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川柳的逍遥 人の世の一家言
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プラチナの匙真夜中を裏返す  井上一筒

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  瓜生岩子

「会津の女」④―瓜生岩子

幕末の戊辰戦争のさなか、いよいよ新政府軍が会津に

攻め込んでくると、城下は大混乱に陥った。

自害する者、城にこもる者、逃げまどう人・・・。

やがて城下は炎に包まれ、負傷者でごった返した。

この時、敵・味方の別なく、懸命に看病して歩く

ひとりの女性の姿があった。

会津藩で以前から救恤活動に尽していた瓜生岩子である。

修業の語尾を約三度上げる 蟹口 和枝

当時39歳であった。

 「敵を看病している」

と非難する声もあったが、

「けがをした人はみな同じ、国のために戦っている」

というのが彼女の持論だった。

彼女はさらに戦災孤児の世話や戦死者の供養も行っている。

岩子は喜多方の裕福な商人の生まれだが、

8歳のとき、父が急死したうえに家が火事で全焼、

母の親戚に預けられて育った。

今日もまたさんざん冷やかされた夕日  一階八斗醁

16歳で結婚して子宝に恵まれ、幸せな生活が続いたが、

33歳のときに夫が病死。

商売も傾き、母も他界して途方に暮れた岩子は、

尼になろうとも考えたが、寺の住職に.

「あなたより苦労している人は大勢いる」

と諭されて改心。

後生を窮民の救済に捧げようと決意した。

渾身の力でこの星を背負う  福尾圭司

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戊辰戦争後は、郷里に救養所をもうけ、

堕胎・間引きの非を説き、

磐梯山噴火の際には救援活動を行い、

独力で福祉事業を推し進めてゆく。

明治24年、岩子62歳のときには、

大実業家・渋沢栄一に請われて上京し、

東京養育院で働いている。

近代日本の福祉事業の草分けとなった彼女の名声は

みるみる高まり、明治29年には、

女性として、はじめて藍綬褒章を授与されている。

脳味噌は自分で捏ねるほかはなし  新家完司

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花は散ったそろそろ人間に戻る  谷垣郁郎

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      女紅場    (画像は拡大してご覧ください)

明治5年4月、九条家旧屋敷を校舎とっして設立。

山本覚馬の妹・八重も教官を務めた。

日本初の女学校。

英語も教えられ、明治6年以降に各学区に設けられた。

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                               おおぎ
女紅場の門が移築された京都府立鴨沂高等学校正門。

黄昏を素早く掬うのでとても  酒井かがり

「日本を守るべきに何をすべきか」

京都府知事を務めた槇村正直に見識を買われた覚馬は、

明治3年に府顧問に招聘され、京都の近代化に取り組み、

また京都府会の議長を務めるなど、

維新後の旧会津藩士の中では、

「最大の成功者」の一人となった。

だが明治時代の覚馬で真に見るべきは、

幕末以来掲げていた

日本を守るべきに何をすべきか ―という気概を、

終生、失わなかった点にある。

鑑真和上のクローンではないか  井上一筒

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     御池小学校
                    (写真は明治初期に開校された御池小学校)

