ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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覚馬と時栄
あきらめのよい女が好きといわれても 森中惠美子
一つの道は斗南、一つの道は京へ
(画像は拡大してご覧ください)
「小田時栄と山本覚馬」
蛤御門の変で負った
山本覚馬
の目は、徐々に悪化し、
視力を失いつつあった。
長崎でオランダ人医師・
ボードイン
に診察を受けたところ、
失明は時間の問題との診断であった。
そのとき覚馬と親交のあった
小田勝太郎
が、
目を悪くした覚馬の為に、
13歳の妹・
小田時栄
を世話係に就けることにした。
川という象形文字に流される 原 洋志
覚馬が幽閉中に書きあげた「管見」が、
薩摩の
西郷隆盛
や
小松帯刀
らに認められ、
覚馬は幽閉中の身でありながら、優遇されていた。
時栄は、薩摩藩の許可を得て薩摩藩邸に通い、
幽閉中の覚馬の身の回りの世話を続けた。
三センチあけて座っている二人 三村一子
「新政府かくあるべし」
という提言をまとめた
『管見』
が、
西郷隆盛はじめ薩摩藩士や
岩倉具視
らを感服させ、
明治2年に覚馬は釈放される。
幽閉されてから1年が経過しており、
すでに会津若松城は落城し、会津藩は降伏していた。
釈放後、覚馬は時栄と同棲を開始する。
覚馬は42歳で、時栄は16歳。
(明治時代に淫行条例のような法律は無いので罪には問われない)
どうしても泡にする気の泡立て器 筒井祥文
明治3年、覚馬が京都府の顧問に就任後、
長州藩出身の槇村正直が京都府の大参事に就任し、
覚馬
は
槇村正直
と共に、
京都の産業復興に力を入れる事になる。
明治4年、京都府の顧問となった覚馬は、
京都府の槇村正直の自宅の隣にある豪邸に引っ越した。
引っ越した先は、江戸の町火消し・
新門辰五郎
の旧邸である。
(ちなみに新門辰五郎は徳川15代将軍・徳川慶喜の妾・お芳の父親である)
焼酎の湧く井戸 米を降らす雲 井上一筒
新門辰五郎の旧邸に引っ越してからまもなく。
会津から
八重
と
母・さく
と娘の
みね
を京都へ呼んだ。
覚馬は両目の失明に加え、
軟禁生活の影響もあって足が不自由になっていた。
そのため会津戦争の混乱の中で、
米沢に移り住んでいた家族の行方を捜しきれず、
ようやくその無事がわかったのが明治4年だった。
八重は26歳になっていた。
好き嫌いみんな憂き世の風のせい 大海幸生
川崎尚之助から届いた離縁状
覚馬の京都における生活状態を知った覚馬の妻・
うら
は
なくなく会津に残った。
うらとの決着がついた覚馬は、
晴れて
時栄
と結婚をした。
徳富蘆花
の失恋小説・「黒い眼と茶色の目」
≪時栄と覚馬の間にできた子・久栄が徳冨蘆花の恋の相手である≫
アフリカの土に還そうキリンの骨 新家完司
[4回]
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y2013/08/03 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
萱野権兵衛
生き延びて陰に廻れば風神雷神 墨 作二郎
日新館天文台跡
會津藩校・日新館の施設の中で、
戊辰の役の戦火から唯一残った「天文台跡」。
さかのぼれば藩祖・
保科正之
は
渋川春海
を重んじ、
会津藩と天文学の縁は深い。
日新館では、天文学の授業も行われていた。
基底 12間余
(21.71m)
、台上部 5間半
(9.9m)
、高さ 3間半
(6.4m)
(画像をクリックすると拡大されます)
不連続線というけどずっと雨である 田中博造
「萱野権兵衛ーエピソード」
萱野権兵衛
の自刃の時刻がせまる。
権兵衛は保科家、松平家の家臣たちに別れをつげ、
静かに別室に入る。
しばらくして介錯人・
