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川柳的逍遥 人の世の一家言
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句読点打てず暗転したドラマ  上田 仁


   お市の方

上の有名な肖像画も、実はお市の方の長女である茶々が、
母の七回忌を迎えた天正19年、お市の菩提を弔うために描かせたもの。
母の市は戦国一の美女と謳われた美女であったが、
桑田忠親は長女である淀殿は,、持明院所蔵の肖像画を見る限り,
父・長政の面影を受け継いでいたといえ、美女とは思えないとしている。



「茶々を検証する」

歴史は仮説を立てる事から始まる。

私たちが現在信じている歴史は、残された史料や古日記をベースに、

歴史学者が時代を考証したもので、説がいくつも生まれているように

過去におきた事件の真相や全容を、完全に証明できたものではない。

即ち、史料が、何時、誰が、何処で、どのようにと、5W1Hを念頭に、

細部にわたり考察しても、やはり各分析者の推察は入る。

そして歴史好きな私たちも、又、歴史の穴を探し推理する事に、

快感を覚える。


核心を突くと崩れていく積み木  原 洋志

NHK/大河ドラマ・「真田丸」で脚本を担当する三谷幸喜は、

「茶々の人生は作者の創作意欲をかき立てるほどドラマチックですね」

と言い、 茶々(淀殿)は、歴史では「徳川史観」で悪女にされ、

歌舞伎では、恐ろしい顔にされ、随筆では、淫乱女とされているが、

「そうとも言い切れないのではないか」と解釈を膨らませる。

三谷の目線の中にある茶々という人物は、
           こわく
実際は、無邪気で蠱惑的で小悪魔なのだ。


例えば、豊臣秀吉に警護員として仕えることになった信繁は、

実は前任者が茶々との仲を疑われ、井戸に落とされた死んだと知る。

それを茶々に聞かせると「残念ね」と軽く言ってのけ、

すぐに真田信繁に色目を使いはじめる、という具合に。

ペン先にもぐさを乗せているところ  瀬渡良子



信繁が大坂城へ人質として入ったのが、天正14年(1586)ころ、

信繁20の時である。

そして茶々ら三人姉妹が、大坂城で秀吉の保護を受け始めたのが、

天正11年、茶々15歳のとき。

信繁と茶々は二歳違いである。

それから4年後、
同じ大坂城の屋根の下で住んで二人が

顔を合わせていないことはない。


女好きの信繁と蠱惑の茶々の間に、恋が芽生えないはずがない。

歴史的にみれば、焼きもち焼きの秀吉にあてつけのように、

これ見よがしに、
次から次へといろんな人が好きになっていく茶々の行為は、

ありえない。


当時20歳の茶々にとって秀吉は、単なる32歳離れた叔父さん、

もしくはお爺さんに過ぎないのである。

実際、三谷幸喜もそう思っている。


このように脚本を描きあげる三谷には、三谷なりの根拠があるのだ。

どうしたら溜め息がつけるのだろう  森田律子

さてここから茶々の検証に入る。

茶々は、永禄12年(1569)近江国の戦国大名・浅井長政の娘。

母は織田信長の妹・で信長の姪にあたる。

と茶々に関する色々の書物は記している。

このように市は、通説では「信長の妹」であるが、

江戸時代の「織田系図」には信長の従兄弟・織田広良の娘と記され、

「いとこにておはせしを 妹と披露して長政卿におくられしにや」

と記述する文書(『以貴小伝』)も残る。

また信長の叔父・織田信光の娘との説もある。

内側は針穴からがよく見える  徳山泰子

また驚くことに『浅井氏家譜大成』を根拠として、一説には、

娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、


長政の実子ではないという説がある。

また、お市は、信長の妹ではないという異説を根拠として、

長政へ嫁ぐ前に、信長の愛妾であって茶々は信長の娘という奇説もある。

又お市は、実は信長の愛人であり、同時に忍者であったという説もある。

乱世を終わらせ天下統一をめざした信長は、

その足掛かりとして、妹のお市の方を浅井長政に嫁がせた。

この政略結婚により永禄12年に生まれたのが茶々。

(そして茶々の1つ下に妹のお初が、4つ下にはお江が生まれた)

