ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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出雲阿国
飯の種ですとピエロの服を着る 片山かずお
ややこ踊りをする阿国
(桃山時代の作だとされる)
「出雲の阿国」
出雲阿国
が生まれた時期は、定かではないが、
元亀3年
(1572)
頃
に生まれたのではないかと言われている。
安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍。
出雲大社近くの鍛冶職人・
中村三右衛門
の娘ともいわれ、
文禄年間
(1592~96年)
、
「本殿修理費勧進」
のため、
諸国を巡り、
京では念仏踊などを興行したという。
当時の古記録に
「ややこ踊り」
を披露したという記事が見られ、
その踊りが各地で評判になったといわれている。
はてさてどうしよう凭れかかられて 雨森茂樹
お国に関する史料には次のようなものがある。
『多聞院日記』ー天正10年
(1582)
5月
「加賀国八歳十一歳の童」
が、春日大社で
「ややこ踊り」
を行ったという記事がある。
それは
『於若宮拜屋加賀國 八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽ
ヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了』
というもの。
これを8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、
逆算して国を、元亀3年生まれとするのが通説化している。
しかし、加賀出身の8歳・11歳の娘という解釈もある。
意のままにならぬ自分という器 上山堅坊
念仏踊り
阿国は娯楽としての念仏踊りをかぶき踊りのなかで踊った。
阿国がいつから
「おクニ」
として世間に知られるようになったのか。
それを指す可能性のある確実な資料として、
『時慶卿記』
に、
「慶長5年
(1600)
7月1日に京都近衛殿や御所で
雲州
(出雲)
のクニと菊の2人がややこ踊り
を
演じた」
という記録があり、
ここで
「クニ」
と名乗っていたことがわかる。
そして、時慶卿記より遡るものとして次の記録があり、
天正9年
(1581)
9月御所で「ややこ踊り」が演じられた。
『御湯殿の上日記』
天正15年
(1583)
2月「出雲大社の巫女」が京都で踊った。
『言経卿記』
「ややこ踊り」「出雲大社の巫女」
で阿国のことであることが確認される。
放電をしなさい灰になりますよ 森田律子
お国が
「歌舞伎の始祖」
といわれるのは、多くの人が知るところである。
「阿国歌舞伎」
とは、言っても後の歌舞伎とは違い、
お囃子・三味線などの伴奏はなく、笛・太鼓に合わせて踊るだけだった。
しかし、彼女の面白いところは、ただ単に踊りを披露したのではなく、
トップの絵でも解る通り、女のお国が男装をして、
茶屋の女と戯れる様子を演じて見せたのである。
かぶく
これが、当時の都人から
「傾く」
(常識離れ)
女として大好評を得、
この
「かぶく」
から
「歌舞伎」
の名称もうまれたとされている。
絶頂のライトを浴びていて寂し 八木侑子
(拡大してご覧ください)
当時多くの芸能は、河原や寺社の境内などに作られた
仮設の舞台で演じられ、興行が終わると舞台は取り壊された。
しかし阿国は、
「かぶき踊り」
で人気が出た頃には、
京都の北野神社の境内に自分専用の舞台を作って踊った。
その昔、北野天満宮のあたりは、平安京外で下の森といわれ
鬱蒼と木々が繁っており鬱蒼とした所であった。
阿国は、この森の中と鴨川の五条河原に小屋掛けをして、
かぶき
「傾奇踊り」
を始めたのである。
幸せな足音だけを拾う耳 靍田寿子
容貌美麗で才能にあふれる阿国は、男装して刀を差しながら歌い踊る。
かぶ
という今までにない傾いた演出で人気を博し、
かぶき踊りを創始して名を馳せた。
「踊り」は当時の流行唄や狂言小歌を入れて筋のあるものとなっていき、
阿国の男装が評判を呼び、
織田信長
にも、
公卿たち
にも招かれている。
そして記録にはないが、派手なことが好きで、好奇心の強い
