川柳的逍遥 人の世の一家言
あの世でもこの世でもない沖にいる 徳永政二
淀君と秀頼の石碑
大坂城の北側の角には、山里曲輪という美しい庭園がある。 現在は自刃の場所を示す「石碑」が建っているが、訪れる人もあまり多
くなく巨大な石垣の下でひっそりとしている。 この様子がまさに、淀殿に対する後世の評価を物語っているように思わ れる。概して秀吉の人気に対し、淀殿というのは評判が悪い。 また、淀殿を淀君という呼び方で、馴染んでいる人もいるかもしれない。
ともかく戦国時代というのは、戦っている武士たちの裏では、それを望
まないところで翻弄される姫たちがいることを忘れてはならない。 耳に水注ぎたがっている右手 酒井かがり
「徳川」 戦国のヒロイン
寿桂尼 (複製・原本は正林寺蔵)
寿桂尼晩年の肖像。
桶狭間の戦いで息子・義元亡き後に、駿河という大国を実質的にまとめ た凄腕な女性であった。 柴咲コウが演じた大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも知られる。 「寿桂尼」
<信玄も認めたおんな大名>
寿桂尼は、京都公家出身、今川義元の実母。今川義元といえば足が短い
せいで馬から落ちたり、母の出自の影響か公家風の衣装にお歯黒をつけ ていたりと、戦国武将からは程遠いイメージが伝わっている。 しかし、当時の義元は、富国強兵を推し進め、駿河、遠江、三河を勢力
下におき「海道一の弓取り」と恐れられていた。 これまでも国境を接する尾張の織田信秀とは幾たびも戦い、これを撃破 している。この義元を支えたのが寿桂尼である。 寿桂尼は夫の死後、領国経営に腕をふるい「女戦国大名」と、呼ばれた
ほどの猛女。義元は母の力で今川家を継ぎ、父を超える名君と呼ばれる までになった。 「海道一の弓取り」も、母には頭が上がらなかったに違いない…。 欠点が少しあるのも隠し味 東 定生
絵本太平記に描く信長と道三の聖徳寺の会見(国立国会図書館蔵)
威儀を正して平伏する信長に驚く僧衣姿の道三。
道三は当初、尾張の「うつけ」を討つための刺客として、娘の濃姫
を嫁がせたとも、また信長の技量を測るためとも、伝わる。
濃姫
信長と政略結婚でくっつけられた濃姫は、知名度があり、立派な身分で
ありながら、彼女に関する資料が驚くほど少ない。なぜなのか?興味が わくところだが、そんな中で濃姫の勝気を見る、耳よりな逸話を一つ。 『信長と政略結婚でくっつけられた濃姫は、信長のもとへ嫁ぐ前に、
父・斎藤道三から短刀を渡されていた。
<信長が噂通りの大うつけであったなら、その短刀で刺し殺すように>
と渡されたのである。それを聞いた濃姫は、
「この短刀で父上を刺すことになるかもしれません」と答えたという。 濃 姫 像
「濃姫」 「夫・信長の手で殺されていた>
信長の正室で斎藤道三の娘。テレビや小説などではお馴染みで、信長と
「生涯睦まじかった」ように描かれるが、実際は、濃姫に関する記録は ほとんどなく、いわば「謎の女」。 事実、信長の子はみな側室が産み、美濃攻略が始まってからは、濃姫の 存在は歴史からまったく消えてしまう。 道三の死で用が済み、離縁された説や、美濃のスパイと疑われ、信長に
殺された説がある。 振り返るときは迷っている途中 立蔵信子
お市の方 (高野山持明院蔵)
兄・信長ゆずりで機転がきいたお市。夫・長政の裏切りを知らせるため
両端を縛った小豆の袋(はさみ討ち=袋のネズミ)を信長に届けた話は
有名だが、後世の創作の可能性ともいわれる。
「お市の方」
<戦国の悲劇を一身に…>
お市の方については、何度かここに書いてきた。
18歳で、浅井長政と政略結婚をしたお市の方は、夫との仲も睦まじく
長男の万福丸はじめ3人の娘(茶々・初・小督)をもうける。 が、幸せは束の間、8年後には義兄の信長に攻められ長政は自刃、万福
丸は串刺しの刑に処せられた。 「お前は生きろ」長政の説得で信長のもとへ引き取られたお市は、その 後、信長の重臣・柴田勝家と再婚する。 その勝家が秀吉に敗れ自害に及ぶと、今度はきっぱり運命をともにした。 男たちの野望に翻弄された生涯で、それは最後にみせたささやかな抵抗 だったかもしれない。 瀬名姫 (西来院所蔵)
色白の美人で公家の血を引き取り澄ました女性だった。
三ッ山を背景に描かれた「築山御前像」は、大正から昭和時代に活躍し
た画家・鈴木白華の創作である。(古い絵の模写ではない) 瀬名姫は、なぜ「悪女」のレッテルを貼られたのか?
