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川柳的逍遥 人の世の一家言
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小早川秀秋さんお電話ですよ  湊 圭伍





                                                  大垣城  (大阪市立博物館蔵)
大垣城=石田三成はこの城を拠点にするつもりだった。
家康が恐れた長期戦を狙ったのである。



「家康勝利の秘密に迫る」
関ケ原の戦いの年、1600年(慶長5)に入ってから、家康は諸大名
あてに大量の手紙を書いた。とくに決戦直前の7月から9月にかけての
3カ月間だけで1800通を越えている。
この徹底した手紙作戦のおかげで、家康シンパの大名を次々に獲得し、
三成の動きは一挙手一投足が家康に筒抜けであった。
挙兵の際に「人質をとったこと」「大名の家族がすでに何人か脱出」
していることなどまで、家康は詳細な情報を握っていたのだ。
そして集めた情報は、巧みに利用した。
関ヶ原の戦いの直前、これらの情報をすべて明らかにしたうえで三成と
自分のどちらに味方するかを諸大名に選ばせた「小山評定」である。
その点、三成は、作戦のほとんどを自分の頭のなかだけで、完結させて
しまい、いざその段になってから、事前の相談のないことを他の大名に
攻められることもあったという。




物差しの目盛り大きくして暮らす  前岡由美子




「豊臣へこころざしあるものは、大坂に帰られよ。家康はそれを恨みに
思わぬ…」これは小山評定で打った家康の一世一代の大バクチだった。
決断を迫られる大名たち、もし誰かが「軍を返す」と言い出せば、三成
憎しの思いだけで、ここまで従ってきた武将たちが、我さきに帰ってし
まうことにかねない。しかしそのとき、
「これは豊臣への謀反ではない。三成の討伐である!」
と叫んだ者がいた。 武断派の福島正則だった。
静まり返っていた場内は、次の瞬間、堰をきったように三成への非難の
大合唱となった。こうなると異議を唱える雰囲気ではなくなり、列した
大名たちは皆、家康への忠誠を誓ったのだった。
実はこれは、狡猾な家康が、前もって福島正則に口火を切るよう根回し
をしてあったものだった。




人間を引き取りますと気になるチラシ  木戸利枝




家康ー東軍の大勝利。





                                                  日本史新聞ゟ  
正味七時間の激闘  勝敗分けた小早川の裏切り





            激 突





【関ケ原=一六〇〇】
秀吉の死後、その覇権を争って緊張が続いていた石田三成のグループと
徳川家康陣営。いずれ、合戦での決意は避けられないと見られていたが、
遂に両陣営が関ケ原で大激突、壮絶な戦いを展開した。

●布陣   午前五時
関ケ原が合戦場となったのは、家康が、大垣城に籠城する西軍を野戦に
引き出すために三成の佐和山城を攻撃。続いて、大坂城を攻める気配を
見せたためだ。三成は、十四日深夜、慌てて大垣城を出て関ケ原盆地の
西北端に陣取った。


●激突    午前八時
午前五時頃ー、東西四キロ、南北二キロの狭隘な関ケ原に西軍八万五千、
東軍七万五千、合計十六万もの大軍が集まった。
午前八時前、両軍が相対峙する最前線に向かって移動する一団があった。
赤備えの井伊軍団三十騎、井伊直政が選抜した精鋭だ。
福島正則の前に出ると、西軍島津隊に発砲した。


●乱戦    午前九時
銃声が鳴り響いたとき、関ケ原には、濃霧が立ち込め、お互いに陣形や
兵力も明確には把握できず、細かい作戦は決められていなかった。
とにかく、目前の敵を叩くだけ。
そのとき、攻撃目標となったのが西軍の石田隊だ。
東軍諸将は我先に襲いかかり、石田隊も大筒で応戦。
怯んだ隙に切り込んだ。


●変化    午前十二時
一進一退を重ねる両軍を見下ろす松尾山に陣取る小早川秀秋
とうとう裏切りの下知を下す、「目指すは大谷刑部の陣なるぞ」
一万五千の大軍が、松尾山を下り西軍の脇腹に突進した。





ここですとオハグロトンボ右を指す  上坊幹子




●決着    午後一時
大谷吉継は、少しも慌てず、待機させていた兵に迎撃させ押し返す。
ところが、その味方のなかから脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が裏切る。
大谷隊が壊滅すると情勢は一変。
隣の小西隊が浮足立ち、宇喜多隊も混乱の極に達し、支離滅裂となる。



●終局    午後四時
初戦より傍観していた島津隊は東西両軍に義理も利害もない。
戦場を離脱する決意を固め、敵中突破をはかる。
戦場に残るは東軍だけであった。


●家康大坂城に入る 【大坂=一六〇〇年九月末】
関ケ原合戦には勝ったが、大坂城の毛利輝元が、秀頼母子と共に健在で
ある限り、家康は安心できなかった。
そこで輝元の大坂城退去をはかる一方、中央政府軍の統帥権者として、
自ら大坂城西の丸に入城する。
これによって、秀頼母子とは気まずい関係になるが、関ヶ原の勝利者と
いう家康の立場と力に相応しい形を与えられた。




