酒ビール焼酎すこし違う酔い 新家完司
政孝(マッサン)5歳、前列中央
「物心ついたときには、すでに酒の世界が私を包んでいた」
とマッサン.は回想する。
「マッサン写真館」
造り酒屋に生まれた
竹鶴政孝は、家業を継ぐために、
大阪高等工業学校
(現・大阪大学)で醸造を学びました。
しかし、日本酒ではなく洋酒に興味を持ち始めた政孝は、
日本の洋酒業界の雄であった
"摂津酒造"へ入社。
ウイスキーづくりの魅力にとりつかれ、
寝食を忘れて働きつづけます。
憎むのはあの人じゃなくあの時代 勝山ちゑ子
ロンドンにて記念写真
にっか
当時のウイスキーは、中性アルコールに甘味料や香料、
カラメル色素などを加えたイミテーションが主流でした。
イミテーションウイスキーの限界と、
本物のウイスキーをつくる必要性を感じていた攝津酒造の社長は、
政孝の情熱と資質を見込んで、
大正7年、単身スコットランドのグラスゴー大学に留学させます。
スコットランドは、想像を絶するほど離れた遠い異国の地でした。
夢にまだ届かぬ高枝切り鋏 本多洋子
1919年、ハイランドディスティランにてマネージャー・二コル氏と
1920年、へーゼルバーンの蒸留所 マネージャー・イネス氏と
一本の万年筆とノートでウイスキーづくりを盗んでいった。
政孝は弱冠24歳、遠い異国で日本人に会うこともなく、
また生活習慣が全く異なる中での一人暮らし、その一方、
「何としてもウイスキー造りの実際を身につけて帰らねばならない」
という使命感に、政孝は極度のホームシックにかかってしまいます。
そんな頃、政孝は柔道を通じて開業医一家と親しくなります。
その一家の中にいたのが、3人姉妹の長女・リタでした。
アコーディオンをギュッと抱きしめた孤独 靏田寿子
政孝とリタ
その時22歳のリタは夢に燃える政孝に惹かれ、
政孝はやさしく励ましてくれるリタを愛しはじめます。
…やがて政孝が求婚します。
「もしあなたが望まれるなら、日本に帰るのを断念して、
この国に留まってもいいと考えています」
それに対してリタは、
「私たちはスコットランドに留まるべきではありません。
マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。
わたしもその夢を共に生き、お手伝いしたいのです」
と応えました。
こうして二人は生涯の伴侶となって、
日本への船に乗ることとなりました。
じゃがいもよお前もほんのりと恋 山口ろっぱ
リタと政孝が暮らしていた帝塚山の洋館
1923年、帝塚山学院第五回卒業アルバム
異国日本へ着いてリタが最初にしたことは、
日本での生活に馴染むこと。
リタは日々、日本の女性以上に
"日本人らしい女性"となるよう努力しました。
難しい日本語も熱心に勉強しました。
リタは政孝を初めは「マサタカサン」と呼んでいましたが、
「マッサン」と呼ぶようになり、
二人は人もうらやむ仲睦まじい夫婦でした。
常に日本風を心がけ、日本人らしく夫を支え、
英語やピアノを教えながら家計を助けました。
止まったら終い とぼとぼでも歩く 岡田陽一
1940年、正月の記念写真
リタの日本髪
しかし昭和15年以降は、戦争のためスパイ容疑をかけられるなど、
辛いことも多かったようです。
結婚と同時に英国から日本に帰化していたとはいえ、
「鬼畜米英」が合言葉だった時代には、
「アメリカ!アメリカ!」と子供たちによくはやしたてられ、
「この鼻を削りたい。
この目の色も髪の色も日本人と同じように黒くしたい」
と嘆いたそうです。
憎むのはあの人じゃなくあの時代 勝山ちゑ子
もともと体があまり丈夫でなかったリタは、
60歳を過ぎてからは入退院を繰り返すようになり、
64歳の誕生日を迎えた、わずか1ヶ月後の昭和36年1月17日、
マッサンに看取られ永眠します。
「リタがついにこうなってしまったよ」
弱音をはいたことのない政孝が、この時ばかりは泣きました。
政孝はこの後二日間、葬式の準備を息子の威に任せたまま、
部屋に閉じこもり、火葬場にも行きませんでした。
ぼろぼろになった私だけの地図 合田瑠美子
余市のリタの洋館
リタの墓は、余市蒸溜所を見下ろす美園町の墓地に建てられました。
政孝はその時、自分の名前も一緒に刻みました。
あとはただ日付を入れればいいようにして…。
どのページ開けても雪は舞っていた 大田扶美代
マッサン第一号のウイスキー
その後、昭和31年に発売された
「丸びんウヰスキー」
の大ヒットを足掛かりに、37年の「スーパーニッカ」、
38年の
「ハイニッカ」と立て続けにヒットを出し、
ニッカは全国ブランドへと成長していきます。
政孝はその生涯に、北海道余市町、兵庫県西宮市、
宮城県仙台市に異なる3つのタイプのウイスキー工場を建設し、
常に理想のウイスキーづくりを追い求めました。
昭和54年8月29日に85歳で亡くなりますが、
病床でもウイスキーのグラスを離さなかったと言われています。
風が問うなら僕は土葬を希望する 奥山晴生 [7回]