「瀬名 / 築山殿」
<瀬名の気位の高さが災いしたものは> 瀬名の母は、今川義元の妹。 義元とは、伯父・姪の関係になる。
由緒正しい家柄で、何不自由なく育ったためか、我儘で気位の高い女性
だった。 家康と瀬名は同い歳の16歳で結婚するが、瀬名にしてみれば、義元の
姪が、松平の御曹司とはいえ、人質と結婚するようなもので、夫の家康 を見下すような態度がところどころで見受けられたという。 話は家康が居城を浜松城に移した1570(元亀元年)に遡る。
この翌年2月、元服した信康は正式に岡崎城主となった。が信康は元服
を終えたばかりの13歳だったため、政務は側近の家臣が代行した。 岡崎城には、信康以下、築山殿と信康の妻・徳姫が住み暮らした。
家康は、浜松城を手に入れてから、岡崎城は倅の信康にまかせっきりで、
側室と子作りに励むばかりの日常だった…。
会うよりも会わない方が辛くない 市井美春
『episode』
『家康と築山殿の関係は、少なくとも家康が浜松城へ移転したときには
冷え切っていた。長女の亀姫が生まれてから10年が経とうというのに、 築山殿はそれから1人も子を産んでいない。 死産や早産の可能性はあるが、供養した記録が皆無なことからすれば、 もはや同衾することもなく、双方とも「意思が消え失せていた」と見て よいだろう。築山殿が浜松城へは同行せず、息子・信康が城主を務める 岡崎城に留まったのは露骨な意思表示である』 そんな矢先、1579年(天正7)8月3日に事件が起る。
「信康・築山殿事件」である。 浜松城に同居する築山殿の嫌がらせを受けて腹が立った徳姫は、信康と
築山殿への不満を誇張も交えて、父である織田信長に訴えたのである。 徳姫は築山殿と同様にプライドが高く、また我慢ができる性分ではない。
内容は夫・信康の悪行や築山殿の行動を、感情に委ねるまま書き連ね、
挙句の果てには、2人が信長を裏切って「武田家と密通している」との
訴状をに送ったのである。 徳姫の内通文とは。 『夫は鷹狩りに出かけた帰りに、出会った僧侶をなぶり殺すなど残虐な
性格である。家康とも相互不信に陥っている。 姑は、唐人の医師と密通し、武田氏と通じている。 織田・徳川両氏の滅亡を画策している』というものである。 これは、徳姫付きの侍女が「武田勝頼」から築山殿宛の密書を盗み見た
と話したことから…、徳姫は事実も確認もせず、「築山殿が武田勝頼と 内通している』と主張したのである」 (信康が二俣城で自刃させられたのは、天正7年9月15日。築山殿も
それより半月ほど前、おそらく浜松への護送中の輿の中で自害した) 家康は幽閉にとどめるつもりでいたようだが、頼れる者すべてを失った
瀬名こと築山殿には、それは地獄でしかなかったのだろう。 剥製として曖昧に生きている 青砥英規
お犬の方 (竜安寺蔵)
小袖に打掛を羽織った政争姿。合掌の姿は供養像であることを示す。
描かれたのは、死(天正10年9月)の翌月である。
「お犬の方」
<信長が愛した妹>
お犬は、信長やお市の妹である。
11人姉妹の五女がお市。 八女がお犬である。 お市は、信長から政略結婚を強いられたが、お犬は、比較的平穏な生涯 を送った。はじめ尾張大野の城主・佐治為興に嫁ぎ、のち細川家の宗家 の細川昭元の妻となった。 お市も、お犬も、ともに眉目秀麗であったことは、遺された肖像画が証 明している。 幸せのイビキ台詞になっている 和田洋子
於大の方
天下人になった家康は晩年の於大の方をむかえ、孝行をつくす。
それは、家康にとっても何よりも喜びだった。
「於大の方」
<わが子家康との涙の別れ>
家康の生母・於大の方は、三河の岡崎城主・松平広忠のもとへ嫁がされ
家康を産む。実家と松平家が敵対することになり、幼いわが子を残して
離縁。 それはまさの生木を裂かれる悲しみだったに違いない。 於大が家康と再会するのは、それから16年後、桶狭間合戦直前のこと。
「織田方と今川方に分れて戦う前に会っておきたい」という家康の心遣
いに於大の方は、号泣したという。 悲しみを知る人だから裏切れぬ 靏田寿子
煕子 (ひろこ)
秀吉に敗れた光秀が農民に「明智藪」に討たれた。
夫の死を聞いた煕子は、迷わずその後を追った。 「照子」
<光秀が生涯かけて愛した女>
明智光秀の妻・煕子は、もと才色兼備をうたわれた美女だった。
が、光秀との婚礼の直前、疱瘡にかかり、玉の肌は「あばただらけ」に
なってしまう。実家では、妹を替え玉にたてたものの、光秀が騙される はずもない。事情を聞いた光秀は、「煕子こ、そわが終生の妻だ」と、 あらためて求婚し、言葉通り生涯側室を持たなかったという。 殺伐とした戦国にあって泣かせる純愛物語だ。 悩むことなんて無いよと冬の月 古本恵子
ガラシャ (カトリック大阪大司教区蔵)
現代の画家・堂本印象が描いたガラシャ夫人。
ユリの花のモチーフが、熱心なキリシタンだった夫人の肖像に相応しい。 家臣の刃にかかるときも、この銀の十字架が輝いていただろう。 「ガラシャ」
<夫に裏切られ、無念の最後>
ガラシャは洗礼名、本名は玉。明智光秀の娘に生まれ、細川忠興の妻に。
はじめ夫婦仲は睦まじかったが、本能寺の変が起ると、忠興は玉を軟禁
し光秀の援軍要請も拒絶する。 夫の愛に絶望した玉は、キリシタンに入信。 関ヶ原の合戦では、家康についた忠興に敵中へ見捨てられ、キリシタン
ゆえに自害もならず、家臣の刃にかかって果てた。二度までも夫に裏切
られた余りにも悲しい生涯だった。 人間に生まれたことが深すぎる 市井美春
【episode】
石田三成が東軍側の大名に対してとった戦略は「人質作戦」
会津に向かった大名の妻子を大阪に集め、手を出せないようにしようと
いう作戦だ。しかし、うまく立ち回って脱出できた者もいた。
加藤清正の妻は大きな水桶に隠れて屋敷から逃げ出したし、黒田長政
夫人も老臣を医者に見せると称して、見張りを誤魔化す頭脳的作戦で
まんまと脱出に成功した。
だが忠興の妻・ガラシャ夫人場合は悲劇に終わった。あくまで大坂城
に入ることを拒み、三成の手の者が迫ると屋敷に火を放ったのである。
夫人は白装束の胸を開いて、留守を預かる家老・小笠原小斎の刀に深々と
差しつらぬかせた。 辞世の歌が残っている。
” 散りぬべきとき知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ "
十字架の顔は笑っていましたか くんじろう
旭姫 (南明院蔵)
形は妻でも、実質は人質のように家康のもとへ嫁いだ旭姫。
もちろん家康との間に愛情など湧くはずもない。