沢田武司
が帰ってくると、
「事は無事おわりました。死に臨み従容自若、
顔色すこしも変わらず、
誠に立派なご最期でございました」
と報告した。
声がした気がする散りぎわの椿 片岡加代
自刃直前に権兵衛は沢田に語りかけた。
「腰のものは、貴方の常に差している刀か」
権兵衛の問いに、
「実は保科家から忠臣をもてなす道として、特に下されたもの」
と沢田が言葉を返すと、権兵衛は、
「見せてもらいたい」
という。
そして権兵衛は、その刀を沢田から受け取り、鑑定しながら、
「貞宗の名刀ではないか」
と言い当てたという。
さざれ石なってからはよく喋る 一階八斗醁
その後、権兵衛は、丁重に刀を沢田に返すと
「最期に臨んでよい目の保養をした。見事にお願いする」
といい、神色自若、一糸も乱れなかった。
権兵衛と最後まで一緒だった
浦川
も
「その朝も言語・動作すべて平生と変わらず、
いま死地につく人とは思われない静かな表情で、
別に遺言する事もないと述べられた」
と述懐している。
権兵衛享年四十一歳。
戒名は報国院殿公道了忠居士。
≪権兵衛の遺族には
、松平容保
から金五千両、
のぶのり
自刃見舞いとして、銀二十枚、
喜徳
からは銀十枚、
照姫
から銀二枚を下賜されている≫
右心房一拍おいて右心房 酒井かがり
[2回]
y2013/07/31 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
会津人夫々の戦い
雲梯になってしまった豆の藁 河村啓子
降参の会津城 (
画像は拡大してご覧ください)
「明治の会津人」
鶴ヶ城の開城後、生き残った藩士たちは猪苗代に送られた。
老人と婦女子は許されたが、八重はあくまで、
「自分は三郎」
と言い張って、猪苗代に同道しようとし、
途中で女だと見破られて追い返されている。
その後、藩士達は明治2年
(1869)
1月から、
東京と越後高田とで、謹慎するが、
同年9月に
容保
の罪が許され、
11月には容保の嗣子・
容大
が青森下北半島に
三万石の地を賜った。
窓を描く息がしやすくなりました 竹内ゆみこ
容保が帰国後謹慎した御薬園
会津人たちはこの地を
「斗南藩」
と命名し、
翌年から移住が始まる。
しかし斗南は、気候と土地柄の厳しさから、
実質は七千石ほどであり、
着のみ着のまま移住した藩士達は、
たちまち飢えと極寒に見舞われて
塗炭の苦しみに叩き落とされるのである。
上を向き夢を追ってた飢えの日日 山森一弘
斗南の暮らしを柴五郎が次のように回想している。
「この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、
まこと流罪にほかならず。
挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」
『やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、
薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生きぬけ、生きて残れ、
会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ』
と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ、
犬肉の塩煮を飲み込みたることを忘れず」
(柴五郎著、石光真人編著『ある明治人の記録』)
それも誠だ火葬場がそこにある 筒井祥文
この苦境を脱するべく、
柴家の長男、
柴太一郎
と、八重の夫・
川崎尚之助
が,
デンマーク領事で商人でもあった
デュース
から
広東米を調達しようとするが、
仲立ちの日本人貿易商が契約を履行しなかったために、
デュースから訴えられ、
両名が責任を負って、獄に繋がれる悲劇も起きた。
わが片隅あおかび咲いてゐたるかな 大西泰世