京都では明治5年の学制発布より早く、

小・中学校が次々と開校、

その数は最初の一年間で60を超えた。

覚馬が京都近代化の軸に据えたのは、

『管見』で主張した「教育」「物づくり」である。

教育では、学制発布以前より小・中学校を次々と創設。
       にょこうば
また「女紅場」という女子学校を設立して、

女子教育にも力を入れた。 

この女紅場で、

教師や女子寮の監督を務めたのが妹の八重だった。

彼女が覚馬を頼って京都に出てきたのは、明治4年のこと。

7年ほども離れ離れになっていた兄を慕い、

見ず知らずの京都にまで来たのだから、八重にとって覚馬が、

心から尊敬できる兄だったことは間違いない。

地下街の散り初めしバラ手に受ける  山口ろっぱ

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     京都舎密局

物づくりで特筆すべきは、「舎密局」の設置である。

いわば、化学研究所のことで、ガラスや薬剤、ビールまで、

幅広い西洋品の国産化が進められた。

他にも養蚕場製紙場を設け、

古都・京都は日本最先端の工業都市へと変貌、

今日の繁栄の基礎を築いた。

このような、「人づくり」「物づくり」を重んじた覚馬の政策は、

薩長が牛耳る新政府に対して、京都をモデルに、

「近代日本の理想像」 を示したと言えるものだろう。

湿地帯ぬけた足だな濡れている  中野六助

さらに覚馬は、近代日本の精神の核とすべき、

「新たな価値観」の必要性を痛感し、模索する。

そして注目するのが、「キリスト教の精神」である。

故郷会津が新政府軍に理不尽にも蹂躙された悲劇が、

背景に覗く。

会津藩士とその家族の多くが無念の最期を遂げ、

いわれなき「賊軍」の汚名までも着せられ。

維新後も故郷を追われ、

不毛の地で塗炭の苦しみを味わわされ、

職に就くにも差別された。

まさに薩長の、「勝てば官軍」の歪んだ価値観が横行していた。


(この価値観が今尚、幕末・新政府軍の戦死者のみを祀る靖国神社に残る)

白紙には重たい時間埋めてある  瀬川瑞紀

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   同志社英学校

明治8年11月に開校した同志社英学校

覚馬は新島襄を支援し、

自らが所有する旧薩摩藩邸跡(今出川)に校舎を建設させた。

そんな中で、少なからぬ会津の人々が、

「公正」「平等」を重んじるキリスト教に惹かれ、また覚馬も、

「義も節も力で捻じ伏せ、勝てば官軍と称して憚らない

  価値観を断じて許してはならない」 


と信じる中で、キリスト教の精神にある合理性、

公正さに着目するに至る。

そして、このキリスト教精神こそ、

これからの日本に求められると確信した覚馬は、

八重の夫・新島襄による同志社設立を、支援し、

普及に努めていくのである。

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縫針に通す夕日を尖らせる  岩田多佳子

"いかにして国の役に立つか"

覚馬の生涯は、この信念に貫かれている。 

それはやはり、彼が会津藩士であったことの影響だろう。

会津藩士の胸には、藩祖・保科正之が定めた

「将軍家への忠義を第一にせよ」

という、会津藩家訓の精神が深く刻み込まれている。

だからこそ、

黒船が来航すると品川や富津の湾岸警備を務め、

また火中に栗を拾うような京都守護職就任も、

涙を呑んで承諾した。

彼らは、国家を守ることを自分たちの存在意義とし、

そのために、取りうる手立てを真剣に考えた。

あの屋根を越えたいのですしゃぼん玉  三村 一子

「覚馬の推進した殖産興業」

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     養蚕場
                  (各画像は画面をクリックすると画像は拡大されます)
明治4年4月、操業。

養蚕、製紙などの改良に務めた。

覚馬は特に養蚕に感心を示したといい、公卿の子女にも養蚕を習わせた。


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      ふしみ
    伏水製作所

明治6年4月、操業。

土木用の鉄材、鉄具などを製造。

洋式の溶鉱炉を導入し、農具や印刷機械、四条大橋の鉄材も製造した。

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    栽培試験場

明治6年4月、操業。

勧業場前の畑に設けられ、


品質の優れた西洋薬草や木苗の試植、頒布をおこなった。

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       織工場
                    (写真は織工場の後身・京都織物株式会社)


明治7年、6月操業。

織物生産のほか、洋式の織物技術の研究所の役割も担った。


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      製紙場

明治9年1月、操業。

維新前、長崎で知り合ったドイツ商人・レーマンから新鋭機械を導入。

西南戦争での新聞普及に伴い激増した紙需要を賄った。

その他、勧業・製革・牧畜場などを次々開設させている。


幕末の動乱の中で、

師から継承した真の攘夷をなすための道筋を、

見失うことなく、新たな知識を吸収しながら、

日本が目指すべき国家像を描いた先見力と、

その実現のために、

覚馬はあらゆる障害に立ち向かっていったのである。

過ぎた日と未来をそっと綯っている  嶋澤喜八郎

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女ひとりの心を変えて豪雨去る  森中惠美子

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    山川捨松  (画像は拡大してご覧下さい)