母の供養のため2年後に京に戻ると、生贄のような兄の仕打ちに、 悩みを深めながらそのまま寂しく病死した。 「旭姫」
<人身御供にされた天下人の妹>
天下人に王手をかけた秀吉にとって、最後の目の上のコブは家康だった。
秀吉は家康と和睦し、自分の勢力下におくため妹の旭姫との政略結婚を
思いつく。このとき旭姫は44歳。すでにれっきとした夫がある身乍ら
兄の命令で無理やり離婚させられ、家康のもとへ人質同様に送られてい
くことに…。
天下人の妹に生まれた身の不運とはいえ、それはあまりにも、理不尽な 仕打ちだった。 太れないままに秋刀魚は食卓に 新井曉子
千姫 (弘教寺蔵)
千姫の母・小督と秀頼の母・淀君は実の姉妹。すなわちこれは従妹同士
の結婚。家臣との短い再婚ののち、千姫は仏門に入った。
「千姫」
<徳川家の駒として嫁いだ千姫だったが…> 秀吉の遺言で、家康の孫・千姫が、豊臣の跡継ぎである秀頼と結婚した
のは秀頼11歳、千姫7歳のときのこと。 だが結局、豊臣家は徳川に滅ぼされ、千姫は焼け落ちる大坂城から救出 される。このとき千姫は、秀頼が側室に産ませた男女2人の子のうち娘 のをほうを養女とし、処刑されるところを体を張って助けたという。 「ままごと」のような結婚…。
しかし、千姫と秀頼には、たしかな愛情が芽生えていたのかも…。 おね (高台寺蔵)
秀吉の死後、家康はおねのために高台寺を建立。
夫の菩提を弔いつつおねは76歳の天寿をまっとうする。 「おね」
<あの信長さえ手なずけた…>
おねこそは、秀吉の出世に陰でささえた立役者。頭の回転が速く、それ
でいて気立てがよく情にあついー「女房の鑑あってこそ天下人」・秀吉 が在ったといっても過言ではない。かの信長も、おねのことは大層気に 入っていたらしく、「どこを探しても、そなたほど良い女房は、あの禿 げネズミには見つからない」と、手紙の中でべた褒めしているほど。 その上、秀吉の死後は、家康にすら一目おかせるほど、戦国の3英雄を 手なずけた「女の中の女」だった。 温かな言葉で防ぐ隙間風 掛川徹明
淀殿(茶々) (奈良県立美術館蔵)
母の仇、秀吉の側室となった淀殿。
やがては徳川に嫁いだ妹・小督とも対立する運命になる。 その心のうちはいかばかりだっただろう…。 「淀殿」
<鎧をまとった悲劇のヒロイン主役> 母の死後、秀吉に引き取られたお市の方の3人の娘ー茶々・初・小督。
茶々は秀吉の側室・淀殿として跡継ぎの秀頼を産み、家康の3男・秀忠
に嫁いだ小督の娘・千姫との政略結婚で豊臣家の安泰をはかる。 が、秀吉の死後、家康は豊臣家に宣戦布告。京極家に嫁いでいた初は、
姉と妹の間に立ち、大坂の陣で和睦へと懸命に力をつくす、が…。
偶然か好きな皿から割れてゆく 古田裕子
【episode】 おね(高台院)と茶々(淀君)
羽柴秀吉に敗れて、柴田勝家の城は燃え落ち、このとき15歳の茶々は
燃え盛る炎のなか、からくも城を抜け出した。
茶々の身柄を引き取ったのは、父・母の仇ともいうべき秀吉だった。
まもなく茶々は秀吉の側室となる。
秀吉の奥向きを支配する正室はおね、秀吉が駆け出しのころから支えて
きた糟糠の妻だった。
正室のおねと20歳も若い茶々の2人の確執を、世間は好奇の目で見た。
『太閤記』に逸話がある。
高台院と淀殿の確執は、当人たちの意図とは別に秀吉恩顧の大名たちを
二つの派閥に分かち、そのことが関ケ原の戦いを引き起こすことになった
わけである。
ある時、おねは珍しい「黒百合の花」を佐々成政から献上された。
おねが茶会を開いて、世に一輪しかないというその花を茶々に披露した。
するとその三日後、茶々がおねを招いた。
そして、その席には無数の黒百合の花が、いとも無造作に活け散らかして あったのだった。面当てに淀殿が手の限りを尽くしてかき集めたのである。 おねは顔色を変えてその場を立ち去ったという。
反面教師にされているかもこの怒り 奥山節子 PR 敵側に知らぬが仏座ってる 柴田園江
浅井長政 お市 信長には妹がいた。
明眸皓歯の美人と讃えられたお市である。 信長はこのお市を浅井長政に嫁がせて、同盟を結ぼうと考えた。
長政さえ味方にしてしまえば、京への道は開けたも同然になるからだ。
そしてお市は、兄・信長の命に従い長政に嫁いだ。
絶世の美貌のお市を娶った長政は「大果報の人」と羨まれた。
見も知らぬ他国へ輿入れした花嫁を、長政は優しく迎えた。
政略結婚とはいえ、お市は夫・長政を深く愛するようになった。
グレーだが今は味方に入れておく 竹中ゆみ
信長、朝倉義景を攻める 家康ーどうする信長 長政を味方にし憂いをなくした信長軍は、敵対勢力を破竹の勢いで蹴散
らして上洛を果たした。 「天皇や将軍に挨拶するために、ただちに京に馳せ参じよ」
京に上った信長は、諸国の武士に命令を下した。
この命令は、表向きは、天皇・将軍のためという名目を掲げてはいたが、
実質的には、信長に従えというものであった。 日の出の勢いの信長の力を恐れ、多くの大名が京の都に集まった。
だが信長の命に反し、なかなか態度を明らかにしない大名がいた。 越前の朝倉義景である。
-------朝倉家は代々、大国を預かってきた由緒ある家柄である。
どうして成り上がりものの信長如きに従う必要があろうか。
朝倉家の家臣たちは、口々に異を唱えた。
結局、義景は信長を無視した。
<義景がでてこない>
実はそれは、信長にとって思う壺であった。
天皇のためにという命令を無視したからには、逆賊として討伐できる。
口実ができた信長は、密かに朝倉攻撃の準備を始めた。
直角が三角形を離脱する 加納美津子
難攻不落といわれた小谷城の絵図 軍議の席上、信長の家臣が懸念を漏らした。
「朝倉家と浅井家は、古くから結んでいるのだから、朝倉攻めの儀は伝
えておいた方がいいのでは…」 というのである。だが信長は一蹴した。
「我々は縁者にて親しき仲なり。朝倉と浅井は元来他人なり。
然れば一旦のことわりにも及ぶべからず」(「総見記」)
<浅井に知らせれば、攻撃計画が朝倉に洩れるかもしれない>
これを信長は恐れてのことだった。
わがままに生きる氷点下の覚悟 和田洋子
1570年(永禄13)4月20日、信長は3万の兵を率い、越前に侵
攻した。先陣は木下秀吉と信長の若き盟友徳川家康であった。 不意を打たれた朝倉勢は、たちまち壊滅状態になった。 一気に朝倉の本拠に迫ろうとしていた矢先、思いも寄らない報せが信長
の陣にもたらされた。 「江北浅井備前手の反復の由」
長政が朝倉方について、信長に叛旗を翻したというのである。
「嘘であろう。まさか、あのお市を嫁がせた長政が裏切るとは」
それが事実とわかった信長は、こう呟いた。
「是非に及ばず」