容保と家臣たち
(立っているのが容保)
それでも、容保や容大を中心にまとまって、何とか開墾を
成功させようと刻苦勉励する会津人たちであったが、
明治4年
(1871)
7月14日に
廃藩置県
となり、
旧藩主は東京に住むことを命じられる。
容保一家が東京へ移ると、旧藩士たちも身の振り方について
それぞれ決断を迫られることになった。
騒乱に泳ぐワラにすがりながら 山口ろっぱ
広沢安任
彼らはなお
「逆賊」
として白い目を向けられており、
進める道は限られてもいた。
しかしそれでも会津人は、
不屈の魂
を決して失わなかった。
斗南に残り、開墾を進めた人々もいた。
代表的な人物が、
ひろさわやすとう
幕末に京都で公用方として活躍した
広沢安任
であろう。
彼は斗南藩の小参事を務めた後、
「野にあって国家に尽くす」 の信念を貫いて、
斗南に
洋式牧場を開設
・成功させ、
日本の牧畜業の発展に大きく寄与した。
思い切り自分のために笑うんだ 山口美千代
山川 浩
もう一つの流れは、東京などで活躍した人々である。
佐川官兵衛
は明治7年、時の大警視・
川路利良
に乞われ、
旧会津藩士300人と共に警視庁に奉職する。
明治6年の政変で
西郷隆盛
らが旧薩摩藩士を引き連れて
下野した穴を補うためであった。
また、
山川大蔵
(浩と改名)
は、斗南藩で権大参事を務めた後、
日光口で戦った土佐藩の谷千城の推薦により、
明治6年に陸軍に出仕している。
明治10年の西南戦争では、両名とも九州に出陣した。
朝日がのぼる進軍ラッパ吹きながら 足立千恵子
官兵衛は警視庁の隊を率いて攻撃中に戦死するが、
警視庁の会津人たちは奮戦を続け、
「戊辰の仇」
と叫びながら薩摩藩を切り崩していった。
一方の山川浩も、薩摩軍が攻囲する熊本城に救援部隊として
真っ先に突入する武勲を挙げている。
この戦争に臨んで浩が詠んだ句が残る。
ますらお は
"薩摩人みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きが鈍きか"
あと出しジャンケン 八重の桜咲く 高島啓子
白虎隊士から東大総長になった山川健次郎
武ではなく文で身を立てた者もいる。
山川浩
の弟・
健次郎
は戊辰戦争を白虎隊士として戦ったが、
後に政府派遣の留学生に選ばれ渡米。
人一倍の熱心さで物理学を学び、
帰国後は東京帝大教授に就任。
やがて東京帝大、九州帝大、京都帝大の総長を歴任する。
よく売れている折り畳み式の虹 井上しのぶ
活躍したのは男性ばかりではない。
山川浩の妹・
捨松
も政府派遣留学生として渡米。
帰国後は薩摩の
大山巌
と結婚し、その洗練された身のこなしと
教養から
「鹿鳴館の花」
と称された。
また、
「看護婦育成や女子教育の発展」
にも大いに尽力した。
うりゅう いわこ いぶか とせ
実は瓜生岩子や井深登世、さらに
山本
(新島)
八重
など、
会津出身者で看護婦として活躍した女性は多い。
美しき人の名で呼ぶ庭に立つ 森中惠美子
思案橋事件
もちろん会津人の中には、
明治9年
(1876)
の
「思案橋事件」
を起こすなど、
新政府にあくまで抵抗する者たちもいた。
だが、明治以後も
「藩のため、国のために尽くす」
という
人生の目的を見失わず、自らの務めを誠心誠意果たし、
社会に大きく貢献する人物を数多く
輩出していることも確かである。
思案橋事件=萩の乱に呼応しようとした旧会津藩士たちが逮捕された事件
輪郭線なぞって答えたしかめる 山本昌乃
ちなみに八重の兄・
覚馬
も、
京都の薩摩藩邸幽閉から釈放された後、
その見識が認められて京都府の顧問となり、
八重や母・佐久を呼び寄せて、
ともに京都の近代化に大きな役割を果たした。
「ならぬことはならぬ」
の精神を堅持し、
会津武士の誇りを失わず、あくまで
「公」
のために尽くす。
それも
「逆賊」
の汚名は正当なものなのかを天下に問う、
