川柳的逍遥 人の世の一家言
今は昔にはならない闇の河 峯島 妙
北野天神縁起絵巻 (北野天満宮蔵)
1016(長和5)年6月、西隣の藤原惟憲邸からの出火で、藤原道長の栄華
を象徴する邸宅であった「土御門殿」が燃えた。 天井を走る紅蓮の炎、その上で屋根にのぼった雑人たちが、類焼を食い止める
べく板を剥がしている。 棒を手に叩き消している人もいる。
井戸の側から屋根まで、梯子をかけて水を運ぶ姿もあるが、当時の消火方法と
しては、毀ち消火がもっとも有効であった。 邸内に目を移すと、板戸や家財道具ほか琵琶や筝などを、運び出す人で混乱し
ている、様子が描かれている。 つぶコーンで良ければどうぞ鎮火まで 山本早苗
『春日権現記絵』 (宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
京の大火あと、まだくすぶる火に水をかけ消火にはげむ男たち。
そばでは焼け跡から探し物をする人。京の大火後、このような光景が随所で
みられたことであろう。
式部ー平安京のざわめき 「カーン、カーン、コーン、コーン」
木を削る手斧や槍鉋の音が周囲に響き渡る。
工人たちの活気あふれた声。
これらの音は貴族たちの住宅地のそこかしこで聞かれたはずであり、
ひょっとすると加茂川辺まで届いていたかもしれない。
場所は平安京の東北隅に近い土御門殿。
邸宅の主は、今をときめく藤原道長である。
この造作は、創建ではなく焼失にともなう再建であった。
ベランダに月の都の月あかり 佐藤真紀子
土 御 門 殿 邸
「さて焼失後・土御門殿」 諸国の受領たちが道長のもとへ火事見舞いに訪れている。
数日後には造作始めのことがあり、ほぼ2年後には、焼失前より大規模な殿舎
が出現した。 もっとも造作のほとんどを受領たちが共同で請け負ったものである。 新造なった道長の土御門殿には、生活に必要な家具・調度の一切を、伊予の守
源頼光が献上している。 その経費たるや計り知れない。 この一受領の寄進に、驚異をもった人たちは、次から次へと新邸に運び込まれ
てくる品々に目を見張ったという。 道長が「三后冊立」という前代未聞のことをやってのけ、
「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることも…」
と歌ったのは、移り住んで三ヵ月余り後の木の香も残る土御門殿での夜の宴席
においてであった。 道長邸の生活用具は華美に徹していた。 月光はすべて私のために降る 吉川幸子
火事場泥棒 (神林寺蔵)
室内から猛炎が噴き上げている。
大きな箱様のものと、大きな包みを頭に載せた男2人がその中から飛び出して きた、この2人は、家人ではなさそうで群盗か。だとすればまさに火事場泥棒 である。 「夜の盗賊・世の不安」
とりもなおさず、金銀財宝を蓄えた有力貴族は盗賊の格好の標的となった。
道長邸とて例外はない。
1011(寛弘8)年12月には、二日連続で窃盗に入られ、衣装と銀製の提
(ひさげ)が盗まれた。 1017(寛仁元)には、倉にあった金銀二千両が盗まれたが、のちに盗賊は
逮捕され、盗品の半分ほどを取り戻すことができた。 犯人はどうやら道長の家司の郎党であったらしい。
この時代の群盗は、このように京中の貴族の邸宅に仕える下層の雑色、下人ら
である場合が多かった。 犯人とわかるその手の洗い方 蟹口和枝
一方、宮内の大蔵省・民部省・穀倉院などには、諸国より、運上の物資が保管
されていたから、当然のことながら盗人に狙われた。 内裏にまで潜入した記事が散見する。
ここには、天皇はじめ後宮の人たちの高級な衣装、調度が沢山あったので、
格好の狙い所となった。
ある時には、女の盗賊二人が清涼殿に潜入し、こともあろうに天皇の御在所に
近づき、これに愕然とした天皇が、蔵人を呼んで逮捕を命じるという一幕もあ った。 片腕が置いてある京都の質屋 大橋允雄
貴族の邸宅・大和絵屏風 (神護寺蔵)
広々とした自然の景観のなかにおかれた邸宅。
甍を並べる京内の邸とは趣を異にしているが、殿舎そのものはもっとも当時に
ちかいものであろう。 京内では、有力貴族の邸のほかに、受領の邸宅が狙われた例が多い。
かれらが任国で得た財は、逐次、京の屋敷に運び込まれた。
数か国の受領の経験者ともなると、巨万の富を得て倉はふくれあがり、
それは、盗賊の狙いの的となった。 例えば、件の頼光の父の満仲の場合、道長の土御門殿と内裏の中間点に位置し
ていた邸宅が焼失したが、これは強盗放火のためであった。
また、丹波守藤原資業(すけなり)は、騎兵10余人の襲撃を受けたが、その
理由は、任国における資業の苛酷な政治への遺恨によるものとされる。 受領宅を狙った盗犯の場合、その多くは このような恨みが原因となっていた。
消しゴムが私の過去を撫でたがる 鈴木かこ
御斎会の夜の路上 (田中家蔵)
庶民の動静が貴族の日記などに記述されることは、ほとんどない。 そのため庶民を描いた絵画資料の意義は大きい。 特に『年中行事絵巻』に活写されている庶民の姿には目を見張るものがある。 これらの犯罪に対し、治安に当たり、力のあったのが検非違使で、犯人逮捕の
効果もあがっているが、それにも増して時代とともに犯罪の比率は高くなって いった。 一方、霖雨による河川の氾濫、旱魃による飢餓、疫病の流行、ときとして、
これらの天災が交錯しながら平安京を襲った。 とりわけ平安末期に相次いだ大火と、飢饉が人々に与えた不安は計り知れなか
った。 鼻濁音ばかりが耳につくお経 竹内ゆみこ
洪水で逃げ惑う人々 (歓喜天霊験記・個人蔵) いつの時代でも手のほどこしようのないものはない。ことに予知能力の未発達 な当時には尚更のこと。天災で最もよく起きたのは水害だろう。 ことに都の人たちを恐れさせたのは、東の鴨川と西の桂川の反乱であった。 ひとたび氾濫すると家財道具は押し流され、多くの人命が奪われた。 「世の末を感じて…鴨長明・方丈記」
『はてには、笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したるもの、
ひたすらに家ごとに乞い歩く。
かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、
すなわち倒れ伏しぬ。
築地のつら、道のほとりに飢え死ぬるもののたぐひ、数も知らず。
取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、
変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり』
うろこ雲敷きつめてから奈落 酒井かがり PR |
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