信長と長政。義理の兄と弟が相食む「姉川合戦」へと繋がっていく。
今更のバトル我が家に正露丸 前中知栄
義景へ集中攻撃をかける信長 信長の朝倉攻めは青天の霹靂であった。 「これからどうするか」
軍議は紛糾した。
信長の大軍には、「誰も勝てない」という家臣に、長政の父・久政が反
駁した。 「たとえ信長についたとしても、行末とても頼みなし」
信長は味方として頼みにならないというのである。
<このまま信長についていっても、領地の拡大が望めるとは限らず、
単なる家臣の一角に成り下がってしまうのではないか> 久政は、浅井と朝倉のよしみを強調して、信長打倒を強硬に主張した。
裏も表も舌の根までも見せている 大葉美千代
「信長を討ってとるべし」
軍議の間ずっと黙っていた長政が、決意した言葉だった。
長政はもはや引き返すことのできない道に、足を踏み入れたのである。
一度裏切った以上、信長を倒すか倒されるか、二つに一つしか残された 道はない。 一方、長政の妻・お市にとって、夫の決断は、我が身を二つに割かれる
に等しいものであった。 戦国時代、嫁ぎ先と実家が戦争を起こした場合、妻は人質として処刑さ
れる場合もあった。 しかし長政はお市に手を下そうとはしなかった。 政略結婚で結ばれたとはいえ、長政はお市を、本当に愛するようになって
いたのである。 二つの命二つの歓喜二つの孤独 蟹口和枝
夫と兄の間で引き裂かれたお市の胸中を伝える史料はない。
ただこの時、お市は信長のもとに、両端を結び小豆を入れた袋を送り、
信長が袋の鼠になったことを知らせたと記されている。 (「朝倉家の記録」) 浅井が朝倉に味方することになった今、遠く離れて遠征している信長の
大軍は、補給路を断たれて孤立し、「袋の鼠」となったも同然であった。 困ったら訪ねて来いと突き放す 菅沼 匠
お市からの袋を受け取ったあと、信長の本陣で意外なことが起った。
信長が忽然と戦場から姿を消してしまったのである。 戦場に3万の軍勢を残して、信長は消えた。
同盟者として参戦していた家康さえ何も聞かされていなかったようだ。
取り残された織田軍に、朝倉軍は逆襲を開始した。
織田勢の殿(しんがり)となって敵を防いだのは、秀吉、家康、光秀の
3武将であった。 雑念と格闘をする二十四時 松山和代
浅井長政・久政・朝倉義景の箔濃髑髏盃 「朝倉義景、浅井下野、浅井備前が三人が首、御肴の事」
信憑性の高い歴史資料「信長公記」には、織田信長は浅井長政の頭蓋骨に
金箔を貼って宴会の場に飾った」 と記されている。 戦場から姿を消した二日後、信長は突然、京の都に姿を現した。
浅井領を避けて、琵琶湖の西側の山の中を馬で駆け抜けた信長は、京で
悠然と振舞った。かねてより命じていた御所の修理の様子を視察に訪れ、 越前からの決死の逃避行など、なかったかのような態度を見せつけた。 そして少数の護衛を引き連れ、山道を辿って本拠地の岐阜に舞い戻った。 京の都で自分の健在ぶりを見せつけた信長が次に打つ手はなにか。 一刻も早く陣容を立て直し、自分を裏切った長政を叩くことであった。
止まれない訳を踵も知っている 森井克子
長政、お市と三人の娘との別れの場面 絶体絶命の窮地に陥ってから、50日後、信長は、2万余の軍勢を率い
て岐阜を出陣、長政の領国へ向かった。 長政劣勢のまま時間が経過すると、1573年(天正元)年に信長は、 将軍義昭を追放。 同年8月、朝倉・浅井の連合軍は信長の前に討伐され、29才という
若さで長政は、小谷城で自害した。 戦後、裏切りの結末を見せるように信長は、浅井久政・長政の首に箔濃 =漆を塗り金粉を施し、家臣に披露したという。 一方お市の方は、茶々、初、江の3人の娘と共に織田家に引き取られた。
信長はお市と3人の娘に気をかけ、厚遇したという。 そして3人は、約9年の歳月を尾張・清洲城で過ごした 紅を地面に咲かす寒椿 安藤なみ 良い嘘と悪い嘘とを噴き分ける 井上一筒
駿河版の銅活字 (凸版印刷・印刷博物館蔵)
銅活字は、秀吉の朝鮮出兵のとき大陸からもたらされたもので、家康は
林羅山と金地院崇伝に命じて銅活字による「大蔵一覧表」を125 部制作
1冊ごとに朱印を押して全国に寄進した。
これは家康が駿府に隠居してからの仕事なので、駿河版と呼ばれる。 信玄、信長、秀吉、と続く天下取りレースに最終ランナーの家康がゴー
ルインする頃、活字印刷技術が、イエズス会の宣教師からもたらされた。 出版事業に興味をもっていた家康は、早速、7年の月日をかけて木活字 (木製の活字)を、さらには銅活字(銅製の活字)を用いて多数の書物 の出版をした。 これらの出版物は「伏見版」・「駿河版」と呼ばれ、家康の文化事業を
代表する一つである。家康のこうした出版事業によって、これまで見る ことが困難であった書籍の多くが、世間に流布することになった。 それまで、秘蔵または秘伝とされていた学問や知識が、家康によって一 般に公開・普及されることになったのである。 そのお蔭で私たちは「history」「episode」を読むことができるのである。 とぎれとぎれの想い出と舞うぼたん雪 藤本鈴菜
家康 名言と逸話
「episode①」 慶安事件
「家康は世界一の大金持ちっであった」とアビラヒロンの「日本王国記」
にある。伏見城の金蔵に金銀をぎゅうぎゅう詰めにしていたため、 「その重みで床が抜け落ちた」ともある。 100万両の重さだった。
その後、伏見の金は、駿府城の天守の近くの金蔵に移された。
が、その金を狙った軍団がいた。
幕府の転覆を企てた駿府生まれの由比正雪である。
事件は事前に露見され、正雪は、駿府梅屋町の梅屋勘兵衛の家で町方に
取り囲まれて「最早これまで」と悟り自害した。 これは慶安事件・「駿府秘章」に記され現存している。
この世には拳一つを置いていく 杉山太郎
佐渡金山採掘場面 「episode②」 家康が貯め込んだ莫大な資産
莫大な金銀を保有して頑強な政権基盤を維持した秀吉にならい、家康も
各地の金銀山を直轄地とし、金銀の備蓄に励んだ。 総金山奉行・大久保長安が西洋から学び取り入れた「水銀流し」により
家康直営の金山の産出量は飛躍的に増大した。
採掘した金は、延金や貨幣に加工・鋳造されて御金蔵に納められた。
大番小判を派手に使いまくった秀吉とは対照的に、家康は地味な生活で
質素倹約に徹し、非常用の備蓄を怠らなかった。 コツコツと貯め込んだ金銀は、記録にあるだけでも江戸城に約4百万両、
駿府に約2百万両、合わせて6百万両。 (1両を現在の価格に換ると2兆1千億円に相当する)
欲の皮ちょっと伸びたり凹んだり 津田照子
「日光東照宮」に残されている徳川家康の遺訓。