会津人の生涯をかけた戦いだったのではなかろうか。
(歴史街道)
世が世ならばと記念硬貨が鼻ふくらます 岩根彰子
[6回]
y2013/07/27 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
斗 南
迷子札つけた私を見ましたか 山本早苗
雑物蔵に和歌を刻む八重
(会津図書館蔵)
(画像は拡大してご覧下さい)
会津藩は、籠城抗戦一か月、9月22日ついに白旗を掲げ開城と決した。
こうこう
その夜、
八重
は、耿々たる秋月の光を浴びながら、
こうがい
三の丸雑物蔵の白壁に笄で万感の想いを彫りつけた。
"明日の夜は何国の誰かながむらん なれしお城に残す月かげ"
【笄】
髪を整えるための道具.。箸に似た細長いもの。
取りあえず地下まで降りるエレベーター 中野六助
「斗南」
かたはる
明治2年
(1869)
6月3日、
松平容保
に嗣子・
容大
が誕生。
それから間もなくして、太政官から家名の再興が許されたが、
旧会津藩には、斗南3万石を取るか、
猪苗代3万石を取るかの
二者択一が迫られることになった。
この選択に斗南移住賛成派の
永岡久茂
と、
猪苗代を主張する
町野主水
派との間で意見が分かれるが、
結局、
「斗南」
へ移ることに決まる。
≪永岡久茂
=奥羽越列藩同盟締結に功。
町野主水
=戊辰戦争で北越方面を転戦、会津戦争で功績≫
哀しみをせめては後ろ手に閉ざす たむらあきこ
明治2年11月4日、容保隠退。
斗南藩3万石は、誕生間もない容大に与えられる。
明治3年1月5日、旧会津藩士4700余名の謹慎が解かれ、
斗南
に移住することが許される。
しかし、旧会津藩23万石の全員が、
新封地の斗南3万石に移住することはできない。
そこで希望者を募り、およそ2800戸、
家族を含めて、約1万5000人が移住することになった。
4月19日、斗南に移住の第一陣300名が八戸に上陸。
その7月、藩の名はあらためて
「斗南藩」
と名付けられた。
尻尾切り以上で事は終えました 谷垣郁郎
「藩民移住と苦難の旅路」
斗南藩主となった容大は、
藩士の
冨田重光
の懐に抱かれて駕籠に乗り、
この時は、五戸に向かったが、
のちに円通寺の所在地・田名部に移住している。
斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、
藩士らより約6ヵ月後の10月、
会津からはるばる陸路にて、斗南へ向けて旅立った。
彼等の中には老人や婦女子らに混じって、
多くの負傷者たちもいた。
しかも途中の旅籠代は、
のちに藩から一括して支払うといっても信用されず、
宿泊を拒絶する宿も多かった。
ページ繰るたびに入って行く迷路 合田瑠美子
斗南藩士上陸の地
【斗南】
漢詩の
「北斗以南皆帝州」
に因んで命名されたもので、
「北辺の地とはいえ天子の領土なのだから、
天朝から追放されたのではない」
と解した≫
粥をすすり、霙にうたれても着替えさえなく、
新封地斗南を遥かに拝しながら、
無念の涙をのみ死んでいった者も数多くいたといわれる。
斗南へ到着してからも、藩士達に艱難は続く。
会津23万石から斗南3万石へ減封された彼らであったが、
さらに言えば斗南3万石といっても、
それはあくまでも表高であって、
実高は、7000石余という不毛の地であった。
このため、会津藩士の斗南における苦難の生活は、
さまざまに語り伝えられている。
限りなく明日がどんどん擦り切れる 大海幸生
八重の夫、
川崎尚之助
も他の藩士達と行動を共にするが、
明治3年
(1870)
1月に謹慎が解かれ、
会津松平家の新たな領地とされた斗南藩に移った。
ただし、二十三万石だった会津藩士の家族全員が、
三万石の斗南に移るわけにはいかない。
すでに生活の基盤を得ていた者は、
「当座そこに留まるべき」
という配慮から、
八重
と母・