シャッターを下ろす時計をかけあがる  高橋 蘭
 





三成はこの城を拠点にするつもりだった。
家康が恐れた長期戦を狙ったのである。





「戦争は作戦通りにはいかない。誤算がつきもである」
誤算は、勝った徳川家康にも敗れた石田三成にもあった。
家康の誤算はなんといっても三男・秀忠軍の遅参だ。
秀忠は三河時代以来の譜代の家臣らと中山道を上った。
つまり、徳川軍の首領部隊を率いていたのである。
その結果、予備部隊を率いて東海道を上った家康は、主力抜きで決戦に
臨まなければならなかった。
家康が関ケ原の決戦場に投入した軍事勢力の半分は、亡き豊臣秀吉に恩
義を感じている大名たちの部隊だ。
「家康のために戦う」気迫は譜代よりも劣る。
いざとなれば3万の旗本を督戦隊とし、前面に展開する豊臣恩顧の大名
たちを戦闘に駆り立てることも考慮したに違いない。




約束はあじさい色の気がするわ  岡谷 樹




だが家康は、西軍の総大将・毛利輝元軍を分断する手を打っていた。
吉川広家小早川秀秋を味方に引き入れたのだ。
しかし、内応の誓詞を交わしていても万全ではない。
勝負の流れによっては、合戦途中から2人とも西軍に加担する可能性も
残っている。家康がもっとも恐れていたのは、このことだったし、事実、
それが現実のものになりそうになった。




あらすじの通りに進んでいる不安  青木敏子





合戦前日
14日午後、杭瀬川の戦いでは西軍が圧勝し、士気を持ち直す。


14日昼前、赤坂へ進む家康。
西軍は家康の動きをまったく知らず、突然の出現に動転した。




一方、三成はほとんど1人で動き回って、輝元をはじめ9万余の兵力を
動員した。参加した大名たちの思惑はそれぞれ異なり、意思統一もなか
ったとはいえ、大兵力である。
家康が驚倒したのは当然だろう。 これも家康の誤算だった。

そして三成は三段階の迎撃案を考えていた。
三河と尾張の境で迎え撃つ。
2,岐阜と大垣の線で迎え撃つ。
3,関ケ原に最終陣地をつくり、大垣に籠城、長期戦にする。
だが2案は、岐阜城が陥落して消滅。
3案を予定していたときに思わぬことが生じた。
9月14日の午後、小早川秀秋が松尾山に布陣したのだ。
松尾山には三成が、長期戦に備えて密かに修築していた松尾新城がある。
三成は、ここには南雲山に布陣した毛利秀元・吉川広家らか西軍総大将
毛利輝元に入ってもらうつもりだった。
その要の城に大垣入城要請を拒んだ、西軍の中でももっとも信頼できな
い小早川秀秋が、城番の伊藤盛正を追い出して入城したのだ。




人参を抜くとき無無と声がする  斉尾くにこ





15日正午頃、西につくか東につくか、小早川秀秋の心は揺れていた。
だが家康に鉄砲で威嚇された秀秋は、ついに東軍へ寝返り、大谷隊の
攻撃に踏み切る。




これで三成の戦略は大きく崩れる。
この日9月2日以来、関ケ原西端の山中村に布陣している大谷吉継から
「松尾山の秀秋の動きが不審だ。全軍関ケ原に集結し、家康を迎撃しよ
う」との手紙を受け取っている。
南雲山の広家の動向も怪しいし、それに動揺したのか安国寺恵瓊も戦意
に欠けている。
さらにいえば、立花宗茂らの別動隊も、大津城攻略にかかったまま関ケ
原に到着していないうえ、毛利輝元は大坂城から動かない。




私とナマケモノとはいい勝負  下林正夫





15日午後1時過ぎ、東軍の猛攻撃で炎上する西軍の陣。
上から石田、島津、小西の陣所。左上には切腹する武士がいる。




このような状況下に入手したのが、東軍の「佐和山城攻略」の情報だ。
こうなれば、東軍よりも早く、最終戦城予定地の関ケ原の要地を確保
するしかない。
ここで支えることができれば、長期戦に持ち込める。
それならまだ勝利の目は残っている。
こう判断した三成は、暗闘の雨のなか、大垣城の主力を関ケ原へ転身
させたのである。
しかし、三成の目論見は、翌15日、秀秋の裏切りと広家の中立で脆
くも崩れ、西軍は大敗する。




民族のガチンコの音骨の音  峯島 妙

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ハエトリ紙に父の咳払い  河村啓子





        日本史新聞 伏見城攻防戦・小山会議





1588(慶長3)8月18日、豊臣秀吉は世を去った。
時代はたちまち激動の時を迎える。
秀吉亡きあとの天下の覇権をねらう家康と、それを阻止しようとする豊
臣家の重臣・石田三成の対立は激しくなり、やがて天下分け目の決戦へ
とつながっていった。
秀吉の死から2年後の1600年(慶長5)のこと家康は、会津の上杉
氏の討伐を名目に、福島正則・山内一豊など秀吉子飼いの武将たちを率
いて北上した。その途中、家康は、石田三成の挙兵を知った。
三成毛利輝元宇喜多秀家など、西日本の武将たちを集めて、
「家康征伐」を宣言したというのである。



投げられた言葉反復まだ続く  柴辻踈星



家康ー伏見城攻防戦~関ケ合戦戦







『小山会議』
7月19日、まだ江戸城に滞留していた家康のもとへ、一通の密書が届
いた。
「一筆、申し入れ候。今度、垂井において大刑(大谷吉継)両日相煩ひ、 
 石治少(石田三成)出陣の申分、ここもと雑説申し候。
 なほおひおひ、申し入るべく候。恐々謹言」
密書の送り主は増田長盛であった。
石田三成が謀議を凝らした相手である。