「家康の名言ー1」 大御所の遺訓
『人の一生は、重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし こころに望みおこらば、
困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ。
勝事ばかりを知て 負くる事をしらざれば害其身にいたる。
おのれを責て人をせむるな 及ばざるは過ぎたるよりまされり」>
これはまあ散文やろか詩やろか 本田洋子
「episode③」 実はでっち上げだった
「東照宮御遺訓」と呼ばれているこの言葉は、家康が将軍辞職の談話に
おいて話した言葉を書き留めたものとされている。 が、実はでっちあげだった。 明治初期、旧幕臣・池田松之助なる人物がいた。
維新後の新政府が徳川幕府を朝敵扱いすることに反感を持った彼は、
「このままでは権現様(家康)の名に傷がつく」と、
徳川家の名誉回復に命を捧げる決意を固めた、のだった。
そして「家康公御真筆」と銘打ったありがたい遺訓をでっち上げ、家康
の威光を世に示そうと、私財のすべてを投じて、名訓の書写に励んだ。 彼が「東照宮御遺訓」の手本にしたのが、黄門さまでお馴染み光圀の
『人のいましめ』という訓示だった。 光圀の訓示を写したニセ遺訓は日光・上野・名古屋・久能山の各東照宮
に奉納され、いつのまにか「家康真筆」として伝えられることになった。 「筆字」も「花押」も家康が書いたものである。
いや家康が書いたものに見える。
これも池田松之助が真似たのだろうか。
落款は本物らしい五百万 前中知栄
家康の遺訓と光圀の『人のいましめ』とを比較してみましょう
『苦は楽の種 楽は苦の種としるべっし
主人と親とは無理なるものと思ひ忘るることなかれ
下人はたらわぬものと知るべし
子程に親を思ひ子なきものは身にくらべて近きを手本とすべし
掟に怖じよ 分別なきものに怖じよ
朝寝すべからず 長座すべからず
小事もあなどらず 大事も驚くべからず
慾と色と酒はかたきと知るべし
九分は足らず 十分はこぼるると知るべし
分別は堪忍にありと知るべし
正直は一生の宝 堪忍は一生の相続 慈悲は一生の祈祷と知るべし』
(身にたくらべる=自分の身を思う気持ちと比べてみる。
無理なるもの=理屈が通らないもの)
無作為にしては辻褄合い過ぎる 生田頼夫
「家康名言ー2」
『大将というのは敬われているようで、たえず家来に落ち度を探られて
いるものである。恐れられているようで、あなどられ、親しまれている ようで憎まれている。 だから大将というのは、勉強しなければならないし、礼儀をわきまえな
ければならない。自分は足りていないと思うからこそ成長できる』 「episode③」 名言も? これも「人のいましめ」からの盗用かな。 アリガトウと言えばトマトも良く育つ 新家完司
「家康名言ー3」
『人は負けることを知りて、人より勝れり』
「episode④」 名将に囲まれて
家康の周囲には、武田信玄や織田信長、豊臣秀吉といった非常に優れた
大名がいた。家康は、信玄が隣にいることを不幸とはとらえず、油断な く自分を励ます幸運だと捉えていたという。 自身と彼らを比べながら足りていないものが何かを常に分析し、自分や
徳川家を強くするため、謙虚に学び続けていた。 「家康名言ー4」
『多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に動く』
「episode⑤」 家康を甘く見た秀吉 天下分け目の戦いといえば、関ヶ原の合戦が通り相場だが、江戸後期の
学者・頼山陽の評価は違うようだ。「日本外史」で彼はこう述べている。
「公(家康)の天下を取る。大坂にあらずして関ケ原にあり」と、
家康の天下は「小牧長久手の合戦によって決まった」というのである。
この戦いは、信長亡き後に出遅れた家康が、「われこそここにあり」と
ライバル・秀吉にあえて喧嘩を吹っ掛けたデモンストレーション行動で
あった。 秀吉勢10万に対して家康勢は1万6千。 しかし家康は、北条や伊達と同盟を結び、四国の長曾我部や根来、雑賀
衆を味方にして強気であった。実際、局地戦では家康側が勝利しており 秀吉は数に勝りながらとうとう家康を破れなかった。
雨の日に明日の靴を光らせる 太田 昭
一富士二鷹三茄子 (喜多川歌麿) 「episode⑥」
1606(慶長11)、家康が駿府に隠居することを決めた時、愛妾が
「江戸は大都会の地なのに、なぜ、駿府のような小さな町に移られます
か?、理由がわかりません」 と言った。 「家康の名言」 『富士・二鷹・三茄子』
その問いに家康は、「駿河には一に富士山がある。これは三国中(日本
・中国・天竺)の中でも唯一の名山だ。見飽きることはあるまい。 二に家康は「鷹がよい。これは民情視察と運動になる」
三に家康は「茄子が名産である。美味だし、他所より早々に食せる」
家康は「いつの世も、この三つ総てに吉だ」と告げ、「この三つの夢を
見れば諸事大吉」といったという。
『富士・二鷹・三茄子』の諺は、家康からの伝承である。
平和だなメダカに餌をやる時は 小林満寿夫
松浦静山・甲子夜話 一富士・二鷹・三茄子について平戸藩主・松浦清山の『甲子夜話』には、 『楽翁(松平定信)の語られしは世に一富士二鷹三茄子と謂ことあり。
此起りは神君駿城に御坐ありしとき、初茄子の価貴くして数銭を以て 買得るゆゑ、その価の高きを云はん迚(とて)。 まつ一に高きは富士山なり、その次は足高山なり、其次は初茄子なり、 と云しことなり。彼土俗は足高山を<たか>とのみ略語に云ゆゑなるを、 今にては鷹と訛り、其末は<三物は目出度もの>をよせたるなと心得画 にかき掛て翫ふに至るは余りなることなり』 (一富士二鷹三茄子は、初夢に見ると縁起のよいものの順である。
「富士」は日本一の山。「鷹」は威厳のある百鳥の王。
「茄子」は” なす "「成す」で物事の生成発展するさま、
を言い表わしている。
七匹のメダカ数えて予定なし 細見さちこ
「episode⑦」
余生を静かに過ごしたい家康は、城の堀の蛙の鳴き声に閉口していた。
それを知った家臣は苦労して蛙退治をした。そして家臣は 「家康さまの一喝が利いて、蛙も静になりました」と、報告した。
何よりの薬自由とリラックス 椎葉つとむ 家康幼少期の勉強部屋 「家康の名言5」
『不自由を常と思えば不足なし』
「episode⑧」
家康は75年の生涯で3度駿府に暮らした。延べ25年間である。
晩年の隠居の場所に選んだのも駿府だった。 どうして家康は駿府がよかったのか? 駿府は家康が幼少期に過ごした思い出の土地、ということもあるが、