こみ入った話はあとで春の雲  合田留美子

この頃、茶々の運命が大きくうねり始める。

「姉川の戦い」で長政は信長と朝倉義景の間で板挟みとなっていた。

親交があり、六角氏との戦いにおいて恩がある朝倉氏につくべきか、

妻の兄であり、同盟相手の信長につくべきか迷っていた。

家臣たちは隠居した長政の父・久政を担ぎ出し朝倉につくよう説得。

結果、長政は朝倉家との義を重んじ、義兄・信長を裏切り、

織田軍を挟み撃ちにする策をとることに決する。

この決断の裏には、お市を挟んで信長への恨み、妬みがあったのかも。

その裏切りを察知した信長は、近江国から脱出、京都に撤退した。

相槌を打って迷路にはまり込む  高柳閑雲

朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた秀吉に迎撃され、

信長をはじめとする有力武将を取り逃がしてしまう。

信長が九死に一生を得たのは、お市の方が陣中見舞いと称して、

織田の軍が挟み撃ちにされることを、伝達したと言われている。

このため、浅井軍は信長に再挙の機会を与えることになってしまった。

天正元年(1573)、長政の裏切りに激怒した信長は小谷城を攻め落とし,

長政は自害に追い込まれる。

このとき陣頭指揮を執っていたのが秀吉であった。

一度だけ禁を破ったことがある  雨森茂樹

この時、5歳だった茶々は、母と妹たちとともに信長に引き取られる。

戦乱の中、平穏な日々を過ごしていた三姉妹だったが、

天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が非業の死を遂げる。

その直後から始まったのが、秀吉と柴田勝家との覇権争いだった。

そして翌天正11年、秀吉と勝家の間で「賤ヶ岳の戦い」が始まる。

お市の方は、その時、勝家と再婚していたが、

「賤ヶ岳の戦い」で夫が秀吉に敗れると、

お市の方も、夫と共に越前北ノ庄城内で自害したとされる。

15歳の茶々は、二度の落城で両親を亡くすという悲劇に見舞われた。

茶々にとって、この二度目の落城の指揮官も秀吉であった。

確実に時間は進むものと知る  竹内ゆみこ



三人の娘達の行く末を心配していた市は、北ノ庄城の落城の際、

『溪心院文』によれば、庇護を受ける秀吉に直筆の書状を送り、

三人の身柄の保障をもとめている。

市は秀吉のことを憎むどころか、
秀吉を信頼していた。

この市の遺言を守り秀吉は、茶々ら三人姉妹を庇護した。

この角度でみると、父・信長を裏切った長政を成敗した秀吉は、

茶々にとって恨み憎む相手ではなく、

また戦乱に巻き込まれた母の遺志を守った
恩人なのである。


※ お市の方は歴史の上では、勝家と共に自害したとされているが
        賤ヶ岳の戦いの最後、忍者仲間に助け出され、伊賀に逃げ延び、
       53歳までそこで余生を暮らしたという記録がある。
       現在の伊賀市阿山町下友田の稲増家の邸宅にお市の方の
        喉仏を収めたと言い伝えられる祠がある)

ここにこう立つとあの日がよく見える  八上桐子

時は移り、慶長3年(1598)8月18日、秀吉62歳の幕を閉じると

北政所は大坂城を出て夫・秀吉の菩提を弔うために京都の屋敷に移り、

淀の方は大坂城に残り、6歳の秀頼に代わって政治を司ることになる。

このとき淀の方は29歳、実質的な大坂城主となった淀の方は、

慣れない政治の世界に体調を崩すようになったという。

記録には、

「気うつの病にかかり、頭痛がひどく食事もとれなくなった」


と記されている。

彼女は決して歴史が示すような野心家ではなく、

結果的、必然的にそうなってしまったのである。


マネキンに舐められぬよう背を伸ばす 美馬りゅうこ

そんな淀の方の唯一の支えになったのが、秀頼の成長だった。

官位を上げるために朝廷に働きかけるなど息子のため、

豊臣家のために身を削り立ち働いた。

ただし、男世界というものは、思うほど容易いものではなかった。

たぬき家康は、淀を悪女に仕立てるという汚い情報戦を繰り出すなど、

権謀術策をもって、淀を、いわゆる豊臣家を滅ぼしたのである。

ともかく、茶々は伝説にあるような、悪意な女性ではなく、

彼女の優しさを語るエピソードはいくらでもある。

あれやこれや大きな耳が落ちている  佐藤正昭

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茶助
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