五奉行の謀反秀吉知らぬまま  越後朱美




家康は、驚いたが、慌てない。
予定通り江戸を経って下野小山に向かう。
7月24日、伏見城の鳥居元忠から、下野小山に届いた知らせを見て、
初めて随行した諸将八十余名に事情を明かし、評定に委ねることにする。
「小山会議」である。そこで家康は、
「このまま家康と行動をともにして三成を討つか、それとも家康を離れ
 て三成のもとに参ずるか…三成に味方する御仁は遠慮なく陣払いして
 よい」 と言下した。

満月になるまで面取りに徹す  山本早苗






          史跡小山評定跡

          小山評定跡由来





居並ぶ武将たちは、 清洲の福島正則、三河吉田の池田輝政、掛川の山内
一豊など、ほとんどが秀吉恩顧の諸将だった。
生前、秀吉は万が一、家康が叛旗を翻して、上方に攻め上ってきた時、
途中で迎え撃つために関東と関西のあいだに、これらの武将たちを配
していたのである。
亡き秀吉の思惑としては、ここで武将たちは家康に対抗して、その進
撃を阻止する役を務めるはずだった。
ところが、結果はまったく逆に出たのである。
誰一人として、席を立つ者はなかった。
元忠の書状から翌日の7月25日、豊臣系大名である福島正則はじめ、
武将たちは口を揃えて、家康に味方することを誓ったのである。



シュールな話だ 冬へと伸びてゆく  赤松蛍子



その背景には、武将たちの石田三成に対する強い反感があった。
家康は、豊臣家の家臣たちの内部対立をうまく利用して「関ヶ原合戦」
の意味合いを「三成打倒」のため、という目的にすり替えてしまったの
である。
7月26日には、福島正則を先鋒として家康方の軍勢は進撃を開始。
9月14日には、三成方およそ8万2千余と家康方およそ7万4千余は、
岐阜県南西部の「関ヶ原」で対峙した。



払っても払ってもある嫉妬心  柳田かおる



【episode】 「8月末、豊臣系大名の優柔不断を叱る」
評定の場で、
「余人は知らず。拙者は妻子を捨てても内府殿にお味方仕る」
 と、真っ先に発言した福島正則は、翌日早く、西に向かって出立した。
これが7月26日のことである。
しかし、肝心の家康が江戸城に帰城すると動かない。
東軍諸将は、尾張清州城に集結して軍令を待つが、具体的な指示が何も
届かない。 19日、ようやく
「諸将が未だに戦線を開かないのは、何事か」
と、咎める家康の使者が清州城に到着する。忠誠の証を見せろ、と。



包丁は切れないし砥石は無いし  森井克子





9月15日、戦端は開かれ、「関ヶ原の合戦」がはじまった。




戦いは石田三成方に裏切りが相次いで、家康の圧勝に終わった。
天下に並ぶもののない武将として、家康の覇権は定まり「将軍になる」
という夢も目に見えるほど近づいてきた。
ところが、家康は意外に慎重であった。
「もはや将軍宣下の儀をも仰せ出されるだろうと下々では噂しています」
合戦ののち、家康方の武将・藤堂高虎がこう言ったとき…、
家康は次のように答えたのである。
「将軍成りはまだ早い」
将軍になるためには、まだやらねばならないことがある。
それが家康の考えであった。



もう少しこのままそっと寝かせとこ  津田照子





      鳥居元忠壮烈な最後





『伏見城攻防戦』
徳川家の鳥居元忠、善戦も西軍四万に屈す。
話は関ケ原開戦の8日前に戻る。
戦いの火蓋は7月18日、西軍勢力圏に打ち込まれた楔(くさび)=
伏見城の攻防戦で切って落とされた。
島津義弘・小早川秀秋、毛利秀元ら四万の西軍が包囲するなか、忠義一
徹の三河武士・鳥居元忠率いる千八百の兵が籠城する。
籠城兵が全員玉砕の覚悟で待ち構えているとき、包囲側の腹が決らない
ので、なかなか勝負はつかない。
あっと言う間に29日になった。
苛立った三成は督戦にかけつけたが、それでも落ちない。
ようやく城内の甲賀者を脅して内応させ、攻略の糸口を掴む。
8月1日、伏見城は陥落。続いて、丹後・伊勢・美濃尾張の各方面を
次々に制圧するが、足並みの揃わない西軍としては上出来だった。
この「伏見城攻防戦」は、9月15日に行われることになる関ヶ原本戦
の前哨戦である。



過ぎ去れば思い出ばかり風ばかり  靏田寿子





       鳥居元忠            音尾琢真





『鳥居元忠』 「人たらし秀吉の毒牙を逃れる」
元忠とは=その死に様から、古くから忠臣として顕彰された。
派手な戦功こそないものの、無私・実直に家康の覇業を支えた武将だ。
その武功――家康の側近として数々の戦に参加している。
元亀3年(1572)の「三方ヶ原の戦い」では、斥候として敵陣深くに潜入
するも片足に深手を負い、その傷がもとで、歩くのもままならぬように
なったという。
天正10年 (1582)、信長横死後の「天正壬午の乱」では、北条方の軍勢
を寡兵で撃退し、戦後に郡内を拝領した。