何よりも食い物が旨く、客の訪れに交通便がよく、老人には住みよい 気候の土地ということ、さらに自然の要害地に適していた。 治まれるやまとの圀に咲き匂ふいく萬代の花の春かぜ
元和2年(1616)家康終焉を迎える2か月前の歌である。 この前年の豊臣家滅亡で家康は「どうする 家康」から解放された。
無風ならあなたは転けてしまうだろ 市井美春 せかんでもいいよと言ってくれる坂 笠嶋恵美子
駿府城 (東照社縁起絵巻)
家康が大御所として政治を行っていた駿府は、首都機能の一翼を担う
国際都市として栄え、また家康晩年の居城・駿府城はさほど大きな城で はないが、天守台は、江戸城をしのぐ規模だった。 そして、当時、来日したスペイン人たちが駿府城を訪れ、
「その美しさに驚いた」、と記録に残されている。
駿府城 「家康の駿府までの道程」 今川氏は駿河・遠江・三河を治め、有力な戦国大名だった。
しかし「桶狭間の戦い」で信長に敗れ、三河を奪い独立した家康は、
今川氏真の治政で力が弱っていた今川氏を、甲斐の信玄と連携して、 駿河へ侵攻、今川氏を滅亡させた。
1560年(永禄3)、駿河は信玄のものになった。
が、1568年(永禄11)の信玄の駿河侵入に際し、家康は大井川を
境に信玄と宿命的な対立を引き起こした。 大井川以西の遠江を押さえた家康と信玄の間では、両者の遠江争奪戦が
「高天神城争奪戦」として本格的に始まった。 あの時の偶然実は狙ってた 鳴子百合
駿河城のシャチホコ
1575年(天正3)、「長篠の合戦」で武田が壊滅的打撃を受けると 家康は再び遠江を奪回し、駿河支配を有利に進めた。 1582年(天正10)3月11日、武田勝頼の率いる武田氏が天目山
に滅びると、駿河は家康の領国となる。 その後、家康は、「三河・遠江・駿河・甲斐」の四か国の支配者となっ
たが、信長が武田滅亡の時を同じくして、本能寺で倒れたため、信濃国 は領主不在となり、家康が代わって領国とした。 つまり五ヵ国の支配者となった。
それはもう言いようのない馬鹿笑い 木戸利枝
「家康」 駿河城を愛した大御所 (画像と共に) 幻の川辺城 (東海道駿府城下町)
駿府城の天守閣は「汐見櫓」とも呼ばれ、天守閣からは富士山や駿河湾 が遠望できる。駿府城天守は、「日本最初の金瓦」を使用し、また天守 の重要な場所には、金銀がふんだんに使用していたことも調査で明らか になった。 この時家康は、これら五ヵ国の城下町を岡崎・浜松を駿府へと移した。
居城としていた浜松城から、幼少期義元の居館に人質として過ごして
いた駿府城へと移り、今川氏の館跡に新しい駿府城の築城を開始した。 家康が駿府に来たのは、正式には天正13年7月19日であった。
この時の駿府城下とは、果たしてどんな町であったのだろうか。 駿府城下といっても城主はおらず、武田・徳川の戦乱の後遺症から立ち
直るゆとりもなく、かなり荒れ果てていた、と想像される。 当時の記録もほとんどなく、その心境を知ることはできないが、家康が
精力的に駿府城下町を整備し、築城に際し、家康は自分が思い描いてき た夢をところどころに設計した。 夢という薬を飲んで生きてゆく 広森多美子
伝統的工法で復元された坤櫓~
梁や床下までの構造を見ることが出来るように各階の床板と天井板が外
されている。 駿河城築城工事は、天正15年1月26日から天正17年5月25日に
ほぼ完了した。規模は今川時代の構造をはるかに超えるもので、新しい
駿府の出発ということになる。 この駿河城は「大天守」だけでなく「小天守」も造られた。
家康の築城時に土木工事を多く担当した家臣・松平家忠が記した「家忠
日記」に、「この駿府城の築城に関するところに石垣造りの曲輪を備え、 大天守と小天守からなる見事な連結式天守だった」という、記述が残る。 (最近の発掘調査によって、さらにこの天守台の付近から金箔が付いた
瓦が発見されている) 文房具屋の息子背骨は三角定規 酒井かがり
駿河古城図 (大坂城天守閣蔵) 町割り図 「天正期の駿府城」はこうして完成を見た。
ところが、小田原の北条征伐が秀吉によって行われると、家康もまた先
鋒隊として参戦した。この戦いに勝利すると秀吉は、駿河を領国とし、
家臣の中村一氏を城主として着任させ、替わって家康の東海五ヵ国を取
り上げ、関東に国替えを命じた。
この国替えの発令は、天正17年3月12日のことであったので、家康
は駿河城の完成を間近にしながら、入城することはならなかった。 日本の中心部に位置する「五ヵ国」を支配する家康が、軍事力や経済力
においても目覚ましく向上していたことに、秀吉はそれを極度に恐れ、 警戒したためといわれている。 寝返りをひとつ気がかり消しておく 津田照子
駿府城縄張り図
家康が関東へ移った後、秀吉の三中老の中村一氏が城主に着任すると、
秀吉は、即座に駿河城の天守を金箔にするよう命じた。 駿府城の天守を金箔瓦を使った城にすることで、家康を威圧し、自ら
を誇示するためのものと、いわれる。 江戸を本拠地に移された家康が、京都・大坂にいる秀吉のもとへ向う
途次には、弥が上にも、金箔の天守の駿府城を見ることになるのだ。 家康は、自身の思い深い駿河城が完成しても入ることが出来ず、江戸
に移って、太田道灌が築城した「江戸城の修復と江戸の町」を拵える ことに気持ちを切り替えた。 神様がくれた時間だ焦らない 山本昌乃
駿府城・城下町と富士山
「慶長期の駿府城」
1600年(慶長5)、家康は「関ヶ原の戦い」に勝利し天下の事情が
一変する。 家康の時代になると、駿府城主を身内の内藤三左衛門に与え、豊臣家臣
であった中村氏(一氏はすでに没し城主は息子の忠一)と交代させた。 内藤三左衛門は韮山城主から抜擢され駿府城主となったが、1606年
(慶長11)駿府城を家康に明け渡し、大御所として家康が駿府城主と なった。 翌日の指に残っている火照り きゅういち
大御所の駿府城
大御所家康が駿府に住むとなると、大々的な駿府城下の土木工事を実施
し、全く新しい大御所の都「駿府城とその城下町」が誕生する。 駿府城下町こそ「日本に初めて誕生した江戸時代最初の城下町」という
ことになる。 それまでも城下町はあったが、それらの城下町は、中世の色彩を色濃く
残した閉鎖的な町であったのに対して、開放的で士農工商の考え方を反 映していたため、農民は広大な畑作の地に居住し、戦国時代は武士と農 民の区別がなかったのだが、江戸時代になると完全な「士農工商」が成 立する。その魁の町の誕生が「駿府」といわれている。 ここが好きリッチな街の裏通り 内田志津子
焼失前の宝台院 (東京国立博物館蔵)