佐久
、兄・
覚馬
の嫁・
うら
とその娘・
みね
は、
身を寄せていた米沢で、そのまま過すことになった。
≪かつて会津で尚之助に砲術を学んでいた米沢藩士が、
家族の窮地を見かねて救いの手を差し伸べたのだ≫
淋しさが極まる蟹に足がない 嶋澤喜八郎
斗南に移った会津藩士たちは、
厳しい気候風土の中で、塗炭の苦しみを味わっていた。
そんな中、明治3年10月、藩士の窮状を救うべく、
川崎尚之助
は
柴太一郎
と共に、
外国から米を輸入するために、函館に向かうが、
そこで
詐欺事件
に巻き込まれる。
尚之助と太一郎は、藩に迷惑をかけぬため、
一身に責任を引き受け、裁判が行われる東京に移送される。
だが尚之助は訴訟係争中に身体を壊し、
明治8年
(1875)
3月20日にその東京で亡くなった。
柴太一郎
=義和団事件ー北清事変で活躍した柴五郎の兄
渋い茶の底で溶けないわだかまり 百々寿子
明治4年2月29日、斗南藩は弘前藩に文章を送り、
窮状を訴えて1500円の支援を受けた。
同6年になると、移住藩士は窮乏のどん底に陥り、
その後多くの者は、
着の身着のままで斗南の地を去った。
さよならの背中へせめてもの夕日 松本 柾子
[4回]
y2013/07/24 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
会津-降伏
ブラックホールのここは真ん中だと思う 安土理恵
降伏の絵
(各画像は拡大してご覧下さい)
無念の降伏を決意し、調印式に臨む
松平容保
。
新政府軍代表には
板垣退助、中村半次郎、西郷隆盛
らがならぶ。
(「会津藩降伏之図」会津若松市所蔵)
「会津終焉」
9月4日、城の西方の如来堂に陣取っていた新撰組が敗退。
9月15日、
一瀬要人
らの部隊が新政府軍と遭遇。
一進一退の激闘を繰り返し、城の南方の一の堰村で辛うじて、
西軍を追い払うが、指揮官の一瀬要人をはじめ、
多くの死傷者を出し、撤兵を余儀なくされた。
玄武隊の一員として戦っていた八重の父・
権八
も
この戦いで戦死している。
これはまだ序の口ですと雨が降る 清水すみれ
佐川隊はなおも日光口を進軍せんと
大内宿田島方面で苦闘を続けるが、
戦局を覆すには至らなかった。
9月4日、米沢藩が降伏したのに続き、
15日には仙台藩も降伏する。
最後まで糧道を確保していた城の西南部も、
西軍の手に落ち、若松城は完全に孤立に追い込まれた。
トンネルを抜け出た前に次の山 オカダキキ
14日から西軍の総攻撃がはじまる。
城の周囲に陣取った50門に及ぶ大砲が轟然と火を噴く。
籠城から1ヶ月、5000名が立て籠もった鶴ヶ城では、
全員討死の覚悟であったが、
奥羽征討総督・
仁和寺宮
が錦旗を奉じて、
塔寺まできたことを知り、
松平容保
はついに
「降伏開城」
を決意。
てしろぎ すぐえもん
手代木直右衛門・、秋月梯次郎
らが、
米沢藩陣所へ行って交渉に入った。
相手は政府軍の参謀・
板垣退助
。
当日は結論が出なかった。
忘却の海に向かって船を漕ぐ 森光カナエ
20日、あらためて政府軍に
「降伏」
を伝えた。
21日、会津藩は抵抗をやめる。
松平容保
は家臣に開城を告げ、
城外で戦闘を続けていた、佐川官兵衛には書面で、
帰順を伝えた。
22日、
白旗
を揚げて降伏した。
この白旗は城内にいた女性たちが、
布を集めて縫いあわせたもので、
長さは3尺
(約90㌢)
あり、これに「降伏」の文字を書いた。
無条件降伏であった。
北の大手門に白旗が掲げられると、
政府軍の発砲がすべて止んだ。
それで気は済みましたかと割れた皿 八上桐子
容保
と
喜徳
は、籠城戦を戦い抜いた藩士を集めて、
別れを告げる。
藩士たちは涙を流し、城を出た2人は、
妙国寺に護送されていった。
政府軍が大きな歓声をあげて城門から駆け込んできた。
この時、城にいたのは4956人、うち女性は570人・