サバイバルゲーム百歳から佳境    植田のりとし



しかしその3年後、信州上田城の真田昌幸上杉景勝方に付いたため、
大久保忠世とともに、上田城を攻める「第一次上田合戦」は、あえなく
撃退された。
家康秀吉へ臣従後、1586年(天正14)に上洛した際、秀吉は家康
の重臣たちに官位を授けようとしたことがある。  そのとき元忠は、
「不才ゆえ二君には仕えられず、しかも粗忽者 ゆえ、殿下に出仕する器
 ではありません」 と言い、丁重に断っている。 
その後も秀吉は、元忠に執着したようだが、 元忠はすべて断った。



立ち去って行く姿まで美しい  山田 仁美






       源光庵の血天井①
       源光庵の血天井②

       養源院の血天井




秀吉による天正18年の「小田原攻め」では、相模築井城や武蔵岩槻城
の攻略に功績があった。戦後に家康が関東へ移封されると、重臣たちは、
周辺諸国への備えとして要衝に配置。
鳥居元忠は、東北勢の抑えとして下総矢作城 4万石を得た。
しかし、ここでは厳しい検地と過酷な収奪を実行し、領民からは忌み嫌
われた、という。
そして、「関ヶ原の戦い」をひかえた1600年(慶長5)6月、上杉
討伐のため東下した家康の命により、元忠は、伏見城の守備を任された。
そこに西軍の石田三成らの軍勢が襲いかかった。 元忠はわずかな城兵で
これを迎え撃つが、衆寡敵せず、壮絶な討ち死にを遂げた。享年62歳。
首は、大坂城京橋口に晒されたという。
元忠とともに戦った侍たちの、血潮に染まった床板が後に、京都市内の
養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、今も「血天井」
として現存している。


消えてしまった天国への階段  藤井孝作

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砂走り2、3日は喪に服す  酒井かがり




          日本史新聞 秀吉死すの報





【伏見=一五九八年八月】
再度の朝鮮侵攻が、義兵軍の反撃などによって泥沼に陥り、餓死する兵
も出て、厭戦気分が広がった頃、秀吉は伏見城で死の床についていた。
だが、朝鮮戦争の決着もつけず秀吉の様態は悪化。そのまま他界した。
行年六十三。
息を引き取る寸前まで…食うや食わずの境遇から成り上がり、悲運に倒
れた信長のあとを継いで、天下統一を成し遂げた秀吉の唯一の心残りは、
まだ6歳にしかならない秀頼のことばかり。
一国の運命を預かる天下人の末路としてはスケールの小さな話で、再び、
天下の行方が混沌としてきた。



人間に生まれたことが深すぎる  市井美春





秀吉の辞世  (大坂城天守閣蔵)
つゆとおちつゆときへにしわかみかな なにわのことはゆめの又ゆめ


「…返々秀より事頼み申候、五人のしゆ(衆)たのみ申べく候。
 いさい五人の物に申し渡し候、…なごりおしく候、
 しん(真)たのみ申、なに事も此ほかにわおもひのこす事なく候…」
                  八月五日  秀吉花押
いへやす ちくせん てるもと、かけかつ、秀いへまいる」


これは、五大老にあてた有名な秀吉の遺言状である。
幼い秀頼を案じる気持ちが伝わってくるようだ。
「五人のしゆ」は五大老、「五人の物」は五奉行のこと。
宛名のうち、「いへやす」徳川家康「ちくせんは」前田利家、
「てるもと」毛利輝元「かけかつ」上杉景勝「秀いへ」
宇喜多秀家五――大老の面々である。
この遺言状を書いてからおよそ半月後の1598年(慶長3)8月18
日、秀吉は家康たちに後事を託して没した。
朝鮮ではまだ、加藤清正ら10万の日本軍が戦塵のなかにあった。



天秤座に預ける老いの残高  靏田寿子




        朝 鮮 戦 争





【差し込みニュース】 〔名将・李舜臣、流れ弾に倒れる〕
秀吉の死から3カ月後の慶長3年11月19日、秀吉の野望を挫いた
朝鮮の名将・李舜臣が流れ弾にあたって壮烈な死を遂げた。
そのとき日本軍は、引きあげ命令に従って帰還の最中。
小西行長軍が、明と朝鮮連合軍に包囲されて孤立したとき、島津義弘
救援に向かった。七時間にわたる激戦ののち、島津軍は、大敗北を喫し
ながらも、辛うじて小西軍を救出することに成功した。
李舜臣が銃弾を受けたのはこのときである。
朝鮮軍の士気は落ち、小西・島津軍は退去になんとか成功、日本軍は、
朝鮮からの撤退を完了した。



茜雲から届いたやせた手紙  赤松蛍子



家康ー秀吉死す




                             伏見桃山城 (再建)
関ヶ原のとき、伏見城はまっさきに西軍の目標となり、守将・鳥居元忠
は壮絶な戦死を遂げ、城も焼かれた。 焼失した伏見城は、1602年
(慶長7年)頃、家康によって再建され、1619年(元和5)に廃城
とされた。



「利家、家康の二頭政治始まる」
1599年(慶長4)元旦、諸大名は伏見城に出頭し、新主秀頼に年賀
の礼を行った。前田利家は、病中ながらも傳役(ぶえき)として無理を
おし出席、秀頼を抱いて着席した。そして、10日、秀吉の遺言通り、
家康が伏見城に利家が秀頼に扈従(こしょう)し、大坂城に入る。
以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる。
                       (言経・利家夜話)
一方の家康は、秀吉が伏見城で死んだ後、この城の主となり、五大老の
筆頭の一角として政務を執る。
だが、お守役の前田利家に付き添われた秀頼が、大坂城に入ってから、
伏見に残った家康との「二頭政治」となり、対立・反目が始まる。