新駿府城は、慶長12年7月3日に完成。
家康はこの日に入城したことが当代記に記されている。
そして駿府は、以後10年余りの間、つまり家康の存命中は「大御所の
御座所」として、ここ駿府が大御所政治の檜舞台となった。 ところが、城の完成から5が月後の12月22日に大事が起る。
大奥の局の物置で使用していた手燭の火が原因で出火して、御殿や天守
閣まで燃え広がり大火災に発展し、駿府城の主要な建物を全焼失してし まったのだ。 家康は、江戸の事業ををさしおいても、駿府の再建を急がせた。
そして、火災を恐れた家康は、駿府城内に鉛御殿(シェルター)を建設
したという記述が「名乎離曽の記」に記している。 切れそうな糸で平和が揺れている 樫村 日華
駿河城天守台の発掘調査がはじまる
修復を急がせ慶長13年に完成した駿府城も、今度は家康没後の163
5年(寛永12)11月、茶町からの出火が原因で、城下にまで飛び火 して豪華な天守や御殿をまた失ってしまった。 駿府城の天守は、1635年の焼失後、再建されることはなく明治29
年(1896)には、石垣が崩され、堀も埋められてしまった。 それから120年、2016年8月になって、その全容を明らかにする
「駿府城跡天守台発掘調査」が開始された。 (現在では、二の丸堀より内側が駿府公園になっており、宝暦年間の修
復記録に基づいて、東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園などが復元公開
されている) 詰め放題の袋はすでに裂けている 平井美智子
家康の「夢の一つ」は、城が海から繋がっていることであった。
駿府城から清水港まで通じている水路は、遺構として現存している。
東 御 門
東御門と枡形門 (船の出入をした枡形門)
船の水路
二の丸と繋がる水路
二の丸へ繋がる堀 この水路の先に清水港がある
「水を巧みに活かした家康の偉業」
① 暴れ川「安治川」の驚異を最小限にし、城下町の安全を確保した。
② 安治川の水、または、その伏流水を城下に引き入れ生活用水とし
て活用した。 ③ 用水の流れを巧みに操り、町の浄化や消火、職人たちの糧に役立
てた。 ④ 川や水路は、時として敵からの攻撃や侵攻を防ぐ要塞として活か
された。 ⑤ 海、川、水路と繋げた運河で、物資の運搬や外国船の出入りを可
能にした。 いい町だなと思わせる春霞 新家完司 スクランブルの雨は切なく恋しくて 市井美春
城と城下町 (静岡美術館)
2022年10月、全国の20~59歳の男女を対象に、 「自県を代表すると思う歴史上の人物は誰か?」という調査が行われた。
結果は次の通り
「織田信長」は、岐阜県、愛知県、滋賀県の3県で、
「豊臣秀吉」は、大阪府で、
「徳川家康」は、栃木県、東京都、静岡県の3県で、選ばれた。
秀吉を別にして面白いのは3県の人が、信長・家康を地元の人物として
選んでいることだ。その考え方を承認するのなら、家康は愛知県でなけ ればならないはずだが。 剥製として曖昧に生きている 青砥英規 「家康ー小さなちいさな戦国時代」
焼失前名古屋城
「ともに愛知県なのに」 150年も前のことである。
愛知県は昔「尾張」と「三河」という2つの地域に分かれていた。
時代が慶応から明治へと移り「愛知県」となった。
ところが今も愛知県内では「尾張と三河の軋轢」なるものが存在する。
これは戊辰戦争から150年会津が、長州になお遺恨が存在するように
割り切れない、また許せない愛県心なのだろう。
根気よく胸板ぐるり巻く昆布 山本早苗
名古屋城
「金鯱城」「金城」の異名を持つ、国の特別史跡。伊勢音頭では、 「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」
と詠われている。 大天守に上げられた金鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴である。
「名古屋城は尾張に」
家康が天下普請によって築城した名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(愛
知県名古屋市中区本丸・北区名城)にある。 尾張地方は、名古屋城築城までは「清須」が中心だった。
しかし、家康は尾張徳川家の拠点として名古屋の地を選び、名古屋城の
築城と同時に「清須越し」(清須の街ごと引越すこと)を行った。 清須の街に住んでいた武士や町人・職人などをすべて名古屋へ呼び寄せる
ため、城を起点として、逆三角形の城下町造を計画したのである。 正解の一つと思う前を向く 津田照子
元々は名古屋城の二之丸付近には、信長の父・信秀が当時の城主・今川
氏豊から那古野城を奪取し、それを譲り受けた信長の居城だったが、 その縄張りに囚われず、家康は自身の強い意志の下に、新たに名古屋城
と碁盤割の城下町をつくり上げたのである 1616年(元和2)に名古屋城が完成すると、家康自らは住まず、
初代藩主として9男「徳川義直」が初代藩主として入城させた。 以後、御三家の一つとして、尾張徳川が明治に入るまで尾張を守った。
たて糸に理性 横糸に本能 石塚芳華
旧・岡崎城
岡崎城は天下人を生んだ出世城として人気も高く今川義元、信長、家康
へと引き継がれてきた歴史のある城で、史料的にも高い評価を得ている。 天守は家康時代に建てられたもので、シャチホコもあったが、その当時、
許可を得ずに金を施すことは許されていなかったため、瓦造りになった。 が、岡崎は、春は桜の名所としても知られており、それが逆に美しく城 を引き立たせている。 今・岡崎城 「岡崎城は三河に」 岡崎城は、三河国岡崎藩(愛知県岡崎市康生町)にあり、1542年
(天文11)に家康が生まれた城である。 当時の岡崎城は、櫓や門の屋根も茅葺で、石の産でありながら石垣など
もなく、ただ堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁が めぐっていた。 7年後に父・松平広忠が死去すると岡崎城は今川家支配下の城となった。
1560年(永禄3)桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康
(家康)は、岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。 1590年(天正18)家康が関東に移封となり、豊臣家臣の田中吉政