傷病者284人・老人や子供は575人だった。
空箱の中で蟋蟀鳴いている 畑山美幸
「萱野権兵衛」
戦後、新政府は容保に罪を問おうとしたが、
「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」
と
萱野権兵衛
が主君を命がけでかばった。
このため容保は幽閉で済むことになったが、
権兵衛は久留米藩邸にお預けとなり、
新政府の沙汰を待つ事になる。
古里の渋茶が仲裁してくれた 岩根彰子
会津藩が新政府軍に降伏し、若松城を明け渡すと、
新政府軍は容保の代わりとして、戦争責任者の首を求めた。
戦争の終盤、筆頭家老の
神保内蔵助・田中土佐
は自刃、
第3席は行方不明という状況。
第4席の権兵衛は、戦いの終わりを見届け、敗戦処理城明渡し、
藩主父子の助命嘆願など敗戦処理に力を尽くした。
そして、戦争責任を追及する会議で出た新政府軍の、
「首謀のものを出頭させるべし」
という命に名乗りを上げ、
会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けた。
雨雲がぎっしり覆う後頭部 笠嶋恵美子
萱野権兵衛
やがて権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科邸から、
迎えが来た。
権兵衛は久留米藩有馬家に厚く礼を述べるとそこを出た。
保科邸には
梶原平馬
と
山川大蔵
が来ていた。
権兵衛が到着すると、
保科正益
から本日の介錯人は、
剣客の
沢田武司
であることが伝えられる。
梶原と山川は権兵衛に、
容保
と
照姫
からの親書を渡した。
熱い目で追うものがあり花図鑑 桑原伸吉
権兵衛がおし戴いて容保からの親書開いてみると、
そこには、
「私の不行き届きによりここに至り痛哭にたえず。
その方の忠実の段は厚く心得おり候」
とあり、また
照姫
からの親書には
"夢うつつ思ひも分す惜しむそよ まことある名は世に残れとも"
の一首が添えられていた。
権兵衛は、ねんごろな書状に謹んで礼を述べ、
「覚悟の事であるから、少しも悲しむところではない」
と言い、むしろ喜びの心を述べた。
もう何も言うまい月が丸いから 和田洋子
「付足してー1」
9月8日にすでに
「江戸」
は
「明治」
となっていた。
徳川幕府に忠誠を誓い擁護をした結果が、
会津藩の終焉になるとは、誰が予測しただろう。
誰もが八重も、ただ会津を愛し、
守っていきたかっただけなのに。
なんと不条理な戦いであったのか。
城を開け渡した後に、
「これでくじけたら、会津は本当に負けになる」
八重はくちびるを噛みしめ胸を張って、明治の世を迎えた。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
幕末以来、朝廷への忠義を欠かしたことなどなかった、
にもかかわらず、
「朝敵」
の汚名を着せられ、
故郷が灰燼に帰してしまったことで、
「官軍か賊軍か」の喩えがこれほど適切であったことを、
会津の人たちは思い知らされるのであった。
もういいよそしてだあれも浮いて来ず 嶋澤喜八郎
松平容大
(三沢市先人記念館所蔵)
「付足して-2」
会津藩は明治2年(1869)10月、
生まれたばかりの容保の子・
容大
を藩主にして、
再興が許されたが、28万石から
3万石に減封
されたうえに、
陸奥の奥地・
斗南
に移された。
寒さなどあまりにも厳しい環境に、
廃藩置県後多くの者が、その地を去ったという。
(一方、容保は、江戸に移され謹慎。
のちに許されて日光東照宮の宮司となった)
先頭の人だけ方舟に乗せる 井上一筒
[4回]
y2013/07/20 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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