重い荷は二人で担ぐことにする  津田照子





                          幻 の 伏 見 城





「徳川家康、誓約違背事件」 新聞記事ゟ
―――ところで慶長4(1599)年に転機が訪れる。
正月元日、豊臣秀頼は伏見城で歳首の賀を受け、すぐに大坂城に移った。
傳役・前田利家も秀頼と共に大坂城に移ったため、伏見城は、空き家に
なってしまった。 この伏見城に目をつけた家康。
図々しく住み着いてしまったのであるが、その途端、勢威を強め不遜な
態度に出るようになった。
今井宗益を介して、六男忠輝伊達政宗の女を娶ろうとした際、縁故の
女を養女とし、福島正則嗣子忠勝蜂須賀家政の子至鎮と婚姻させた。
明らかに私婚を禁止した「太閤法度違反」だ。
しかし、力づくの政治に共鳴する者が出てきた。
これによって、大坂の豊臣派と伏見の徳川派が、明らかに色分けされて
しまうかもしれない―――。



やさしさの対角線にテロリスト  佐藤正昭



秀吉が亡くなって半年もたたないのに、家康は太閤の法律に触れる露骨
な婚姻作戦をはじめるなど、まるで自分が天下人であるかのような傍若
無人のふるまいに出たのだった。
利家はこれに反発し、諸大名が、家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎと
なった。利家には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の3大老や5奉行
石田三成、武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味
方し一触即発の危機ともなった。
が、2月2日に利家を含む4大老・5奉行の9人と家康とが誓紙を交換、
さらに利家が家康のもとを訪問し、家康は利家の勧めで、三成の屋敷が
ある伏見城・治部少輔(三成)曲輪直下にある自身の屋敷から、対岸の
向島城へ移ることで和解をした。



すんなりといかない時の小休止  吉岡 民





「太閤五妻洛東遊観之図」 (喜多川歌麿)
醍醐の花見。秀吉を取り巻く女性は「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」



「醍醐の花見ー1598年3月15日」 新聞記事ゟ
『花見の好きな太閤秀吉がいつもに増して豪華な醍醐の花見を催した。
しかし厳重な警護のなかで行われたため、参加者の間から疑問と不満の
声があがっている。
醍醐の花見が行われたとき、五十町四方山々には構やもがりが回され、
至る所に警護所が置かれ、弓・槍・鉄砲を打ち揃えた御小姓が徘徊する
ありさま。いくら趣向を凝らした店棚が用意されても、心から楽しめる
ものではなかった』



黄砂だと知らず見ていたおぼろ月  藤原紘一



慶長3年(1598)3月15日の「醍醐の花見」に、体調の思わしくない
まま、妻のまつと陪席すると、利家は4月20日に、嫡子・利長に家督
を譲り隠居、湯治のため草津に赴いた。
だが、病んだ身体はなかなか快方には向かわず、自宅療養を続けた。
尚も、利家の病状が悪化、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した時、
利家は「抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていた」というエピソードが
残っている。 (『浅川聞書』)
1599年(慶長4年閏)3月3日、利家は大坂の自邸で病没した。
享年62歳。 
利家の死後、待っていたかのように家康は加賀征伐に着手する。
利長は母の芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は
回避された。



香典を辞退するなと書いて死ぬ  ふじのひろし





    高台院 (寧 々)





【その後】ー①
豊臣秀吉の死を契機に出家して「高台院」となった正室「ねね」とは
対照的に、淀殿は出家せず、豊臣秀頼の後見人として政治に介入。
豊臣氏の家政の実権を握った。





    しっかり者の石田三成





【その後】ー②   豊臣七将襲撃事件
豊臣家最大の守護神・前田利家が死んだことを機に、利家の死の翌3月
4日、加藤清正黒田長政は、福島正則加藤嘉明ら5人の武断派の大
名と語らって、三成を襲う計画を立てた、
彼らは「朝鮮の役」での武功が評価されなかったのは、偏にに石田三成
のせいだと深く恨んでいたのである。
これを知った三成は、こともあろうに彼にとっては不倶戴天の敵、徳川
家康の屋敷に逃げ込み、助けを求めた。
家康は両者の仲裁に立ち、三成に一時的な引退をすすめた。
三成は家康の二男の結城秀康に瀬田まで警護されて佐和山城に帰った。
これは三成には大チョンボであり、家康には、決定的なポイント稼ぎに
なった事件だった。
人々はもう「天下人」と呼ぶのであった。



虫下し飲んだらぶらりしませんか  榊 陽子

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品格は骨になっても生きている   通利一遍






   父・浅井長政とお市の方・三姉妹の別れの場面




「淀殿のイメージ」
豊臣秀吉の側室であり、その子秀頼の母として知られる淀殿は、悪女で
あり、豊臣家を滅亡に至らしめた愚かな存在として描かれることが多い。
しかし、それは後世つくられた虚像である。
淀殿はどうして後世、これほどまでに貶められてしまったのか。 
淀殿は本当に悪女であったのか。
そして、淀殿が自らの命と引き換えにしてまで守ろうとしたものは、
果たしてなんであったのか。
そのベールの下には、天下人の思い人になり、その子を生んだがゆえに
時代の矢面に立たされ、心ならずも、大坂城を仕切る立場になり孤軍奮
闘した女性の姿が見えてくる。




