参りました。
不審の点は少しもございませぬ」と佐竹家の調書に残る。

「島左近の場合」
関が原から落ち延び、追っ手から逃れて琵琶湖の竹生島に潜伏した。
また岩手県に落ち延びたという説がある。
「偉人浜田甚兵衛、石田三成の謀臣島左近の偽名なり。
・・・関ヶ原の戦いに敗れ、流路、米崎村に至り、村童を集めて句読を授け、
   静かに余生を送る。 正保5年(1648)死す。享年86歳」
『気仙郡誌』にはこう記されているという。

死神よまだロウソクは燃え尽きず  くんじろう

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