が入る。家康に対する抑えの拠点の一つとして、吉政は城を拡張し強固 な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。また、城下町の整備も 積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を、岡崎城下町の中心を 通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道 に整備され、現在の岡崎城の原型を造った。 闘いに行けと心に触れてくる 阪本きりり
「応仁の乱からの因縁が現代に!」
尾張と三河がお互いを牽制しあっている理由については、諸説ある。
足利家の後継者争いを発端として起こった「応仁の乱」説。
三河国仁木氏の守護代であった西郷氏は、永享年間(1429~1441)に、
菅生川南岸の明大寺付近に居館を構えた。居館は「平岩城」と呼ばれた。 位置は、岡崎市上明大寺町2丁目のペデストリアンデッキの徳川家康像
が置かれた広場辺りであることが判明している。 握りしめた愛を必死で守りぬく 柴辻踈星
ペデストリアンデッキの徳川家康像 「尾張」は、足利義尚率いる西軍、「三河」は足利義視サイドの東軍に
付き戦ったことで、両者の間には大きな溝が生じた。 のち、戦国時代にこの地を治めていたのは、尾張は織田家、三河は松平
家(徳川家)であった。 しかし思いがけない裏切りにあい、幼いながら三河地の当主になるはず であった家康は、織田家に囚われ、人質となってしまう。 精強で家康への忠義が強いと言われる三河武士団が、家康を人質に取っ
た織田家に、ただならぬ恨みを抱いたことは、いうまでもない。 このような積年の怨みつらみが重なってか……、尾張と三河には、今だ 戦国時代の戦火(遺恨)が残っている、 一房の葡萄家族であった頃 平井美智子
「尾張と三河は本当に仲が悪いの?」
尾張・三河出身者に聞いてみると…。
両地域の関係性について愛知県民は、どう思っているのか?
尾張・三河出身者の人たち数十名に訊いた。
「 尾張と三河は仲が悪いと思いますか?」
30代尾張出身者の男性の答え、
「そんな風に考えたことはないですね。でも、三河人は尾張の人が好き
じゃないというのは確かによく聞きます」 40代女性の答え、
「三河の人は、尾張を敵視していると聞いたことはあります。
でも尾張出身者の私は、そんな風に三河の人を嫌ったことはないです」
尾張の人の反応は、
「(自分たちはそうでもないが)三河の人はあまり友好的ではない」
というイメージを持ったようだ。
ガーグルベースンに溜まっていく吐息 みつ木もも花
名古屋城・本丸御殿 次に三河出身者の人たちに同じ質問をしてみると、
「三河を田舎だと軽視しているな…と思うことがたまにあります」
と、30代男性は答え、20代女性は、
「仲が悪いというよりも、見下されてるのかな?と感じたことは多々
ある」と、答えた。 さらに、30代・男性の答えに次のような人も、
「尾張出身の人が名古屋を地元みたいに考えているのが、なぜか癪に
さわってしまいます」 どうやら、三河よりも尾張の方が「都会」だという上目目線が、敵対意
識の中に根づいているようだ。 上からの目線に耐えている稲穂 松山和代
岡崎城・内部 尾張出身者と三河出身者の違いは他にも。 特に面白い違いの一つが「出身地」の答え方である。 「出身地ですか? ええっと…名古屋出身です」
と、間をおいて語ってしまう尾張の出身者たち…
尾張出身者の10人に出身地を聞いたところ、8人が「名古屋出身」と
回答し、残り2名からは「愛知県出身」という答えがかえってきた。 ただ「名古屋出身」と答えた人のうち、本当に名古屋市出身の人は、
4人だけで、それ以外の人は、正確には他の住所なのにも関わらず
「名古屋出身」を答えるのだそうだ。
何もかも過ぎ去るまではダンゴムシ 中岡千代美
対して三河出身者の人たちに「出身地どこですか?」と訊くと、10人
中9人が「愛知県出身と答える」と、回答。 「名古屋を出身として語るのは『身売り』してる感じがして、抵抗感が
あるんですよね」 と、40代女性は答え、30代男性は、
名古屋に対する独立意識なのか、名古屋出身と言われると、
「カチンとくるし、違います!と言いたくなる」
と、答えが返ってきた。 三河出身の人は意地でも「名古屋出身」と、言いたくない意識が際立っ
ていた。 レタス裂くわたしの嫉妬これぐらい 河相美代子
「ホトトギスの句は地域性をよく表現している?」
尾張出身者と三河出身者の性格については、信長・家康を前面に詠った
「ホトトギスの句」に例えられる。 信長と家康。この2人に、尾張・三河の人口の性格を確定されるなども
ってのほか、堪ったものではないが……。 尾張の人は、信長の「鳴かぬなら殺してしまえ…」の句から、信長がそ
うであったから、そこに生まれ育った人も同様に、気の短い人が多いの ではないかと決めつける人が多い。 一方、三河に生まれた家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とう…」の句のイ
メージから忍耐強い性格の持ち主として、三河に育つ人にも受け継がれ ているとみている人が結構いる。 人間を切り裂く人間の刃 もりともみち
岐阜・織田信長の銅像
「ホトトギスの俳句」の例えについて、訊くと…。
先ほどの尾張出身の40代男性は、
「基本的にはプライドが強くて気の短い人が多いかもしれません」
と答え、先ほどの三河出身の30代女性は、
「信長が冷たいイメージで、家康はふくよかで豊かなイメージだから、
確かにホトトギスの句は、それぞれの尾張と三河の地域性を上手く
表現しているかも」 と答えた。続き、三河出身30代男姓は、
「確かに家康の考えかたや、生き方にシンパシーを感じることは多いで
す。辛抱強く物事を我慢することもあるかな」 と答え…他にも約半数の人が
「ホトトギスの句は、地域性をよく表現している」
と、コメントしてくれた。 (まいどなニュース参照ゟ)
正直に生きると他人を傷つける 宗 和夫
「最後に」
応仁の乱から550年以上もの月日が経っても、三河の確執、因縁が、
いまでも存在するとは…、感慨深く、人間の不思議を実感させられる。 ついでながら、会津と長州の150年の遺恨については、
「会津と長州は仲直りはできないが、仲良くはできる、のでは」と、
歴史家がコメントする。
アンケートのその他、一部をご紹介。
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そこはそこ大人ですもの握手する 岡田良子 |
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