幸せは行きつ戻りつ鬼ごっこ  津田照子





        淀 殿





家康ー茶々そして鎧を纏う淀殿の悲劇-①




「淀殿の名前」
1569年(永禄12)茶々は、近江国小谷城で誕生した。
名前は茶々またはお茶、後年、従五位下を賜ったときには、菊子という
公式名を名乗っている。
1588年(天正16)頃、秀吉の側室になり、翌天正17年には、長男の
捨(鶴松)を出産。大喜びした秀吉は、茶々のために、山城淀城を築城
して与えたので、以後、淀の方と呼ばれるようになる。
また、住む場所により、二の丸殿、西の丸殿、淀殿などと呼ばれ、秀頼
の母としてお袋様と呼ばれた。
秀吉の死後、落飾して大広院、または大康院という名もあり。
淀君という呼名は、生存中ではなく江戸時代以降の呼び名である。





「後世、貶められた淀殿像」





秀吉の時代、大坂城の北側の一角に「山里曲輪」という美しい庭園があ
った。その場所は、「大坂夏の陣に敗れた淀殿が自害して果てた現場」
でもある。現在は、自刃の場所を示す石碑が建っているが、それを知る
人も訪れる人もあまり多くなく、巨大な石垣の下でひっそりとしている。
この様子がまさに、淀殿に対する後世の評価を物語っているようにも思
われる。概して秀吉の人気に対し、淀殿というのは評判が悪い。
淀殿を淀君という呼び方について――実は、淀君という言い方こそ江戸
時代になり、淀殿を貶めるために、少し軽蔑のニュアンスが込められ、
あえて流布された呼び方であった。




石投げて闇の深さを測っている  笠嶋恵美子




「秀吉の側室となる」
茶々と呼ばれた淀殿の少女時代は、正に乱世の過酷な現実を味わう日々
であった。
1573年(天正元)8月28日、小谷城に居を構える父・浅井長政
織田家、浅井家との同盟の約束である「朝倉家との不戦」を破ったため、
織田信長に攻め滅ぼされ、まだ五歳だった茶々は、母・お市の方に連れ
られて、命からがら城を落ち延びることとなった。
その9年後、母は茶々をともない越前の武将・柴田勝家と再婚。
しかし、それから1年も経たない間に、勝家は、羽柴秀吉に敗れて北ノ
庄城は燃え落ち、お市も運命をともにする。
父に続いて母も失った茶々は、この時15歳。
燃え盛る炎のなか、二度目の落城を経験することになる。
からくも城を抜け出した茶々の身柄を引き取ったのは、母の仇ともいう
べき秀吉だった。茶々は、やがてその男の側室となる。




噛んだあとほのかに苦い薬指  西澤葉火






              淀殿VS寧々




「正室・寧々と茶々の対立」
秀吉の側室・茶々は、近江の浅井氏の出身ということで、秀吉傘下の家
臣のうち、近江出身の石田三成、片桐且元らの勢力のシンボル的存在と
され、秀吉正室・寧々の子飼いの尾張出身者たち、武断派の加藤清正、
福島正則らとの対立を生むことになる。
秀吉の奥向きを差配する正室はおね、秀吉が駆け出しのころから支えて
きた糟糠の妻だった。 正室のおねと20歳も若い側室の茶々の2人の確
執を、世間は好奇の目で見た。
『太閤記』には、次のような逸話が載せられている。
『ある時、おねは珍しい黒百合の花を献上された。おねが茶会を開いて、
 世に一輪しかないというその花を茶々に見せた三日後、今度は茶々が
 おねを招いた。そして、その席には無数の黒百合の花が、いとも無造
 作に活け散らかしてあったのだった。
 それを見たおねは、顔色を変えてその場を立ち去った』という。




振り幅の広い女のヘチマ水  山本早苗




1588年(天正18)年秋、茶々は妊娠する。
長い間、男子に恵まれなかった秀吉には、それは大変な喜びであった。
茶々は淀に城を与えられ、これ以後、淀殿と呼ばれるようになる。
最初の子は幼くして亡くなったが、1593年(文禄2)淀殿は2人目
の男子・拾(のちの秀頼)を生んだ。
そして、世継ぎの母となった淀殿は、正室のおねを差しおいて、天下人
秀吉の寵愛を一身に受ける身となった。




おもしろくなってきました裏メニュー  田口和代






          病床の秀吉




ところが――
秀頼誕生のわずか5年後、淀殿の唯一の後ろ楯だった秀吉が、死の床に
ついてしまう。
「秀頼のことお頼み申し候。このこと以外に思い残すことはなく候」
秀吉は、秀頼の行く末を呉々も頼む、と言い残して世を去ってしまった。
これ以後、淀殿の運命は、瞬く間に暗転していく・・・。
     
                      つづく


泥濘を這って解った水の味  新家完司






     お 初




【淀殿の関り】 ここからはお市の方の二女・三女のこと。
二女のは、1570年(永禄13)小谷城で誕生。
18歳のとき、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたり、父長政
姉の子で従兄でもある京極忠高と結婚。
忠高は、1590(天正18)「小田原征伐」の功により、近江八幡山城
2万千石、1595には(文禄4)には近江大津城6万石へと加増され、
羽柴を許され豊臣姓もという出世ぶり。
しかし、妹・竜子が、秀吉側室の松の丸殿であることや、初との結婚に
よる出世とされて「蛍大名」と陰口をたたかれた、が、1600年(慶
長5)「関ケ原の戦い」では、三成側に就くと思わせて大津城に籠城し
て東軍に転じるなど、西軍を足止めする功績を残し家康から、若狭小浜
8万5千石を与えられている。