「会津の女」③ー山川捨松

山川大蔵の妹・山川咲子は、鶴ケ城籠城時は子どもだった。

戊辰戦争後、長兄の大蔵は斗南藩の大参事になり、

次兄・東京大学総長を勤めた山川健次郎は、

派遣留学生としてアメリカへ。

そして、山川咲子も、名前を「捨松」と変え、明治4年、

派遣された条約改正のための岩倉使節団に加わって、

津田梅子ら5人の女子留学生らとともにアメリカに渡る。 

12歳のときである。

何だ何だと大きな月が昇りくる  時実新子

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    大山巌

23歳で帰国した捨松は、

薩摩藩の陸軍卿・大山巌に見初められて、結婚。

会津を攻めた宿敵の薩摩人からの結婚の申し出に、

山川家はおどろき、当然ながら断った。

しかし、大山はあきらめずねばり強く交渉する。

最後には捨松本人が、大山の人物を確かめた上で承諾した。

仕事をしたくても、受け皿のない日本社会の現実に悩み、

考えぬいた末の決断だった。


自己肯定せねば生きてもいられない  たむらあきこ

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政府高官の妻となった捨松は、

鹿鳴館で催されるパーティーで、

居並ぶ紳士・淑女が苦労する中、

アメリカ仕込みの完璧なマナーとダンスで、

外国人記者もを驚かせ、鹿鳴館の華といわれた。

鋤骨から円舞曲をこぼすおんなへん  大西泰世

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また捨松は、津田梅子が創設した女子英学塾(津田塾大学)

顧問となり、側面から女子教育の発展につくした。

八重をはじめとする会津の女性たちに共通しているのは、

信念をつらぬきとおす意志と行動力である。

逆境から活路を拓き、

新しい時代へとみごとな転身をとげた彼女たちの

生き方をとおして、

混迷の時代を生きる指針となる。

トゲトゲの心臓の皮膚植え替える  河村啓子

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自己肯定せねば生きてもいられない  たむらあきこ

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    八 重      (画像をクリックすれば大きくなります》

「新たなる旅立ち」

斗南に移った会津藩士たちは、

厳しい気候風土の中で塗炭の苦しみを味わっていた。

この苦境を脱するべく、柴家の長男・柴太一郎

川崎尚之助が、デンマーク領事で商人でもあった

デュークから、広東米を調達しようとするが、

仲立ちの日本人貿易商が契約を

履行しなかったためにデュークから訴えられ、

両名が責任を負って、獄に繋がれる悲劇も起きた。

拒んでも逃げても追うてくる氷雨  中井アキ

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     佐 久            み ね        (画像をクリックすれば拡大されます)