豊臣秀吉
が、
阿国の踊りを見ていない訳がないと考えたのが、
大河ドラマ「真田丸」を演出する
三谷幸喜
氏である。
唯、崖から転落して意識を失ったものの命拾いした
真田信繁
の姉・
松
を
記憶喪失の女として、阿国一座に持ってくるのは遊びすぎではないか。
消しゴムで消せることばを考える 畑 照代
阿国の像
出雲の阿国の像が立っている辺りに、南座が建っている。
阿国が四条河原町付近の小屋で、舞っていたことを想像すると、
京都南座も違った角度でみる楽しみがあるというもの。
お国の凄いところは、彼女はいつも主役の男役を演じ、
企画・構成・演出まで一人でやってのけたことだろう。
舞台も桃山風の小袖をしどけなく纏い、少しはだけた胸から、
キリシタンの十字架が見せるといった、大胆で斬新奇抜なもので、
踊りや芝居も、エロチックな、かなり際どいものだったようだ。
いわゆる女の歌舞伎というより、
「タカラズカ」
という方が当っている。
人気が高くなると、ごひいき筋の客種がよくなるのは今も昔も同様で、
お国は方々から引っ張りだこになった。
そして、諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれたという。
「此頃カフキ踊ト云事有
出雲國神子女名ハ國
<但非好女>出仕京都ヘ
上ル縱ハ 異風ナル男ノマネヲシテ 刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ
女ト戲ル體有難クシタリ 京中ノ上下賞翫スル事不斜
伏見城ヘモ參上シ
度々躍ル 其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將
秀忠公
ハ不見給」
とある。
『当代記』(慶長8年4月)
ハバネロをたっぷり塗った天使の矢 くんじろう
慶長8年
(1603年)
5月には、御所で披露し、
慶長12年
(1607))
には、江戸城で一座が踊ったという記録も残る。
しかし、この慶長12年の江戸城にての歌舞伎を最後に、
阿国は表舞台から姿を消してしまう。
理由は、阿国が年頃になって
「ややこ踊り」
が踊れなくなった為か、
阿国が評判になると多くの模倣者が現れたためか。
当初はカブキが「歌舞妓」 と書かれたように、
当時は女性のみによって行われていた。
しかし、彼女たちが遊女のような行為もした為、風紀を乱すとして
幕府の取締りに遭い、女歌舞伎 は寛永6年
(1629)
禁止されたのである。
ひと粒の涙にうねる乱れ髪 上田 仁
「その後」
阿国は慶長12年、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。
その後、慶長18年
(1613)
頃、小田原で67歳で没したとも、
出雲へ帰り剃髪して87歳で没したとも、諸説があるが。
慶長17年
(1612)
4月に御所で、かぶきが演じられたことがあり、
阿国の一座によるものとする説もある。
他には、出雲へ戻った阿国は、尼僧・「智月」となり、
読経と連歌に興じて余生を「連歌庵」で過ごしたとも伝わる。
阿国の
没年は慶長18年
(1613)
、正保元年
(1644)
、万治元年
(1658)
など、
はっきりしない。
くちなしの白をふやして雨静か 山本昌乃
阿国の墓
墓石は舞台のような平たい伏せ石になっている。
連歌庵から歩いて数分、小高い丘の上に
「出雲阿国の墓」
がある。
石柵の囲いの中央にある平たい大きな自然石が
「阿国の墓石」
である。
有吉佐和子さんの小説・
「出雲の阿国」
では、
この墓石が阿国の命を奪った石として描かれている。
作中で、病に冒された阿国は冬の斐伊川を上る途中、
落石により命を落とした。
この落石を墓石として祀ったのが、阿国の墓だと小説では描かれている。
また、京都大徳寺の高桐院にも阿国のものといわれる墓がある。
なお、どこからそうなったのか4月15日が「阿国忌」である。
入ったら最後あなたは自由です 蟹口和枝
[3回]
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y2016/04/30 09:30 z
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