家系図に割り込むボクの知らぬこと  山本昌乃




初は夫の死後、剃髪して常高院と名乗る。
「大坂冬の陣」では、大坂城に入って姉・茶々らと妹・の婚家・徳川
家との和議に尽力をする。
夫・京極高次との間に子供はなかったけれど、妹のお江の4女・初姫
もらって嫡子・忠高と結婚させたり、他にも、血縁関係や家臣の子女の
養育にあたったり、「大坂夏の陣」の後、秀頼の娘で後の天秀尼の助命
を姪の千姫と共に、家康に嘆願したと言われる、世話好きな人柄がみえる。
三姉妹のうち一番長生きで、1633年(寛永10)64歳で死去。
蛍大名武士は、戦場による武功によって加増されてなんぼ、主筋との
結婚や姉や妹が側室になり、後継ぎを産んだことで加増されたり大名に
なった人を、女の尻の光で出世したと言う意で、蛍大名と蔑称された。
京極高次は5代将軍・綱吉の母・桂昌院の実家である本庄家も将軍の母
の実家というだけで小大名になれた、先例がある。



白髪染めやめたら皺が魅力的   居谷真理子





 
      お 江



お市の3女・は、1573年(天正元)小谷城で誕生という説と、
お市の方が小谷城脱出後に岐阜で出産した説がある。
名前は小督(おごう)、江与。亡くなった後に従一位を追贈され、達子
(さとこ)という名もある。
江は、3度の結婚経験があり、最初は秀吉によって、信長の次男で江の
従兄の織田信雄の家臣の佐治一成と政略結婚。
しかし、信雄と秀吉が「小牧長久手の合戦」で、敵同士となったために
離婚。
その後、天正14年~文禄元年(1586-1592)までの間の時期に、秀吉
の姉の息子で秀次の兄・羽柴秀勝と結婚。
一女・完子(さだこ)が生まれたが、秀勝が、1592年(文禄元)に
「朝鮮の役」で病没。




便箋のあと一枚の間柄  みつ木もも花




そして3度目は、文禄4年(1595年)、家康の3男で6歳年下の17歳
秀忠と結婚、長女・千姫を頭に2男5女を儲けた。
お江の長女・千姫と長姉・茶々の息子・豊臣秀頼は、秀吉の遺言で結婚、
また、江の長男・家光は3代将軍となり、徳川歴代将軍の中で唯一正室
から生まれた将軍であった。
1626年(寛永3)9月、江戸城西の丸で死去。享年54だった。




ご破算の想いのはずが発火する  清水すみれ






       北庄城址の三姉妹




「戦国一の美貌の母の子、浅井三姉妹は美人だったか」
茶々は、大柄で華やかな印象、秀吉があれほど入れ込むのだから美人だ
ったのだろう。千姫が愛した男前の秀頼は母似でもある。
は、地味な存在ながらもお世話好きで、父・長政に似て優しくて温和
な人柄だったことが伺われる。美人というより可愛かったのだろう。
は、3度目の夫・秀忠は7つ下でも、嫉妬深い山の神だった。
秀忠が腰元に笑顔を向けただけで江がヒステリーを起こしたというほど。
その恐怖感に実直で誠実な人柄の秀忠は、17歳で江と結婚後は、側室
もおかず、唯一、保科正之という婚外子が生まれたものの、江の存命中は、
対面もせず隠し通していたという。
それほど江は、よそ見をさせぬ程、抜きんでた美人だったのかもしれない。




心臓に異常はないが気は弱い  松田蟻日路

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まだ二回しか死んだ事ありません  中村幸夫



唐入り=朝鮮渡海の陣 太閤秀吉、日本全国に出動命令
天下統一を成し遂げた秀吉は、いといよ唐入り明国平定に乗り出した。
職諸藩に出動命令が発せられ、海詠の夫馬や渡船の学識、米穀蓄蔵が準備される。
一方、朝鮮平定が当面の課題として示された。
諸国諸将は続々と備前名護屋に参集。玄界灘を渡り、朝鮮半島に上陸している。 
日本史新聞。



「朝鮮出兵」とは、天下人となった秀吉が、全国の大名を大量動員し、1592年
から1598年にかけて2度(文禄・慶長の役)にわたって、朝鮮国への侵略を企
てた戦いである。
初めよければ終りは惨憺。2度目の戦いの最中で秀吉は病没し、戦いは終わっ
たが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく、清に
よって滅ぼされる。
 
 


囃したらノンアルコールでも踊る  原 洋志


「江戸城のちょっと歴史」
「家康が江戸に入る123年も前に前に江戸の地で土木事業を興し、江戸城を
築いた武将がいる。
扇谷上杉家の家宰で名将の呼び声も高い太田道灌である。
道灌は、古河公方側の有力武将であった房総の千葉氏を抑えるため、まず江戸
氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に平城を築いた。
 城は、鎌倉時代に建てられた「江戸館跡」に築かれ、1457年(康正2)
に完成したと言われている。それが「最初の江戸城」である。
道灌時代の江戸城は、自然地形と河川が防御の要となっていた。
東側は平川と日比谷入江、北側は千鳥ヶ淵から神田川へ流れている流路、
南側の桜田濠、外側には四谷・麹町台地を削った流れがそれにあたる。
また道灌は、江戸城に近い湊を維持しつつ、さらなる繁栄を図るために、
平川の河筋を東側に付け替える工事を行っている。