それでも容保容大を中心にまとまって、
                                 こっくべんれい
なんとか開墾を成功させようと刻苦勉励する

会津の人たちであったが、明治4年7月14日、

廃藩置県となり藩主は東京に、また藩士たちも、

身の振り方についてそれぞれ決断を迫られることになった。

座布団に化けているけどオニヒトデ  井上一筒

八重一家は藩の消滅と

尚之助の悲運に沈んでいた丁度その時、

死んだと思われていた兄・覚馬の無事の連絡が入る。

覚馬に京には京の妻がいると知った覚馬の妻・うら

会津に帰ることを決心、うらを残して八重と母・佐久

そして姪・みねの3人が覚馬の住む京都を訪ねる。

水たまり母をしのぶにことかかぬ  森中惠美子

それから・・・明治5年、覚馬は女子教育充実のために、

京都に「新英学級及女紅場」を設立。

八重はここで女子寮の監督をしつつ、

機織・裁縫や礼法などを教えた。

女紅場の補助金の増額を、

京都府知事・槇村正直に直接掛け合うこともあった。

さらに、若い頃には体重が83キロもある偉丈夫だった覚馬が

外出する際にも、力自慢の八重が手助けをした。

忙しい中からひとときを摘む  立蔵 信子

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兄が人力車を乗降する時には肩を貸し、

歩く折には兄を背負った。

覚馬が東京で木戸孝允岩倉具視、江藤新平ら要人を,

訪問した折にも、八重は兄に同道した。

八重は新たな環境で実に生き生きと、

積極的に兄を支えるのである。

※ 女紅場=女子に裁縫や礼法、読み書き、英語・数学などを教えた。

この花が咲くまでせめて散るまでは  河村啓子

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そんな時、八重は会津戦争で新政府軍を撃ち倒したことを、

隠そうともしないし、

かつての敵である木戸孝允板垣退助らも、

八重の勇気に感嘆はしても、

それを遺恨とするようなことは全くなかった。

また八重には、相手が要人でも平気で口を利き合えるような

肝の据わったところがあった。

「言いたいことをはっきりと言い、やりたいことをやる」

その彼女の考え方、生き方が、

苦境を撥ね返していくバイタリティーの源になっていた。

夢が風なのか風が夢なのか  山口ろっぱ

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しのぶ夜の雪の重さが背なにある  森中惠美子

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断髪・男装の八重
                  (画像は拡大してご覧下さい)

帯刀し銃を携えた八重と開城時に残した和歌。

「八重ー会津戦争を語る」


私の実家は、会津侯の砲術師範役でございましたので、

ご承知の8月23日、

いよいよ城内に立て籠もることになりました時、

私は、着物も袴も総て男装して、

麻の草履を穿き、両刀をて手挟んで、

元籠七連発銃を肩に担いでまいりました。

弟の三郎と申しますのが、その春、

山城国・鳥羽の戦で討死しましたので、

その形見として着物と袴がつきましたから、

―私は、弟の敵を取らねばならぬ、私は即ち三郎だ

    という心持で、その形見の装束を着て、

  一は主君のため 一は弟のため、

     命のかぎり戦う決心で、
城に入りましたのでございます。

やわらかく押しているのに赤い湯気  岩根彰子
         わたし
入城後、妾は昼間は負傷者の看護をしていましたが、

今夜襲撃と聞きましたので、

そっと支度をして、「大小」を差し「ゲベール銃」を携え、

夜襲隊と共に正門から出ました。

門を出て暗闇を進んで行くと、

敵の姿がちらほら見えたので、

ソレッとばかり斬り込みました。

無論、喊声を揚げずに勝手次第に斬りこんだので、

敵の周章加減は話しになりません。

まるで子供の打撃に遇うた蜂のすの如く右往左往散乱し、

中には刃向かう者もあり、

また同士討ちをしている者もあったが、

敵に増援隊が来ると、漸く静まり猛烈に逆襲してきました。

水際にまだ留まっているあした  きゅういち

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     ケーベル銃

しかし勝手を知っている城兵が各処に出没して、

縦横に斬って廻り、また火など放ちました者ありて、

随分、敵をなやましたようであります。

妾も命中の程はわかりませんが、よほど狙撃をしました。

散りざまのいろいろ花も人間も  内藤光枝

別の日には、次のようなこともありました。

妾一人にて出撃せんと、

夜暗に乗じ御台所門より出て太鼓門に来ると、

11、12歳の子供等10人ばかり、

いずれも手頃の長さに切りつめたる槍を携え

えらい元気で集合していました。

そのうちの一人が妾を見て、

「ぜひ夜討に私共を同行を」 

と頼みますので、妾も、
 
「こんな子供も君のために命を捨てる覚悟か」

と思い暗涙を催しました。

生え際からいや耳朶から透きとおる  酒井かがり

妾一人なら格別、子供等を同伴することは一応、

「殿様に御伺いせんければならぬから」

と子供等を待たせて、

黒鉄御門に至り此由を申しあぐると、

殿様は、

「一同の健気な志は褒めて遣わすが、

 女や子供のみを出撃さしては、

  城中兵なき事を示すが如きもので、

  かえって城中の不覚となるから差し控えるよう」


にとの仰せなれば、

その旨、子供等にも懇々と申し含めて解散させ、

妾も止む無く出撃を中止しました。

(一番印象に残っているのか、この場面を八重は幾度も繰り返し語った)
                                              〔山本(新島)八重子刀自の断片〕
歯周病なれどイワオコシを齧る  井上一筒

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