 
 
千年杉一刀彫として生きる  和田洋子



旧平川は神田川から切り離され、江戸城内の台地の斜面から湧き出ていた水を
流すだけの短い川とした。
その後、江戸城は北条氏が支配することになるが、北条の時代は、ほとんど手
入れも修理もしておらず、家康が入府する頃には、「荒れ放題」
「石垣で築いたところは一カ所もなく、竹木が茂り、城内には、北条氏時代の
侍屋敷が残り、当座の宿泊には役だったが雨漏りがし、畳や敷物も腐っている。
玄関は土間で、舟板を2段並べ、上がり段にしていた」
と、ひどい有様だったらしい。
あまりの惨状に家臣の本多正信が、「せめて玄関回りだけでも立て直しては」
と、すすめたが、家康は笑って受け流したという。
自分たちが住むところを快適にするよりも、新領土の整備を優先したのだ。
 
 



いくつかの窓は希望であるらしい  中野六助



 
江戸図
『長禄年中江戸図』
 道灌が江戸城を築いた当時の江戸の様子を描いたとされる絵図


 
家康ー江戸を建てるー②




 
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                                                 石を運ぶ船
 
 
 

1580(天正18)8月18日、江戸に入って17日後、家康は早くも城下
町の普請を開始した。 山を切り崩して整地をし、余った土を湿地の埋め立てに
使うという、一石二鳥ともいうべき方法で工事は進められた。
江戸の町を造るにあたって、家康には手本があった。
秀吉がつくった大坂の町である。当時、海に通じる運河が縦横に町を走る大坂
は、経済の中心地として繁栄していた。
<江戸は大坂と同じく海に近い。この利点を活かすがよろしかろう>
そういう秀吉のすすめを、家康は忠実に実行に移したのである。
こうして、湿地帯に水路がつくられ、のちの江戸の町の原形が徐々に形づくられ
ていった。
 



大自然生きとし生けるもの包む  宇都満知子



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              石を運ぶ人夫
 
 



城下町の普請―― いわばハードウェアの構築を進める一方、家康は関東の政治
体制を整えるという、ソフトの整備も抜かりなく推し進めた。
そのやり方は、これまでの統治者だった北条氏の方法のよいところは、臆せず、
採り入れるというものであった。
土地の石高を調べる検地のやり方も、秀吉が推し進める過酷なものではなく、
これまで北条氏が行っていた手法を、積極的に踏襲した。
広い関東平野を効率的に治めるために、北条氏は、陸上交通を重視し、馬によ
って情報を伝え物資を運ぶという、伝馬制のシステムを確立していたのだ。
家康はこの仕組みを採り入れ、さらに整備を進めた。
そしてその責任者に、北条氏の時代の担当者をそのまま、引きつづき任命した
のである。
 
 



俯瞰してふと見えてくる捜し物  上坊幹子



それだけではない
家康は、今まで敵だった北条氏の家臣たちを次々に召し抱えた。
「われ、素知らぬ体をし、よく使いしかば、みな股肱となり、勇功をあらわ
 したり」
(家臣の過去は問わず、よく用いれば、みな仲間となり功績をあげるように
 なるというものである)
家康の関東支配は順調に滑り出した。
関東に行けば、「家康は、領国経営に失敗するかもしれない」と、いうのが
秀吉の目論見だったとすれば、その当てはすっかり外れることになってしま
ったのである。秀吉の当て外れはそれだけではなかった。
家康を関東に送った秀吉は「鎌倉の鶴岡八幡宮を修復せよ」と命令していた。
莫大な費用のかかる修築によって「家康の経済力を削ぐ」という秀吉の狙い
である。 家康は、この秀吉の命令も忠実に実行に移した。



なめこ汁つるん明日も生きてやる  真鍋心平太



家康・お勝の方


しかし、この時、家康は胸中に遠大な目標を秘めていたのである。
修築の前に家康が贈った寄進状の末尾に記された署名に、家康は自らのことを
「源朝臣」と、記したのである。
「自分は源頼朝と同じ源氏の流れをくむ武士である」
と、宣言しているのである。
鶴岡八幡宮は、鎌倉の地に幕府を開いた源頼朝とゆかりの深い神社である。
鎌倉幕府の歴史を記した『吾妻鏡』が、愛読書だった家康は、当然のこと、
それを知っており、修築にあたって自分は、
「古えの頼朝公の跡を継ぐ存在である」と、仄めかしたのである。
 



 
まだ夢がいっぱいつまる予定表  靏田寿子



家康もまた、この関東を基盤とし、頼朝の故知に習って、秀吉に対抗する勢力
を徐々に打ち立て、ひいては、頼朝のように将軍となって幕府を開こうという
遠大な目標を抱いていたとも考えられるのである。
こうして関東を拠点として整備しつつあった家康は、秀吉が配下の武将たちに
命じて朝鮮半島に兵を送った時も、国内に留まって力を蓄えることができた。
 



 
びり乍ら今も懸命走ってる  津田照子

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